倶楽部メモ:客車倶楽部過去ログ集:客車列車の旅

倶楽部メモSP
夜行列車の運転時間最長例
2夜行急行「さつま」・南風崎からの引き揚げ列車


倶楽部メモ(641) 平成23年 2月 3日〜 2月11日


投稿者

ED76109

投稿日

2011年 2月 6日(日)07時38分41秒

タイトル

春は名のみの風の寒さや

 お寒うございます。「ED76109」であります。

 雪だるま様

 言い古されておりますが、今年の冬は異常でありますね。
「北の大地」に在して26年の小生にしてみれば、「新得」及び「遠軽」で
「一晩で1mの積雪」をそれぞれ経験しましたが、今年の積雪量は・・・。
ただ、愚妻(生粋の道産子)は「私が小学生の頃は、
日高だってこれくらい積ったけどね」と一言。
お互いに「雪はねのぎっくり腰」に注意しながら、あと一ヶ月がんばりましょう。

 雑魚様
 >歴代の夜行列車で、定時ダイヤにおける運行所要時間の最長例とは、
  どの程度に及ぶのでしょうか

 何もデータもないのですが、いつものように「たたき台」のつもりで・・・。

 まず、「東京と鹿児島」を二晩で結んでいた「さつま」が考えられます。
様々な話を推察すると「東京発」が「23時前後」であり、
「大阪付近で翌朝」を迎えます。
そして、「関門隧道」辺りで日が暮れて「久留米辺り」で「2日目の行程」に突入。
「出水」が「午前3時」ころで、
終着の「鹿児島」は「午前5時ごろ」だったはずであります。
しめて「約30時間」といったところでありましょうか。
前述しましたが、「昭和32年の盛夏」に「鉄」親父や伯父たちで
「出水の伯母宅」へ行った際に世話になったようであり、
「灼熱のナハフ10での2泊」は「地獄」だったようであります。
「鉄」親父は「とにかく暑かった。
しかし金がないから、一等や二等なんかにゃ乗れなかったし。」と一言。
前部に連結された「マロネロ38」を羨望の眼差しで見ていたそうであります。
 また、「鈍行レ」では小生の先輩教諭が「修学旅行」で利用した、
「青森・大阪」を結んだ「日本海縦貫の鈍行512レ」ではないでしょうか。
「512レ」は「青森」を14時40分に発車する2、3等仕立ての「鈍行列車」。
奥羽・羽越・信越・北陸・東海道とひたすら西下し、
終着「大阪」は2日目の20時56分に到着しております。
こちらも、出張旅費は安く、ぎりぎり。
間違っても「2等」には乗れないでしょうから、本当に「難行苦行」が推察されます。
ちなみに「下りの511レ」は、
「大阪」発7時08分→「青森」着12時58分(2日目)という、
上下ともに「超強者」であります。
もう乗車は叶いませんが、「旧北陸線」のルートを
ゆっくり眺められた汽車旅だったのでございましょう。

 長々と失礼致しました。
以上、「センバツは臨時が走りゃ、『ムーンライト』で行くぞ」
と刺激的な一言を吐いた「76歳の鉄親父」を持つ、
「寅年生まれ」の「中年客車鉄ちゃん」でありました。




投稿者

クモイ103

投稿日

2011年 2月 6日(日)10時13分58秒

タイトル

2夜行急行「さつま」

また投稿の間が空いてしまいました。なかなか気持ちの余裕が無くてすみません。

昭和20年代前半までのことはよく存じませんが、
戦後ある程度世の中が落ち着いてからの話としては、
ED76109様が挙げられた2夜行急行「さつま」が、
定期列車の長時間運転として有名ですね。

「昭和32年の盛夏」ということで、
直前のダイヤ改正である前年11月19日改正後の時刻表1956年12月号から時刻を拾ってみます。

43レ急行「さつま」
東京発21:45
名古屋着4:44/発4:50
大阪着8:26/発8:40
岡山着12:10/発12:20
広島着15:41/発15:48
下関着20:12/発20:25
門司着20:34/発20:48
博多着22:23/発22:40
出水着3:24/発3:30
西鹿児島着5:36
鹿児島着5:46(所要時間32:01)

上りはその対称形の時間帯で鹿児島発23:30→東京着6:25(所要時間31:55)でした。

同じ区間に急行「霧島」も運転されていましたが、
下り東京発13:00→鹿児島着17:10(所要時間28:10)、
上り鹿児島発12:50→東京着17:25(所要時間28:35)と、「さつま」より速いです。
これは、電化の延伸や軽量客車の投入などで「霧島」がスピードアップする一方、
「さつま」は東京と鹿児島の両方で夜行列車としての有効時間帯の制約を受け
大幅な時刻変更が出来なかったため、取り残されていった結果でした。

ED76109様の御尊父が乗車された直後の昭和33年10月改正で、
特急「はやぶさ」の新設に伴い「さつま」は本州内が廃止され、
門司港−鹿児島間の1夜行急行となって、戦後唯一の2夜行急行は姿を消しました。
3年後の36-10改正で名古屋−鹿児島間(本州内は昼行)に再延長されるも、
昭和40年10月には系統分割で再び九州内だけの夜行急行「はやと」となり
(本州内は名古屋−博多間昼行電車急行「はやとも」となる)、
ヨンサントオ改正で「かいもん」と改称して、長らく周遊券族の宿として親しまれました。
そして平成5年3月には特急格上げで「ドリームつばめ」となり、
九州新幹線開業の平成16年まで、その足跡を残したのでした。




投稿者

ヒゲ無し雷鳥

投稿日

2011年 2月 6日(日)10時25分23秒

タイトル

夜行列車の運転時間最長例

御無沙汰しております。
標記の件を調べてみました。
時代を遡ると同じ区間でも所要時間が長くなるようです。
1948年の東京発鹿児島行急行1レの場合で7:35>20:38(2日目)の37時間
同年の東京発長崎行準急2023レで23:50>14:09(3日目)の38時間
青森発大阪行514レ20:35>7:35(3日目)の35時間といったところでしょうか。
1947年ですと8000番台の復員列車の博多東京間38時間というのもありました。




投稿者

マロネロ38

投稿日

2011年 2月 6日(日)10時42分50秒

タイトル

急行「さつま」

ED76109先生:
昭和31年12月JTB.時刻表より:-
43レ「さつま」東京21.45→大阪8.26/8.40→博多22.40→出水3.24/3.30→鹿児島5.46
1号車がマロネ40?(博多解決結)+2号車マロネロ38+-鹿児島直通のハは8,9,10号車。
7号車がナハネ10?昭和32年3月に上り44レが岡山→三ノ宮迄満員で、
ナハフ10の車掌室や食堂車での夕食で過ごしました。
日本海縦貫での長時間は大阪→青森513レで、大阪21.50→金沢5.15/5.24→秋田23.55/
0.10→青森5.00(青函13便連絡)
514レ青森23.50(青函14便受け)→金沢20.39→大阪5.25:いずれも翌々日に終着駅着の
長旅でした。
513レには501レのハネが取れない時に、大阪から高岡へ出張するのにロに乗車すると、
(昭和34-35年頃)501レのハネ下段より100円安くて駅弁代が出ました。
最初はオロ31でしたが後にシートピッチ1040mmのオロ41だったので4人分占領出来た
ら楽でした。特ロのスロ50,51,52よりも足を伸ばせましたので:---ハの方も北陸本線
にしてはオハ35が多かった様でした。




投稿者

ED76109

投稿日

2011年 2月 6日(日)17時11分7秒

タイトル

「さつま」のハザは「門サキ」でありますね

 失礼致します。寒さと雪で外出する気が失せた、
2回目の乗車である「ED76109」であります。

 クモイ103様、ヒゲ無し雷鳥様及びマロネロ38様を始めとする先達の皆様

 小生の「戯言」に係り、色々とありがとうございます。
「さつま」のことがかなり見えてまいりました。
映画「張込み」のオープニングを飾った「10系PC」で、
一度「鹿児島」まで行きたかったですねぇ・・・
(小生が生まれた頃はすでに「鬼籍入り」ですけれど)。
 「RJ・列車追跡リバイバル・懐かしの国鉄客車列車(平成11年9月編)」の
「客車列車編成例」を確認いたしますと、以下のとおりでございました。
皆様方から、何か小生の「鉄勉強」の一つにでもと思い、記させて頂きます。

 昭和32年4月10日 東京・鹿児島下り急行「さつま」

 EF58105(東)+スロフ3014(仙セン・回送?)
  +マニ3276(東シナ・博多行)+オユ364(東シナ・博多行)
  +マロネ402(東シナ・博多行)+マロネロ384(門サキ・鹿児島行)
  +スロ5117(門サキ・鹿児島行)+オロ4010(東シナ・博多行)
  +マシ384(東シナ・博多行)+ナハネ1021(門サキ・鹿児島行)
  +ナハ1079(門サキ・鹿児島行)+ナハ1095(門サキ・鹿児島行)
  +ナハフ1033(門サキ・鹿児島行)+ナハ10111(門サキ・鹿児島行)
  +ナハフ1043(門サキ・鹿児島行)

 昭和30年1月8日 金沢・大阪普通532レ

 C622(宮)+マユニ7817(大ミハソ)+スニ7522(金トヤ・大阪行)
  +スロハ3270(金トヤ・大阪行)+オハ3134(金ツル・大阪行)
  +オハ35881(金サワ・大阪行)+オハ3545(金サワ・大阪行)
  +オハ351240(金サワ・大阪行)+オハ35574(金サワ・大阪行)
  +オハフ3040(金フイ・大阪行)+オハフ33505(金フイ・大阪行)

 長々と失礼致しました。以上、「中年客車鉄ちゃん」でありました。




投稿者

雑魚

投稿日

2011年 2月 7日(月)11時21分14秒

タイトル

水戸駅の機関車達

▼ED76 109様:
>「東京と鹿児島」を二晩で結んでいた「さつま」が考えられます。

クモイ103様による 詳述も踏まえるに、現在の感覚からすれば壮大な内容なのですね。
主要駅での停車中に、ホームで体を伸ばせる程度の余裕があったかどうか不明ですが、
ボックス席主体にあって、最長30時間余の乗車は、他に確たる移動手段が皆無ゆえに
止む無しとは云え、かなりしんどい「耐久レース」だった事でしょう。

この「さつま」には及ばないでしょうけど、1972年に北陸隧道で火災事故を起こした
下り「きたぐに」にしても、隧道の所定通過時刻が丑満時で、上越新幹線開業に伴う
1982年のダイヤ改正までは、現行「いなほ」の機能を集約していた、との事ですから、
一泊明けの末の青森着が深夜、正に先日、雪だるま様の御話にあった、16時間遅れで
札幌に到着した「はまなす」の構図、そのものと云った処でしょうか。

東京〜鹿児島で二泊を要する感覚は、九州新幹線の全通を間近に控えた今となっては、
隔世の感も甚だしいですが、その新幹線にしても、東京〜鹿児島直通便の設定は無く、
昨今の特急系統の分断傾向が、いよいよ新幹線にも及んだかの様な印象すら受けます。

掲出画像は、いわきでの特急系統の分断が決定した、常磐線の水戸駅構内の様子です。
昨日の撮影ですが、EF81が辛うじて一両残っているのが、妙に救いでした。改めて
比べると新型機のスマートさが良く判りますが「星カマ」の時と同様、肝心の客車が
皆無なのに、専用塗装機ばかり集結しているのは、悔しいですね。ダミーで良いので、
尾久から留置用に何両か回しい欲しい気もします。

対首都圏の交通導線の拠点であろう、鹿児島空港では、折からの新燃岳の噴火活動の
影響を少なからず受けている様ですが、同空港が、1972年に鹿児島市内から現在地に
移転したのは、桜島の火山活動を避ける意味合いもあったと聞きます。家畜伝染病に
翻弄される中での今回の噴火騒動に、地元の御苦労たるや、察するに余りありますが、
これ以上、被害が拡大しない事を祈るばかりです。




投稿者

仙コリ(管理人)

投稿日

2011年 2月10日(木)12時11分17秒

タイトル

長時間運行列車について

先日話題になりました、急行「さつま」などの2夜行急行列車を中心とした
長時間運行客車列車について、それらの列車が運転されていた
昭和20〜30年頃の時刻表を元に運転時刻の変遷をまとめてみました。

2夜行列車は、おそらく急行「さつま」が最後であろうと思われ、
最長運行時刻は32時間程度といった時代が長かったようですが、
ヒゲ無し雷鳥様の仰るとおり時代をさかのぼると運転時間はさらに増え、
特殊な例とはなりますが、戦後の復員列車として運転された
南風崎と東京を結んだ列車は40時間前後をかけて運転されていたようです。

掲載資料として、とりあえず東京と九州地方を結んだ列車について
運転時刻の概要を掲載しましたが、
今後、大阪−青森間の列車についてや、より詳しい時刻を掲載予定です。




投稿者

ED76109

投稿日

2011年 2月10日(木)21時32分39秒

タイトル

憧憬の長距離鈍行111レ

 おばんでございます。
「雪まつり」に出かける気力すらない「ED76109」であります。

 雑魚様
 >最長30時間余の乗車は、(中略)かなりしんどい「耐久レース」だった

    小生、年甲斐も無く未だに「長距離列車制覇」がマイブームのままであるように思います。
「10時間」以上乗車しないと「乗った」という感覚にならないのは「鉄」病でありましょうか。
今回、「管理人」様のご尽力により、長時間運行列車のデータを知り得ることができました。
心からお礼申し上げます。
その中で注目致しましたのは、「111レ(東京・門司)」であります。
昭和25年10月の時点で、
「東京発14:30・門司着22:01(2日目)」といったダイヤであり、
「門司」からは「511レ(鹿児島行・日豊本線経由)」、「411レ(長崎行)」
及び「都城行(肥薩・吉都線経由)」に接続する豪華版。
この時点では、「東京・静岡」及び「関門隧道」以外はSLが牽引したのではと想定されます。
上りの「112レ」は「門司発7:05発・東京着13:54(2日目)」。
現在では、想像すら不可能な「強者」での旅はどのようなものであったのでありましょうか。
しかし、これらの「強者」も同36年10月改正で
「姫路」を境に「2本の鈍行レ」に分割されてしまいました。
「鉄」親父から少し話を聞いているとは言え、
自分で「体験」したかった思いに駆られるものです。

 長々と失礼致しました。以上、懐古主義的な「中年客車鉄ちゃん」でありました。




投稿者

マロネロ38

投稿日

2011年 2月11日(金)10時58分26秒

タイトル

111-112レ

ED76109先生:
36-10改正で143レ東京14.56→姫路6.52、227レ姫路7.00→門司20.21ですが、大阪→
姫路間一度乗車しました。兵庫県の砥峰高原へ行くのに寺前から当時一日3本のバスの
初発を捕まえる為には、この列車しか連絡が無かったのです。
大阪からはガラガラでした。
上りが224レ門司7.37→大阪22.46,146レ大阪23.50→東京13.27
143レはスロフ43やオハ35、スハ43など車両は良かったですが。
如何してぶった切ったのか未だに不可解ですが、通しで乗車するのが鉄道ファンぐらい
だったのかも知れません。当時はまだ長距離鈍行の需要があった訳で、学生や一部
商用客は殆ど中、長距離鈍行利用でした。修学旅行も長距離鈍行でしたね。



倶楽部メモ(642) 平成23年 2月11日〜 2月13日

投稿者

雑魚

投稿日

2011年 2月11日(金)11時22分35秒

タイトル

引揚列車

▼管理人様:
> 戦後の復員列車として運転された南風崎と東京を結んだ列車は40時間前後

恐らくは立錐の余地も無い程に混み合う中での「耐久レース」状態だった事でしょう。
なぜ、佐世保でなく南風崎かと思えば、佐世保港内に錨泊した引揚船に接続した艀の
上陸先が、南風崎駅に近い浦頭港(何やら大陸的な響きです)だったのですね。一方、
ボート・トレインが接続した上海航路で知られた長崎港は、どうだったのでしょうか。
あるいは、原爆の惨禍で、港湾機能なぞ、到底覚束なかったのか?

徴兵で旧満州に渡った我が祖父は、封鎖前の38度線を列車で越え、釜山からの海路で
舞鶴に上陸したとの事。佐世保と同様、海軍鎮守府が所在した事で、軍備解体施策が
重点的に行われたと推察される一方「岸壁の母」に象徴される引揚船の帰港先という
印象が強いですね(祖父の場合、旧制中学時代に曽祖母が他界しているので、非該当)
という事は、中舞鶴駅(1972年廃止)からも、復員列車が運転されたのでしょうか?

舞鶴港と共に「日本のシンドラー」杉原千畝がリトアニアで「乱発」した通過査証で
一命を永らえたユダヤ人多数の上陸先として知られる敦賀港(上段画像参照)の場合、
米軍による機雷封鎖や空襲の結果、引揚船指定港内示を断らざるを得ない程に損壊が
酷かったそうですね。一昨年、貨物列車が廃止されましたが、港湾機能の増強に伴う
貨物取扱量の推移次第では、復活もあり得るらしく「オフレール・ステーション」の
名目の下、線路施設はその侭の様です(中段画像参照)

上記、浦頭港の所在地は「ハウステンボス」となった様ですね。雰囲気を好感した為、
同公園を複数回、訪れましたが「本国」に出張した時の印象からすると、同公園にも
路面電車があても良かったか、などと思うのでした(下段画像参照)



投稿者

ED76109

投稿日

2011年 2月11日(金)16時55分7秒

タイトル

昭和三十年代の「鉄話」

 失礼申し上げます。「ED76109」でございます。

 マロネロ38様
 >当時はまだ長距離鈍行の需要があった訳で、
  学生や一部商用客は殆ど中、長距離鈍行利用でした

 小生、「鉄」親父から「様々な鉄話」を聞かされております(「乗り鉄」の車中でしたが)。
以前にも記しましたように、昭和20年代後半から昭和33年ころまで、
「某商店の集金係」として全国を「鈍行レ」で走りまわされた経験をしております。
今日は、「鉄」親父から聞かされた思い出話を記憶の片隅から、ご披露いたします。

 1 「鉄」親父の仕事エリアは「西日本」が多く、
相手先から「電報」で「売掛金の支払日」の連絡が入れば、
時刻表を繰って「集金日」を返信。
そして「鈍行レ」で取りに赴くというものだったようでありました。
ですから、集金のボストンバッグを片手に「九州・中国」へは「111レ」、
「関西・中京」へは「131レ」、
そして「静岡・浜松」辺りへは「123レ」が定番だったようです。
何しろ、どこへ行くにも「最寄り駅の田町」から相手方の「最寄り駅」の往復運賃と
「僅かな日当」に、「日帰り」不可の場合は「一泊」分が足される仕組みだったようで、
「夜行鈍行レ」を愛用するようになったのでありました。
準急・急行料金など支給されることはなく、
「はと・つばめ」の類は「世界が違う列車だった」とのことで、
全くの無縁な存在だったようです。

 2 「マロネロ38様」が仰ったように、当時はどこに行くにも「鈍行レ」が主力であり、
「長距離運転の鈍行レ」が至るところで走っていたようであります。
ですから、「鉄」名所をほとんどゆっくりと「経験」できたようで、
話を聞いた小生はうらやましいやら妬ましい思いでありました。
特に「鉄」親父の印象に残っているのは、
「瀬野八」越えや「奥中山」等での「補機での峠越え」。
特に「瀬野八」は、先頭に「C62」で補機が「C59」という「豪華版編成」も幾度か経験。
一度限りだったようですが、
「昼間の八本松」で「京都行(?)のPC急行」の自動解放を見物したこともあるとのこと。
「まあ、何だかんだ言ったって、C62やC59の牽く鈍行に飽きるほど乗ったんだから、
贅沢な旅したんだろうなぁ。」
の一言は、小学生だった小生には大変「刺激的な一言」でありました。

 3 「鉄」親父たちは、新婚旅行先に九州を選んだのですが
、その理由に時代が感じられました。
と申しますのは「国鉄職員」だった「山」お袋が、
「昭和天皇の第5皇女ご夫妻」の九州ご訪問の様子を
「映画ニュース」で一見して、どうしても行ってみたくなったからだとのこと。
しかし「お袋」は、当時大人気だった「東京発20時のPC急行那智のロザ」を確保して
南紀へのハネムーンを計画していたようで、
上司に泣きついて改めて「PC雲仙のロザ」の往復を手配してもらい、
旅行後に「仲人」よりも先に2人で「お礼の挨拶」にはせ参じたとのことでした。
「お袋」達の話ですと、昭和30年代当時の「PC那智」は
南紀方面が新婚旅行のメッカであったことから、連日超満員の盛況で大盛況。
旅行会社は「那智」のチケット確保に大変苦労していたようであります。

 長々と失礼致しました。以上、「中年客車鉄ちゃん」でございました。


投稿者

太田拓也

投稿日

2011年 2月12日(土)07時22分57秒

タイトル

時刻表の編集ミス

管理人様へ

最近アップされました「長時間運行客車列車時刻変遷」はおそらくJTBの復刻版時刻表を
資料にされたのでしょうが、実は「主要駅時刻表」昭和22年6月号の10.11ページ
(東海道・山陽線上り)に間違いがございます。

30ページの長崎・佐世保線を参照いたしますと

8018列車は南風崎発23:31
おそらく編集者が11ページ作成時に304列車の早岐発と勘違いしたのでしょう。
これにより総所要時間はなんと43時間09分に。おそらく日本鉄道史上最長でしょう。
(関門トンネル開業前や石炭事情好転後にこれ以上の長時間は考えられない。)

8012列車は南風崎発15:40
特筆すべきはこの列車が東京を通り過ぎて上野着が6:23
東北出身者の便を図っての事と思われますが、上野発列車との接続はよくないです。

東北線列車の東京乗り入れは戦後さほど珍しくありませんが、
東海道線列車の上野乗り入れはこれが最初で最後ではないでしょうか?

投稿者のホームページ




投稿者

クモイ103

投稿日

2011年 2月12日(土)08時47分8秒

タイトル

南風崎からの引き揚げ列車

反応が遅れましたが、
「長時間運行客車列車時刻変遷」はたいへん興味深く拝見しております。

南風崎からの復員引き揚げ列車はいずれも臨時または不定期列車の扱いですが、
時代の状況を考えると頻繁に運転されていたのでしょうね。

このうち8012列車は、太田拓也様のご指摘のように、
時刻表昭和22年6月号の九州内のページを見ると南風崎15:40→上野6:23となっていますが、
山陽・東海道本線のページでは管理人様の書かれた南風崎16:12→東京5:55終着です。
焼け跡の中、人手の確保もままならない編集部で
校正作業に追われる部員の苦労がにじみ出ているようです。
終戦の昭和20年8月15日にも日本の鉄道は動き続けていた、というのはよく語られますが、
それに伴って時刻表の発行をはじめとする周辺の産業もまた動いていたわけで、
雑魚様の表現を借りればまさに「襟を正す」心持ちです。

3本の引き揚げ列車のうちこの1本だけが上野まで運転されたのは、
ご指摘の通り東北方面へ帰郷する人の便を図った措置でしょう。
もしかしたらこの8012列車の上野着を受けて、
接続する東北方面への臨時列車があったかもしれませんね。
もともと特殊な性格の列車ですから、時刻表に載っていないだけかもしれません。

なお接続時間については、現代の感覚で良し悪しを議論しても意味は無いと思います。
引き揚げ列車を運転するにあたっては、
まず当時の未曾有の車両不足の中で如何に効率的な客車や機関車の運用を組むか、
という問題が最優先にあったでしょう。
上野の接続をどこまで考える余裕があったか、疑問です。
一方乗客たる引き揚げ者の立場から見れば、
一刻も早く故郷の土を踏みたい気持ちもさることながら、
命がけの長い旅の末に辿り着いた「故郷への入り口」上野駅で、
今さら多少の(場合によっては数時間の)接続時間を厭う状況だったでしょうか。
むしろ今のような「○○線は△番線から**時**分の発車です。
お乗り換え時間が短くなっておりますのでお急ぎ下さい」
なんてことを、重い荷物を持ち、疲れ切った引き揚げ者に言うわけにはいかないでしょう。

勝手なことを書きましたが、
当時の人々の気持ちは、到底私の想像の及ぶところではありません。
それでも出来る限り「当時の状況」を想像して議論するしかないんですけど。




投稿者

マロネロ38

投稿日

2011年 2月12日(土)09時59分50秒

タイトル

復員列車

もう遠い記憶ですが戦後すぐ2年足らず京都住まいの時に、京都駅で度々見た記憶が
あります。兎に角寄せ集め編成で木造20m3軸車とか、デッキが吹きさらしの多分
元私鉄(山陽鉄道、関西鉄道タイプ?)とか、当時はまだ小学生(当時は国民学校の
名残)から新制中学1年坊主で、本格的な鉄ではありませんでしたので型式までは記憶
にありませんけれど、○○検車区とデッキの近くに書いてあったのを記憶しています。
そう言えば大阪から京都へ行くのに、遅れていた復員列車に乗っても良いとの事で乗車
した客車が、後年写真や片上鉄道の混合列車乗車経験から、明らかに元山陽鉄道の客車
だったのを覚えております。




投稿者

雑魚

投稿日

2011年 2月12日(土)11時16分50秒

タイトル

空襲下の鉄道

▼クモイ103様:
> 重い荷物を持ち、疲れ切った引き揚げ者に言うわけにはいかないでしょう

祖父は多くを語りませんでしたが、乗客一人当たりの荷の多さや、混雑時の乗降には
融通が効かないであろうデッキ構造、半ばアドリブ対応だったしても不思議ではない
ダイヤ編成、延いては、これを逃すと次の発車はいつになるか、もし「積み残し」が
多数発生すれば、更なる混乱が発生するのではないか、といった可能性を考慮すると、
上野駅では、あえて接続時間を長目に想定したと見るべきでしょうか。それでもなお
輸送能力が覚束ない場面も多々あり得た、とは思うのですが。

======================================================

さて、広島の惨禍の直後、山陽線はかなり早期に運行を再開していた旨、当掲示板で
一瞥した記憶がありますが「東京大空襲」の前後から本格化した全国各地での空襲は、
幹線の運行に、どの様に影響していたのでしょうね?

水戸の場合は、1945年 8月 2日に空襲を受け、軍事用品の生産拠点たる日製の工場と
その輸送手段たる常磐線(特に運行拠点の水戸駅?)が主な攻撃対象とされた様です。
詳細は存じませんが、それ以前に勝田や日立に対して行われた艦砲射撃を勘案すると、
復旧には相応の時間を要したと思われます。また、どの程度の戦略効果があるのかは
判りませんが、水郡線沿線の知人によると、水戸から離れた農村で朝の通勤時間帯に
旅客列車が機銃掃射を受けた事もあったそうです。

戦時下でもどうにか輸送体制を維持し、戦後の占領政策など、政治的な環境が様々に
作用した背景はあるにせよ、1960年代半ばに全く新しい発想の高速鉄道(新幹線)を
実現ならしめた、インフラとしての鉄道の優秀性は、当時の国力を定量的に見る上で
大きな指標たり得ると感じるのでした。




投稿者

ED76109

投稿日

2011年 2月12日(土)12時06分1秒

タイトル

混乱の中での希望の光「復員列車」

 明日の大雪が気になるところの「ED76109」でございます。

 先達の皆様方

 「南風崎」からの復員列車が話題に上っておりますが、
小生は「東舞鶴」からの当該列車について、少々述べさせて頂きます。


 「舞鶴」では、「東舞鶴」駅の隣接する形で「引上地方援護局」が設置されたことから、
昭和22及び23年度は「京都・東舞鶴」に2本、
「上野・東舞鶴」に1本の「引き上げ列車」が設定されました。
乗車人員の関係で、当日の車両数が決定されたとのこと。
なお、「京都行」のダイヤは次のとおりであります。

 「8420レ」 東舞鶴11:17→京都14:46
 「8424レ」 東舞鶴16:34→京都20:18
 ※ 「上野行」に係るデータは不明。

 同24年度は、上記の3本に加えて「青森・東舞鶴」が設定。
翌25年度には「京都」及び「上野」へ1本ずつの2本の設定へと改訂されております。
(「鉄道史を彩る十五の名場面・昭和を走った列車物語」
JTBキャンブックス・浅野明彦著・平成13年編)

  なお、以下にその他の「復員列車」に係るダイヤが記載されております。

 ○東海道・山陽
  「8015レ」 東京14:55 → 大阪 5:26
  「8016レ」 大阪22:58 → 東京13:04 → 上野13:17
  「8019レ」 京都15:57 → 大阪16:52(→ 門司 7:20)
                    ※ 京都・大阪のみ復員・引き揚げ者専用レ
  「8020レ」 門司21:38 → 大阪13:21

 ○北陸
  「8519レ」 大阪21:50 → 富山8:09
  「8512レ」 富山19:20 → 大阪6:00

 ○東北
  「8107レ」 上野19:10 → 青森17:10
  「8108レ」 青森21:40 → 上野17:47

 当時は、「石炭不足」によるウヤも少なかったようでありますが、
「連合軍専用レ」及び「復員・引揚レ」は最優先で運転されたそうであります。

 長々と失礼致しました。以上、「中年客車鉄ちゃん」でありました。




投稿者

クモイ103

投稿日

2011年 2月12日(土)17時31分9秒

タイトル

復員列車 上野駅での「接続」

雑魚様>

> 上野駅では、あえて接続時間を長目に想定した

当時の感覚としては(←決まり文句ですね)、
乗客にも国鉄にも「とにかく上野まで行けば東北本線が出ている」
くらいの感覚しかなかったのではないでしょうか。

8012列車の多くの乗客は、おそらく大陸の港で日本へ向かう船を何日も?待ち、
日本へ着けばまた列車を何時間も何十時間も待ち、
挙げ句はすし詰めの列車に40時間も揺られて上野駅に降り立ったことでしょう。
そこから故郷へは、まだ何時間も列車に乗らなければならないのです。
ED76109様が引用して下さった各線の運転時刻の関係を見ても、
上野駅では「接続」という感じではありませんね。
むしろ、半日やそこらは休憩時間として必要だったような気さえします。




投稿者

ヒゲ無し雷鳥

投稿日

2011年 2月12日(土)18時37分32秒

タイトル

復員列車

昭和21年4月の公報によりますと4・15より当分の間、東海道・山陽で15往復、
東北・裏日本で9往復の毎日運転+必要に応じ運転の2種類の復員輸送用臨時列車を
設定、とあります。
が、実際には敗戦以降8月には既に本土防衛や外地出征待ちの基地待機兵士の帰郷に
復員用臨時列車が運転されたと思しき記録が散見されます。

長時間運転列車番外編としてですが横浜札幌間を30時間前後で結んでいた
ヤンキーリミテッドがありました。
連合軍専用・リミテッド(特急)・客車航送・豪華編成・東京上野直通運転・
東室蘭経由と話題が豊富で他の長時間運転列車とは一味違います。
日本国内で2夜行の特急列車は後にも先にもこれだけではないでしょうか?




投稿者

仙コリ(管理人)

投稿日

2011年 2月12日(土)23時32分44秒

タイトル

復員列車の時刻

本日も仕事だったためレスが遅れました…
復員列車の時刻についてですが、
確かに元資料であるJTBの復刻版時刻表には不明な点があるのですよね。
私自身悩みながら掲載してしまいまして、皆様にご迷惑をおかけしました。
複数の資料を再検証してみたのですが、
8012列車に関しては上野までの運転で間違いなかったようなので、
南風崎(はえのさき)発の時刻も15:40であるようです。
8018列車の南風崎発の時刻も、上記の間違いもありますので、
鹿児島・長崎本線の時刻が掲載されている
ページの23:31発が正しいと思われますので、掲載時刻表を訂正させていただきました。
ただ、この区間を含めて8018列車だけが他の列車と比較して
非常にゆっくりと走っているのが謎ですね。
(南風崎−鳥栖間の所要時間を比較しますと、他の列車の所要時間は3時間半程度なのですが、
8018列車だけ約5時間となっています。)



「客車倶楽部」へ
夜行列車や旧型客車列車の音や資料を掲載
客車専門サイト「客車列車の旅」はこちらから
現在や過去の夜行列車に関する資料を掲載
全盛期の時刻表データ等も掲載しています
掲示板「客車倶楽部」本体へはこちらから
過去ログ「倶楽部メモ」もこちらから
 
客車専門サイト「客車列車の旅」