倶楽部メモ(479)
平成20年12月23日〜12月27日



投稿者 マロネロ38
投稿日 2008年12月23日(火)10時58分15秒
タイトル 国鉄分割大失敗
とうとう「富士、はやぶさ」廃止ですか。「銀河」廃止時にある程度予想して居ま
したが、現実となると矢張り「国鉄分割大失敗」だったですね。風見鶏総理と臨調
の「汽車知らず有力者連中」の----。兎に角「セクショナリズム」が云々されていた
のに、分割したら余計に酷くなるのが予想できなかったのですから-----
せめて国鉄を「旧満鉄式の半官半民株式会社」に経営形態を変更して存続した方が
良かったです。
故橋本竜太郎総理が「国鉄分割は失敗」と認めていましたが。
此れでまた「ハイケンスのセレナード」を聞ける列車が一本無くなります。



投稿者 ED76109
投稿日 2008年12月23日(火)23時47分15秒
タイトル 鉄道の前途は如何に・・・
 お休みになられた方もいらっしゃいますでしょうか。「ED76109」でございます。

 雑魚様
 >「津軽海峡冬景色」では(中略)積雪期の青森駅や青函連絡船が登場するのでしょうか。
    前任校の女性同僚に「石川さゆりさん」の大ファンがおり、「小雪の青森港から出港する十和田丸」の映像を
件のスナックで眺めていました。なお、彼女の十八番は「火の国へ(石川さゆりさん)」。
男を追って女性が「急行桜島」で「熊本入り」と小生は勝手にイメージしております。

 マロネロ38様
 >「ハイケンスのセレナード」を聞ける列車が一本無くなります
  残るは、「はまなす」、「あけぼの」、「日本海」、「北斗星」、「北陸」
及び「上りトワイライトEXP(青森信号所発車直後)」でしょうか。
臨時では「ミッドナイト九州」等・・・。
小生、最初にこの「調べ」を聞いたのは、「鉄」親父に連れられて乗車した「銀河51号のスハフ42」と
記憶しております。
それ以来、「旅路の夢と浪漫を感じる旋律」として小生の脳裏に残っています。
鉄道の真の利便性ではなく、利権と効率しか考えない「JR」に、心からの憤りを憶えてなりません。

 長々と失礼しました。
以上、「はやぶさ・富士」のお別れ乗車のため、「マツリダゴッホ」の夢よもう一度と心から祈る
「中年客車鉄ちゃん」でした。



投稿者 雑魚
投稿日 2008年12月24日(水)11時26分13秒
タイトル 鉄道における長距離需要
▼マロネロ38様:
> 此れでまた「ハイケンスのセレナード」を聞ける列車が一本無くなります。

国鉄の分割民営化を巡っては、極めて政治的な背景事情が取り沙汰されており、私は
その辺り浅学なので、是非を論じる事は控えますが、少なくとも、分割民営化時点で、
JR数社に跨って運転される、夜行列車など、長距離便の趨勢を、ある程度予想する
向きはあった様ですね。

青函隧道の開通前に発足したJR北海道が(当時既に、東京〜札幌の旅客の八割強が、
空路に移行済みとの事)その後一貫して(新)千歳空港を拠点とした空陸協調体制を
強化したのは、新幹線を除けば、鉄道の旅客需要が総じて、中・短距離志向を強めた
傾向の反映と捉えられ、かかる現象は、大阪〜青森「白鳥」の廃止と共に「雷鳥」も
金沢で完全に系統分割された辺りにも伺えます。

空路との競合性において「富士/はなぶさ」の廃止決定は、現行ダイヤが、ビジネス
志向としては有効時間帯を外れた印象を受ける事を勘案すると、極論ではありますが、
分割民営化の有無に関わらず、時代の必然である様にも感じます。

なお、上記「旅客需要が総じて、中・短距離志向」という傾向は、本来、日光界隈の
観光客輸送を第一義とした東武特急が、春日部に停車して、首都圏での短距離需要に
応えている辺りにも窺える様です。



投稿者 理左衛門(バロン)
投稿日 2008年12月24日(水)20時46分22秒
タイトル 北海道の客車急行
お久しぶりです。
タイトルの列車の列車番号が、「すずらん」が1217・1218、「利尻」が317・318、「狩勝」(まりも)が417・418、
「大雪」が517・518といずれもそれぞれの線区を示す100台+17・18だったのは偶然だったのでしょうか?
しかも大雪は9・10号、狩勝は7・8号、すずらんは5・6号で利尻は単独列車です。
利尻の姉妹列車を宗谷としても305・306Dで、順番が合いません。
何らかの意図をもって、線区毎の順番とは別に夜行急行を17・18列車に統一する方針だったのでしょうか?
投稿者のホームページ



投稿者 クモイ103
投稿日 2008年12月24日(水)23時41分50秒
タイトル Re: 北海道の客車急行
理左衛門(バロン)様
当掲示板でも珍しい「列車番号沼」(笑)の話題に反応します。
少なくとも昭和40年代後半から、愛称名の番号は変わっても、ご指摘の列車番号は変わっていないと記憶しています。
私も小学校高学年時代から、その規則性には気付いていましたが、理由を追求する知識もなく「そういうものなんだ」
程度に思っていました。

列車番号の付け方は時代により異なりますが、この当時は急行列車が十の位「0」と「1」であり、
一の位は特に区分されていなかったと思います。
(もっと大昔には、一の位の後半が準急列車を表していた時代もあった様ですが、
その時代は優等列車は十の位「0」だけで、「1」は普通列車だったはずです。)

あまり根拠のない憶測ですが、
「もともと昼行の気動車列車が『*05D』まであって、その次で『*07レ』となるところを、
夜行の客レをちょっと区別して『+10』していた。
その後昼行は特急格上げで減少したが、夜行の列番はそのまま残った」…というのは考えられないでしょうか?
宗谷本線では特急格上げがなく、301D/302D「礼文」、303D/304D「天北」、305D/306D「宗谷」、
そして317レ/318レ「利尻」と揃った状態が長く続きましたね。

結局答えになっておらずすみませんm(_ _)m。北海道だけ特に何かこだわりがあったのかもしれませんね。



投稿者 理左衛門(バロン)
投稿日 2008年12月25日(木)23時46分57秒
タイトル 列車番号
クモイさまありがとう御座います。
100位は線区を表していて、100が本線中の本線、東海道本線、東北本線、函館本線でしたね。
10位は2以降が普通列車で、東北本線の場合は、121、123、125・・・と付けられていました。
急行は東海道が101「銀河」東北が「103八甲田」北海道が「101」ニセコ、
これらが「最優等急行」、特急に準じた花形でした。
東北の場合は、発車時刻順ではなく1の位が連絡線の便に合わせてあったので、はつかりも1号ではなく11号が1Mでした。
 急行がどんどん減って、10位が1になっているのも珍しくなってしまい、
その意味でも北海道の17・18カルテットは貴重だったと思います。
 100位は、上野口の場合東北「1」常磐「2」、信越「3」、奥羽「4」、北陸方面「6」、上越方面「8」だったようです。
きたぐには501レでした。



投稿者 ED76109
投稿日 2008年12月26日(金)00時18分21秒
タイトル いつもの想い出話です・・・
 たびたび失礼致します。「ED76109」でございます。
 当地は、明日からかなりの吹雪が予想されております。
そろそろ帰省ラッシュも始まりますので、大きな混乱等無きよう祈念するばかりです。
今回は「列車待避」に係る「戯言」を述べさせていただきます。
いつものように先達の皆様方に話題の一つにでもしていただければ幸甚であります。

 1 度々、親族の在する「鹿児島本線出水周辺」を話題にしておりますが、
小生には「折口」での列車交換風景が印象に残っています。
昭和47年の春休み、「ED76」牽引の「旧客鈍行」で「阿久根」に向かった折、「折口」で15分程度停車したのですが、
待避ホームに止まるやいなや、まず「583系の下り有明」が間髪入れずに轟音とともに通過。
しばらくは有明海の波音が聞こえていましたが、
今度は「旧客仕立ての上り桜島」が「ED76」に牽かれて田圃の中のカーヴへ・・・。
「桜島」が「東京」に到着するのは約24時間後の16時06分。
往年の鹿児島本線では、このような光景は日常的だったのでしょうが、現在では想像すらできない「一コマ」に遭遇しました。

 2 「伝説の山線旧客急行」と言えば「急行ニセコ」。
「ニセコ」は「小樽」でED76からDD51の重連に交換したのですが、
「ニセコ」が止まる隣のホームで待避したのは「往年の山線旧客122レ」。
「DD51」牽引の旧客が並ぶ眺めが「小樽」で展開されていたのですが、
この「強者」は「光珠内」で「711系かむい」に抜かれてから、
「渡島砂原回り」の最中に「80系おおぞら」に先を譲るまでに、実に7本の優等列車に抜かれました。
さらに「青函連絡船の6便」も約10分の違いで、接続は完全に無視。
昭和48年の春に「鉄」親父と「完乗」しましたが、当時小学4年の小生にとっては道を先に譲るたび、
筆舌にし難い「寂しさ」を感じました。

 3 言い古されていますが、「トカホセ」のブルートレインもあと約三ヶ月の命です。
ところで、先達の皆様方は「横浜」で客車優等列車同士の待避が見られたことはご存じでしょうか。(失礼な物言いで恐縮です)
大阪発「銀河2号」が9時01分に到着すると、後続の博多からの「あさかぜ2号」が9時04分に到着して
9時05分に発車します。
そして、「銀河2号」は6分停車の待避後、9時07分に発車するダイヤが設定されていました。
昭和49年の6月の日曜日、「鉄」友人と「ブルートレイン」見物に行って「遭遇」。
今にして思えば、方や「EF58」牽引の「10系急行」、方や「EF65」牽引の「20系」・・・。
もし、現在「横浜」に出現したら「大騒動」でしょうね。当然ながら、「撮り鉄」の方は1人もいらっしゃいませんでした。

 長々と失礼しました。また、投稿致します。
以上、「クモイ103」様方の「列車番号話」に感心しきりの「中年客車鉄ちゃん」でした。



投稿者 太田拓也
投稿日 2008年12月26日(金)06時54分15秒
タイトル 少し後でも通用しますよ
▼ED76109様
2と3について指摘したいことがございます。

「鉄道ジャーナル別冊36 列車追跡リバイバル 懐かしの国鉄列車PART3 竹島紀元作品集」に1
985年の128レの乗車記が載ってますが、それと同じ感じでしょうか? 
この時もタッチの差で連絡船に接続しませんでしたが、東北新幹線が上野まで開業していたので東京へはそう遅くないとか。

とうとう私の地元(実家の西宮と現住の神戸)からブルトレが消えるのですか・・・ 
北方貨物線分岐点(JR東西線の加島付近)がブルトレの最西端になるのですね。
ところで「銀河」と「あさかぜ」ですが、「銀河」が20系になっても追い抜きがあったそうです。
「20系同士」だと横浜でなくても騒ぎになるがな・・・
投稿者のホームページ



投稿者 雑魚
投稿日 2008年12月26日(金)11時17分4秒
タイトル 天草海峡鉄景色?
▼ED76 109様:
> 男を追って女性が「急行桜島」で「熊本入り」と小生は勝手にイメージ

歌のタイトルから、私としては、豊肥線急行「火の山」を推したい処(^^)この列車、
島原行フェリーに接続する為、一部が三角線に直通しており、三角では「♪私は一人、
国道フェリーに乗り〜」………あ、一昨年に航路廃止されたのでしたね。

> この「強者」は「光珠内」で「711系かむい」に抜かれてから、

普通列車にも使用された 711系の急行運用は「遜色急行」という事になるでしょうが、
寒冷地仕様という事もあり、急行に準じた設計思想が窺われ、何より俊足性に於いて、
道内でも屈指の「韋駄天的存在」として、一目を置かれたのではないかと拝察します。

>「渡島砂原回り」の最中に「80系おおぞら」に先を譲るまでに、

私が「ニセコ」に乗ったのは14系時代、山線に「北海」が残っていた80年代半ばです。
追い抜きの有無は判りませんが、この時も函館行は渡島砂原を迂回しました。今なお、
上り「はまなす」が、この伝統を受け継いでいますね。

異経路での追い抜きと言えば、特急「あさしお」同士、京都を先発した便が宮津線を
迂回している間に、後続便が山陰線経由で、豊岡に先着という事例もありましたっけ。

渡島砂原経路に関して印象的だったのが、函館を朝に発つ長万部行の気動車鈍行です。
大沼で迂回線経由の編成を分離するも、森駅では長時間停車。件の附属編成の到着を
待つという、山陰線急行「さんべ」に通じる作風が見られましたが、現在は、単純に
迂回線経由で函館と長万部を結ぶだけの様ですね。

この様に、起点を共有しつつ経路を異にする列車が、再合流点で接続の便が図られた
事例として、網走を上り「大雪」の後に発つ湧網線の普通列車が、遠軽で「大雪」に
接続していたダイヤを思い出します。

変わった処では、新潟→山形の急行「べにばな」を今泉で長井線列車に繋ぎ、赤湯で
再び接続可能、という事例もありましたね。これは、米沢盆地での迂回振りを見れば
明らかで、一方、羽前小松〜羽前椿を諏訪峠で短絡すれば、米坂線列車の追跡撮影も
比較的容易という事情があります。

>「横浜」で客車優等列車同士の待避が見られたことはご存じでしょうか。

私の記憶違いでなければ、数年前、沼津で「出雲」「銀河」と、上りブルトレ同士の
待避があった様です。未明ゆえ、撮影対象にはならなかったと思われますが(^^)



投稿者 ED76109
投稿日 2008年12月26日(金)17時24分31秒
タイトル 「戯言情報」です
 失礼します。「ED76109」であります。

 まず、本日道央地域の猛吹雪のため、札幌発の特急列車は15分から70分の遅延で運転しております。
(JR北海道Webより)
「北斗星」等の「ブルートレイン」の情報について詳細は確認できませんが、
東北路及び北陸路等での「撮影情報」としてご参考下さい。

 太田拓也様
 >1985年の128レの乗車記が載ってますが、それと同じ感じでしょうか?
  まさしく、その通りです。
「黒松内」で、「鉄」親父が函館車掌区のカレチさんから
「青森から『八甲田』や『はくつる』にお乗りになるのでしたら・・。」と暗に乗り換えの必要性を伝えられました。
しかし、「いや、明日の『いなほ』の特急券を持ってますので。」の「鉄」親父の一言でカレチさんも納得。(笑)
当時は、「6便」であれば「583系ゆうづる」、さらに「16便」であれば「はくつる」及び「八甲田」に接続し、
翌朝「上野」に着きました。
しかし、「122レ」が接続した(4時間待ち・・)「12便」「2便」ですと、
所謂「はつかり」若しくは「みちのく」の「黄金ルート」になります。
「鉄」親父は件のカレチさんに、「「はつかり」、「みちのく」は満席だと考えたので「いなほ」を確保した」
旨を話していたように記憶しています。
確かに当時は、「はつかり1号」「みちのく」ともに全車指定席でしたね。
「新幹線」の速さは・・・、小生は論評を避けます。(!!)

 >、「銀河」が20系になっても追い抜きがあったそうです。
  それはすごい。(絶句)もし現在に残っていたら・・・。きっと「黒山の人混み(!)」状態でしょうね。

 雑魚様
 >この時も函館行は渡島砂原を迂回しました。今なお、上り「はまなす」が、この伝統を受け継いでいますね。
  御意。「上りトワイライト」もこの経路です。
しかも、この「上りトワイライト」、夏至のころに空が澄んで快晴であれば、
なんと「掛澗」付近で噴火湾を通して「白鳥大橋」が見えます(!!)。是非、ご試乗ください。

 長々と失礼しました。また、投稿致します。
以上、自宅前の「雪かき」で軽い「ぎっくり腰」を煩ってしまった、少々運動不足気味の「中年客車鉄ちゃん」でした。



投稿者 クモイ103
投稿日 2008年12月26日(金)20時25分2秒
タイトル Re: 列車番号
理左衛門(バロン)様
 ここで列車番号のお話しが出来るのは嬉しいですね。
 はつかり11号を挙げられているという事は、東北新幹線開業直前の昭和50年代半ばのお話しですね。
(こういう話題は、時代を特定しないと話が行き違ってしまいますので…)
 ご指摘のように、100番台をとっていたのは「本線中の本線」で、他に鹿児島本線もそうでしたね。
 上野駅発着列車の百位の区分は、近距離のものも含めるとおよそ次のようだったと記憶しています。
これらは基本的に現在も変わっていない様ですが、現存しない列車系統が多いのがちょっと寂しいですね。
1…東北本線長距離
2…常磐線長距離
3…信越本線直通
4…奥羽本線直通・常磐線近距離
5…東北本線近距離
6…北陸直通・東北本線近距離はみ出し
7…上越線直通(水上以遠)
8…羽越本線直通・高崎線方面近距離
9…高崎線方面近距離
 このうち高崎線方面近距離は、もともと900番台でしたが、昭和50年頃だったか(?)
普通列車の本数が増えて921M〜999Mが一杯になり、ついに100下げて821Mから始めることになった経緯があります。
急行「ゆけむり」などは901Mからのままで、801Mとはなりませんでした。

 私が時刻表の読み方を覚え、列車番号の規則性に興味を持ち始めたのは、
山陽新幹線開業前の昭和46年頃、小学校4年生でした。
とりわけ優等客車列車を表す太い明朝体の「*01」という字面に惹かれ、全国の線区のページを探したことがあります。
曖昧な記憶を手元の文献情報で補ってみますと…
101レ「八甲田」「銀河1号」「かいもん3号」
201レ「十和田1号」「紀伊」「しろやま」
301レ「妙高6号」
401レ「津軽1号」
501レ「きたぐに」
601レ「白山」
701レ「天の川」
801レ「鳥海2号」
…てな感じだったと思います(細部は自信なし)。
ご覧のように、その殆どが上野発の列車でした。
901レは無く、その後は1001レ「あけぼの」1101レ「新星」というのがありました。
 昭和47年3月ダイヤ改正では、大きな変化がありました。
 昼行客車急行だった「十和田1号」と「白山」は特急格上げとなり、201レは夜行の「十和田2号」が引き継ぎましたが、
601レは603レ「越前」が繰り上がらずそのままだったので消滅しました。
また上野−新潟間だった「天の川」は秋田まで延長され、「鳥海」と同じ800番台に編入されて701レも消滅しました。
また、「紀伊」は「銀河1号」に併結となって、東京発の201レが消滅しています。
 なお、「八甲田」はいつの頃からか103レになりましたが、その時期は覚えていません…。



投稿者 ヒゲ無し雷鳥
投稿日 2008年12月26日(金)22時39分22秒
タイトル 終戦後の列車番号
皆様こんばんは。ご無沙汰しております。
私も列車番号に関して興味がありましたので
以前、時代をさかのぼって調べてみたことがあります。

昭和22年の列車扱心得によりますと(長距離列車抜粋)
東海道線
1〜20  4局以上にまたがる急行旅客列車
31〜49 4局以上にまたがる旅客列車
101〜120 3局以上にまたがる急行旅客列車
131〜149 3局以上にまたがる旅客列車
東北上信越線
100〜149 500〜549 東北線旅客列車
401〜406 奥羽線直通旅客列車(上野発着)
601〜606 北陸線直通旅客列車(上野発着)
常磐線
201〜249 旅客列車
となっておりました。
また記載がありませんでしたが
上越線は700番台が付番されており
急行ができた後も普通列車と連番だったと記憶しております。
優等列車の少ない当時、東海道線以外は
急行、普通で共通の付番をしていたようですね。



投稿者 スイロフ
投稿日 2008年12月27日(土)00時06分55秒
タイトル 横浜駅追い抜き
>ED76109様、太田拓也様
こんばんは。横浜駅での20系銀河・あさかぜ2号追い抜き時の写真を弊HPに掲載していましたので、アップいたします。
1976年3月撮影。時計が9時5分くらいを指しています。
銀河は写っていませんが、私は銀河に乗っていて、あさかぜ2号到着時にホームに降りて撮影したものです。
銀河の牽引機はEF58でした。今思えば銀河もレンズに入れておけば...ですね。




投稿者 クモイ103
投稿日 2008年12月27日(土)10時25分38秒
タイトル Re: 終戦後の列車番号
ヒゲ無し雷鳥様
 レスありがとうございます。
 昭和22年といえば輸送事情は最悪の極限状態。
車両も設備も疲弊し、石炭は量・質ともに乏しく、数少ない列車に殺到する乗客は、
客車の屋根はおろか機関車のフロントデッキや炭水車まで鈴なりで、貨車まで動員してお客を乗せた時代ですね。
宇高航路でも、貨車航送専用船の吹きさらしの車両甲板で旅客輸送した話があります。
 ご紹介いただいた列車扱心得を見ても、列車本数が数少なかった状況が伺えます。

 さて、ここで言う「局」は、昭和30年代以降の「鉄道管理局」とは異なり、
もっと管轄範囲が広く権限も大きかった「鐵道局」ですね。
東海道〜山陽方面で言えば、東京鐵道局、名古屋鐵道局、大阪鐵道局、の次は…
すみません、確かな知識がないのですが、ひょっとして「廣島鐵道局」でしょうか?
 いずれにしても、「3局以上にまたがる」というのは東京から大阪またはそれ以遠ということで、
「4局以上」となるとだいたい九州まで行ってしまうと思います。

 時刻表復刻版の昭和22年6月号を見ると、
大村線の南風崎から東京行き、上野行きという臨時列車が設定されているのが、時代背景を如実に物語っていますね…



 
 
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