倶楽部メモ(595)
平成22年 5月 2日〜 5月 6日



投稿者 Uzu
投稿日 2010年 5月 2日(日)01時37分24秒
タイトル スロフ53の最期
こんばんわ。
いつも質問ばかりで恐縮なのですが、スロフ53の件でお伺いを致します。

冷房化されることなく昭和40年代後半で姿を消したスロフ53ですが、
最期はどの車両がどこに所属しどの列車に使用されていたのでしょうか?

当時すでにグリーン車は冷房が当たり前の時代だと思われますので単に保留車だったのかという気もいたしますが…

ご教示いただければ幸いです。



投稿者 ED76109
投稿日 2010年 5月 2日(日)08時05分21秒
タイトル Re:スロフ53の最期
 おはようございます。旅に出られぬイライラが募る「ED76109」であります。

 Uzu様

 関係資料及びサイト等を精査致しましたところ、次のようなことが判明いたしましたので報告致します。

 昭和32〜同33年、「客車の近代化改装工事」によって「側窓のアルミサッシ化」と「室内灯の蛍光灯化」が施され、
同36〜39年にかけて、「スロフ53」が誕生の運びとなりました。
しかし、「冷房化改造」を実施されなかったことから、
「オハ41」や「オハフ41」へと「ロングシート化」されてしまったもの、
「マニ37」や「スユニ61」として「郵便車・荷物車」に改造されてしまったものもございました。
改造を免れたものも、同50年までに廃車されてしまい、「スロフ53」は鬼籍入り。
なお、最後まで在籍したのは「スロフ532025(元スロ53 4」であり、
同46年「松任工場」で「側廊下14畳敷」に簡単な「供食スペース」を備え、
側窓下にかつての「三等車」を意味する赤帯を巻いた「お座敷食堂車」に改造。
同49年秋から運転されていた能登半島観光列車「ふるさと列車おくのと号」に連結され、
同48年9月の列車廃止まで運用に就いたとのことであります。
小生の推察ですが、以上のことから最終所属は「金サワ」ではないかと考えます。

 長々と失礼致しました。以上、「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 クモイ103
投稿日 2010年 5月 2日(日)09時19分21秒
タイトル Re2: スロフ53の最期
 Uzu様、こんにちは。

 ED76109様が解説された通り、最後まで残ったスロフ53は「ふるさと列車おくのと」用の2025で配置は金サワ、
廃車は昭和50年2月1日でした。
但しこれは車内がお座敷に改造された、いわば後年の「ジョイフルトレイン」にあたる特殊車です。
 「特ロ」の所以であるリクライニングシートを備えた一般のスロフ53で最後まで在籍したのは、
昭和47年3月21日廃車のスロフ53 2021(名ナコ)でした。
なお、昭和45年度初頭にはスロフ53の全30両中過半数の16両が在籍、1年後にも10両が残存していました。

 スロフ53は、昭和40年代初頭に計画された1等車冷房化の対象から外されました。
これは、この時点で既に客車による優等列車が減少しつつあり、
新しい方からオロ(フ)61→スロ(フ)62、ナロ10→オロ11、
およびスロ54だけで将来的にロザの冷房車は足りるという判断であったと伝えられています。
実際「全国版 優等列車編成順序表」によれば、ヨンサントオ改正の時点ですでにスロフ53の定期運用は見当たらず、
北海道の「ニセコ3-1号」及び「利尻2-2号」に連結されたスロ52が、
急行列車に定期運用される非冷房客車ロザの全てです。

 では、定期運用を持たない客車は保留車だったのかというと、必ずしもそうではありません。
昭和40年代と言えば、一般型客車による臨時列車が多数運転されていました。
何しろ12系客車の登場が大阪万博の前年である昭和44年で、当初まだ圧倒的多数の旧型客車に混じって少数派、
それ以降客車列車の減少に伴って次第に相対的な割合を増やしてくるわけですから、
当時はまだまだ「臨時列車は冷房のない旧型車両」というのが一般常識だったのです。
 スロフ53ではありませんが、「サイドビュー国鉄一般型客車」に、
昭和45年5月4日撮影・不定期急行「桜島」に使用中とされるスロフ51 2027の写真があります。
また、昭和45年10月に大阪局で運転された団体臨時列車にスロフ51 2039(大ミハ)が連結された記録もありますから、
こうした非冷房のロザ車も、その頃までは何かと仕事があったものと思われます。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2010年 5月 2日(日)19時03分47秒
タイトル 旧客の「フ」
ED76109先生:
旧型客車の「フ」にも「車掌室」(引き戸付き)があり、反対側に簡単な座席(2人掛け)と
手動ブレーキがありました。車掌室にはアンプがあり、車内放送のマイクやハイケンスの
セレナーデ用の金属製シロフォン(初期)が置いてありました。中間に「フ」が連結されて
居るとたいてい未成年者の喫煙場所でした。



投稿者 Uzu
投稿日 2010年 5月 2日(日)19時10分29秒
タイトル スロフ53の件
ED76109様、クモイ103様、大変詳しいご回答ありがとうございます。
おくのと号のスロフ53ですが、当時としてはかなり斬新な車内設備だったようですね。
写真を見ましたら、グリーンマークも無いようで普通車扱いのようですね。
形式を変更すると手続きが大変だったということでしょうか。



投稿者 雑魚
投稿日 2010年 5月 3日(月)11時21分21秒
タイトル 庄内事件に関する補追
▼マロネロ38様:
> 実際に「危機管理の手法評価」とは何処の資料でしょうか?

詳細は「ウィキペディア/庄内事件/その後」を御覧頂くとして、阪急の幹部による
現場での説得や、警察車輌を動員しての乗客輸送もあって、発生から数時間でピケが
解除(=運行再開)とあり、当日の夕刊でも「三時間の混乱」と報じられた模様です。
御指摘の梅田駅の状況は、運行再開後、遅延証明書を求めて殺到した利用者が、件の
車輌格差など、日頃の不満を訴えて、混乱していた際の様子ではないかと拝察します。

何れにせよ、職員が現場を放棄する程の、運行上の混乱が翌日に跨り、その際の車輌・
施設等の破壊行為に伴う間引運転を、その後、暫く引き摺った「首都圏国電暴動」と
比べれば、かかる評価があっても不思議ではありません。一方、国鉄のそれは「まず
争議ありき」という状況下、十数年前に発生した庄内事件の教訓が顧みられる余地は
無かったのだろうか、とも感じます。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2010年 5月 3日(月)20時17分55秒
タイトル 庄内事件-3
もう当時の夕刊は保存していませんが当時阪急に好意的なA紙だったらそう書くでしょう。
(当時同じ銀行系列)。
梅田駅の混乱は延着証明書だけではありません。「日当を出せ」の要求があって、それで
もめていたのです。何でも一人500円?だか払って決着がついたそうですが、それが翌日
まで尾を引いたのも事実です。
ウイキの記述は某鉄道アナリスト氏の項を見ても、ウソペデイアと酷評される程なので
私は全面的には信用していません。

庄内事件は阪急で起こった事で、電車に石を投げたり、社長を殴ったりは無く、大阪府警も
警視庁見たいにすぐ強行排除しなかったので、現場では早めに治まったのですが、あれが
東京だったら警察対乗客の対立に発展していたでしょう。阪急だからまだ良かったのです。

但し梅田駅での揉め事は翌日まで尾を引いたのが本当でした。
当日夕刻に梅田駅での騒ぎを見ている沿線乗客の証言が、信用出来ないのならこれ以上
申しあげる事はありません。



投稿者 仙コリ(管理人)
投稿日 2010年 5月 3日(月)23時46分48秒
タイトル 庄内事件の件について
庄内事件について詳しくは知らないのですが、歴史は非常に難しいという事と、
報道やウィキペディア等の情報を100%鵜呑みにしてはいけないというところ
でしょうか。

歴史に関しては、例えが悪いかもしれませんが戦国時代の武将の話などでいえば、
誰を主人公にするかによって話の流れ等内容がまったく異なることもありますし、
著者や脚本家によって同じ人の話でも、まったく異なった話になったりもします。

このような事件に関しても関係者は数千人?以上いるようなので、
報道や後日談は第三者が見聞きした情報や関係したうちの一部の人からの聞き取り
から出来ていると思います。
特に乗客側からはごく一部の人からの話しか聞けないはずですし、
この事件の場合には庄内駅での騒動は3時間程度で収まったようですが、
梅田駅等の他の場所へ波及した状況は把握していない事があったのでしょうね。

もちろん真相は現場をご覧になったマロネロ38様の証言が一番確実だと思いますが、
報道がそこまで把握していなかった?もしくは一部の把握していなかった報道が
主として現代に残ってしまったという事でしょうか。
ただ、後の上尾事件等と比較すると車両破壊等の暴動までは発展しなかった点が
評価されたとの記述なのでしょう。

いずれにしても、歴史には記録されていない裏の側面もあるということを、
実際に現場を見ていたマロネロ38様からお聞きできたことは、大変貴重なこと
であると思います。



投稿者 ED76109
投稿日 2010年 5月 4日(火)21時59分23秒
タイトル 「○○○レ、発車!」がもう一度聞きたいですね
 おばんでございます。弁論部のセミナーが終了した「ED76109」でございます。

 マロネロ38様
 >旧型客車の「フ」にも「車掌室」(引き戸付き)があり、反対側に簡単な座席(2人掛け)と手動ブレーキがありました。

 思い出しました。確か「スハフ42」であるとか「ナハフ10」でしたら、最後尾の両側が「車掌室」だったのですが、
「オハフ33」だと「マロネロ38様」の仰るような構造であったと。
小生、鈍行紀行は原則「最後尾のフ」が指定席でありましたので、
大抵「カレチ」さんの「○○○レ、発車!!」の声を聞きながら、旅しておりました。
「機関車のフォイッスル」の後の「ガクン」というショック。
そして、ゆっくりと牽き出されてフォームを離れていく・・・。
「次は□□に停まります」の放送、そして主要駅の前後に流れる懐かしい「ハイケンスのセレナーデ」の響き。
明日、「道立図書館」にでも赴いて、「鉄」関係の書籍でも改めてみたいところ。
また、何か気になることがありましたら、「戯言」させていただきます。

 長々と失礼致しました。
以上、「北広島高校」から眺めた「2レ」に思わず嘆息を漏らした「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2010年 5月 5日(水)09時23分52秒
タイトル PC発車時の音
ED76109先生:
もう一つ醍醐味と言いますか--発車時の音がありますね。
北海道はシャフト連結でしたが、本州以南は発電機がベルトで「ウイーン」と唸りだし、
速度が上がると静かになる----あの音がなんとも言えぬ感じでしたし「汽車に乗っている」
感覚が100%でした。
沿線で外部から聞いていると50kmhぐらいで「シュルシュルシュル---」

もう「ハイケンスのセレナーデ」も2枚のCDで聴くしか--------「汽車は遠くなりにけり」です。



投稿者 雑魚
投稿日 2010年 5月 5日(水)16時26分32秒
タイトル 伝聞情報の取扱いに関する私見
▼管理人様:
> 報道やウィキペディア等の情報を 100% 鵜呑みにしてはいけない

報道記事の評価については、政治的見解が介在する可能性から、本掲示板の趣旨には
馴染まないと思われる為、言及を割愛します。一方「ウィキ」の場合、私の出身校に
関して、明らかに不正確な記事が過去に存在した事があり「編集合戦」の可能性をも
勘案すると、御指摘の件は、ごもっともと感じます。

> 車両破壊等の暴動までは発展しなかった点が評価されたとの記述

この辺を踏まえた場合、当事者が不特定多数だった事にも鑑みて、当該記事が著しい
事実誤認を招来するとまで言えるか否か、今なお考え倦ねているのが正直な処ですが、
尋常ならざる状況を目の当たりにされたマロネロ38様(過去ログから、私の父親より
御年長と見受けられ、その分、鉄道を巡る御自身の御見識ないし御意見を確立されて
いらっしゃる方なのでしょう)にすれば、正確性を欠いた可能性が推定される記事を
引用した点が、もどかしく感じられたのだろうと拝察します。

本件を巡る私の書き込みでは、上記の事情に鑑み「断定」ではなく「伝聞」の表現を
心掛けたつもりですが、今後、かかる記事引用には、更なる注意を払おうと思います。
一方、鉄道談義の流儀として、周辺事象を詮索する事が多い私にとって、四方山話を
広範に調べる為の手段としては「ウィキ」はなお、有効な情報源であるかと考えます。

仕事の都合で、反応が遅くなり、タイミングの悪い書き込みになったかも知れない点、
また、趣味談義本位の掲示板で方法論を申し上げた点を、最後に御詫び申し上げます。



投稿者 ユーラシア鉄道
投稿日 2010年 5月 5日(水)23時48分8秒
タイトル 通勤列車と東西の文化?差異について
 こんばんは。

 小生は大阪文化(まずやってみなはれ・・進取・商人の文化)と関東文化
(前例のないことは上部指示あるまで踏み込まない・・秩序・武家の文化)
の、大袈裟かも知れませんが、東西の大きな違いを、転勤のおかげでひしひ
しと感じました。

 今の任地、九州も大学生諸君達は「九州以外へは絶対に転勤をしたくない」
ので大学生の人気企業は、1=JR九州、2=西部ガス、3=九州電力、4=
福岡銀行 等々です。

 しかし小生は、転勤のおかげで、地域地域の文化・生活習慣の違いを肌身
に感じることで、自身の発想・思考の幅をひろげれたと感じております。

 前置きが長く失礼ですが、福知山線脱線事故も、国鉄なら全国転勤の国鉄
マンでの常日頃の「喧々諤々の会議」で、幅広い意見集約があり、事前防止
ができていたのでは?推測します。
 大阪の文化の良し悪しを、比較しての結論として「悪しき儲け至上主義」
の中で、これに異論をとなえる関東などの他地域出身者が少ない、即ち東西
南北での、人事異動のない組織体に問題あり?と思います。

 高速公団、NTT、など旧公社全てに共通してるのではないでしょうか?

 さて、庄内事件と上尾事件を比較(実地経験なしの、推論的表現に恐縮を
申し上げますが。)してみると、
 庄内事件=日当を出せとか、金銭価値にうるさい関西人特有の議論が出る
      も、暴動や、車両破損など暴力事件は起こりにくい。
      (商人文化では、暴力はご法度)
      確かに「阪急宝塚線の車両は古い」の新聞投書は、昭和55年
      頃まで見受けられました。
      競合の福知山線が、旧型客車だったので、阪急側ものんびりと
      かまえていたのでしょう。

 上尾事件=国鉄ストの影響あれど、車両破損や暴力事件は、ひとえに鎌倉
      〜坂東武士の律儀(会社に行けない背任意識)血気が内在して
      いたのでは? と推測します。

 よって、関西地区の通勤列車事情、駅コンコース事情を比較してみますと
 <駅・コンコース>
 関東=エスカレーターは、どんなにホームが混んでいようと、左側一列に
    並び右側は空いている。(稼動50%で非効率)
 関西=最近は関東式に右側(関西は右)に一列に並ぶ例が多いが、結構2
    列に乗るので、ホームから早く人が捌ける。

 <通勤列車事情>
 国鉄時代・非電化路線(山陰本線・福知山線・奈良線)
 奈良線は、嫌われ気動車キハ35主体ゆえ割愛しますが、山陰・福知山の
両線は、水戸・仙台のような、デッキに鈴なりはございませんでした。
 福知山線・旧型客車通勤列車は8〜10両編成で、全座席満席+通路充満
状態までで、デッキに出て嬉しがっているのは、高校生くらいでした。

 小生もその一人で、特に尼崎から塚本通過〜淀川鉄橋までDD51がフル
加速(100km・h)で国電103系を追い越し、鉄橋上で恐怖を味わう
のが、スリリングでした。

 同じく東海道・山陽本線では「新快速」が165系の12連で通勤運用で
活躍し、場合によっては「快速」まで同12連の運用がありました。
 (昼間は6連ですが。)

 小生も、大学通学に毎日165系12連を利用しておりましたが、乗降に
時間がかかるのは「女子高校生の軍団」のみで、神戸三宮でも「2分停車」
ですんなり乗降してました。

 今日現在も、221系・223系などオールクロスシート車が通勤輸送で
支障がないのは、関東のように「秩序正しすぎる」のではない関西なので、
ロングシートでなくとも通用するのでは?(小生も関西人ですので、関西の
方への悪口ではありません)

 というのは、降車乗客が降り終るまで「待つ」関東と、降車乗客が半分位
降りれば、乗車が始まる「待たない」関西の違いが、究極の結論ではないで
しょうか?

 いまではありえない光景ですが、40年くらい前まで、長距離客車列車が
到着すると、ホームから空いてる窓より、先に座席に荷物や、場合によれば
子供を窓から先に座席に座らせて乗る乗客が多くとも、意外と関西人は、こ
れに異議を申す人物はおらず、かえって「あいつ、うまいことしよった」と
賞賛されても、非難されることは殆どなかった記憶があります。

 長々と失礼いたしました。

 添付写真は、淀川鉄橋の福知山線列車です。




投稿者 マロネロ38
投稿日 2010年 5月 6日(木)11時51分13秒
タイトル 東と西
東京は端的に言えば「法律にぶら下がって居たら飯が食える」ところで、大阪は「自分で働か
ないと飯の喰い上げ」になる土地柄の差もあります。
東京で乗車の列を乱すと「怒鳴られ」ますが、関西では「少しぐらいええやんか」なので---
その点では東京を見習わないとですね。座席指定車や寝台車に乗るのに「押し合い
へし合い」も関西で----

暴力沙汰−−−東京は歌の文句にも「---べらんめえにコン畜生にやっつけろ-----」です
が、大阪は暴力で憂さ晴らしよりも、ゼニになる方がええヤんか。

当時の阪急の乗客は電車を破壊したり、詫びに来た社長をブン殴ったり、駅を壊したりは
絶対にしませんでしたから、あの程度で治まったのです。精々怒鳴りつけるぐらいで--
でも心配なのは今では庄内事件みたいな収まり方は不可能な時代になって居るかと想像
します。

社長が現場へ詫びに来たのも大阪ですね。東京の電鉄社長なら絶対に出てきませんよ。



投稿者 雑魚
投稿日 2010年 5月 6日(木)15時21分57秒
タイトル 元東急車の曲芸運転
▼ユーラシア鉄道様:
> 九州も大学生諸君達は「九州以外へは絶対に転勤をしたくない」

一方、福岡の知人によると、難関大への進学に関しては、京・阪・神大に関関同立と
地元志向の強い関西の頭越しに、東京志向が相対的に強いそうですね。勤務地志向は、
北海道でも同様の傾向と聞いていましたが、人気就職先だった拓銀の破綻もあるので、
この辺りは、ED75 109様の御教示を待ちましょう。

> 庄内事件と上尾事件を比較(中略)商人文化では、暴力はご法度

ホームにおける秩序云々の話は「武士vs商人」で良く聞く話ですが、当該事件の如き
異変時における群集心理面でも、どうやら東西の気質差がはっきりしていた様ですね。

> 競合の福知山線が、旧型客車だったので、阪急側ものんびりとかまえていた

これは「成る程」です。少なくとも、旧客便が幅を利かせた非電化時代の福知山線は、
中・遠距離移動に重きを置く事で、阪急とは機能分化が徹底していた印象を受けます。
一方、福知山線の全線電化後、都市圏輸送面で優位性が崩れつつあった阪急宝塚線で
一時的ながら特急が設定されたのは、対抗策たる思惑もあったのでしょうね。

> 嫌われ気動車キハ35

その「嫌われ者」も、今となっては「末裔」が関東鉄道の常総線で珍重されています。
これを「憎まれっ子、世に憚る」と断じては、歴戦の勇士に対して失礼かな。

> 鉄橋上で恐怖を味わうのが、スリリングでした。

その気になれば、那珂川橋梁にて体験できた立場ですが、さすがに、憚られましたね。
先日、ジャボタベック(ジャカルタ首都圏)と思しき都市近郊路線の同乗レポートを
TVで一瞥しましたが、元・東急8500系が扉を開放したまま、乗車率 200%を超える
混雑を捌くという、かつての安全基準を根底から無視した運用が紹介されていました。
明らかに日本風の架線柱も相まって、実に鷹揚なるも奇異な眺めでした(^^)

> 添付写真は、淀川鉄橋の福知山線列車です。

北区本庄地区からの御約束の構図ですね。今春の改正で一往復のみ残った「雷鳥」も
来年度限りと聞きますし、きむたお様によれば「日本海」周辺でも、存廃絡みの噂が
取り沙汰されている様ですから、是非、記録を残して置きたい構図ではあります。



 
 
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