倶楽部メモ(725)
平成25年 4月18日〜 4月23日




投稿者 スハユ
投稿日 2013年 4月18日(木)13時46分41秒
タイトル スハネ30写真?
スハネ30生様こんにちは。

遅くなりましたが中央西線坂下で撮ったD51の写真を見ていて、
反対側の側線に留置されているスハネ30らしき客車を見つけました。
スハネ30でしょうか?
カメラとカセットテープレコーダーの操作に手いっぱいで形式番号・所属は確認しておりません。
見慣れない客車がいるな・・とは思いましたが。
1971年3月23日16時28分発の上り832列車(松本発名古屋行き)を
中津川機関区D51402が牽引しています。
この832列車は重連が多いのですがこの日は単機牽引でガッカリしました。
乗ったのは先頭のオハフ33の2千番台とメモしてますが不思議なことに番号は書いていません。
行きの831列車はオハフ61に乗りましたが、やはり2千番台とメモしています。
どちらも所属はメモしていません。客車運用の複雑さを知っていれば忘れずにメモしたと思いますが。
客車は好きですが、当時の興味はやはりD51が上回ったみたいです。




投稿者 マロネロ38
投稿日 2013年 4月18日(木)13時49分4秒
タイトル マニ34→マニ30
『霧島』か『桜島』?だったかですが、浜松から大阪迄帰る時にスロ62に乗車したらすぐ前に連結されて居ました。
何だか公安がうろちょろするなと想ったら、前に貫通扉が無い車が連結されていたので、
解りました。
大阪駅では警官や公安官が多数人垣を作っていたので、日銀大阪支店への現金だなと。

模型作りにまで国鉄が圧力をかけていたなど、余程ギャングの襲撃が怖かったのでしょう。
1966年の客車形式図にあるマニ341-6を見ると、警備員室はリクライニングシートと、ボックス席で、
トイレとマロネ29みたいな隅付け洗面所付きです。
車体は戦後製のオハ35系でTR23A台車と記載されています。



投稿者 ミキスト
投稿日 2013年 4月18日(木)14時27分31秒
タイトル 妙高のナロハネ
久々に投稿させていただきます。
Rail Artさまのブログで知ったのですが、
1960年ごろの妙高に連結されているナロハネ10は上下共に機関車の次位に連結されています。
上野行きの310レの場合はマニと機関車との間になります。
そういえば何かの雑誌で飯田町に停泊しているナロハネ10に脱着式尾灯と車掌弁が装着されているのを見たことがあります。
このような運用の理由を教えていただけないでしょうか。
よろしくおねがいいたします。



投稿者 スハネ30生
投稿日 2013年 4月18日(木)21時56分54秒
タイトル RE:スハネ30写真?
スハユ様おたずねの写真ですが、明らかにスハネ30だと思います。窓下にB寝台の表記が見えます。
番号が特定できるか車両配置表を見たのですが、当方の手元には1972年版以降しかないため、
撮影日の1971年3月時点でのデータは不明です。
1972年版では中央西線の最寄の配置と思われる名鉄局、長鉄局管内にはスハネ30の配置は皆無でした。
・・・全国でも合計15両)
スハユ様が撮影したのはカーテンが降りている状態から察するに現役引退後の休車疎開状態
(配属区:名ナコと推察します)の車両ではないでしょうか。



投稿者 スハネ30生
投稿日 2013年 4月18日(木)22時40分0秒
タイトル RE:マニ34→マニ30
マロネロ38様。貴重な体験をされましたね。
乗車したのはスロ62ということですが、その前にナハフ(スハフ)は連結されていなかったのでしょうか。
【桜島】の1号車は通常ハフの筈だったと思うのですが。
またグリーン車はオロ11が定番で、スロ62に替わっていた(借用車と推察します)のであれば
1975年3月の列車廃止前の頃に乗車されたのでしょう。
当方は、1975年3月(新幹線博多開業)改正直前にオロ11の最後の活躍を写真に収めたく
【桜島・高千穂】をねらって東京駅に出向いたのですが、
すでにオロ11の姿はなくスロ62に替わっていて悔しい思いをした記憶があります)
(因みにスロ62は九州内に配置されたことはありません。
逆に東日本のグリーン車は当時すべてスロ62でした。北海道にはスロ54もいましたが)
 話題がそれてしまいましたが、マニ30の話に戻ります。
運用範囲に関して、鉄ピク718号の記事【客車冷房化改造の記録】によれば
東京−鹿児島、上野−釧路の長距離輸送との記述があります。
合計6両の配置から考えると、思ったより頻繁に運用されていたのかも知れません。



投稿者 スハユ
投稿日 2013年 4月19日(金)06時42分6秒
タイトル スハネ30写真?お礼
スハネ30生様。

手元の名ナコ配置表(1968年・1969年)を調べてみました。
オロネ10(5両)・オロハネ10(3両)・スハネ16(16両)がいますがオハネ30は見当たりません。
長鉄局管内の配置表が手元に無く確認できませんが坂下は長鉄局との境界駅ですので、
もしかすると長野工場での廃車待ち車両の疎開先となっていたかも分かりませんね。
また一つ謎の車両について判明しました。ありがとうございました。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2013年 4月19日(金)09時57分32秒
タイトル マニ34→マニ30 No.2
スハネ30様:
スハフ42?の記憶がありません、それに鹿児島行急行だったとの記憶しかありませんので、
−−−乗車したのは確かにスロ62でした。(窓割りと座席がずれていたので)
面白い経験では、大阪から東京行きのハネがどの列車も取れなくて、思いつきで「大和」の
和歌山発のスハネフ30を狙ったら下段がとれましたので、
湊町から『大和』のスハフ42で王寺まで行き、スハネフ301に乗車しました。
加太のトンネルで猛烈に煙が入ってきて(機関車の次位だった)多数の乗客が咳き込んだり
-----。眠れたのは名古屋からでした。

ナロハネ10には新宿→松本1回乗車で、ロネの枕近くに通風口があり、7月だったので涼しい
風が出て来ました。(準急「上高地」)
オロハネになってからは名古屋→長野(ハネx1回)、(ロネx1回)乗車しましたが、いずれも熟睡出来ました。

オロハネはエアサスでは無いが、マロネロ38と同様好きな寝台車でした。

急行「北陸」用は両数が不足で隔日連結でしたが、これには乗りそこないました。



投稿者 クモイ103
投稿日 2013年 4月19日(金)19時21分52秒
タイトル Re: 妙高のナロハネ
ミキスト様

準急「妙高」ではご指摘の通り、36-10改正までの間、寝台車を上下とも機次位に連結していたようですね。
この理由は、次の2つが考えられると思います。

(1)当時寝台車はまだ数が少なく貴重な特別車両だったので、一般の座席車と混結して
   車内を乗客が行き来するのを避ける意図があった可能性があります。
(2)当時の客車運用表を持っていませんが、おそらく「妙高」の編成中座席車の部分は他の優等列車と共通運用で
   終着後に別列車として折り返す運用になっていたのに対し、
   寝台車は「妙高」専用の付属編成で、車両基地などで増解結を行う必要があるため、
   その入れ換え作業がし易いように編成が組まれていた可能性があります。

いずれにしても推測ですので、明確な理由をご存知の方がおられましたらご教示頂ければ幸いです。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2013年 4月19日(金)20時21分17秒
タイトル 共通運用
クモイ103様がおっしゃる通りで、ロとハが共通運用だったのかも知れません。
当時の「妙高」は309レのトップがハネ(10-11系?)で、310レがナロハネ10の変則付属編成だった筈です。

36-4JTB時刻表で見ると、「越路」と『白山』が基本編成共通運用(ナハ10-11)でした。
と言う事は『佐渡』も共通運用と云うことですね?(金沢駅で『白山』のサボをひっ繰り返したら---でした)。



投稿者 スハネ30生
投稿日 2013年 4月20日(土)22時55分51秒
タイトル ナハ10とナハ11の違い(模型化の観点から)
ナハ10とナハ11の違いについて疑問を持たれている方は結構おられるかと思います。
当サイトでも過去(倶楽部メモ269)にクモイ103様が発表されているように、
登場時は照明が白熱灯か蛍光灯かの違いで形式が分けられたのです。
現代の感覚からすると照明だけで新形式を起こす必要ないと思われますが、
1950年代では、旅客サービス上、蛍光灯はかなり重要なファクターであり、
優等列車に最新形の蛍光灯車両を回す必要があったと考えます。
初代あさかぜは当初ナハ10の編成でしたが、翌年ナハ11が登場するとすぐに置き換えられています。
つばめ・はとのスロ60も蛍光灯付きのスロ54(スロ60よりシートピッチが狭いのでサービス低下と懸念されるのだが)
が現れると全面的に置き換えられました。
また車両の保守管理面でも当時は蛍光灯の電源(発電動機を使用していた)等不慣れであったと思われ、
他車と明確に区別する必要があったと思われます。
ナハ10は後年蛍光灯化されたため、実質的にはナハ11との相違点はなくなったと思われていますが、
(外観上は全く同じと断定できます)
車内天井を見上げると、ナハ10の蛍光灯は元の白熱灯の場所にサークライン(円形)が設置され、
当初から直管タイプのナハ11と区別できました。
 外観について両形式は登場時のデッキドア形状のちがい程度の差であると、一般的に考えられてきましたが、
当方が模型化(HOサイズ)するに当たり、年代毎の写真を観察すると細部の変化が
ナハ10とナハ11では異なる点が見えてきました。
調査結果を分かり易くイラストで示したものを発表させていただきます。
またこのイラストを作成した直後にTOMIXからHOサイズのナハ10・11が発売されたのですが、
実車と異なる問題箇所を発見したため箇条書きの検証結果も添付します。
 なお、この2点の資料は当方が懇意にしている模型メーカーのオーナーに次期商品の資料として提供してあるのですが、
数年後の今に至るも何ら活動が見られないため今回、本サイト上で発表するものです。
見づらい箇所、疑問点ありましたら気軽に質問してください。




投稿者 ミキスト
投稿日 2013年 4月22日(月)10時07分12秒
タイトル RE妙高のナロハネ
クモイ103さま、マロネロ38さま、アドバイスありがとう
中央本線&64写真館さまのHPによると、ナロハネ10以前のマロネロ38、マロネフ58時代から同様の運用だったようです。
Aロネのマロネフ58が準急に連結されるのも含めて不思議です。何か特別な理由があるのかと勘ぐってしまいます。
個人的には編成の途中で荷物車などが前後を分断するのが興味を惹かれます。
幼少期に見た氷見線、城端線のオハユニ(小浜線にもありました)や、
高山線の急行のりくらの夜行に挟まっていたキユニ(代車でキハ35もありました)などが発端です。
飯田町停泊のナロハネも気になってきました。
もう少し調べてみます。
引き続きアドバイスお願いいたします。



投稿者 客車
投稿日 2013年 4月22日(月)23時13分25秒
タイトル Reナハ10とナハ11の違い(模型化の観点から)
スハネ30生さま、模型化への画像形式での研究資料の発表 ご苦労様です。模鉄の客車として助かります。
プロトタイプ(実車)ファンの方の車輌研究を見ているとテキスト形式で表してこれでほぼ完結・事足れりとしていますが、
模鉄としての車輌研究はテキスト形式も参考にしますが画像形式・外観本意が本命です。
まず外観図を元に窓抜きから作り始めて車体を組み立ててディテールを付け、
ナンバーを書き込むのは最後の仕事であって間違えたらこれを書き直す・張り直せば済むだけですが、
切り抜いた窓の形状や位置・扉の形状が異なっていたら最初っから作り直しとなるので画像形式での資料を収拾探し求めます。
一例としてはベンチレーターや冷房機器の数量を間違える訳にはいかないのです。
スハネ30様のこれからの画像形式での車輌研究を期待しています。



投稿者 スハネ30生
投稿日 2013年 4月23日(火)23時16分37秒
タイトル ナハ10とナハ11の違い:補足
年代による変化の表で(外部色)ナハ11が近代化工事前に(原形:タイプEのまま)
青15号塗装に変化している点に疑問があるかもしれませんが、
青15号への塗り替え基準として当時は蛍光灯化が済んでいるかという点が重要視されたようです。
新製当初から蛍光灯であったナハ(ナハフ)11の場合、
近代化工事(内装張替:淡緑1号ビニール張りから淡茶色4号ポリエステル化粧板へ)を待たずに外装のみ青15号に塗り替えられました。
 同様の例としてオハ61の青15号塗装車ですが、すべての61系の内装は終始ニス塗りであったと考えられますが、
照明を蛍光灯に取替えた車に対して地域によっては外部色を青15号に塗り替え区別したものと思われます。
 イラストで、タイプDはナハ10でデッキドアのみ新型に交換した状態で、
原形の折戸は故障が多かったため早期に交換された車が見受けられたようです。(鉄ピク670号P47:ナハ1011の写真参考)
 イラストには画いていませんが、ナハフ10若番車(1〜18)の車掌室部分(3位側)の寸法が一般の形式図には記入されておりませんが、
分かる資料(図面)お持ちの方いらっしゃれば教えてください。(窓幅は750mmと思われますが)
実車の写真:ナハフ1015天リウ1983年3月21日新宮にて:を添付します。
 おまけに近代化工事後の洗面所部分の写真:ナハフ1113南シナ1979年10月14日川崎にて:も添付しますので、
参考にしたい方はどうぞご利用ください。




               
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