倶楽部メモ:客車倶楽部過去ログ集:客車列車の旅

倶楽部メモSP
進駐軍専用列車のその後


倶楽部メモ(642) 平成23年 2月11日〜 2月13日


投稿者

ED76109

投稿日

2011年 2月13日(日)09時00分8秒

タイトル

ヤンキー・リミテッド

 おはようございます。
3連休なのにどこにも出られず
フラストレーションのみ溜まる「ED76109」であります。

 ヒゲ無し雷鳥様
 >横浜札幌間を30時間前後で結んでいたヤンキーリミテッド

  先達の皆様方には「釈迦に説法」でありましょうが、
ダイヤ及び編成は、以下のようであります。

  「1201レ」 横浜22:00→東京22:30→上野22:53
   →平3:30→仙台7:08→陸奥市川15:13
    →青森17:15/18:30(27便)函館23:00/0:50
     →東室蘭5:12→千歳7:01→札幌8:00

  「1202レ」札幌19:30→千歳20:35→東室蘭22:45
   →函館3:30/5:00(22便)青森9:40/11:30
    →陸奥市川13:27→仙台20:46→平1:00
     →上野6:07→東京6:30→横浜7:10

 編成 ←(札幌) スニ32+マニ31(札幌行)+オロ35
     +オロ35(オロフ33)(青森行)+マイネフ38
      +マロネ37(札幌行)+マロネ37(青森行)
       +マロネ37(函館・札幌)+スシ37(マシ38)(仙台・青森)

   1 連合軍専用・・・昭和20年12月、連合軍は「一般将校」と「軍属」
及びその家族が公務や休暇の旅行に利用するために、
「定期特急専用レ」を数区間に渡り、運転することを国鉄に命じました。
その1つが「東京・札幌」だったのであります。

  2 客車航送・・・ 「ニ」や「ユ」はともかくも、
「一般客車」の輸送も戦前は凡例がありませんでしたが、
合理主義と能率主義の連合軍は「前例なし」という国鉄の一言を
一蹴させたようてあります。
当初は「ニ+ニ+ロネ」を「13・14レ(函館・稚内)」に併結して
「札幌」まで運転したものでありました。

  3 東京・上野直通運転・・・これは、「東京・佐世保」を結んでいた
「ディキシー・リミティド」に接続させるためであり、
「横浜」延長時に開始されました。
当時は「東京・上野」は回送レと鮮魚輸送の
「東京市場行貨物レ」が運転されていたのみでした。
当然連合軍は、「合理主義と能率主義」を盾に運転を命令。
これをきっかけに「上野・御殿場」、「上野・島田」、
「新橋・高崎」等の「日本人用レ」が運転を開始されております。

 4 東室蘭経由・・・
「室蘭本線」はもともと「北海道鉄道」が前身だったことから、
戦前には件の運行例はございません。
しかし、当時「米軍」が使用していた「室蘭港」及び「千歳飛行場」が
近隣である当該本線の運転を命じたのではと推察されます。

 ※「鉄道史を彩る十五の名場面・昭和を走った列車物語」(JTBキャンブックス)

 長々と失礼致しました。
以上、本日再放送される「BS朝日の『点と線』」だけが、
連休中のお楽しみである「中年客車鉄ちゃん」でありました。




投稿者

マロネロ38

投稿日

2011年 2月13日(日)10時18分4秒

ED76109先生:
>>戦前には件の運行例はございません
室蘭本線経由ですが、函館−東室蘭−札幌のルートの事でしょうか?
稚内はありましたね?

確か昭和12年6月まで函館−稚内急行と夜行列車が
室蘭本線経由−岩見沢−旭川−稚内でしたね??
以下昭和11年4月号「汽車汽船旅行案内」より:-
急行1+201レ併結函館13.20−東室蘭17.46-稚内6.48(稚泊連絡船連絡)
205レ函館22.40−東室蘭6.07−稚内20.39
202レ+2レ稚内22.15(稚泊連絡船受け)-東室蘭11.46-函館16.23
204レ稚内6.30−東室蘭23.20−函館5.40
(急行は長万部迄本線経由札幌行を併結、24時間制に書き換え)

この時代は稚泊連絡船の運行ローテーション?の関係で
上り急行が夏ダイヤ(4月17日から)だった様です。
大泊20.50−稚内4.50
急行204レ稚内6.30−旭川13.46/13.55-岩見沢16.02
−東室蘭16.58-(札幌発4レ併結)-函館23.37
この時刻表は大変見難いので間違っていたら御免なさい。

後年昭和30年代にNHKが稚内急行で大ポカをやったのが印象に残っていますが、
「昭和12年4月に塩谷駅で上り稚内発急行が正面衝突をやりかけた」云々。
(連ドラ「旅路」)
本線経由になったのが12年6月からですから、
4月にそのトラブルが起こることが無い--。
起こるとすれば札幌発の急行2レですが---。
どうも作者が「鉄道省ダイヤ改正は4月1日」と思い込んでいて居たみたいです。



倶楽部メモ(643) 平成23年 2月13日〜 2月17日


投稿者

ED76109

投稿日

2011年 2月13日(日)16時35分15秒

タイトル

「すずらん」ではないでしょうか

 本日二度目の乗車失礼致します。「ED76109」でございます。

 マロネロ38様
 >室蘭本線経由ですが、函館−東室蘭−札幌のルートの事でしょうか?

 御意。ほとんど、「釈迦に説法」でございますが・・・。
マロネロ38様の仰るように、戦前の「樺太急行」であった「稚内行」は、
昭和3年9月開通の「長和線(現室蘭本線)」経由により、
「札幌無視」ダイヤが設定されました。
同5年10月改正で、「函館桟橋・稚内港」が18時間で結ばれた結果、
上野14:30発の青森行急行に乗車すれば、
2度の連絡船乗り継ぎによって「豊原(南樺太の中心都市)」に
翌々日の19:25着に到着するルートが確立されました。
「千歳線・室蘭本線」経由で「札幌・函館」を初めて結んだのは、
「ヤンキー・リミティド」が一般乗客に開放されて
改称された「すずらん」でありました。
同31年11月のことであります。

 ※ 日本鉄道旅行歴史地図帳1号北海道篇(新潮社)より

 以上、「中年客車鉄ちゃん」でありました。




投稿者

ヒゲ無し雷鳥

投稿日

2011年 2月13日(日)20時33分11秒

タイトル

ヤンキーリミテッドその後

ED76109様の補足です。
ヤンキーリミテッドは昭和27年講和条約締結前の3月31日をもって
特殊列車(急行列車)として日本人旅客にも解放され、昭和29年10月1日
本州部分は十和田、北海道部分は洞爺と命名されました。

長時間運転列車のうち一般客向けの定期列車としては、関門トンネル開通後に
設定された鹿児島発東京行き34レの41時間25分かもしれません。




投稿者

雑魚

投稿日

2011年 2月14日(月)10時59分5秒

タイトル

進駐軍と チョコレート

嘉門達夫による「♪ヤンキーの兄ちゃんは〜」よろしく「ヤンキー・リミテッド」と
聞くと「不良ばかり乗り合せる無法地帯の列車」といったイメージを抱きがちですが、
ED76 109様の詳述にある様に、北日本方面発着便の列車名で、方面別、利用対象層、
用途に応じて、幾つかの呼称が並列的に使われていたのですね。

この辺を詳述した「ウィキペディア」の関連記事では、東京駅に設けられたサロン風
専用窓口の写真が掲出されていますが、食堂車から漏れ漂う「美味しそうな臭い」と
相まって、併結された朽廃気味の格下車両で混雑に甘んじざるを得なかった日本人に
敗戦を実感せしめる「教育効果」もあったとされる点は、然もありなんですね。

上記記事で興味深い点は、東武日光線でも、同趣の列車が設定されていた事、そして
上野・仙台双方から、矢板で切り離し、東武矢板線に直通する設定もあった事ですね。
熊谷線と同様、電化されない侭に廃止された事で「格下」の印象が強かった矢板線に
かかる歴史があったとは意外でした。新高徳から更に鬼怒川線に直通した旨の記述は
ありませんが、当時のGHQの威光を以てすれば、ゴリ押しも効いたのではないかと
勘ぐっています。東武鉄道では、光が丘団地の前身とも言える、米軍住宅「グランド・
ハイツ」の為に「啓志線」なる支線が東上線上板橋から分岐していたのですね。

現在、矢板線跡は大半が道路に化けている様で、矢板駅の南側で東北線から分岐した
直後の「東武橋」から、当時が偲ばれますが、矢板というと私はむしろ、矢板線とは
反対側に分岐していた、JT工場等の専用線(画像参照)に惹かれます。この専用線、
以前は途中区間の数十mのみ電化されるという「謎の存在」でした。

子供の頃、学校の副読本で一読したネルーの伝記では、幼少時の彼が、列車で移動中、
混雑した蒸し暑い車内に辟易して、隣の豪華で空いた車両に移ろうと、同行の母親に
懇願するも、そこは宗主国である英国人の専用車両だから、と窘められ、それが後の
独立運動の出発点になった、との記述があり(但し、ネルー自身は、富裕なバラモン
階級の出身)連合軍専用列車に通じる感覚ですね。

共に独立運動を指導したガンディーの場合は、南アフリカで弁護士を務めていた当時、
一等車利用を拒否され(1982年公開の伝記映画では、車掌に身分証明書を提示するも、
駅に停車中に叩き出される、といった描写でした。ちなみに、同国で人種隔離政策が
制度化されたのは、第二次大戦後の事)その時の経験が、独立運動に与する出発点に
なったとされています。

かわぐちかいじの漫画「イエロー」では、終戦直後の東京(新橋駅?)で列車を待つ
長蛇の列に割り込む事を咎められた中国人女性が、居留民証明書を出して「戦勝国人
特権」を誇示する一幕がありますが、そうした人々は、利用車両でも、何らかの優待
措置があったのでしょうか。

当時、子供達が進駐軍兵にオネダリしたという「ギブミー・チョコレート」の台詞は
所帯を持って久しい現在もなお、鬱屈した青春時代のトラウマとして、毎年、二月の
この日になると、脳内で大音響を奏でるのでした。上記、嘉門達夫が、孤高の人生を
歩むなどと強がるも、結局「チョコくれ!!」と悶絶した歌、そのものです。そんな中、
愚息が連休中、そこそこ「ゲット」したと聞いて「鼻から牛乳」状態でした(滂沱




投稿者

ED76109

投稿日

2011年 2月14日(月)22時34分19秒

タイトル

「流儀」の違いがあった連合軍列車

 おばんでございます。連日失礼申し上げます。「ED76109」であります。

 ヒゲ無し雷鳥様
 >昭和29年10月1日本州部分は十和田、北海道部分は洞爺と命名

 何時も何時も、補足いただき心からお礼申し上げます。
当初、「洞爺」は臨時レ扱いだったようでありますね。
定期化されるとともに「すずらん」を名乗ったようでございます。


 雑魚様
 >上野・仙台双方から、矢板で切り離し、東武矢板線に直通する設定

 御意。意外なところでは、
「長崎県の島原鉄道」及び「鹿児島県の南薩鉄道(後の鹿児島鉄道)」にも
専用車両があったようであります。
その理由は、沿線に接収された「ゴルフ場」や「ホテル」が
存在していたからとのこと。
また、「札幌市電」や「西鉄北九州線・福岡市内線」には専用電車があり、
「西鉄北九州線」では兵士が「手を挙げ」れば、その場で停車したという
「タクシー」擬きの運転形態でありました。


 それでは、今回は「連合軍列車に係る戯言」を少々記させていただきます。


 1 先達の皆様方であれば、
「トホホセ」や「トカホセ」等の「優等客車レ」の写真を見ると、
「上り」か「下り」かが一目で判別できると思われます
(「つばめ」「はと」及び「はつかり」は、上下ともに「スハニ」が先頭ですが)。
なぜなら、「二」や「ユ」の連結位置が「トカホセは大阪側」、
「トホホセは上野側」であるからであります。
機関車の連結順から判明できるわけですが、
「連合軍専用列車」は進行方向に関係なく
「機関車の次位に荷物車を連結するきまり」となっておりました。
理由は、「追突した場合、荷物車が連結されていれば、
衝撃が緩衝されて被害を最小限度とすることが可能である」
とのことだったようであります。
しかし、このために様々な制約を受けた結果、
ダイヤ担当者は頭を悩まさせられることになったのでした。


 2 欧米では上り下りを問わずに、大都市の中心駅では
最も「本屋」に近いフォームに「エクスプレス」を停車させることが
習慣化しております。
そのため、「京都」及び「博多(旧駅)」では、
「上り下りとも1番線」に発着させるよう、連合軍から命令されました。
当時は両駅とも「1番線フォームは上り専用」であったことから、
やむなく逆ルートの信号機を設置するとともに、
入発前後は上下ともに一般列車の運行を停止するなど、
苦労が絶えなかったようであります。
特に「大阪」では、「7〜8時の通勤通学ラッシュ時」に
「下りアライド・リミテッド」に「シ」を増結した後、
「上りディキシー・リミティド」の「イネ」を解放するとともに
「シ」を増結するなど、長時間にわたってフォームを塞がれてしまい、
当時の運転担当者の苦労たるや、並大抵のものではなかったようであります。


 3 連合軍列車に乗務していたのは進駐軍の「コンダクター(車掌)」であり、
当時の「国鉄職員」である「車掌」は、
あたかも「ボーイ」以下の扱いだったようであります。
乗客である士官等からの「リクエスト」に応えなければらならず、
「フォームの売店での買い物」から「士官等夫人の幼児の襁褓取り替え」まで、
かなり過酷な乗務だったようであります。
さらに、昭和24年の7月に発生した「下山事件」の折、
「下山総裁」を事件現場まで運搬したのは、
あたかも「ヤンキー・リミティド」であるかのごとくの
憶測までされてしまいました。
「連合軍列車」は様々な意味で、「神経をすり減らす」存在だったようであります。

 ※「鉄道史を彩る十五の名場面・昭和を走った列車物語」(JTB編)
   「赤い腕章・国鉄車掌物語」(壇上完爾編・鉄道図書刊行会編)

 長々と失礼致しました。
以上、生徒からの「バレンタインチョコ」のお裾分けに舌鼓を打った
「中年客車鉄ちゃん」でありました。




投稿者

雑魚

投稿日

2011年 2月15日(火)09時59分35秒

タイトル

進駐軍の威光

▼ED76 109様:
> 生徒からの「バレンタインチョコ」のお裾分けに舌鼓を打った

ブルータス、汝もか………ええい、どやつもこやつも、口惜しや!!(号泣)

>「長崎県の島原鉄道」及び「鹿児島県の南薩鉄道 (中略)」にも専用車両

島原鉄道は1958年、南薩鉄道は1949年から国鉄直通運転を行っていますが、こうした
専用列車の運転実績が伏線となったのでしょうか。当時の米大統領が、トルーマンや
アイゼンハワーでなく、オバマだったら、雲仙「小浜」に至る雲仙鉄道もまた活況を
呈していただろうか、などと想像するも、同鉄道は戦前、1938年に廃止されています。

> 兵士が「手を挙げ」れば、その場で停車したという「タクシー」擬きの運転形態

英国軍兵士ですと、やはりロンドン風に、水平に手を挙げていたのでしょうか(^^)

> 進行方向に関係なく「機関車の次位に荷物車を連結するきまり」

衝突時の緩衝効果を理由とした当該規定は、確かに合理的ですが、DE10が、電源車
代わりの「マニ」を挟んで牽引した、水郡線直通「ゆう」の編成が、常陸大子駅にて
折り返す際、入替作業の煩雑さを実際に見た立場としては、確かに面倒臭い話ですね。

> 最も「本屋」に近いフォームに「エクスプレス」を停車させることが習慣化

京都駅の場合、1938年に梅小路まで複々線化、1944年に膳所まで三線化と記録にあり、
一番線に停車する下り専用列車が、対向線を塞ぐ形で転線する際の信号管制は、特に
ラッシュ時間帯には、かなり煩雑な作業だった事でしょう。京都ほどではないにせよ、
博多駅も、1911年に吉塚まで(篠栗線との単線並列状態の解消)1919年に二日市まで
複線化されており(筑豊炭鉱絡みの石炭列車の運行状況次第では最悪、三河島の様な
大事故に繋がる可能性もあったでしょうから)安全確保の為の御苦労が偲ばれますね。

> 当時の「国鉄職員」である「車掌」は、あたかも「ボーイ」以下の扱い

これまた御苦労な話ですねぇ。仕事柄、ある程度の英語力も求められたのでしょうか。
もっとも、進駐軍兵相手の「ストリート・ガール」の中には、自身の学歴と無関係に、
数ヶ国語を操った事例も間々あった様ですから「必要に迫られた結果の動機付け」は
やはり大きいと、先の欧州出張で、つくづく思い知らされた雑魚でした。




投稿者

マロネロ38

投稿日

2011年 2月15日(火)10時56分46秒

タイトル

GHQの横暴

ED76109先生:
>>追突された場合の衝撃緩和----
日本側は「昭和16年9月16日の網干追突事故」で逆の経験をしていたのに--ですね。
ここでも以前に出ましたが、ニがスロ346になる筈だった車両を押しつぶして、乗客
全員死亡だったです。
どうなっても「進駐軍の命令で」と逃げ口上になったでしょうが。
カレチがこき使われたのは他でも聞いていますが---。
専用車両ですが、父が戦後貿易商を再開して北陸へ出張する時にスロハ32?の専用車両
が連結されていて、中近東の人(イラン?)が「俺と一緒に乗れば良い」と乗せて
もらって座れたと言って居ました。
阪急も神戸本線には600型が専用車両で走っていました。




投稿者

クモイ103

投稿日

2011年 2月15日(火)21時08分35秒

タイトル

進駐軍専用列車のその後

横から失礼しますm(_ _)m。

ED76109様:

> 当初、「洞爺」は臨時レ扱いだったようでありますね。
> 定期化されるとともに「すずらん」を名乗ったようでございます。

誤解を招く記述なのでコメントさせていただきます。

昭和27年4月1日、それまでの進駐軍専用列車は、列車番号や時刻等そのままで
「臨時急行旅客列車」(鉄道公報の記載による)に立て替えられました。
時刻表では「特殊列車」と表現され、1・2等急行券の発売枚数に制限があり、
発売箇所も限定されているとの注記があります。この時点では愛称名はありません。

1001-1002レ「Dixie Limited」→特殊列車1001-1002レ
1005-1006レ「Allied Limited」→特殊列車1005-1006レ
1201-1202レ「Yankee Limited」→特殊列車1201-1202レ

昭和29年10月1日、列車番号などはそのままで一般の急行列車扱いとなり、
愛称名が付きました。
元「Yankee Limited」の北海道内区間は「洞爺」となります。
れっきとした定期急行列車であり、臨時列車などではありません。

特殊列車1001-1002レ→1001-1002レ「西海」
特殊列車1005-1006レ→1005-1006レ「早鞆」
特殊列車1201-1202レ→本州内1201-1202レ「十和田」、北海道内1201-1202レ「洞爺」

昭和31年11月19日、進駐軍専用列車時代からの列車番号を受け継いできた各列車は、
それぞれの線区における他の急行列車の列番体系に組み込まれました。
この時同時に愛称名の変更があり、
「洞爺」は「すずらん」に、また「早鞆」は「筑紫」となりました。

1001-1002レ「西海」→33-34レ「西海」
1005-1006レ「早鞆」→41-42レ「筑紫」
1201-1202レ「十和田」→205-206レ「十和田」
1201-1202レ「洞爺」→107-108レ「すずらん」

(参考文献:鉄道ピクトリアル連載「国鉄急行列車愛称変遷史」
、鉄道公報、時刻表復刻版)

この時点で時刻表上から「元・進駐軍専用列車」の名残はほぼ姿を消すのですが、
その後も昭和40年代までひっそりと名残を留めていたのが、
あの「西海」の米軍専用マニだったわけですね。




投稿者

ED76109

投稿日

2011年 2月15日(火)21時57分57秒

タイトル

多謝返礼であります

 おばんでございます。「ED76109」であります。

 クモイ103様

 また、小生のエラーをフォローいただき、ありがとうございます。
「洞爺」と「すずらん」の変遷は勘違いしておりましたので、
「鉄」勉強になりました。

  以上、「中年客車鉄ちゃん」でありました。



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