倶楽部メモ(721)
平成25年 3月 2日〜 3月 8日




投稿者 スハユ
投稿日 2013年 3月 2日(土)21時35分35秒
タイトル 高山線客車列車の無煙化
こんばんわ、スハユと申します。
高山線客車列車に興味がお有りの方はお付き合いください。
そして他にご存知の事がございましたら、ご教授いただけるとうれしいです。

私は高山線客車列車の無煙化は「昭和43年10月時刻改正」で完了したと、ずーっと思っていました。
ですが、弘済出版社時刻表(1969年1月号)が偶然手に入り、調べると間違っていたことに気づきました。
この時刻表には蒸気機関車牽引列車に「蒸気機関車のマーク」が記されておりラッキーでした。


岐阜〜高山間の普通客車列車1往復(726レ・727レ)が蒸気機関車マーク無しで残っています。
美濃太田区のDD51牽引でした。

高山〜富山間には蒸気機関車牽引の普通列車2往復(821レ・823レ・836レ・838レ)が掲載されています。
機関車配置表1969(鉄道ファン誌)によれば、
高山機関区にC58216・389と第1種休車の266の3両が配置されており、
2両使用で1両予備として客車牽引に使用したのではと思われます。

猪谷〜富山間のローカル客車列車は3往復(844レ〜849レ)運転されていますが、
一部列車が蒸気機関車マーク付きです。
富山第一区にはC11が2両(263・268)配置されており、客車用に使用されたと思われます。


又、飛騨金山〜高山間の貨物列車に使用したD51は3両(201・338・522)いますが
全機とも第1種休車に指定されており、転出待ちかと思います。

高山〜富山間の貨物用9600は高山区に配置が無く、廃車や富山第一区などへ転出したと思われます。


こうして見ますと、私が社会人となった頃1968年〜1969年の高山方面には
結構、蒸気機関車が牽引する客車列車が残っていたんだなーと驚きます。
もちろん、中にはすでにDD51牽引に変わった列車もあったでしょうが多いです。

初めての職場が複雑な交代制で動きが取れにくく、たった1本の撮影時間帯の良いDD51牽引列車「727レ」や
近場の美濃太田で最後の入換に励む「C11」「C58」撮影さえもままならない間に、
1969年に客車列車の終焉を迎えました。

写真は親に修学旅行用として初めて買ってもらった、オリンパスペン・ハーフサイズカメラ
(今のフィルム式簡単カメラと同じくシャッタースピード・露出は自動ですが、焦点距離は遠・中・近を手動で切替ます。
性能は現在の固定焦点式の簡単カメラに完全に負けます。
フィルムは普通サイズの半分しか使わないので2倍の枚数が撮れます)で1969年頃に撮影したものです。
手振れに特に注意しましたが、とにかく調子が悪く写真が出来上がるまで心配でした。

話題は変わりますが
JR東海美濃太田車両区構内で長らく雨風にさらされ、ベンチレーターも撤去された哀れなオハフ46の3両が
先月末までに浜松工場へ大型トレーラーで陸送されたようです。
ひどい退色と傷みのはげしい車体を見るのはつらかったのですが、それでもよく癒してもらいに会いに行きました。
廃車解体でなく是非とも復活・走行してほしいと祈っています。




投稿者 マロネロ38
投稿日 2013年 3月 3日(日)11時05分47秒
タイトル オハ34の運用
スハユ 様
北陸本線の優等列車に組み込まれていたのか?は正直申し上げて存じません。
富山とか高岡へは仕事と私用で度々行きましたが、「ゆのくに」や「立山」に は入って
居ませんでした。北陸本線の優等列車はミハ持ちが主流でしたから、優等列車に入ると
したら、臨時『加賀』とか『ゆのはな』に応援で組み込まれたかのか?ですが、後者を一度
米原まで利用した時には、スハ32(円屋根)に乗せられました。



投稿者 スハユ
投稿日 2013年 3月 3日(日)16時32分47秒
タイトル Re:オハ34の運用
マロネロ38様

ありがとうございます。

そうしますと金トヤのオハ34は、
マロネロ38様が今月1日付けで「高岡で12番を撮影した」旨ご教授いただいたことや、
私が高山線普通列車に乗車したことから、富山エリアで主に普通列車の運用についていたのですね。

富山近辺の普通列車運用に、往年の名特急「富士」で使用されたオハ34が使われていた・・。
高山線で乗った頃にその事を知っていたら、もう少し見る目が違ったでしょうね。

スハ32・・・私は実際に見たことも乗ったこともありませんが、
写真で見るとズラリと美しく並んだ小窓に引かれる形式で一回乗りたかったです。



投稿者 スハユ
投稿日 2013年 3月 3日(日)20時36分30秒
タイトル 高山線の準混合867列車
スハユと申します。

高山線のマイナーな話題が続き恐縮です。


高山線の「準混合867列車」とは、
1965年前後に岐阜〜富山間の全線(225.8km)を走破していた「貨物867列車」に関係します。

途中の美濃太田〜飛騨金山間(39.4km)で、
主に近在の帰宅高校生用に「客車」を連結したため「準混合」の種別が付きました。

客車を切離した飛騨金山〜富山は「貨物867列車」に戻ります。
参考までにその切離した客車2両は、翌朝に私が乗る824列車の最前部に連結されて来ました。

客車を連結開始した時期は不明ですが、私は1965年4月から1966年9月の終焉まで利用しました。

美濃太田駅待合室にある大きな発車時刻表には「準混合」とはっきり表示してありました。
見かけない表示ですが、駅員に尋ねる利用客を私は見かけませんでした。
他には「準急」「急行」が赤色で表示されているだけで、黒色で表示した「準混合」は異色でした。

当時の美濃太田駅には現在と変わらず2本のホームがありました。

駅舎よりのホームの1番線には太多線の気動車列車が発着し、時には岐阜行直通列車が発車します。
2番線は高山線上り列車が発着します。最前部には蒸気機関車に使用する給水柱が立っていました。

隣のホーム3番線に高山線下り列車が発着します。準混合867列車もここから発車します。
4番線は越美南線の気動車列車が発着し、岐阜行き直通も発着します。
越美南線はその後「第三セクター長良川鉄道」になり、新設の別ホームを発着しています。

ホームとホームの間には貨物列車の発着用に中線があります。

高山線のD51に初めて出会ったのは雨の日のこの中線でした。
こちらの列車の発車直前に、D51は上り貨物を牽引して突然入って来ました。
曇って見づらい窓ガラスを透して「D51」の文字を見つけた時は驚きを隠せませんでした。

当時の高山線貨物列車は線路規格により牽引機関車が決まっていたからです。
・岐阜〜飛騨金山・・美濃太田区と高山区のC58
・飛騨金山〜高山・・高山区のD51
・高山〜富山・・・・高山区の9600

線路規格の低い飛騨金山〜美濃太田にD51が入線するのはあり得ません。
後で分かったのですが、飛騨金山〜岐阜間を軌道強化と速度制限により入線可能としたそうです。
D51との再会を楽しみにしていましたが、会えたのはあと1回だけでした。


準混合867列車の写真が無く、1971年頃の飛騨金山駐泊所?の写真をかわりにご紹介します。
D51が多数存在した証拠に転車台や各種設備はがっちりしており、機関車庫には4両の排煙用煙突も見えます。
施設の正式名称が「機関支区」か「駐泊所」かご存知の方がおられましたら、お教えくださるとありがたいのですが。




投稿者 スハユ
投稿日 2013年 3月 4日(月)11時03分59秒
タイトル 高山線の準混合867列車(その2)
スハユと申します。

・準混合867列車のダイヤです。
昭和39年10月1日改正(交通公社時刻表1964.11月号)のもので発車時刻となります。

美濃太田(15:45)古井(16:05)中川辺(16:21)下麻生(16:31)
上麻生(16:45)白川口(17:10)下油井(17:41)飛騨金山(17:51)

美濃太田〜上麻生間の駅間距離は3〜5kmであり、普通客車列車は駅間を4〜5分で走り抜けます。
準混合867列車がこれだけ鈍足なのは、やはり貨物列車だったのですね。

美濃太田〜古井間は10パーミルの連続上り勾配となり、3.0kmを約15分かけて走り5分くらい停車します。
今にも止まりそうな速度だったことを覚えています。
古井〜上麻生間は平坦地ですが、約10分走り5分停車です。
停車中のC58では機関助士さんが、火床整理して蒸気をあげようと一生懸命だったのでしょうか?
上麻生〜下油井間は駅間距離が10kmくらいと長くなり
又、勾配は少ないですが山間部に入り曲線ばかりで速度は上がりません。


・準混合867列車の編成です。

C58(美)+貨車(数両)+オハ61+オハフ61+車掌車(ワフ)+貨車(数両)

1.客車2両が駅の改札口に近くなるように、客車を編成の真ん中に連結したようです。

(謎)冬季の下麻生以北は寒冷地であるが、C58と客車の間には貨車が連結されており、蒸気暖房は使えない。
   客車の暖房はどうだったか?私たち若い高校生でも学生服の上に学生コートを着用して防寒していた。
   高齢者はどうであったか。ジッと我慢したのか疑問です。

(謎)オハフ61の次に連結した車掌車に、車掌さんは乗務されてたのでしょうか?
開け放たれたオハフ61の後部貫通部から走行中に見える小さなワフは、上下左右に飛び跳ね引き回されて、
とても車掌さんが乗務しているとは思われませんでした。

2.1967.9.30に終焉を迎えました。

・最終列車に乗っています。

報道関係の取材やホームでのセレモニーを期待しましたが、何も無く定刻にいつも通り発車しました。
駅での案内放送や車掌さんのお別れ放送も無くてガッカリした記憶があります。

ちなみに、1966.3.25改正で発車が16:03と遅くなっています
(接続する岐阜発の普通835列車の到着が遅くなったため)。
発車が18分遅くなり上麻生までの停車時間は短くなりましたが、飛騨金山着は17時52分でほとんど変わりません。
いかに余裕時分があったのか分かります。

3.235Dの登場。

・835列車(岐阜〜美濃太田)と準混合867列車(美濃太田〜飛騨金山)の2本を一本化し、
さらに飛騨金山〜高山間に列車を新設し、岐阜〜高山間を直通とした気動車列車です。
昨日までの古い鋼体化客車2両から、
最近登場したばかりの真新しい急行用気動車キハ58系の長大編成に変わり目をみはりました。
この列車は急行の間合い使用で1等車を連結していました。
編成は長くなりましたが、岐阜と美濃太田の発車時刻が遅くなり利用客が増え、いつも混雑しており座れなくなりました。


写真は1969年8月の727列車です(上麻生付近)。




投稿者 スハユ
投稿日 2013年 3月 4日(月)14時32分35秒
タイトル 高山線の824列車
スハユと申します。


またまた高山線の客車列車ですみません。


私が1965年4月から1968年3月まで毎朝、美濃加茂市にある高校まで通学に利用した列車で、
帰りの準混合867列車とともに大変お世話になった列車です。

824列車は始発の高山を5時10分に発車し、途中で通勤客や通学生を運びながら、終点の岐阜へ9時過ぎに到着します。

正確に客車の両数を数えたことはありませんが、
他の列車と違い最後部のオハフ61にはホームが無く8〜9両連結していたと思います。

当時、美濃太田以北からこの列車に乗る高校生には、他校を含め乗車車両について暗黙の申し送りがありました。
(1年生)最前部の車両。(2年生)中央部の車両。(3年生)最後部の車両。
親と同行など特別の場合を除き、皆しっかり守りました。守らないと先輩に列車トイレに呼出され指導?があると聞きました。

最前部の2両は飛騨金山で増結される、前日の『準混合867列車』に使用したオハフ61+オハ61です。
最後部は変わり映えしないオハフ61でした。


2年生の時に乗車した中央部では、背ずりにモケットを張ったオハ35に初めて出会いました。

ある日、オハ35と思い込んで乗り込んだ客車内に乗客が少なく「空いているなー」と気づきました。
でも座席は空いていませんので首を傾けながら、発車時の動揺に備えて座席を掴もうとしてびっくりしました。
掴める木枠が無く応接間に使うような分厚く立派なシートです。乗客も何か落ち着きが悪そうでした。
シートピッチは広すぎるくらい広いです。
形式をメモしなかったので、いつまでも謎の車両でした。

最近、モアさんの国鉄客車配置表(昭和39年版)で、それらしい車両を見つけました。

富山客車区にいた『オロ40』の格下げ車『オハ55』です。
5両(9、104、2004、2105、2110)もいます。

丸屋根・固定座席・定員64名と一致しますが、広窓1200mmは記憶ありません。
昭和41年度末まで全国で活躍していたようです。


この形式ではないかと思いますが、ご存知の方はご教授下さい。


写真は1969年の美濃太田機関区の付近です。




投稿者 マロネロ38
投稿日 2013年 3月 4日(月)20時43分56秒
タイトル オロ40
オロ409なら初期の張り上げ屋根車でしょう2000番台は電気暖房取付け車です。
私はオロ40が好きではありませんでしたが、理由はボックス席でプライヴァシーを保ち
難いのと、特に夜行列車の時は前の席に遠慮しながら足を伸ばすとか-----。

転換クロス車なら横の乗客に対する遠慮だけですみましたから。

車内灯ブラケットもスハ32みたいな御椀型(初期?)とオハ35と同じ金魚鉢型がありました。
御椀型は昭和27年夏に「まりも」に入って居たのを見ています。


蛍光灯化では両側2列と元の場所にお櫃の蓋みたいな格好で20Wx2のとが在りました。
戦後製のは台車がTR34系でした。

戦後製のジュラルミン車体の分が、転換クロス蛍光灯2列のオロ42型になったのが有名です。



投稿者 スハユ
投稿日 2013年 3月 4日(月)23時39分46秒
タイトル Re:オロ40
マロネロ38様

オロ40ありがとうございました。


高い2等車料金払って、あのボックスシートは?ですね。
定員は3等車のオハ35などに比べれば妥当かもわかりませんが。

シートピッチが大分広かった記憶ですが、前の席に足を投げ出しても届くんですか?
シートピッチの狭いオハ61やオハ35を見慣れた私には、そんな印象です。

シートの背は大きく後方に倒れていて、私が見た乗客はみんな居心地が悪そうに前かがみで座っていました。
私たち一般庶民には縁のない車両だったのでしょうね。

私は実際に見たことがありませんが
プライバシーが保てて、シートがリクライニングできる『特ロ』が歓迎されたのは分かりますね。

それと、窓は1200mmだったのですね。
確かに窓と窓との間隔は広かった記憶ですが、オハ61やオハ35と同じ1000mmと思っていました。
窓ガラスの材質も3等車に比べ良かったのでしょうか。
又、良い台車を履いていたと思いますが、乗り心地は全く記憶にありません。

高山線はローカル線ですが、富山で北陸線という重要幹線と接続していたお蔭で
『オハ34』や『オハ55』など珍しい貴重な客車を運用してもらえたのですね。
今思えば『金トヤ様様』です。

そんな時代に辛くも居合わせた私もラッキーだったです。
何しろ高校3年生の時には客車列車が全滅に近くなったからです。
ただ、乗車した車両の形式・番号を記したメモ帳が見つからず残念です。



投稿者 ししおり
投稿日 2013年 3月 5日(火)19時30分31秒
タイトル 大船渡線客車について
ED76109様、仙コリ様、クモイ103様、
丁寧で詳細な情報を本当にありがとうございました。
頂いた情報を元に少しずつNゲージで昭和40年代と
亡くなった父の情景を感じたいと思います。

私の自宅も含め基礎だけが多く残っていますが、
転職も決まり(44歳)ましたので前進できそうです。
いつの日か観光で来て頂ければ嬉しいです。
出会いに感謝します。



投稿者 スハユ
投稿日 2013年 3月 8日(金)20時37分1秒
タイトル 高山線の臨時客車準急「くろゆり」の謎
 こんにちは、スハユと申します。

 高山線の客車列車について投稿させていただいています。
 今回は、昭和40年頃の観光シーズン週末に大阪〜高山線下呂間に運転された客車準急です。
 すでに投稿させていただいた「準混合867列車」に始発の美濃太田で乗車中に追越して行った列車で、
初めて見る青色車体に驚いたことを覚えています。

 ずっと気になる列車であれこれ調べましたが、情報が皆無に近く謎の列車でした。
その後、昭和39年10月改正時刻表を入手できましたが、疑問が増えただけです。
 以下の疑問について情報をお持ちの方お教えいただくとうれしいです。

 昭和39年10月1日改正時刻表(交通公社1964.11月号)の「臨時列車ご案内」付録5ページに
掲載されていますが本文に掲載はありません。1等車を連結しています。

 『3705レ』大阪12:55発⇒岐阜15:17発⇒鵜沼15:42発⇒美濃太田15:56発⇒
          ⇒飛騨金山16:59発⇒下呂17:25着(11月21日まで土曜)

 『3706レ』鵜沼14:46⇒岐阜15:21発⇒大阪17:45着(11月22日まで日曜)


 行きは「下呂」が終着ですが、翌日の帰りは「鵜沼」が始発と、着発駅が異なっており疑問が出てきます
(両駅間は71kmも離れています)。

 1.なぜ着駅と発駅が異なる列車が設定されたのか?
 2.下呂到着の客車の留置・点検・給水はどうしたか?
 3.宿泊した観光客の下呂〜鵜沼間の移動方法は?
 4.客車の所属・運用は?
 5.牽引機C58の所属・運用は?

1について。
  当時の国鉄は増収施策として「国鉄線201km以上乗車、周遊指定地2ヶ所以上順路で回り出発地に戻る」
 他の制限があるが、料金1割引きとなる「普通周遊券」を発売していました。
  時刻表の「観光地のご案内」484ページに、着駅「下呂」が周遊指定地「下呂温泉」の最寄駅として、又、
 周遊指定地「日本ライン下り」の国鉄最寄駅として「美濃太田」が掲載されています。
 「鵜沼」は「日本ライン下り」終点の国鉄最寄駅になります。

 ・「臨時準急くろゆり」は、週末に「普通周遊券」を利用して下呂温泉に宿泊し翌日、美濃太田から鵜沼まで
  日本ライン下りを楽しむ観光客のために用意した列車と思われます。

2について。
 「下呂」は本線以外に側線が1本あり、空いていれば留置はできますが、大掛かりな点検・給水は難しい。
 客貨車区がある「高山」とは48.1kmと少し離れていて、翌日の運用に間に合うのか。

 ・当時、一部の客車列車が滞泊している「飛騨金山」が2駅南(駅間21.6km)にあり、点検・給水・滞泊
   したのではないかと思います。

3について。
 時刻表の「ライン下り」出船時刻と「くろゆり」の鵜沼発車時刻を見ると3つのケースが考えられます。
  普通列車「826レ」下呂8:59発⇒美濃太田10:28着(例の「オハ34」を連結した列車です)
  DC準急「708D」下呂9:45発⇒美濃太田10:49着(ひだ2号です)
   以上の定期列車の利用は可能ですが、当時はどの列車も混雑しており1列車分の観光客の混乗は大変。

 ・飛騨金山に滞泊した編成を下呂まで回送し、臨時列車として美濃太田まで運転した。その後、鵜沼発車に合わ
  せ回送したのではないかと思います。
  (当時の時刻表には、臨時の普通列車は掲載されず正確に分かりません)

4について。
   あるサイトで教えていただいたのは「大阪・宮原客車区所属客車」を中止として、他客車区車両との混成で
  はないか。ご自身が利用された急行客車列車も「あちこちの寄せ集めだった」と述べられています。「客車の
  NOを調べるのはもっと難しいと思う」とのことでした。
 ・高山線のように比較的運転距離が短く、連結車両が7〜8両編成と短い列車が多い線区でも、高山と富山の客
  車が併結運用されていました。ましてや幹線の大客車区の客車の運用は複雑で分りづらいしょうね。

5について。
 ・高山線客車列車は、富山機関区のC11が牽引する富山口の短区間列車を除き、美濃太田機関区と高山機関区
 のC58が牽引していました。
 「くろゆり」牽引の写真や資料を見たことがないので断定はできませんが、配置車両が多く運転区間に近い
美濃太田区のC58が使用されたのではないでしょうか。


 この変則運転列車ですが、昭和41年3月25日改正時刻表では列車番号が9715レ・9716レと変わり、
帰りも下呂発となっていますが、岐阜までは普通列車となっています。当時、知っていれば乗りたかったなー。
 昭和40年改正時刻表が手元にないのでいつから変ったかは不明です。

 昭和42年10月1日時刻改正では大阪〜高山間の不定期DC急行「のりくら」として掲載されており
「くろゆり」は見当たりません。
 この改正で下呂〜高山間の延長とDC化がされたようです。
 臨時列車として大阪〜飛騨古川間の片道に、DC急行「のりくら銀嶺」がスキースケート列車として
運転されています。

 翌年の昭和43年10月1日改正で季節列車DC急行「くろゆり1号」として本文に再登場、
スキースケート客向け季節列車DC急行「くろゆり銀嶺」も見えます。

 その後、名古屋鉄道のDC急行が使用していた愛称「たかやま」への改称と定期列車化をしています。
平成11年12月3日までキハ58系で運転しました。


以上の私の疑問にお答えいただける方、是非お教えください。
長くなり申し訳ありません。



               
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