倶楽部メモ(362)
平成19年 4月25日〜 5月 5日



投稿者 ぱわつよ
投稿日 2007年 4月25日(水)11時10分35秒
タイトル 元鉄道小僧日記(山形編2)  
あれは昭和57年初夏の頃だったと思います。中学3年の修学旅行は3泊4日の北海道でした。
内陸盆地から生徒・指導先生含めて500人の大所帯はどのようにして移動したのでしょうか?
東根には山形空港が存在しますが、
当時はYS11とB737が巾を利かせていたされてローカル空港でしたし、ここは鉄道のサイトなので・・・
答えは山形発青森行きの急行こまくさでした。
通常6両編成に6両増結で12両編成で7時間位かけて青森までたどり着き、青函連絡船で函館に到着して初日は終了です。
今なら仙山線で仙台に出て、はやてに乗り換え八戸に行き、
白鳥に乗り換えて函館に着くのが陸路で一番早いのでしょうけど、乗換えが不便です。
ミニ新幹線の開発の影響で、奥羽本線のあちこちが線路巾が違って
直通運転ができなくなっているのは悲しい現実なんでしょうか?
こま切れで東北の市部が分断されているのはいたし方ないような気がします。
陸羽東線経由になったり、上越線経由にになりながら命をつないでる
寝台特急あけぼのには何としても生き延びて欲しいものです。
昭和57年と言えば東北新幹線開業の年でダイヤ改正も大規模でした。
ローカル線に及ぼす影響が甚大であるとは
まだ気がつかなかった年頃で・・・3に続く



投稿者 雑魚
投稿日 2007年 4月25日(水)13時13分49秒
タイトル こまくさ
> 答えは山形発青森行きの急行こまくさでした。

1970年に、山形〜秋田で運転を始めた急行ですね。青森まで延長されたのが1978年で、
確か「月山」「たざわ」と多層建を組んだ事もある様に記憶します。御利用になった
直後の1982年秋に、当時の特急「つばさ」に吸収され、山形始発の下り 1号に、その
名残が見られましたね。

1992年、山形新幹線「つばさ」に接続する特急として名称が復活するも、改軌区間の
新庄延伸を受け、1999年には新庄以北の快速となり、2002年には愛称が消滅しました。

快速化直前、当時既に貴重な存在となりつつあった、国鉄色の 485系を撮り残すべく、
盛岡出張の帰りに(^^)秋田県境に近い山形県真室川町域に赴いたのですが、至る所、
好撮影地だったのが印象的でしたね。普通列車が極端に少なくなる県境の前後に限り、
なぜか堂々の複線区間で、その意義が良く判りませんでしたが、新庄で、運転系統が
物理的に分断された今となっては、電化の意義すら薄れた様にも思えます。

昭和57年(1982年)といえば、奥羽線では全線電化が完了しており、その気になれば
電車化も可能だったのでしょうけれど、453・455系を充てた電車急行が網羅したのは、
東北・常磐・磐越西・仙山各線および奥羽線の羽前千歳以南のみで、多層建の影響か、
奥羽・羽越線では「架線下DC急行」が、風物詩の如しでしたね。

多層建が多かったのは、一大幹線である奥羽ですら単線区間が少なからず、容量上の
問題があった為と思われます。修学旅行用列車も定期便併結となると、私が常磐線で
利用した、12系による修学旅行用の集約臨の如きは、あまり無かったのでしょうかね。

> 奥羽本線のあちこちが線路巾が違って直通運転ができなくなっているのは

新幹線の影響で一体性を喪失した幹線としては、信越線や鹿児島線も挙げられますね。
その他、函館線・室蘭線・中央線・山陰線・日豊線も、長距離列車の再編で、事実上、
複数の中距離幹線の寄合い状態となっていますが、山陰線の場合は、島根県東部域で
伯備線を介した高速体系が主流である事を考えると、これまた新幹線の影響の産物と
言えるかも知れません。

> 寝台特急あけぼのには何としても生き延びて欲しいものです。

秋田以南では、現在でも相応の需要があるのではないでしょうか。青森直通が、昼行
特急を集約した結果であるとするなら、車両老朽化など物理的問題が発生しない限り、
現行体制は比較的安泰かと思います。

> 昭和57年と言えば東北新幹線開業の年で

6月開業でしたね。11月の上越新幹線開業時に 本格的なダイヤ改正が行われましたが、
この半年弱の移行期間中には、東北線でも「ひばり」などが運転され、珍しい「新在
並存体制」だったと記憶します。なお11月改正の際、我らが常磐線では地下鉄直通の
緩行線が取手まで延長されましたが、この区間は現在も「日中休止」状態です。



投稿者 岩崎安房守義将
投稿日 2007年 4月25日(水)15時58分3秒
タイトル 急401列車「津軽」の記憶
管理人様、皆様、どうも一向に熱が下がらない病人安房守義将にございます。
 さて小生の「津軽」の思い出はバトル!(笑)
 自由席と指定席の境界では、指定席扉から乗り込んで自由席に「割り込む」方が多く、
多客期はここに職員を入れて「割り込み防止」をするのですが、この役回りで2度客に殴られました・・・
現場5年で10回「暴行」にあっていますが(うち9回は反撃した不良者です(爆))
「ひたち」「奥久慈+ときわ」でも各2度・・・
 東北新幹線開業の後も「出世列車」の人気は高く、自由席行列も一際長かったですね。
 殊にこの「待ち時間」で酒盛当然、一度はコタツを持って来てマージャンしているグループがあり
注意に行こうとしましたら、運転主任氏が
「ここで行列するのが年に一度の愉しみなんだから、行列が伸びたら辞めてね程度言うだけにしてやれ」
 と・・・・
 朝6時、案内所オープンと共に一人の老人がお出でになり
「あおもりゆぎの普通ちゅうこぉ、何番がら立つ?」(訳=青森行の普通急行、何番線から出る?)
「どちらまで行かれます?」
「青森。」
 ここで鵜呑みにすると大変です。事情聴取のスタートです。
「青森のどちら?八戸回りですか?」
「いや・・・秋田。」
「秋田駅止まりで良いのですか?羽後本荘回りで良いですか?」
「いや・・・もうちっと。」
「弘前ですか?」
「横手・・・」
「これからですと夜ですよ、急行津軽。」
「それ、それだ。」
「今からなら普通列車乗り継ぎで今日のうちに横手に着けますよ」
「・・・」
「解りました、14番線です。」
 っと、これで終わりでは無いのです。約2時間置きに時刻や停車駅など聞きに来て、ホームでは1時間毎に
「ここで良いか?」
 と確認されます。
 その日、交代者が病欠となり、09時で一度退勤の後に18時から再び泊まり勤務となりまして・・・
「あの、青森ゆきの・・・」
「ああ、今朝の方ね・・・14番線ですよ、後4時間。」
 どうも、ともありがとうとも言わない、でもそれが良いんです、それが安心なんですね「津軽」のゲストの皆様は・・・
お昼から来て何て言うのは結構散見出来ますが、朝一番は中々無い猛者です。
 ところが、20時過ぎからぱたっとかの「横手」のお爺さんが来なかったのです、まぁ行列も伸びていましたし・・・
 22時40分、急401「津軽」発車、でほぼ一段落する年末の上野駅ですが、22時45分頃かのお爺さんが酔って案内所に!
「あれ?お客さん津軽に乗らなかったの?!」
「いや、普通ちゅうこうが良いんだ。」
・・・つまり、この御客様の「津軽」は窓の開閉が出来るものは急行、窓の開閉の出来ないものは特急と見た事と
ついつい寒くて飲んだお酒の酔いが加わり「見過ごし」たのです。

「これから横手は無いですよ・・・・」
「じゃ、また明日・・・」
 これネタでは無いです(笑)昭和60年年末の事件でした。
(またまた長文を失礼致しました)
投稿者のホームページ



投稿者 雑魚
投稿日 2007年 4月25日(水)17時09分22秒
タイトル 津軽鉄道
> 弘前では津軽弁で老婆がこの列車森田行きますか?

日本語と茨城弁(ちなみに「いばらきべん」を変換すると「茨詭弁」となり、物凄く
馬鹿にされている様な………)のバイリンガル(^^)である私にとって、東北地方の
言葉は何となく共通の作風を感じますが、それは奥羽山脈以東の南半部の話。

先日の拙稿で言及した五能線の車中での事、同じボックスに居合わせた方々が交わす
雑談に耳を傾けるも、吉幾三さんは「俺ら東京さ行ぐだ」を、実は標準語の積もりで
歌っていたのではないか(^^)と思える程に難解で、全く聞き取れませんでした。

吉幾三さんと言えば、出身地(金木)を走る津軽鉄道を連想します。冠雪の岩木山を
背景に驀進するストーブ列車は、NHK「新日本紀行」主題曲のイメージを体現した
雰囲気が感じられ、長らく憧憬を募らせるも、未だ走行場面を見た験しがありません。
老朽化が深刻になる前に行かなければ、とは思っているのですが………

弘前城と共に名所として知られる芦野公園での観桜は、そろそろシーズンでしょうか。
今となっては貴重なキハ22も、当該時期のイベント運転や軽快型車両の検査期間中の
代走に留まっているそうで、寂しい話ですね。

私が津軽鉄道を乗り潰したのは1989年の春。まだ山形経由だった「あけぼの」で全線
開業直後の秋田内陸縦貫鉄道や、十和田観光電鉄・南部縦貫鉄道を消化(十和田市〜
七戸はタクシーで接続)青森に投宿した翌日の事でした。

蟹田で特急の間合運用(G車も有料営業。ただしオシボリは使用禁止)普通列車から
三厩行に繋ぎ、時間を稼ぐ為に、三厩〜津軽中里もタクシーで移動。前出のキハ22で
津軽鉄道を消化したのですが、意外にも、五所川原では五能線への確たる接続が無く、
所定の時刻までに帰京する為には外せない青森発「たざわ」に乗る前に、弘南鉄道を
消化する手前、なんと五所川原〜川部もタクシーで繋ぎ、前日と合わせて都合三回と、
物凄く贅沢な内容となってしまいました(^^)

川部までの車中、運転手氏と色々話しましたが(タクシー移動は、確かに高額ですが、
雑談から思わぬネタが拾える事があるのは魅力です)津軽鉄道の「本線筋」に当たる
五能線が、津軽鉄道より便数が少ない事に話題が及び、運転手氏は津軽鉄道の健闘を
好感していましたが、それだけ五所川原の街に求心性があったのでしょうか。しかし、
2004年冬の改正で大幅減便となってしまい、現在、行く末が注目されていますね。

前述の金木町は、一昨年に五所川原市に合流しましたが、津軽中里駅を擁する中里町
あらため中泊町を挟んだ旧市浦村が飛び地となりました。更に北側にある旧小泊村が、
中泊町に合流した為、津軽半島西部は、五所川原市と中泊町の飛び地同士が絡み合う、
何とも複雑な状況となっています。



投稿者 雑魚
投稿日 2007年 4月25日(水)18時10分20秒
タイトル 「ふたつい」
> 一向に熱が下がらない病人安房守義将にございます。

おやおや、それは難儀な事ですね。どうぞ御自愛下さい。明日からは好天続きとの事、
御快癒を祈念申し上げます。私は風邪をひく度に「玉子酒」の感覚で、卵料理を肴に
熱燗を嗜んでおりますが、何か間違っている様な………(^^)

>「ひたち」「奥久慈+ときわ」でも各2度…

うちの「身内」が、御迷惑を掛けてしまった様で(^^)私自身「ときわ+奥久慈」は
何度となく利用していますが、上野を16時過ぎに発つ下り(確か地平ホームではなく、
10番線辺りからの発車でした)では、車内清掃終了後の「席取り合戦」の度に異様な
オーラを感じていました(^^)

> 殊にこの「待ち時間」で酒盛当然、

前述の玉子酒ではないけれど、カップ酒にゆで卵という御仁も、割と見掛けましたね。

> 一度はコタツを持って来てマージャンしているグループがあり

そういう方々にこそ、サシ改造車の「雷鳥/だんらん」を利用して頂きたい処ですが、
G車扱いでは、望むべくも無いでしょうか(^^)

> 窓の開閉の出来ないものは特急と見た事

「津軽」が14系化されたのは1983年夏ですが、御老人は御存知無かったのでしょうね。
それ以前は12系運用と思いきや、直前の数箇月間に限り、20系が充てられた様ですね。
奥羽線改軌工事の関係で、90年に仙山線経由で 583系化され、92年に 485系化。更に
93年に不定期化されたのち、97年には終に廃止されましたが「八甲田」共々「ワイド
周遊券」で多々御世話になった列車の先細り振りを見るのは、寂しい限りでした。

岩崎安房守義将様の事例に比べれば、どうという事の無い話ですが、仕事先への遠征
ついでに用足しで立ち寄った水郡線の某駅で、窓口氏が老人を相手に四苦八苦の様子。
訛で殆ど聞き取れないながらも、どうやら「ふたつい」までの切符が欲しいと話して
いる様子で、その旨を伝えると窓口氏は「何処です、それ?」やはり、ローカル線の
配属では、全国の路線網の地理に通じている訳でも無いのでしょうか。

「秋田県です。奥羽線の東能代から大館に行く途中ですよ。鷹ノ巣の少し手前」
「いや〜、御客さん詳しいねぇ。マニア?」

………御礼の一言はともかく、いきなり「マニア」呼ばわりは無いよなぁ(^^)



投稿者 クモイ103
投稿日 2007年 4月25日(水)18時55分59秒
タイトル 7時の汽車
 岩崎安房様、今年の風邪はしつこいです。
私は熱はあまり出ませんでしたが、喉がやられて一月近く経った今もまだ咳を引きずっています。どうぞご自愛下さい。

 訛の話ではありませんが、上野駅でバイト中に遭遇したご乗客がらみの出来事を、私も一つご紹介します。
 私のシフトは毎日12時前に出勤する日勤遅出の組。仕事のアガリは20時台になります。
帰省ラッシュの人波も夜になって一段落し、その日の担当列車もあとわずかとなった頃、
バイト仲間と2人で地平ホームを歩いていると、中年のご婦人に呼び止められました。
手に持った切符を見せて、「この列車どこから出るんですか?」
…見ればなんと、朝7時台の「やまびこ」の特急券ではありませんか。
これは午前の7時ですよと言うと、「ああそうなんですか、どうしましょう」…
このご婦人は、7時**分発という券面表示を見て、「夜の7時」にやって来たのでした。
かかる事態は当然ながら清掃職員がどうこう出来るものではなく、
地平改札脇の案内所へご案内して、その場を辞してきました。
あのご婦人、あれからどうなさったのでしょうね。



投稿者 ぱわつよ
投稿日 2007年 4月26日(木)09時29分7秒
タイトル 元鉄道小僧日記(大館番外偏)
私が書き込みし始めたのが大館編でしたが、雑魚様の内容にありました「小坂鉄道」というのが記憶の片隅に引っ掛かり
幼少の頃を思い出してみました。昭和40年中〜後半にかけては小坂鉄道が健在であったと思います。
しかも大館駅を発着する小坂線と花岡線の2路線があったと思います。多分、先に廃線になったのは花岡線の方だと思います。
国道7号線を弘前方面から大館市内に入る時、代野跨線橋があり、小坂線は大文字山方面へ、右手には線路が撤去された花岡線が見えました。
小坂・花岡鉱山に従事している人たちが大館へ通学や買い物などに利用した路線だったのでしょう。
かつて県北最大で秋田県内第二の都市だった大館市が鉱山が衰退した影響もあり他市が合併した事もありますが、
横手・大仙にかわされ4位に転落したのも、いたしかたないのかもしれません。
明後日より自家用車ですが弘前〜大館〜秋田と帰省しますので「兵者どもが夢の跡」らしき風景がありましたら写真に収めようと思っております。



投稿者 雑魚
投稿日 2007年 4月26日(木)15時22分32秒
タイトル 小坂鉄道
> 多分、先に廃線になったのは花岡線の方だと思います。

1985年の廃止です。大館駅の北側で奥羽線を跨いでおり「日本海」などの紹介写真で
何度か見た記憶がありますね。この区間は秋田・青森県境のいわゆる「矢立越え」で
大館機関区の「デコイチ」三重連が有名でしたが、1971年の電化に先立つ新線移行で
1970年夏には重連が解消されています。その最後の様子を紹介した「新日本紀行」が、
数年前「NHKアーカイブズ」で再放送されましたが、感涙モノでしたね。作中では、
DL牽引「日本海」も登場し「あけぼの」の新設も、この頃でしたね。

> かつて県北最大で秋田県内第二の都市だった大館市が鉱山が衰退した影響もあり

旧制の県立二中が設置されたあたり、然もありなん という印象ですね(三中は横手)
小坂町の出身で、上記の県立二中の継承校である大館鳳鳴高を卒業した知人によると、
小坂線を介した通学は、本数の少なさから、御苦労が多かった様です。

大館市は現在なお秋北地方の中心地という位置づけで、かつては宮古にまで直通した
急行「よねしろ」を継承した秋田〜鹿角花輪の気動車快速が今なお健在である辺りに、
主要都市としての面目躍如を感じます。

> 横手・大仙にかわされ 4位に転落したのも、いたしかたない

これは偏に「平成の大合併」の再編範囲によるもので(特に大仙市では、旧自治体の
議員を継承した結果 マンモス化した市議会の様子が、報道で紹介された程でしたね)
直ちに中心地の市街の規模を反映したものではありません。

とは申せ、大館駅の場合はJRと小坂線に挟まれた三角地に駅前広場が展開しており、
市役所や司法機関を擁する中心街は、長木川を挟んで少し離れている為、大館駅前を
見ただけでは、街の様子は判りませんね。なお、貨物列車直通の関係上、構内西側で
奥羽線と小坂線は線路が繋がっていますが、花輪線は一旦奥羽線と交差(秋田県では
多分唯一の「鉄道同士の立体交差」でしょう)する関係で、もう少しの処で小坂線に
スルーできず、その配線振りが妙に琴線を擽るのでした(^^)

私が小坂鉄道を消化したのは1989年の正月でした。やはり「あけぼの」で秋田に赴き、
男鹿線を往復。追分で上り「白鳥」通過を、もどかしく思いつつも指を咥えて傍観し、
後続「いなほ」で羽後本荘に移動、由利高原鉄道を往復しました。確か、前郷以遠と
記憶しますが、前述の荒砥〜左沢縦断の際、山形鉄道の蚕桑〜鮎貝で見かけたものと
同じ型の「ハエタタキ」が残っていたのが印象的でしたね。

その後、青森行「いなほ」で一気に大館まで移動。能代市を過ぎ米代川の谷に入ると、
急に積雪量が増えました。途中、鷹ノ巣駅で一瞥した、秋田内陸縦貫鉄道の全線開業
告知の看板を見て、数箇月後、前述の書込みにある様に、再びこの地を訪れた訳です。

大館から小坂線を往復する頃には、益々雪が酷くなり、車窓風景も何が何やら、訳が
判りませんでしたが、その水墨画の如き風景は、今でもなお強く印象に残っています。
ダイヤの関係上、終点の小坂駅を詳細に観察出来なかった為、旅客営業が廃止されて
間も無い1995年、十和田湖へのドライブ序に寄ったのですが、予想以上に構内は広く、
築堤状の線路の終端部の視認は、ちと苦労しました(^^)

大館に戻った頃には、既に日が暮れ、ここから、まだ14系だった上り「津軽」に乗車。
時節柄、大館発車の時点で割と盛況だった車内は、これからの長旅を予感させる様な、
ある種、気ダルい雰囲気でしたね(^^)私も、そのまま帰京しても良かったのですが、
自由席に乗客が大挙押し掛けるのを尻目に秋田で下車し、駅前のホテルに投宿。

そして翌日は、イベント仕様気動車の嚆矢である「エレガンス・アッキー」を充てた、
北上線経由の仙台行臨時快速「やまどり」で、帰途に就いたのでした。奥羽線内では
特急「たざわ」を待避するなど、のんびりムードでの運転でしたが、昼行優等列車が
粗方消えて久しい東北線の旅は、なかなか楽しかったですよ。

>「兵者どもが夢の跡」らしき風景がありましたら 写真に収めようと思っております。

もし御都合よろしければ、小坂線における「ハエタタキ」の有無を御確認頂けますと
幸甚に存じます(ちなみに、1995年の時点では、小坂IC付近の隧道より先の区間が
簡易構造に改められるも、概ね「健在」でした)

………話題が東北に及ぶと、つい夢中になる雑魚でした………



投稿者 ぱわつよ
投稿日 2007年 4月27日(金)15時26分58秒
タイトル 元鉄道小僧日記(山形編3)
昭和57年の秋にダイヤ改正され、今までみちのくと上野を結んでいたL特急達は
新幹線に花形のポジションを奪われ始めたのもこの頃からかと。
まだ大宮までの部分開業だった為、上野までの直通も1往復程度残されていましたが、
食堂車が無くなったり、12→9両のモノクラス編成になったり、新幹線への接続列車なったり、
特急列車に乗ることがステータスだったのが薄れてきたような気がしました。
これは新幹線との乗り継ぎで特急料金が半額になったりして今までと同じ区間に乗車しても
切符には急行料金並みの金額が記されていたからではないかとも思われます。
福島駅では山形方面に、盛岡駅では秋田方面に乗り換える客達がホームを走る姿が
帰省時期の風物詩みたいにニュースでやっていました。
いくら時間が短縮されても立ちっぱなしは辛いですしね。
新幹線が開業したとはいえ、今に比べたらまだまだ不便だったと思います。
昭和61年1月、大学受験の為に上京したときには上野地下ホームに降りる事が出来たと記憶しています。
自分の人生設計では18歳の春で東京デビューする予定でしたが・・・栃木編に続く



投稿者 雑魚
投稿日 2007年 4月28日(土)09時49分24秒
タイトル 北上線の事
> 盛岡駅では秋田方面に乗り換える客達がホームを走る姿が帰省時期の風物詩

東北新幹線の暫定開業が1982年 6月であるのに対して、田沢湖線が電化されL特急が
設定されたのは、上越新幹線が暫定開業した同年11月でした。この約半年間、同線の
優等列車体系がどの様な状況だったかは存じませんが、電化や一部区間の新線切替で、
奥羽山脈を越える赤渕〜田沢湖では、バス代行による長期運休も行われた様です。

それ以前の田沢湖線は、今日なお地方交通線扱いである事から窺える様に、意外にも
ローカル線風味が強く、優等列車も、急行が一日2〜3往復程度だった様に記憶します。

当時、東北線沿線から秋田を志向する列車の経路としては、北上線の方が上格でした。
これは田沢湖経由より距離が40kmほど短く(北上と大曲を直線で結び、両者の経路と
比較すると一目瞭然)大曲の方向転換が必要無い為で、一時は電化も検討されたほか、
奥羽線全線電化直前の数年間は「つばさ」と共通運用を組む気動車特急「あおば」も、
なんと食堂車の営業つきで運転されていました。

上記事情にも係わらず、田沢湖線が秋田新幹線経路に編入されたのは、新幹線特急の
運行体系上、要衝である盛岡に拠点を集約した方が合理的と判断された為でしょうね。
北上線が選ばれていれば、更なる時短効果に加え、秋田県では第二位の人口を擁する
横手での需要も汲み得た事でしょう。もっとも、途中区間での街の有無という点では、
角館(現仙北市)を擁する田沢湖線の方が上格かも知れません。

北上線の優等列車といえば、秋田経由で仙台と青森を結ぶ急行に「あけぼの」の名が
付された事も印象的です。また、20系による臨時列車が錦秋湖畔を行く写真を何度か
専門誌で拝見しましたが、これはどの様な運用でしたっけ?



投稿者 雑魚
投稿日 2007年 4月28日(土)18時25分49秒
タイトル 直流電化 vs 交流電化
> 福島駅では山形方面に(中略)乗り換える客達がホームを走る姿

福島での乗換需要が、正に新幹線「新在直通運転」第一号を実現させた原動力ですね。
在来線「つばさ」は、現行体制の運行が開始される直前の一年弱に渡り、仙台発着の
仙山線経由で運転されましたが、うち一往復は、従前からの上野発着枠を維持し続け、
直通需要の根強さを体現した印象でした(確か「あいづ」と共通運用)

その頃、同特急を仙台から宇都宮まで乗る機会がありましたが、新幹線の車窓風景に
慣れつつあった時分、久々に特急で辿る在来線の沿線風景は懐かしく、地形の関係で
上下線の分離区間が多い福島県域は格別でした。

手元に車窓展望DVD「列車通り」シリーズの「奥羽本線/福島〜山形」があります。
この作品は、改軌に伴う、スイッチ・バック各駅廃止への惜別企画として運転された
12系客レから見た映像で、当時の板谷峠の風物を振り返る貴重な資料と言えます。

福島駅を出て最初に目に付くのが、線路右側に展開する機関区。さながら「板谷峠の
シェルパの休憩室」といった趣でした。電子地図を見ると、現在でも側線群の展開が
見られる様ですが、峠対策が失せた現在、どの様な用途に供されているのでしょうね。

この辺にあったと思われる中川信号所から米沢までは、1949年に直流電化されました。
交流電化が実用化される十年ほど前に(東北線が福島まで交流電化されたのは1960年)
峠越え対策として実施された訳ですが、同様の現象は仙山線でも見られ、奥羽山脈の
山間を、青色や茶色の電機が往来していたのは、今考えると貴重な場面ですね。以下、
関連事項を年表に纏めて見ます。

【福島〜山形】
1949年)福島(中川信号所)〜米沢を直流電化。スイッチ・バック各駅に通過線設置。
1968年)福島〜米沢を交流電化に切替。米沢〜山形を新規に交流電化。
1990年)板谷峠各駅のスイッチ・バック構造を解消。
1991年)改軌工事に伴い「つばさ」を仙台発着とする。
1992年)山形新幹線開業。

【仙台〜山形】

1937年)作並〜山寺が直流電化で開通(全線開通)
1955年)陸前落合〜愛子〜作並で交流電化の各種試験開始。
1957年)仙台〜作並を交流電化。
1960年)山寺〜山形を直流電化。
1968年)作並〜山形を交流電化に切替。

なお、奥羽線が羽前千歳〜秋田を以て全線電化を完了したのは1975年10月の事でした。
同年夏には「津軽」が大滝駅で土砂崩れに襲われるなど、山形・秋田・青森の各県で
集中豪雨による不通区間発生が相次ぎ、せっかくの全線電化を目前にして、現場では
かなりの御苦労があった事と拝察します。



投稿者 めがね
投稿日 2007年 5月 2日(水)02時30分40秒
タイトル 昭和初頭の事情
はじめまして。突然ですが、皆様のお力を
貸していただきたく、思い切って書き込みさせていただきます。
現在、仕事の関係で、昭和初頭の鉄道事情について調べています。
しかし図書館などに行く時間がなく深夜に
インターネットに頼るしかない状態です。。。

昭和初頭(1から5年)あたりの東京の終列車時刻は
何時頃でしょうか。

どなたか教えていただけると幸いです。



投稿者 下総守こみやさん(^^)
投稿日 2007年 5月 5日(土)00時33分5秒
タイトル 窓口氏の憂鬱
周遊券が衰退して以来一筆書きで切符を買うことが多くなりました。
区内から東北、盤西、只見、上越、高崎、大宮。この発券でも四苦八苦(^^;時刻表広げながらえーとえーと(^^;
 >>配属では、全国の路線網の地理に通じている訳でも無いのでしょうか。
皆様ならこのコースすぐわかりますよね。
指定席申し込み用紙の裏側に書いているのですがなかなか伝わりません。
コンピューターに打ち込めばすぐ発券できると思うのですが。
女性窓口氏もかるくヤバイ(^^)某臨時列車の指定券依頼したら定期列車の欄を探している。
たぶんそこじゃなくて黄色いページを見てみてと助言。
このやりとりいつまで続くのでしょうか。指定券取るのも一苦労であります(-.-;そのあげく満席だよと言われたら(-.-#



投稿者 岩崎安房守義将
投稿日 2007年 5月 5日(土)01時38分25秒
タイトル 御心配お掛け致しました
管理人様、皆様、大変御心配をお掛け致しました安房守義将にございます。
 雑魚様の卵酒・・・いや〜美味しそうですね!
 今回は高熱が数日続き・・・と流行のモノらしく、医者に行く為に安静にしていましたら多忙な黄金週間突入で、
やれ現場だ、やれ総会準備だ、やれ決算・予算の修正だぁで何時の間に回復を・・・
 さて、二ツ井はなかなか難問ですね、急801列車「鳥海」で駅名は馴染みのもので解りますが、
耳馴染みが無ければ解らないかも知れませんが・・・
 一方で出札スタッフの品質の低下は更に悪化しているのですね・・・
 2度だけ、「団券の切り方が解らない」と言うので下書きを書いて差し上げた経験がございます
(小生がユーザーですが・・・)、後から現場長経由で記念品が沢山列車に届きまして驚きましたが・・・
 それは特殊としても、下総守様のものはそんなに難しいものでは無いと思いますが・・・
 団券からみでもう一つ、
それこそ「板谷峠」最後の在来型一般車運転となった上野発常磐〜仙山〜奥羽本〜東北本線経由上野行
ドリーミング・ムーンライトエクスプレスに御参加の協力サークルさんのメンバーさんが急遽参加したいと思われ、
上野駅に来たものの待ち合わせ場所が解らず、更に普段列車の御利用経験も無かったと言う事でみどりの窓口へ行き
「ムーンライトエクスプレスの切符を・・・」
 と言ったから大変!
 出札スタッフ総出で「探索」していた所、ベテラン職員氏がやって来て
「何してんの?」
「ムーンライトエクスプレスなんて聞いた事ある?奥羽線なんだって言うのよ、
上野から出て上野へ戻るんだって、そんなの無いよね」
「え?そりゃ団臨だろよ、達示見てみろ」
 で内勤室へ・・・丁度資料を置いて来た後でしたから事なきを得たものの、同様事案で某新宿では
「そんな団臨無いよ」
 とかなりの人数が追い帰され、後々厳重抗議した経験があります。
(要は窓口氏が前日の達示を見ていて間違えたものらしく、
このミスがEF5889機+尾客欧客レインボー最後の運転となった「わたらせエクスプレス2」の実現に際して
大きく影響します(笑))

 クモイ様の様な事例は結構多く、こちらは東北本線方面に多かった記憶がございます。
 10時の「はつかり」のハザ指所有で、急205列車十和田5号(23時30分)自由席と
「泣いて」頂いたケースが幾つかあったと・・・
 しかし小生経験で最難関は中国やフィリピン訛の英語と、「ハイビア」「エリアワカオキ」です。
 案内所にお出での外国人の御客様、「ハイビア」を連呼し格闘約10分、Hibiya=日比谷と解り
「さぶうぇい!日比谷らい〜ん!」
 が・・・「エリアワカオキ」は難攻しまして、Arakawaoki=荒川沖と判明するのに内勤室含め7〜8人で悩んで解決(笑)
 この2つ以降、外国人の方の場合はローマ字で書いて頂くものとしました(笑)

 ところで、毎回こちらのページや掲示板を拝見する度に、バックのスハフ42がチラ付いて、
そろそろ在来車をと思うものの、経費的法制的に適当な路線が無くなって参りまして・・・
 磐越線は東西共に魅力的ですが、首都圏から遠いのでなかなかに厳しいですよね、
タイアップ先のエージェント様も嫌がりますし、
第一現在時点では原則的に在来車は「社外ユーザー禁止」となっているとかで・・・
 皆様もお風邪に御留意を!



 
「客車倶楽部」へ  
夜行列車や旧型客車列車の音や資料を掲載
客車専門サイト「客車列車の旅」はこちらから
掲示板「客車倶楽部」本体へはこちらから
過去ログ「倶楽部メモ」もこちらから