惜別「銀河」特別寄稿

 名門急行「銀河」の廃止にあたって、国鉄最後の日の下り「銀河」を題材とした力作をクモイ103様より寄稿して頂きました。
平成20年3月、急行「銀河」の廃止を目前にして、21年前のできごとを思い出しました。
昭和62年4月1日、国鉄が歴史を閉じJR各社が発足した歴史の節目を、新米社会人だった私は、下り「銀河」の車中で迎えたのです。
翌月、大学鉄研のOB会誌にショートストーリーを投稿しました。
時代の変化に直面した不安感を、それでも変わらず走り続ける「銀河」に投影して表現したものです。
当時、揺れる未来への不安や期待をともに分かち合う存在だった「銀河」は、21年後の今、終着駅にたどり着こうとしています。
その終焉に臨み、OB会誌編集長の許可を得て、「銀河」がまだ未来に向かって走り続けていた頃のショートストーリーを捧げます。
これまで「銀河」が駆けてきた激動の歴史のうちたったひとこまの記録(?)として、ご笑覧いただけたら幸いです。
クモイ103


幻走軌道

 
クモイ103
 
1.東京駅 昭和62年3月31日
 

 背広姿に頭は散髪したてのいささかちんちくりん、現れた浩のいでたちに令奈はちょっと驚き、そしてちょっとつまらなそうな顔をする。そういえば ― クラスの男の子が髪を切って来ると、急にかっこ悪くなったみたいで何だかつまんない ― どこかで聞いた女学生の言葉を思い出し、そんなものなのかな、と浩は独り合点をした。

 令奈は大学の鉄研の仲間である。卒業後の今もOB会誌を通じて互いの動向はある程度知っているが、直接会う機会は滅多にない。

 時刻は22:10、26年ぶりに復活の1等展望車マイテ49を連結した「旅立ちJR西日本号」が間もなく発車する。

 ― 10番線はもの凄い混雑だから、隣の8番線で見送ろう ―

令奈を促して階段を上がる浩だが、目の前には別の列車が居る。窓越しに見る9・10番線ホームは、今こそ一世一代の騒ぎ時とばかりくり出した鉄ちゃん達で立錐の余地もない。それでも何とか列車の動き出す様は見てとれた。浩は指さして、

 ― ほら、一番後ろに、ほら来た、展望車! ―

 ― ・・・よく見えなかったー ―

マイテ49はもったいぶる様に、そのダークブラウンの車体をちらとだけのぞかせて行ってしまった。浩自身はさっき10番線の狂乱ぶりを新幹線ホームから高見の見物していたのだが・・・(12番線はテレビ局が使っていてOff limitsだった)。ぶうぶう言う令奈をなだめすかしながら、その10番線へと浩は向かった。

 ― 本当はみんなで一緒にわいわいやりながらの筈だったんだけどね ―

皆それぞれ忙しそうで・・・本当の事なのだが、ひどく言い訳がましく聞こえるのに気付き、浩は口ごもった。今回令奈を誘うについて、国鉄最後の夜行列車で掟破りの鉄ちゃんデート、という不謹慎な心が無かったと言えば嘘になる。しかし令奈は昨年相次いで国鉄完乗を果たした仲間、今夜のツアーに最もふさわしいパートナーには違いなかった。今日は特別な日なのだ。それに、やがて緊張が解けた時、女の子を連れていればみっともない落ち込み方も出来まい・・・そんな情けない考えが浩の脳裏をかすめたのも事実である。

 このあと9番線に「旅立ちJR東海号」が入ってくるとあって、ホームの人波は引く気配もない。熱狂を横目に定期列車「銀河」が10番線に入線、二人は雑踏を押し分けかきわけ2号車へと向かう。寝台は昨日奇跡的に入手した向かい合わせの下段である。

 令奈は勤め先からの直行で、夕食をとっていないという。浩は車内に荷物を置くと、食料調達の為に再びホームへ出ていった。

 

2.急行「銀河」

 

 ― おかえりなさい ―

窓際に腰掛けた令奈の笑顔に、薄暗いボックスが少しだけ暖まる。

 ― 大した物なかったけど ―

浩は袋の中のものをテーブルに並べた。

 22:45、下り第101列車・急行「銀河」は、「旅立ちJR東海号」のゴハチ登場に湧く東京駅第5ホームを静かに離れた。見馴れた景色が、次第に速度を上げながら過ぎ去って行く。こんな時何を話題にすれば良いのか ― 浩は戸惑った。しかし令奈の受け上手に助けられて話ははずみ、JR発足記念の缶ビールを午前零時の乾杯用に買っておいた事も、つい忘れがちとなった。

 向き合った彼らの目の前に、上段用の梯子があった。いかにも鉄ちゃん然とした二人連れが、無遠慮にそれを踏みつけて登ってゆく。今夜はこの列車にも、その筋の客が多いのだろう。しかし、自分達の足元で雑談にふけるサラリーマンとOL風のアベックがまさか同業者とは知るまい ― そう思うと愉快でたまらなくなる浩であった。

 時間は人間の作った節目などまるで目に入らぬとばかりに流れ去り、列車もただ目の前のレールを単調に踏みしめてゆく。もの憂げに揺れる車体、くぐもったジョイント音は季節外れの除夜の鐘、今宵人々の心に銀河の星とちりばめた煩悩を、一つ一つ数えながら夜明けへの道を辿るのだ。

 列車はそろそろ小田原に近づこうというところ、話に夢中の浩がふと時計を見ると、既に零時を5分程回っている。

 ― 令奈ー、過ぎちゃった、あはあは・・・ ―

笑ってごまかしビールの缶を開ける。あたふたと、そしておもむろに、カチン。

 

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 急行「銀河」は、いつしか深い闇の中を滑る様にひた走っている。どこまでも真直ぐにのびる二条のレール、見下ろす浩の頬をかすめて空間が後方へ飛び去り、足元を列車がゆっくりと追い抜いてゆく。彼の視野にまず機関車が、そして12両の客車が次々と現れ、それにつれて列車の音が・・・パンタグラフの擦過音が、電源車のエンジンの轟音が、そして道程を刻むジョイント音が、彼の耳を通り過ぎ虚無の空間へと広がってゆく。さらに耳をすませば列車の中の音・・・客車の幌と渡り板のガチャガチャいう音、機関士のハンドル操作の音、車掌が書類をめくる音、椅子のきしむ音・・・これら全ての音が一つになって列車を包み込み、天地もわからぬ漆黒の原野に心地良いBGMを奏でているのだった。それはまさに一つの生き物の鼓動と息づかい、列車に身をゆだねる乗客達の寝息さえ、ゆるやかな対旋律をなして・・・

 浩の目の前に、やがて赤い尾灯と「銀河」のバックサインが現れた。彼は視線を前方に移していった。ヘッドライトの光芒が吸い込まれる彼方、二本のレールが一つになる所に、何か光るものが見えている。彼は列車と共にその光の方へ漂って行った。はじめ白い塊に見えたそれは、近づくにつれて色とりどりにきらめく無数の星にわかれ、やがて巨大な渦巻き状の星雲となって彼の眼前一杯に広がった。それはまばゆいばかりの光の海、レールはしかしあくまで真直ぐに列車を導き、列車は長笛一声、星たちのただ中へと飛び込んでゆく。その時である。あたりの星々が一斉に輝きを増し、その強烈な光線に、浩は反射的に目をかばう間もなく体ごとはじき飛ばされた・・・

 遠くで汽笛が聞こえた。あたりはスープの様な濃い霧の中、右も左も、頭上も足元も、かすんで形のあるものは何一つ見えない。再び汽笛が聞こえた。今度はもっと近くで・・・その時、タタンタタタンタンと不規則なジョイント音がしたかと思うと、いきなり視界に躍り出た蒸気機関車。不思議なほどに無感動のまま立ちつくす浩のすぐ側を、激しいドラフトの息づかいと真っ白な蒸気が通り過ぎてゆく。あとに続く客車には「広島行」の文字、そして窓からのぞく幼い顔、それはまさしく浩自身の姿であった。そう、あれは母に連れられて呉へ行った時の事 ― 20年以上昔の情景の中に、彼は引き込まれているのだった。窓から不思議そうに列車の足元を見つめる幼い浩に、母が言った。

 ― そんな所見てたって線路はないのよ。ここは単線なんだから ―

 ― ふうん ―

納得した様なしない様な、気のない返事・・・前夜東京を発って、まだ非電化の呉線をゆく急行「安芸」でのひとこまだった。再び立ち込める霧の中、遠ざかる客車のテールライトに手をのばしても届こう筈がなく、彼は呆然とそれを見送った・・・

 浩の目の前に窓があった。ニス塗りの木枠の向こうにはいかめしい運転台の機器類。そのまた向こうにのびる線路が、こちらへ向かってどんどん流れて来る。車内に満ちわたる勇ましいモーターの唸り、はずむ様に揺れる車体ときしむバネの音、と、突然ぴたりとモーター音が止み、歯切れの良いリズムだけが残る。運転士の肩越しに覗くメーターは65km/h、速い速い。遠くに黒い点が見えたかと思うと、見る間に近づいてこちらと同じ茶色い電車になる。首をすくめて待つすれ違いの一瞬、タイフォンに続いてけたたましく窓ガラスが鳴り響く・・・

 数え切れない列車が彼を乗せて運び、数え切れない列車が彼の側を通り過ぎて行った。小学生の時長岡まで乗った特急「とき」、中学生の時会津若松へ行った夜行「ばんだい」、高校生の時仲間と乗り通した上野発一ノ関行き鈍行列車、そして大学時代、初めて渡った北海道で、偶然令奈と一緒になった夕張線の気動車・・・霧の中に現れては消える幻を、彼は静かに見送り続けた。そしてそれらの向こうに、さらに無数の、一度も出会う事のなかった列車達がいる事を、彼はまた思うのだった。しかしどんなに目をこらしても、それらは霧に隔てられた別の次元にあって、もはや永遠に見る事は出来ないのだ。

 今また一本の列車が走り続けている。ヘッドライトが虚空を虹色の輝きに変え、ブルーとアイボリーの機関車が颯爽と風を切る。青い客車に銀の帯、闇にひときわ眩しい方向幕には「急行銀河・大阪」の文字。浩と令奈の乗った、国鉄最後の「銀河」だ。彼は列車の近くへ漂って行き、一緒に並んで追いかけた。行く手にのびるレールはどこまでも真直ぐに・・・当然の様にそう思っていた浩の視線が、前方の一点に釘付けになった。

 分岐器だ ― これまでずっと一本だった線路が突如二本に、いやその先にも分岐が・・・浩は息を呑んだ。よく見れば何個ものポイントが連続し、一組の線路は次々と分かれて膨大な数の線路となっているのだ。それぞれの進路はてんでに右へ左へ、上へ下へと散って行き、あるいは曲がりくねってからみあい、交叉し、さらに幾本もの線路へと際限なく分かれてゆく。それはさながら密林の巨木の奇怪な枝振り、視界の果てる所まで続き、その先がどこへ通じているのか、それ以前にどの進路が開通しているのかさえ見当もつかない。浩はうろたえた。列車は減速もせず、最初の分岐点めがけてまっしぐらに突き進む。ホイッスルの金切り声があたりの空間をびりびり震わせ、軽い一定リズムだったジョイント音が、にわかに高鳴る乱れ打ちに変わった時、浩は場面を正視している事が出来なかった。

 ・・・列車は走り続けた。右に左に激しく動揺しながら、なおも変わらぬ速度で次々とポイントを通過して行く。台車がぎいぎいと悲鳴を上げている。浩は後ろを振り返って唖然とした。あの一本だった筈のここまでの線路が、いつの間にか今いる所と同じ分岐器の連続に変わってしまったのだ。後方遥かに霞む彼方から、何十本もの線路が次々と分岐を繰り返し、気の遠くなるような一大操車場となって、浩の所へ、急行「銀河」のいるあたりへと続いているのだ。360度見渡す限り分岐器の海、そこには無数の列車が、皆同じ方向に走っていた。さっき霧の中で見た過去の列車達がいた。写真で知っているだけの列車達がいた。最近の新しい列車が、何十年も昔の列車が、それぞれ目の前の分岐器の作り出す曲がりくねった進路に翻弄され、いつ果てるとも知れない仕業の終点を目指して揺れ続けていたのだ。

 地獄・・・そんな言葉が浩の脳裏をよぎった。大行進を続ける列車達に感情移入してみれば、まさしくこれは地獄絵図に違いなかった。人生の縮図・・・そんな考えも浮かんだ。だが人生は地獄じゃない。ポイントの開通方向で全てが決まるものでもない。だいいち人生には未来の可能性というものがいくらでもある。ではこの列車達は・・・?

 浩は訳のわからない焦燥感に駆り立てられ、やみくもに列車の進行方向に進んで行こうとしたが、思わず立ちすくんだ。目の前を走る急行「銀河」の向かう彼方、分岐を続ける線路の先が、霞んでぼやけているのだ。そこから先はまるで別世界、もうろうとした水墨画に溶け込んだレールの先は、陽炎の様にゆらいでどこかへ見えなくなっている。しかし浩は駆け出す事が出来ない。彼の目の前にもまた、複雑な迷路が立ちふさがっていたのだ。空間に忽然と現れた大迷路はその全容すら定かでなく、しかも遠くの方は線路と同様霞んでしまっている。浩は凍りついている。「銀河」はなおも走り続ける。その行く手の空間は彼にとって、にわかに遠い存在となりつつあった。しかし焦りはつのる一方、すくんだ足を無理につき動かそうとする。浩は隣に居る令奈を振り返った。令奈は何も言わず、首をちょっとかしげて不思議そうな表情で浩を見た。言葉が出ない ― 浩の頭の中を様々な事物が一時に駆け巡った。意識野は平衡を失い、彼はあたり構わず叫び出したくなった。世界が脈打っていた。早鐘の様な鼓動の音が空間を満たしていた。そのただ中にあって揺さぶられながら、一方彼自身は、金縛りにあった様になすすべもなく立ちすくんでいた・・・

 

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 夜は既に明けていた。自分を揺り動かしているのが列車の走る揺れである事を、浩は次第に理解していった。

 ― 間もなく京都、京都に到着いたします。京都を出ますと、次は終点の大阪でございます。皆様、長い間国鉄を御利用頂きまして有り難うございました。間もなく京都に到着です ―

そう、この列車はまだ「国鉄」なのだ。日付をまたいで走る夜行列車は、発車した時点の「時代」をその終着駅までたずさえて走るのが、古くからの鉄道の習慣である。固定窓を隔てた外側には4月1日の朝の空気がある筈なのに、この車内だけは、昭和62年3月32日の奇妙な時間が流れているのだ。

 ― おはよう ―

 ― おはよう・・・ ―

向かいのカーテンから顔を覗かせた令奈と挨拶を交わしても、昨夜のお喋りを再開する気になれない。ブラインドを上げて、隣の上り線のレールをぼんやりと眺める浩であった。

 ― そんな所見てたって、国鉄の線路はないんだよ ―

自分に言って聞かせても、頭の中で言葉が空回りをしていた。

 
3.大阪駅 昭和62年4月1日
 

 7:43、日付は変わった。慌ただしく降りた大阪駅3番線ホームだが、浩が振り向いた時、既にそこには国鉄の客車は存在しなかった。隣の2番線には「旅立ちJR西日本号」が先着していて、折しも盛大な到着式の真最中。列車を隔てたこちら側のホームにも、たくさんの鉄ちゃんが走り回っている。「銀河」をバックに令奈と並んだ記念写真をと浩はポジションを探したが、結局諦めて階段の方へ歩き出した。その時「JR西日本号」の回送列車が動き出すのが見えた。「銀河」の窓越しに浩は指さして、

 ― ほら、今度こそ、ほら来た、マイテ49! ―

 ― うん、ちょっとだけ見えた ―

令奈と浩は顔を見合わせて笑った。しかし浩は、昨夜と比べて明らかに調子の落ちている自分に気付いていた。思考がまとまらない。言葉が続かない。あんな夢を見たからだろうか。それとも調子が悪いから夢を見たのだろうか ― 浩のそんな戸惑いを知ってか、令奈の物腰はあくまで浩のペースに合わせてさりげない。浩は嬉しくもあり、また少し恥ずかしかった。

 昨夜令奈は勤め先からの直行、今朝浩はこのまま出勤である。お互い無理して作った時間なのだ。じゃあこれで ― のひと言が何故か出にくい浩だった。きょとんとした様な令奈の瞳の中に、あの夢に出てきた令奈が居た。

 ― 迷路は抜けられそう? ―

そう言っている様だった。浩は軽い目まいと共に、またも理由のわからないかすかな焦燥感を覚えていた。

 別れ際、駅の雑踏に紛れて去る役が自分の方だと気付き、浩は少ししまったと思った。主人公を見送ればそれで終わる映画の観客と違い、自分で自分の視界から消え去る訳にはいかない。少なくともこれから会社へ行って仕事を始めるまで、あの夢の続きの落ち着かない気分を、浩は背負わなければならないのだ。だがそれもいいではないか ― 令奈と最後の二言三言を交わすうち、浩は妙に悟った様な気になっていた。ともあれそれが自分の気持ちなのだ。押さえつけたところでどうにもなりはしない。ここはひとつOB会誌に出すねたにでもしてみるか、などと考える余裕も生まれた。

 これから浩が会社へ向かう電車は、残念ながらJRではない。改札の前で見送る令奈。本当に見えなくなる直前、浩はやっぱり振り向いてしまった。令奈はまだそこにいた。

 
−FIN−
 
※ この夢はフィクションであり、実際の夢とは関係ありません。

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