倶楽部メモ(580)
平成22年 2月14日〜 2月17日




投稿者 ED76109
投稿日 2010年 2月14日(日)23時20分37秒
タイトル みんなでマナーを考えよう!!
  本日、2回目の乗車をお許し願います。「ED76109」であります。

 就寝前にサイトを眺めていたら、次のような記事がありましたので、一言だけ言わさせて頂きます。

 14日午前10時40分ごろ、「JR関西本線河内堅上駅」付近にカメラを持った男性ら3人の姿を、
「加茂発天王寺行き快速電車」の運転士が気づき停車した。
同現場を同電車の直前に通過した回送列車の乗務員、が同じ場所で線路に立ち入っている約50人を目撃し、
別の普通電車も線路際の人影に気づき停車した。
この影響により、上下合計19本が運休、26本が最大約40分の遅れとなり、約1万3000人の乗客に影響が出た。
 本日同線では、団体客専用の臨時列車「あすか」が運転され、「鉄道ファンら」が撮影に集まったとのこと。
「JR西日本」と大阪府警柏原警察署によると、「快速電車の運転士」が退去を求めたところ、
ファン数人が最後まで聞き入れずに、周辺駅から駅員の応援を依頼するとともに、パトカーが出動した。
最終的には全員が立ち去ったが、同署は「列車往来危険容疑」で調べている。
 「あすか」は車内を座敷に改装した珍しい車両であり、運行が年間にごく僅かであるため、
撮影目的の鉄道ファンが大挙押しかけたものと思われる。
当日は「新大阪駅」発着で、奈良や京都など経由するルートでの運行であった。
問題となった地点は自然が美しく、カーヴであったことから「撮影スポット」であった。
乗車した鉄道ファンの男性からは、「線路脇の斜面で撮影している人もいて危険だった。
大半のファンはマナーを守っており、同一視されるのは迷惑である」と憤慨。
「JR西日本」は、「鉄道好きだからこそ、マナーを守ってほしい」との談話を発表している。(「毎日新聞」参考)

  小生から一言。
  「鉄道ファンは紳士たれ。そして、人間として『常識』を踏まえて行動せよ。」

 以上、先達の方々とは思えない「愚行」に、日頃の仕事口調になってしまった「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 ユーラシア鉄道
投稿日 2010年 2月14日(日)23時27分27秒
タイトル 境界駅について
 続投で失礼いたします。

 本日、博多〜小倉〜下関・関門渡船・門司港〜博多と下関唐戸魚市場・関門レトロと、楽しんで参りました。

 門司港には、鉄道模型&鉄道部品専門で札幌本社の、「からまつトレイン・門司港店」も見てきました。

 ところでJR九州とJR西日本の境界駅ですが、その管轄について興味深い発見がありました。
(JR九州の車掌さんに教わりました。

*境界駅 :下関駅(関門トンネルはJR九州管轄)
*管 轄 :JR九州(固定資産)
*人事配置:JR西日本(駅員にJR九州社員はいない)
*発券業務:JR西日本に委託
*緊急避難措置:  同上

 よって、仙コリ)管理人様、および投稿の各位様で、他の境界駅についてご存知の方がいらっしゃれば、
ご教示お願い申し上げます。

・児 島(JR西日本/JR四国)
・新 宮(JR西日本/JR東海)
・南小谷(JR西日本/JR東日本)
・直江津(    同 上    )
・熱 海(JR東海/JR東日本)
・中小国(JR東日本/JR北海道)

 ご教示よろしくお願いいたします。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2010年 2月15日(月)12時46分12秒
タイトル 撮影マナー
全く呆れ果てて言葉もありません。
運転士に「危ないから」と言われてもどかないのなれば、死ぬ覚悟でしょうか馬鹿連中?
最近過熱どころか「狂気の沙汰」が見られますが、長年の鉄道ファンから見たら「本当に
連中は鉄道ファンなのか」?と思います。

私が鉄道友の会に入った当時は「現場に迷惑をかけない、線路には立入らない、車両には
悪戯をしない等々」が殆ど守られて居ました。鉄道友の会の主導的立場や権威が弱まり、
野放し状態が段段酷くなって来ており、用地内立ち入りで死亡した子供の親が鉄道を訴え
たり、全く社会常識の逸脱も甚だしい現状には呆れます。

一方そんな過熱を煽るTV局などのマスコミも目に余ります。新幹線の0系と500系の
鼻を揃えて撮影したい「撮り鉄オタ」を2日間も取材して、ホ‐ムの身体障害者用の
「黄色」ボツボツ線の上に三脚を立てているのを写したりでは、「危険行為の煽り」と
しか思えません。(駅もマスコミには逆らえないらしい)

全く「写す阿呆に煽る阿呆」状態ですが、こんな真似だけは絶対しない様にです。

警察がこんな連中を断固取り締まって欲しいものです。



投稿者 雑魚
投稿日 2010年 2月15日(月)12時49分29秒
タイトル 下関駅
▼ユーラシア鉄道様:
> 関門渡船・門司港〜博多と下関唐戸魚市場・関門レトロと、楽しんで参りました。

本州最西端の港湾都市・下関の魅力は、何と言っても「錯綜する引込線」です。特に、
一旦、門司側に南下後、大きく時計回りに山陽線を潜り、小瀬戸沿いに下関駅西側の
岸壁に続く貨物線は大いに萌えですね。電子地図を見ると「健在」である旨の表記が
見られますが「グーグル」空撮映像では、一部または全体で線路が撤去済みと思しき
状況が窺え、少し残念ですね。

この辺りは以前、乗換え待ちの間に少し散策した事がありますが、上記の路線の他に
印象深かったのが、下関駅東側のSCに突っ込みかけた状態で途切れていた側線です。
これがどうやら、今回、御訪ねになった唐戸市場まで続いていたらしく、地元ネタの
掲示板を見ると、SC開業当初、現役だった引込線がSCを「隧道」で抜けるという
大技があった様子。なるほど「グーグル」空撮映像でも、件のSCは確かに、かかる
名残が感じられますね。

ちなみに、私が下関に下車したのは、出張で松江に赴く途上、下関始発が解消される
直前の「おき 2号」に「惜別乗車」する為の「大迂回」の産物で(^^)東京→下関は
確か「さくら」の利用でした。なお、1989〜1997年に行われた「おき」の下関直通は
この 2号のみで、これに先立ち、小郡→下関で キハ181系回送を兼ねた「全線架線下
気動車快速」が設定されていたのが、印象深かったですね。

天王寺駅で「ブルドッグ」に12系、急行色キハが集結した様子は、萌え萌えですね!!
現役当時の「ブル」の様子を殆ど知らない立場上、もどかしくも感じますが、いずれ
我々も、今改正で定期運用を終了する「ボンネット型」を巡り、若年世代に吹聴する
事となるのでしょう。



投稿者 雑魚
投稿日 2010年 2月15日(月)13時27分14秒
タイトル 私からも小言
▼ED76 109様:
>「鉄道ファンは紳士たれ。そして、人間として『常識』を踏まえて行動せよ」

昨年、横浜市内で「富士/はやぶさ」狙いと思しき方が列車事故で亡くなった一件を
御存知の向きも少なくないだろうに、その教訓が生かされていないのは、残念ですね。

東海道線山崎付近で、運転士の「心理負担」を軽減する為、線路際の柵が強化された
旨の言及が、本掲示板でもありましたが、今後も同様の「狼藉」が続けば、抑止策が
強化され、その皺寄せが愛好者全体に及べば「自分で自分の首を絞める」どころでは
なくなるでしょう。同じJR西日本管内である金沢駅で「御立ち台」を巡る取扱いに
異変が生じない事を祈るばかりです。

その一方、かかる報道では相変わらず「偏執的」との意味を伴う「マニア」の表現が、
今回も散見され「鉄」に対する「それ見た事か」といった一部世論すら窺える様です。

河内堅上駅界隈は、奈良盆地から大阪平野へ流れる大和川が、生駒山地と金剛山地に
挟まれ、大阪近郊にあって山峡を形成しており、そこをDL牽引の客レが通過すれば、
食指が動く動機は判ります。その一方、せっかくの山峡風景ですから、徒に線路際で
撮るのではなく、もう少し全体的に風景をあしらう感覚があっても良いとも感じます。

極めて個人的な意見ながら、諸事情が許せば、線路から離れて望遠を御薦めしたい処。
パースを抑えて、背景の抑揚を効かせた構図の方がなりますし、田町駅の3・4番線で
ブルトレを狙った際、人込みの背後からでも、割込みもせず、脚立も持ち込む事無く、
僅かな間隙から意外とマトモに撮れた事もあります。更に言えば、車両の記録自体が
目的なら、駅や車両基地で事足りますね。

以前も申し上げた事ですが「撮り鉄」の狼藉として、私自身、結構危険を感じたのが
水郡線や烏山線で12系便が運転された際、並行道路を無理に飛ばす「追い駆け」です。
本道の往来を妨害しかねない路駐、撮り鉄パパに付き合って道端で遊んでいた幼児を
巻き込みかねない程の勢いで、被写体の通過直前に乗りつけ、先客の大顰蹙を買う例、
SL追い駆けが高じ、道交法違反で検挙された事を、恰も武勲の如く吹聴する例など、
もはや「眉を顰める」段階を超えていますね。

鉄道の本義は、手段としての旅客・貨物の安全輸送が、まず第一ですから、こうした
狼藉が今後も続く様であれば、我々の趣味活動が大きく制約される様な事になっても
止むを得ない事と考えます。



投稿者 雑魚
投稿日 2010年 2月15日(月)17時00分24秒
タイトル 松江界隈
法勝寺電鉄では、途中の阿賀から分れ、現安来市の母里まで達した支線がありました。
この種の地方私鉄で県境を越えていた例は、比較的珍しいと感じます。なお米子では、
戦前の廃止ながら、路面電車もあったのですね。

法勝寺電鉄が廃止された1967年から、山陰線の一部や伯備線が電化された1982年まで
山陰地方で唯一、電化の孤塁を守ったのが一畑電鉄ですね。ただし、1964年の水害を
契機に廃止された立久恵線は、電鉄線を名乗りつつも非電化の侭で、どうやらDLが
客車を牽引していた様ですね。

この路線が今日まで永らえたのは、社名に反映された一畑薬師や、数年前まで固有の
市の中心街だった雲州平田、そして大社線廃止後の出雲大社と、山陰線と競合しない
地区で需要を維持した事に加え、大橋川によって市街が完全に二分されている松江で、
山陰線は橋南地区、一畑電鉄は橋北地区と、駅の所在地においても、明確な棲分けが
あった為と考えます。

個人的には、県庁や市役所、急行「ちどり」のルーツである城址を擁する橋北地区に、
惹かれるものを感じます。こうした、駅所在地の違いによる並存性として、宇都宮や
弘前でも、同様のものを感じますね。

大橋川はまた、一部例外的な越境枠を除けば、松江市内の県立高校の学区境界として、
機能している様ですね。これは、市街地で同河川を跨ぐ四本の橋梁の渋滞を緩和する
思惑ゆえかも知れません。これだけ制約が厳しいと、例えば出雲市に居住する生徒が、
山陰線と一畑電車の何れで松江に通学したいか、という観点で志望校を決めるという
極めて「鉄」な選択動機は、考え難いでしょうか(^^)

それにしても、客レが全廃されて久しいとは云え「やくも」本位の部分電化とあって、
伯耆大山〜西出雲の普通電車は、まだまだ少ないですね。一方、伯備線では、電化後
しばらく、DL牽引の50系列車が残っていた様です。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2010年 2月15日(月)21時34分22秒
タイトル 立久恵線
出雲市でDCを撮影しています。
型式番号がなんと「モハ1」とは一畑が電鉄会社だったからでしょうか。



投稿者 ユーラシア鉄道
投稿日 2010年 2月15日(月)23時39分34秒
タイトル 下関駅東SC引込線
<雑魚 様> こんばんは。
下関に関するご教示、誠に有難うございます。
関門隧道開通前の、昭和16年〜17年まで、「関門鉄道連絡船」がございましたが、
先般の唐戸漁業市場で聞いた話として、この連絡船の埠頭が唐戸市場あたりだったそうです。
推測ですが、SC引込線は実は、連絡船への鉄路ではなかったのではないかと思います。
関門隧道の開通時期は下関港・門司港とも軍事輸送、兵員輸送が重きを置き、
「軍機保護法」下、厳重なる情報管制で商船の寄港ですら軍事機密で、
関門隧道開通にに関しては、軍事機密上より、詳細なる史実が書き記されてないようです。
小生の叔父は帝国海軍軍人で曰く、軍機保護法下の関門海峡は、以前のソ連・ウラジオストックと同じく、
海峡にカメラを向けるなどもってのほか、埠頭で壇ノ浦・巌流島を眺め続けることさえスパイと疑われた時代だそうです。
また、広島の呉線でも竹原〜広島までは、客車に各1名づつ「憲兵」がデッキに乗務し、
海側はブラインドを下ろされ、挙動不審者がいないか監視していたとのことです。
叔父曰く、客車は1ボックスに2窓と申しておりますのでスハ32だと思います。
今のこの平和のありがたさをしみじみかみ締めた下関の旅でした。
「関門連絡船」について、何か情報がございますればご教示をお願い申し上げます。



投稿者 クモイ103
投稿日 2010年 2月16日(火)00時57分51秒
タイトル 下関駅
ユーラシア鉄道様

下関駅は昭和17年の関門鉄道トンネルの開通に伴い移転しており、それ以前は現在地より東方に位置していました。

国土地理院二万五千分の一地形図を見ると、「竹崎町二丁目」のあたりで現在線から
南東方向へカーブしながら分岐する道路がありますが、これがかつての本線跡で、
その先「海峡ゆめタワー」の方まで、東西方向に延びる形で駅が位置していました。
その先、唐戸市場までおそらく貨物線が延びていたことでしょう。
現在の「細江新町」は後に埋め立てられた所で、往時は海。
駅の南側に並行する岸壁に、関釜連絡船が接岸していた所です。
関門連絡船の桟橋はその東方、ゆめタワーのあたり(?)にあった様です。

昭和17年の駅移転に伴い、関門連絡船の桟橋は新駅の近くへ移動、旧駅は貨物駅となって国鉄末期まで機能していました。
「SC引込線」は、後になって新駅を取り巻く貨物線から旧駅へアプローチするようにつなげられた線路と思われます。

余談ですが、旧駅を見下ろす日和山公園には、
昭和18年10月に米潜水艦の魚雷攻撃で撃沈された関釜連絡船「崑崙丸」の慰霊碑があります。



投稿者 雑魚
投稿日 2010年 2月16日(火)14時58分49秒
タイトル 更に 下関 ネタ
▼クモイ103様:

現下関駅と唐戸市場との位置関係において、関門連絡船の桟橋が、どこにあったのか
悩みましたが、そちらの御教示で氷解しました。ちなみに、唐戸桟橋に発着するのは、
関門汽船による現行の民間航路なのですね。

意外や、関門鉄道隧道の開通後も、鉄道連絡船は1964年まで運行されていたのですね。
これは、蚊帳の外となった門司港駅界隈の拠点性が作用した為と思われますが、結局、
関門国道隧道の開通や、鹿児島線電化に伴う小郡〜久留米の直通電車(昭和50年代頃、
421系が 宇部線の厚東川橋梁を行く様子が、専門誌で度々紹介されていましたね)に
圧される形で、廃止に至ったそうです。

下関発着の旅客航路といえば、関釜フェリーも挙げられますね。現在は、件のSCの
南側に発着していますが、鉄道連絡船の時代も同様でしょうか。大陸側とは軌間差が
あるので、鉄道車両の航送は無かったと想像しますが「グーグル」空撮映像を見ると、
釜山駅の南側、数百mにある、転車台を擁する車止めの直前から、廃線跡と思しきが、
南東側の埠頭に延びており、その一隅に、旅客用と思しき船舶が窺えます。

同じ下関市内でも、旧長門国府が置かれたのは、下関駅を擁する旧赤間関市ではなく、
新下関駅から隧道を隔てた長府駅の界隈で、図らずも新幹線が両者の折衷的な場所に
駅を構えた格好です。その長府から、国道九号線伝いに彦島口まで(最盛期に門司〜
折尾の30kmを誇った、西鉄北九州市内線には及ばぬまでも)路面電車としては比較的
長い13kmの区間で運転されたのが山陽電軌で、唐戸では、幡生に至る支線が分岐して
いたのですね。

南端の彦島口から小瀬戸を挟んだ彦島地区は、一応、本州とは一線を画した島ですが、
関門鉄道隧道の開口部を擁し、下関の街が小瀬戸を跨いで広範に展開した雰囲気です。
島としての人口は全国屈指ですが、本州とを結ぶ架橋は、関彦橋など三箇所に限られ、
朝夕の渋滞が著しいのではと、余計な心配をしてしまいます。

軌道全廃後「サンデン交通」と改称したのは、札幌の「定山渓鉄道→じょうてつ」と
同じ感覚ですね。旭川電軌、有田鉄道、鞆鉄道(広島県)などは、今でも鉄道会社を
思わせる会社名を名乗っていますが、ある種のステイタスなのでしょうか。



投稿者 雑魚
投稿日 2010年 2月16日(火)15時53分54秒
タイトル 築地市場
▼ユーラシア鉄道様:
> 広島の呉線でも竹原〜広島までは、客車に各1名づつ「憲兵」がデッキに乗務し、
> 海側はブラインドを下ろされ、挙動不審者がいないか監視していたとのことです。

同様の話は学生時代に、旧海兵学校にゆかりの深い、海城・攻玉社高校の卒業生から
聞いた事があります。呉線の貴重な経営資源であり、それゆえ広島志向の旅客需要が
一段落する広以東では(ワンマン運転の事情があるにせよ)セミクロス車を積極的に
運用して欲しい、とも感じる瀬戸内海の眺めが制限されるとは、確かに尋常ならざる
時代だったのですね。

海兵学校が江田島に移転したのは、呉線の海田市〜呉が開業するより以前の1888年で、
それ迄は東京築地の所在でした。築地に残った海軍機関学校もその後、関東大震災で
焼け出され、江田島への避難を経て舞鶴に移ります。その事と、直接関係あるか否か
不明ですが、大震災で壊滅した日本橋の魚河岸群が、築地の海軍省用地を借り受けて
業務を再開したのが、今日の築地市場ですね。

西日本方面発「とびうお」や、北日本方面発「とうりん」など鮮魚列車の乗り入れが
廃止されて、既に四半世紀が経ちましたが、貨物線が引き込まれていた事を示す様に
弧を描く築地市場の外見は、相変わらずですね。それにしても、豊洲への移転問題は
どう決着するのやら。




投稿者 ユーラシア鉄道
投稿日 2010年 2月16日(火)22時04分47秒
タイトル 関門鉄道連絡船
<雑魚様・クモイ103様>

 いつも、貴重なる、ご見識の高い情報を有難うございます。

 あと唐戸市場で聞いた秘話として、昭和20年3月の東京・大阪空襲後、
日本国内輸送線の分断のため、輸送船・商船の徹底破壊後
何と水深の浅い関門トンネルの空襲爆破を計画していたそうです。

 アメリカは、筑豊の石炭、八幡の鉄鋼が本州に渡ることを阻止したかったのです。

 昭和19年頃になると、海軍士官たる叔父曰く、既述の呉線では現:三菱重工呉造船所で、
戦艦大和の建造中(当時は最高機密)で
あったろう時期で警戒体制は異常に高ぶってたようです。
 子供が、海側の下ろしたブラインドを開けようとしただけで憲兵が飛んできて、その母親は連行されていったそうです。
 列車内では、いわゆる海軍に関する話題はご法度、余計な一言が「命取り」であったそうです。

 さて、ユーラシア鉄道本来の話題に戻り、ロシア国鉄はタタール海峡のトンネル(当面は連絡船)掘削・
サハリン内に本土から直接列車の乗り入れのための予算計上が承認され、
一足先にサハリン内の1067mm軌間の1545mm改軌工事がかなり進捗しておるようで、
よって現在は、3本のレールで日本製気動車と、大陸からの貨物列車を運営しているようです。

 プーチン首相の構想は、宗谷海峡トンネルで、札幌まで乗り入れたい意向とか??

 実現性は、国防上より薄いですが、札幌からロンドンまで鉄路が繋がる夢が見れそうです。

**小生も一日本国民としての考察として、トンネルでのロシアとの陸続きは、国防上の危険が先行すると思います。**

前回に続き、紀勢本線の写真2枚添付します。

<白浜駅到着・DF50客車列車> <白浜駅到着。キハ82系くろしお>



投稿者 クモイ103
投稿日 2010年 2月16日(火)23時54分2秒
タイトル Re: 更に 下関 ネタ
雑魚様

> 下関発着の旅客航路といえば、関釜フェリーも挙げられますね。

 時代的に全く別物である関釜フェリーはともかく、戦前の国鉄関釜連絡船は、前書き込みで触れたように
旧下関駅裏の岸壁に接岸し、旅客も貨物も駅構内で直接乗り降りしていました。
以前話題になった特別急行「富士」と関釜連絡船の接続も、ここで行われたのですね。

 それと下関の鉄道連絡船で忘れてはならないのが、門司側の小森江と結んでいた貨車航送専門の「関森航路」です。
 関門航路の貨物輸送は当初、荷を積んだ艀を小蒸気船で曳航する方式でしたが、
積み替えの手間を省き荷傷みを防止するため、明治末期に日本初の貨車航送が導入されたのです。
はじめは艀に線路を敷いて貨車を乗せ小蒸気船で曳航していましたが、
ほどなく特徴的な形態の外輪船第一〜第五関門丸が建造され、
関門トンネル開通までの間本州−九州間の国鉄貨物輸送を一手に引き受けて、文字通り大車輪で貨車を渡していました。
 トンネル開通後、5隻の関門丸は戦時対応で輸送力が不足していた宇高航路に転用されました。
知る人ぞ知る宇高連絡船の萩原船長による切り絵にも、宇高時代の関門丸を描いた作品があります。
 私は今から約20年前に下関を訪れましたが、くだんのSC近く?(詳しい場所を失念m(_ _)m)に
「車両航送発祥の地」のレリーフがありました。

> 旧長門国府が置かれたのは、下関駅を擁する旧赤間関市ではなく、
> 新下関駅から隧道を隔てた長府駅の界隈

そもそも「長府」という地名が「長門の国の府」を表していますからね。
同様に、現在の新下関駅は山陽新幹線が開通するまで「長門一ノ宮」を名乗っており、
この一帯が長州のまつりごとの中心地だった歴史を物語っています。
それに対して赤間関は港町という位置づけだったのではないでしょうか。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2010年 2月17日(水)10時04分3秒
タイトル 関門貨車航送と戦時中
昭和33年8月に関門連絡船から「第3関門丸」(外輪船2本並列煙突=両舷に1本宛)を
撮影しています。下関側岸壁に係留されていましたが、何だか芸術的な感じ?でした。

呉線が煩かったのは聞いていますが、列車から制限しても下車したら見えるのに
本当に当時の軍隊は「馬鹿」の一言につきます。
「大和」は開戦直後に完成したのではありませんか?19年なら別の艦では?

神戸の川崎造船所で空母「大鳳」を建造中に、高架線から隠蔽仕様が無くて、ガントリ-
クレーンに「簾」をぶら下げて居ました。別にブラインドを下げろとは言われませんでしたが。

明石海峡も何も軍事的な設備が無かったのに,昭和15年頃から「海峡撮影禁止」で、北陸
本線も旧線の新保‐杉津あたりは要塞地帯の敦賀湾が見えるので、特に「ロ」ではカレチ
が「カメラを預かります」と廻って来ました。



               
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