倶楽部メモ(675)
平成23年 8月30日〜 9月 1日



投稿者 雑魚
投稿日 2011年 8月30日(火)17時11分47秒
タイトル 正統的な終着駅
クモイ103様が言及された 夕張駅を、初めて訪れたのは、1987年の夏でした。当時は
市役所脇に、確か「ヨ」改造と記憶する待合室があるだけの、一面一線の簡便構造で、
側線多数を擁した、往年の盛況振り(構内規模に関しては、夕張鉄道と接続していた
鹿ノ谷の方が広かった様に見受けられます)との余りの落差に、拍子抜けしましたが、
後年、終端部が更に切り捨てられたのですね。

自治体人口が約一万となった現在、駅と市役所との近接性は、需要喚起の上で大きな
動機になり得ると感じますが、三代目駅への移行は、どの様な事情に基づくものやら。

貨物や客レの廃止に伴い、終着駅が、引上線や機回し側線を剥がされるなど、簡便な
構造に移行するのは、全国的な傾向ですが、夕張の様に、駅自体が起点側に移設した
例として十和田市、境港、宇野、枕崎が挙げられますね。十和田市の場合、終端部の
旧駅構内は、その後、車両留置に供されていた様ですが、現況や如何に?

逆に第三セクター転換後、旧鉱山専用線を活用して、営業区間を少し延長した、細倉
マイン・パーク駅の事例もありましたが、こちらは、移設後、20年に満たずして廃止。
似た様な構想として、わたらせ渓谷鉄道の間藤〜足尾本山を観光用に復活させる話も
ありましたが、いつの間にか、話は完全に立ち消えている様です。

夕張駅とは少し趣旨が異なりますが、地元の常陸太田駅も、二段構えにて模様替えを
行っています。まず、客レや貨物便の廃止に伴い、駅舎やホームはその侭据え置くも、
引上線の大半と側線を撤去し、一面一線の簡便構造に移行したのが、確か80年代半ば。
昨年、車止めを水戸寄りに移す格好で、線路とホームを一新し、駅前の変則交差点を
解消する再開発と併せて駅舎も新築、現行の陣容が整ったのが、震災復旧後の今春で、
先日、PP態勢にて運転された「ハッスル黄門」に象徴される様に、地元勢としては
渋滞の名所の解消と併せて、感慨深いものがあります。

一方、今夏ようやく震災から復旧した湊線の阿字ヶ浦駅は、やり手社長さんの演出か、
従来の長いホームや使われなくなった引上線、側線はその侭、終端部では藪が刈られ
前方の太平洋が見える様になっており、終着駅の風情を求めるなら、かなりの上位に
ノミネートされるであろうと確信します。




投稿者 マロネロ38
投稿日 2011年 8月30日(火)17時47分8秒
タイトル 岩見沢の思い出
ED76109先生:
私には昭和27年8月早々に父と北海道旅行の時、網走から例のインチキ準急506レに
乗車岩見沢から登別まで初発の210レ?に乗り換えた時に求めた朝飯の駅弁が、大きな
小豆入り赤飯で、当時もう味噌汁も売っていたので求めました。当時はスロハフ30
(W屋根)がついていて、スロハフ30には最初の乗車でした。
カマがD51だったのか、C57だったのかは記憶にありませんが、途中で交換した
準急「エルム」がC51で、オロ31x2だったので、札幌−室蘭間はビジネス客が多いのだな?
と想像しました。(2両にそこそこ乗っていたと想います)



投稿者 ストーブ列車
投稿日 2011年 8月30日(火)22時28分19秒
タイトル オハ35 149、ホークスカラーからぶどう色に
久しぶりに投稿いたします

すでにご存じの方もいらっしゃると思いますが、未投稿みたいなので投稿します

(もし投稿済みであれば申し訳ありません)

今年の4月15日に大井川鉄道に乗りに行った際、オハ35 149がぶどう色に塗りなおされていました

比較用に緑色時代の2009年3月28日に撮影した写真も載せておきます

ちなみに他のホームページの情報によると2010年10月にはすでにぶどう色になっていたとのことです

ウィンドヘッダーが無く、張り上げ屋根という変形オハ35には南海ホークスカラー(すいません、あえてこう書きます)
のような緑色は似合わなかったのでぶどう色に戻ってよかったと思う反面、
オハ46かオハ47がこの塗装であれば、南海サハ4801を思わせるような姿でまた違ったと思います

大井川鉄道には旧南海カラーの元南海電車の21000系もいるので…

南海ホークスに南海電車…、ふと大阪球場のヤジを思い出してしまいました

旧客が元気に走り南海ホークスがあったころは遠い昔ですね…




投稿者 クモイ103
投稿日 2011年 8月30日(火)22時56分47秒
タイトル 歴代夕張駅探訪1992(その1)
雑魚様より夕張の話に反応いただいたので、先のカキコで触れたH.4(1992).8.19の写真をいくつか並べてみますね。



【写真上】
3代目夕張駅に到着した列車。画面左隅にわずかに写っている建物は、ホテルマウントレースイです。



【写真中】
「列車代替」の夕鉄バスがお出迎え。列車に接続して「市立病院前」まで行くようです。
バス停の標識には「列車を利用された方以外は乗車できません」との注記がありました。
画面左後方にホテルの威容が。



【写真下】
反対側から。同じバスの後ろ姿が写っています。
左側の建物が駅舎で、まさに「ホテルマウントレースイ前駅」です。
どう見ても観光客目当ての駅移転ですね。



投稿者 クモイ103
投稿日 2011年 8月30日(火)22時59分34秒
タイトル 歴代夕張駅探訪1992(その2)


【写真上】
すぐ先にはレールが残っていて、2代目駅跡まで続いていました。



【写真中】
2代目夕張駅の跡地です。後ろの建物は夕張市役所。



【写真下】(これのみS.62(1987).5.3撮影)
参考までに現役時代の2代目夕張駅です。貨車はワフ29500×2+ワム80000でした。
なお、2代目駅から先はレールは残っていませんでした。
途中小さな橋桁がありましたが、先の方はすっかり道路化していました。



投稿者 クモイ103
投稿日 2011年 8月30日(火)23時05分44秒
タイトル 歴代夕張駅探訪1992(その3・終)


【写真上】
そして初代夕張駅のホーム。駅舎は石炭の歴史村関連の事務所、貨物ヤードは広大な駐車場に。
(右上のシミはネガの汚れです。UFOではありません…)



【写真中】
石炭の歴史村の敷地内、SL館近くにある休憩所。2代目夕張駅舎だった2両のワフが再度のご奉公です。
ワムもどこか近くにいると聞いたのですが確認できませんでした。
画面右奥は軽便鉄道の駅です。よく見ると停車中の列車も写っていますね。



【写真下】
その軽便鉄道の走行シーンで締めましょう。残念ながら今はもうないそうですね。
夕張は財政問題で大変なようですが、何とか賑わいを取り戻して、
歴史村にある貴重な文化遺産も保全されるようお祈りします。



投稿者 雑魚
投稿日 2011年 8月31日(水)15時23分25秒
タイトル 夕張雑考
▼クモイ 103様:
> どう見ても観光客目当ての駅移転ですね。

ホテルへの誘導が目的なら、乗降場の追加設置で事足りるのでは?(^^)

> その軽便鉄道の走行シーンで締めましょう。残念ながら今はもうないそうですね。

軽便鉄道の存在は、存じませんでした。奥に見える遊園地風味は「石炭の歴史村」の
併設施設でしょうか。夕張市が財政再建団体の指定を受けた2007年、こうした施設が
粉飾紛いの手法により、見かけ上の黒字を計上する事で、自治体の累積赤字の拡大を
招来したとして、大々的に報道された事を思い出します。

幼少の頃、親類宅を訪ねる度に、常磐線の各駅から分岐する炭鉱専用線にて、蒸機が
牽引する運炭列車を眼にするなど、常磐炭鉱には少なからぬ思い入れがあった事から、
夕張の報道には、感じる処が多々ありました。舞台裏を描いた映画「フラガール」の
ヒットと相まって、斜陽産業の対策として開業した「常磐ハワイアン・センター」の
興業的成功には感慨を覚えますが、震災の為、全面再開は来年早々まで御預けとの事。

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夕張といえば、道内の鉄道地図では長らく、唯一の旅客営業私鉄として記された事で
思い入れがあった、三菱石炭鉱業・大夕張鉄道も挙げられますが、実に間の悪い事に
私が夕張を初めて訪れた(単に石勝線支線を「消化」しただけ)のは、大夕張鉄道が
廃止された翌月(1987年 8月)の事で、かの有名な三軸ボギー客車(除雪車と併せて
南大夕張駅跡にて保存)も、実物を見た験しがありません。

終点の大夕張炭山で接続した、主夕張森林鉄道のシューパロ湖鉄橋跡の三弦橋構造も
名物ですね。同湖を形成している大夕張堰堤のすぐ下流側では、2013年の完成予定で
夕張シューパロ堰堤が建設中で、従前の大夕張堰堤自体、いずれ水没予定との事です。
当然、湖面域拡大や水位上昇を招来し、上記の三弦橋も水没が予想されます。保全を
図ろうにも、肝心の夕張市の財政が、大きな隘路になっている様ですね。

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同地のもう一つの私鉄だった夕張鉄道では、廃止後に「湘南面」の気動車(上段画像
参照)が、関東鉄道鉾田線(当時)に転出しています。扉の構造から、ワンマン化に
対応できないのに、貴重な転換クロス仕様を、なぜかロング・シートに改めています。
鹿島鉄道の廃止後は、夕張に里帰りとも聞いたのですが、結局「鹿島鉄道記念館」に
保存されています。ただし個人所有の施設ゆえに所在地が非公開で、公開日も限定的。
小美玉市内の医療機関(同窓会の大先輩に当たる方が院長)併設の介護施設の一部に
供されている、元加越能鉄道車(中段画像参照)とは、かなりスタンスが異なります。

湊線の阿字ヶ浦駅では、元羽幌炭鉱鉄道車(下段画像参照)が長らく朽ち果てており、
こうして見ると、意外に北海道とは縁があるものです。





投稿者 クモイ103
投稿日 2011年 8月31日(水)20時19分20秒
タイトル Re: 夕張雑考
雑魚様

> ホテルへの誘導が目的なら、乗降場の追加設置で事足りるのでは?(^^)

そう思うでしょ。
私も現地へ行くまで知らなかったのですが、
この付近の線路はヤマへ向かって20パーミルを超える急勾配が続いているのです。

一般に5パーミルを超える勾配上に停車場を設けるには特別な許可が必要とのこと。
日本一の急勾配駅として知られる明知鉄道の飯沼駅は33パーミルの勾配上にありますが、
その場所は国鉄時代から駅開設の地元要望が強かったものの急勾配のため実現せず、
第3セクターになって車両も最新型の急勾配仕様にし、当時の運輸省立ち会いのもと安全性のテストが繰り返され、
ようやく地元の悲願が実現したとのことです。

そもそも、夕張市役所前の2代目夕張駅の付近も、ホテルマウントレースイ前から続く同様の勾配区間の続きでした。
駅の車止めとその先の旧線路敷との間にはかなりの段差があり、
駅を設けるため路盤を掘り下げて水平を確保した形跡が明らかです。
JR北海道のキハ40系でここの勾配上に停車・再発進することが技術的にどの程度難しいのかは存じませんが、
当時の判断として勾配上の途中駅を設けることを断念したのでしょう。

となれば、レースイ前の3代目夕張駅でも事情は同じです。
もう一度(その1)の最初の写真をご覧いただければ、勾配区間の路盤を掘り下げて水平にした様子がお判りになるかと。
かつて達していたヤマのふもとへ再び列車が乗り入れることを、鉄道自らが断念したということですね。




投稿者 ED76109
投稿日 2011年 8月31日(水)20時20分22秒
タイトル リカちゃんキャッスル行
 失礼申し上げます。「ED76109」であります。

 クモイ103様

 >ホテルレースイの前で線路が切られてしまった3代目夕張駅

 小生、平成14年に訪れた際は、本当に「寂れた雰囲気漂う終着駅」でありました。
「夕張」については、色々と申し述べたいことが多々ございますが、
本当に「当掲示板」の主旨から外れてしまいますので・・・。
ただ、毎年「夕張ファンタスティック映画祭」の折、「新千歳空港」からの臨時レが運転されておりますので、
年に一度は注目される駅であります。

 雑魚様

 >斜陽産業の対策として開業した「常磐ハワイアン・センター」

 正月明けに一家で東京に帰省した折に、小生の両親が愚娘のリクエストで「東北新幹線」で「郡山」へ出て、
「磐越東線」で「小野新町」にあった「リカちゃんキャッスル」見学と
「常磐ハワイアン・センター」泊の小旅行に出かけたことがございます。
「鉄」親父は、愚娘の我儘につきあって人形を購入。
「小野新町」からの「平行DC」の車中で満面の笑みを見せ、2人で「かぶりつき」を楽しむ姿を見ながら一言。
「孫との旅は最高だ。」
プラレール1つ買うにも、小生「我儘言うんじゃない」と言われていたことを思い出し、
何か「複雑な光景」(笑)でありました。


 長々と失礼致しました。以上、「愚娘に嫉妬を覚えた」中年客車鉄ちゃんでありました。



投稿者 ED76109
投稿日 2011年 8月31日(水)21時01分21秒
タイトル 関西の「鉄」先輩方へ
 連投失礼いたします。「ED76109」であります。

 マロネロ38様

 いつも往年のお話、ありがとうございます。

 >準急「エルム」がC51で、オロ31x2だったので、札幌−室蘭間はビジネス客が多いのだな

 当該レは、昭和25年10月に運転が開始され、
「エルム」の愛称は同26年の4月に命名されたことは、「釈迦に説法」でありましょう。
現在も「スーパー北斗」「すずらん」等は、「東室蘭」で自由席の混雑具合が変化いたします。
やはり低迷気味でも、「鉄の街」健在といったところであります。
そして、その翌年の4月には、「Yankee Limited」が一般旅客の乗車を是認。
しかし、「時刻表(同27年5月号・JTB版)」には、
「この列車利用の際は、車内の秩序、整頓、清潔等、特に御留意願います」との但し書きもあり、
まだまだ戦後ということを認識させるものでありました。


 ストーブ列車様

 初めまして。「ED76109」と申します。
産は東京でありますが、現在は「時計台の街」の高校に勤務しております。

 >旧客が元気に走り南海ホークスがあったころは遠い昔ですね

 小生、「鉄」でありますが、また「パ・リーグ」党であります。
「道民球団」は、小生が東京に在している時から36年応援しております。
昭和52年の秋、プレーオフ見物で東京から「新幹線」で日帰り往復して、
「ストーブ列車」様の「ライバルチームのホームグラウンド」の最寄り駅「西宮北口」に降り立ったことは、
小生の想い出の1つであります。
「大阪球場」も無くなって20年以上経ちますですね。
また、小生「あぶさん」のファンであり、「今からじゃ、『つるぎ』には間に合わん。」のセリフは、心に沁みます。


 長々と失礼致しました。また、「鉄」以外の話題失礼致しました。以上、「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2011年 9月 1日(木)14時18分24秒
タイトル 鹿島参宮の元加越能DC
加越能時代のキハ125-126ですが、これは庄川町車庫の2度目の火災で2両(1両は元有田
からの国鉄キハ06で、戦前トルコン試用試験車)を焼失した代車に、東急が東武妻沼線
用に製造したDCの車体と下回り同一設計で、ビニールのロングシート、車内灯2列で
発注、加越線最初のTC2A付き総括制御車でした。雑魚様には釈迦に説法でしょう。

でもこれが孤立散居の散在する砺波平野を走ると、バックの風景に良く溶け込んだ
写真が撮れたものでした。



投稿者 雑魚
投稿日 2011年 9月 1日(木)15時58分45秒
タイトル キハ 40
▼クモイ 103様:
> この付近の線路はヤマへ向かって20パーミルを超える急勾配が続いているのです。

言われて見れば、夕張の二代目駅も登坂区間が絡んでいた印象でしたっけ。

> 日本一の急勾配駅として知られる明知鉄道の飯沼駅

明知鉄道は、旧恵那市域と旧岩村町域が木曽川、旧山岡町域が庄内川、旧明智町域が
矢作川と、複数の水系に跨っており、御指摘の飯沼駅を含む恵那〜岩村を含め、街の
合間に峠越えが連続する事から、アップ・ダウンが著しい印象がありますね。終点の
明智駅にしても、相当な距離の勾配区間が、駅の直前まで及んでいる為、到着列車が
制動に失敗したら………と、余計な心配をしてしまいます。

> キハ40系でここの勾配上に停車・再発進することが技術的にどの程度難しいのか

この形式は、地元・水郡線にて度々、利用しましたが、加減速に関しては鈍重気味で
下り列車が登坂区間にある常陸津田駅に発着する際、もどかしい限りでした。当時は
取っ手すら無い、重い扉の開閉も手動で、利用者の評判は芳しくありませんでしたが、
一両に一対ある、ボックス仕様でないクロス・シートは、ちょっとした特等席でした。

三年前の渡道の際、札幌近郊でも頻繁に見掛けましたが、少なくとも旧夕張線の様な
山間区間向きの仕様ではないと感じます。以前述べた様に、1985年に初渡道した際は、
旭川→興部の急行運用(大雪/遠軽から普通格下げ)で、同系の単行を経験しており、
最後の定期昼行急行「つやま」以上の大技な存在でした。それゆえ「宗谷/サロベツ」
間合運用の「ちとせ」で、改良型の キハ400系を経験した時は、感慨を覚えましたね。

関東では現在、一部に「なんちゃって国鉄塗装」を導入の上、烏山線で稼働中ですが、
往年に比べ、直通運転枠が減ったのは、鈍重さゆえに、東北線内でのダイヤ編成上の
隘路になっている事が一因ではないかと感じます。旅客需要上の一大拠点への直通が
需要喚起の要諦と考えるなら、軽快型の導入を望みたい処ではあります。




               
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