倶楽部メモ(626)
平成22年10月10日〜10月13日

グリーン車の使い分け ・ 定員が異なる形式の代用


投稿者 Uzu
投稿日 2010年10月10日(日)11時14分8秒
タイトル グリーン車の使い分け
皆様、ご無沙汰しております。
今回、旧客グリーン車の使い分けについて質問致します。
昭和47年3月改正まで急行「瀬戸(2往復)」「出雲」「紀伊」の車両は品川区が一手に引き受けていましたが
(瀬戸の付属編成は岡オカでしたが…)、それらのグリーン車は形式がはっきり決められていたのでしょうか?
いくつかの資料を拝見しましたところ、「瀬戸」はスロ54、「出雲」はスロフ62、「紀伊」はオロ11となっていたようです。
当時の品川の各車両の配置数が分かりかねますが、同じ車両区に所属しているので混用されたりしていなかったのかと
疑問に思った次第です。
また、似た事例として、名古屋区持ちの「阿蘇」グリーン車はスロ54使用との資料が多いですが、
当時の名古屋区には確かスロ62やスロフ62も多く配置されていたと思いますが、やはりスロ54限定だったのでしょうか?



投稿者 マロネロ38
投稿日 2010年10月10日(日)14時03分46秒
タイトル 「出雲」の特ロ」
昭和30年にスロ53だったのを大阪駅で見ています。[瀬戸」も53だったと想いますが、47年
[瀬戸1号」に三ノ宮-東京間ハネが満員で指定席のスロ54(2次型?座席灯が埋め込みだ
った)に乗車した経験があります。
「紀伊」は残念乍見ていません。



投稿者 クモイ103
投稿日 2010年10月10日(日)21時47分12秒
タイトル Re: グリーン車の使い分け
Uzu 様

スロ54、スロフ62、オロ11
一般論ですが、これら3形式を混用することは、一定の条件が揃わない限り出来ません。
その条件とは、(1)緩急設備の有無、(2)定員、(3)重量(換算両数)、の3つです。
これらが許容される範囲なら他形式の使用もあり得たと思いますが、実際はけっこうハードルがありました。

(1)「出雲」のG車は基本編成の上り方端部に連結され、
  下り列車で付属編成が切り落とされる米子以西では最後部となるので、緩急車であるスロフ62でなければなりません。
(2)所定スロ54の「瀬戸」にスロフ62を持って来ると、定員が48名から44名に減少してしまい、
  指定席の発売に支障を来します。
(3)オロの運用にスロを充当すると換算両数が0.5増え、それだけ牽引力が不足します。
  ELよりもDLの方がパワーが落ちる上に、非電化区間の方が山越えが多かったりして牽引力がぎりぎりのケースがあります。
  実際には「紀伊」の非電化区間は編成が短いため、ゴハチよりは非力なDF50でも牽引定数に余裕があった様ですが、
  そもそも一般的に、所定より重量増となるような編成変更は、よほど特別の事情がない限りしなかった筈です。

こう考えると、ご指摘の3急行の間で無条件にG車を差し替える事が出来るのは、
所定スロ54の「瀬戸」にオロ11を組み込むケースだけです。
実際にはそれぞれの形式が決められた用途に必要な両数だけ配置されている筈であり、
むやみに所定以外の形式を充当することは無かったと考える方が自然な気がします。

****************

では以前に話題となった廃止直前の「桜島・高千穂」はどうだったのでしょうか?
鹿カコのオロ11が検査切れとなって北オクのスロフ62などが充当されました。

まず定員の問題ですが、そもそも利用が少ないから廃止されるわけで、
代走が始まると同時に所定の座席数を44名に減らしてしまったのではないでしょうか。

次に牽引定数の問題ですが、末期の「桜島・高千穂」は普通車ナハがなし崩しにオハにすり替わっていましたから、
元々牽引定数にある程度余裕があって、特別に許可していたのでしょう。
それに編成記録をよく見るとスロフが入っているのは「桜島」だけで、
「高千穂」はいきなりグリーン車欠となっていますから、これでだいぶダイエットになっていた筈です。



投稿者 Uzu
投稿日 2010年10月10日(日)22時54分53秒
タイトル グリーン車…
>マロネロ38様
昭和30年代でしたら、非冷房グリーン車も大活躍していた頃ですから、
形式的にもさらに多くの車両が存在しそれらをどのように使い分けていたか気になるところですね。

>クモイ103様
鋭いご指摘ありがとうございます。
「出雲」の編成切り離しによる緩急車限定条件は見落としておりました。
また、スロとスロフを混用することによる定員の差違は調整席数の増減で対応しているものかと想像しましたが、
やはり明確に定員数は決められていたのでしょうか。
重量定数の件も深くは考えておりませんでした。

となりますと阿蘇のグリーン車もスロ54より4名定員の少ないスロ62との混用は避けていたのでしょうかね。



投稿者 XD1 at Phuket
投稿日 2010年10月11日(月)00時36分39秒
タイトル いよいよ出発
1枚目。直前になって機関車が連結されました。定刻の7分遅れで出発。

2枚目。出発直後、まだハジャイ駅の構内です。捨てられた貨車に土埃が溜まり、雑草が生えています。
その奥には廃車扱いの客車でしょうか。この辺り、今のタイ国鉄の現状でもあります。

3枚目。まあこんな感じで走っています。

 早朝でしかも曇り時々雨という天候。窓は開いているので、少し寒く感じました。

 例によって出発直後に改札がありますが、1回見せればそれで終わりです。





投稿者 クモイ103
投稿日 2010年10月11日(月)20時53分11秒
タイトル 定員が異なる形式の代用について
Uzu 様

> やはり明確に定員数は決められていたのでしょうか。

一概に言えない要素としては、もしも初めから定員の異なる形式を共通使用する前提で運用を組んであれば、
それに対応した座席数が設定されていたと思われます。
例えば、未確認情報ですが急行「きたぐに」ではスロ54とスロ62が共通運用されたとの話もあります。
そういう場合はおそらくスロ54の両数が足りず、初めから定員の少ないスロ62も使用する前提だったことでしょう。
指定席の発売数は少ない方に合わせていた可能性があります。

しかし当時の品川区の配置を調べてみるとスロ54が6両あり、使用両数は「瀬戸」2往復に各1両の計4両ですから、
差し引き2両の予備車で十分な余裕があります。他形式の応援を頼む状況ではなかったでしょう。ですから、

> 定員の差違は調整席数の増減で対応

というのは、この場合考えにくいことです。
いつ起きるかわからない代走のために初めから定員を4名も減らしておくという勿体ないことを、
国鉄がやったとは思えません。

【参考】昭和46年3月31日現在 品川区一般型グリーン車配置
オロ11 30,31,32(3両)
スロ54 2021,26,2040,2043,2045,2046(6両)
スロ62 2002,2003,2004,2044,2110(5両)
スロフ62 2004,2005,2006,2007,2010,2011,2030,2031(8両)
(今日鉄博へ行って調べてきました(^^;)


「阿蘇」についても、「天草」と共通運用で4組使用に対し、名ナコには7両のスロ54がいましたから、
同様の状況だったのではないでしょうか(たしか名ナコのスロ54の定期運用は他に無かったと思いますが…)。



投稿者 Uzu
投稿日 2010年10月11日(月)21時51分9秒
タイトル グリーン車代用の件
>クモイ103様
資料を調べていただき恐縮です。
鉄博ですか!一度足を運んでみたいものです!

品川のオロ11とスロ54は予備車も含めて所定きっかりの配置という感じですね。

スロフ62は数からしてスロ62と共に波動用の意味合いも持っていたところでしょうか。

「きたぐに」混用の件、両数に余裕がない故なのですね。スロ62と54の混用に加えスロフ62使用の記録さえあるようですね。
東海道筋に比べ北陸筋のグリーン車は利用率にも余裕があったのでしょうかね(笑)



投稿者 仙コリ
投稿日 2010年10月11日(月)23時48分35秒
タイトル Re:日本海号の1号車
Denchu様

当日の編成情報は得られないようなので、写真などから判別できる情報で形式・車番を推測しますと
まず形式については、
(1)妻面が切妻である。
(2)側窓の天地方向寸法が狭いタイプである。
といった点から、オハネフ25の100番台もしくは200番台であることがわかります。
(100番台は妻面が完全な平面、200番台はわずかな後退角がついていますが写真からは?)

さらに、寝台特急「日本海」は盛アオ(青森車両センター)受け持ちなので、
該当するオハネフ25は117、121、125、129、201、202、205の7両であり、
そのうち雨樋が妻面にある車両は121と201の2両のみとなっております。

その2両の見分け方としては、妻面の形状がわかれば簡単なのですが、他の特徴として
(1)妻面の雨樋の形状が121は下部が側面に沿って若干曲がっているのに対して、
   201は完全な直線である。
(2)妻面下部の尾灯掛けが121は下部金帯にかかっているのに対して
   201は下部金帯の上部にあり、帯にはかかっていない。
撮影になった写真を以上の条件に当てはめますと121である可能性が高いと思われます。
何らかのイレギュラーがあって他区からの借入車である可能性もあるので断言は出来ませんが
以上の点から撮影なされた車両はオハネフ25 121であると思われます。



投稿者 ED76109
投稿日 2010年10月12日(火)00時02分5秒
タイトル 修学旅行レに係る戯言
 おばんでございます。「ED76109」であります。

 小生が命課された修学旅行まで、あと3週間強となりました。様々な生徒指導や雑用も多く、正直なところ疲れます。
しかも、関西の生徒自主研修日が「月曜日」とあって、「交通科学館」も「梅小路機関車館」も「休業日」
(絶句、そして滂沱!!)。これだけで、勤労意欲が・・・。
しかし、色々と「修学旅行」に係る「ネタ」を調べてみると、意外と「鉄勉強」になったことがございます。

 1 修学旅行は、昭和25年8月から「団体割引」制度が復活して本格化したようであり、
当初は「定期レ」に団体車両を増結することが一般でありました。
しかし、昭和24年にとある旅行業者が国鉄に「とあるアイディア」を提供して、
「上野・日光」に修学旅行専用レの運転にこぎつけたのであります。
その「アイディア」とは、当時「東京・伊東、修善寺」に運転されていた「PC準急いでゆ・いこい」の活用でした。
「PCいでゆ・いこい」は、「週末の土曜・日曜」に運転されて「月〜金の五日間は、『東シナ』に停留されている」ことを、
「東鉄」に提示して、この編成を活用するように口説いたのであります。
ただ「いでゆ」等の車両は、当時の高級車両「スハ43系」や「オロ41形」を充てる方針であったようですが、
実際は狭窓の「スハフ32系」や「オハ35系」などが多く活用されたようで、
「マロネロ38様」のレスにもございましたが、学生の団体割引で旅行するに相応しい「車両」が活躍したようであります。

 2 昭和30年代、修学旅行は一般的な学校行事となり、全国的に実施されることが恒常的となりました。
しかし、当時は主要本線の輸送量が逼迫しており、団体レの車両手配に「国鉄」は苦労したようであります。
実際、昭和31年4月に運転された「東京・大阪」の「臨3135レ(修学旅行専用レ)」は、
次のような編成で運転された記録がございます。

(大阪)←「オハフ61715(門ワカ)」+「オハ35634(門モコ)」+「オハ35944(門ワカ)」
+「オハ3551(門ワカ)」+「スハ426(門モコ)」+「スハフ32162(門モコ)」
+「オハフ6150(門ヒラコ)+「オハ35831(門トス)」+「オハ60107(鹿カコ)」
+「オハ60339(門ハヤ)」+「オハ60327(鹿ミヤ)」+「オハフ33210(鹿ヤコ)」

「若松」から始まって「鹿児島」や「都城」までの九州内の9カ所の車両基地からの「総動員」。
関東や関西だけでは、これだけのPCは手配出来なかったようであります。
しかし、全てこれらは「鈍行レ」用のPCであり、牽引機も貨物用の「D52」であったことが少なかったとのこと。
このような「寄せ集め」編成が、最盛期の昭和32年頃、全国で2700本弱も運転されたのでありました。

 3 しかし、旧客レの施設に対する要望が強くなり、昭和34年4月に完成したのが「EC155系ひので」であります。
「ひので」の名称は東京発のものであり、関西発は「きぼう」。
運転区間も「品川・京都(ひので)」と「神戸・品川(きぼう)」と微妙に異なっておりました。
一般車両と異なる施設で重要視されたのは、まずデッキに設置された「飲料水タンク(冷水器ではありません)」。
これは、旧客レ時代に持参した水筒に水を補給するために、途中駅のフォームに下車してしまう生徒たちが多く、
乗降駅以外ではドアが開閉されないために設置されました。
さらに、車内の「スピードメーター」は車両を作成した「日立製作所」のサービスであり、
「クハ155形」のみに設置されました。
これは、運転席に付属された発電機の余力を活用したものであり、「お遊び」程度のものだったようであります。
しかし、生徒たちは「今、何キロ?」などと大喜びしたとのこと。
今も昔も「スピード」への憧憬は尽きないようであります。

 長々と失礼致しました。
以上、「マンボ」と「鉄道博物館」だけは、何があっても訪ねる決意も新たな「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 XD1 at Phuket
投稿日 2010年10月12日(火)09時14分8秒
タイトル やはり警戒
 途中の車窓からの撮影です。

1枚目。一見のんびりしたローカルな駅ですが、有刺鉄線が。

2枚目。別の駅付近です。
駅から離れた場所では線路脇に何も無い所も多いのですが、駅近くではこのような金網を新たに設けている所が多いです。
昔は無かったのに。

3枚目。警察の氏名手配です。いくつかは、テロの容疑者のようです。


 とゆーことで、警戒されているのは感じられます。迷彩服で機関銃を手にした若い兵士も乗り込んでいます。
汽車が駅から出て動き出す度に、銃を持って車内を歩いてパトロール。
実際にテロが起きているので、やはり顔には緊張が伺えます。
 トハイウモノノ、たまたま一人の兵士が自分と同じボックスに座ったのですが、ちょっと眼が合うと、少しニコリと。
中東の国のようにギンギンに最初から最後まで緊張という雰囲気でもありません。

 パトロールはありますが、特に旅券を見せろとか、荷物を開けろとかはありませんでした。

 一般の乗客は、いたってのんびり。バンコク近くと変わりありません。危機意識の欠落と言うべきなのかもしれませんが。

 心情としては中央政府への反感はあるにせよ、テロはあくまで一部の過激派で、
殺傷行為が民意の表れという事でも無いような印象ですが、どうかなぁ?




投稿者 マロネロ38
投稿日 2010年10月12日(火)14時20分21秒
タイトル 修学旅行
ED76109先生:
自主研修が月曜日とは意地悪日程ですね---日曜日に開いている所は月曜日休みが多いで
すし、マンボと大宮しか??マンボは西宮の方が両側煉瓦ですが、山側では市街地や
通行人を写すと叱られる所なのでご注意ください。

甲子園口は山側煉瓦で海側セメント(戦時中の川西航空機工場引込み線の線増の為)で
すが,中へ入ると煉瓦とセメントの継目が解ります。時間は午前中の方が良いでしょう。

修学旅行の臨時の滅茶苦茶な編成面白いですが、スハ42とオハ60では雲泥の差ですね。
戦後関西で話題になったのは昭和24年に関西学院中学部が大阪-小田原間に終列車に増結
させて関東修学旅行をやった事です。当時としては贅沢と言われて?
客車については、OB友の人が[オハ35だった」と話していました。当時はオハ35は急行用
だったのでよく手配出来たものだと。スハ42がそろそろ出てきた頃の筈ですが---



投稿者 雑魚
投稿日 2010年10月12日(火)18時11分55秒
タイトル 回廊列車
▼XD1 様:
> 中央政府への反感はあるにせよ、テロはあくまで一部の過激派で、

首都の主要部で、あれだけ大規模な混乱に発展した事で、国家存亡の一大事、という
印象すら受けますが、今般のデモに与した市民は、政治的葛藤に留まらず、利権上の
衝突も少なからず背景にあるとされる中、タイ全人口から見れば、実は極めて僅かな
比率に過ぎない様ですね。この辺りは、報道において映像をどの様に取扱うか次第で、
受け手の印象が異なるという、手法上の問題もあるのでしょう。

> 迷彩服で機関銃を手にした若い兵士も乗り込んでいます。

こうした話を聞いて思い出すのは、旧西独ゆかりの知人が西ベルリンまで往復する際、
旧東独領内を通過する「回廊列車」を利用した際の四方山話です。やはり、機関銃で
武装した東独兵(国境守備隊?)が同国領内を通過する間、列車に乗り込むのですが、
異様な雰囲気だったそうです。あるいは車窓撮影も、禁じられたのかも知れませんね。

回廊列車とは趣が異なりますが、別の知人からは「ベルリンの壁」崩壊前の近郊鉄道
Sバーンで唯一、東西検問所の機能があった、フリードリッヒ・シュトラッセ駅での
これまた独特の雰囲気について、聞いた事があります。

回廊列車の時代は、コンパートメント仕様の客レだった事と思いますが、東西統一を
契機として、1997年より、画像(これ自体は、オランダにて撮影)の様な高速列車が
ベルリンにも直通する様になりました。時代ですねぇ。




投稿者 ED76109
投稿日 2010年10月13日(水)00時17分39秒
タイトル スルッとKANSAI!!
  おばんでございます。「ED76109」でございます。

 マロネロ38様
 >スハ42とオハ60では雲泥の差ですね

 小生にとってあまり得意ではない分野でありますが、
「鉄勉強」の結果では、昭和21年に「オハ35形3等車」の新製が再開され、
昭和23年から「ウイングばね式のTR40形台車」をつけた「スハ42系3等車」及び「スハフ41形3等緩急車」
の新製が開始された(「RJ別冊・懐かしの国鉄客車列車・平成11年9月発行」)。とあります。
一方の「オハ60形」は、老朽木製車の台枠を利用した「鋼鉄製客車」であるとの記載を確認。
つまり、背吊りが板張りである「オハ60形」に対して、
座席に頭もたれが付いた「スハ42系」という相違点になるのでしょうか。
もし現在であれば、「同じ料金を支払ったのに、なぜ設備が違うのか納得できないので、料金を返せ!!」
とクレームを付ける「モンスターペアレント」が存在しそうであります・・・。


 ところで今日、学校で「生徒への自主研修」を添乗員の方々と指導致しました。
小生、「大阪・京都・神戸方面」とも、地域によっては、生徒に「スルッとKANSAI」を紹介。
乗車券購入の時間短縮などの利点を説明しました。
すると、「先生、何でそんなこと知っているの?」と生徒は不思議な表情。
添乗員の方々も「先生はかなりの『鉄』とお見受けしました!!」と大笑いされる始末。
まあ、「いくらでも添乗員の方々のサポートは致しますので」と小生はにやりとしましたが・・・。

 長々と失礼致しました。
以上、遠軽勤務時、「東京から上野」までの「山手線の移動」の際に、要領を得ない「添乗員」の代打として、
拡声器片手に生徒の移動を仕切らされた「中年客車鉄ちゃん」でありました。



 
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