倶楽部メモ:客車倶楽部過去ログ集:客車列車の旅

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C57牽引の旧客急行701レ「出雲」


倶楽部メモ(559) 平成21年10月 9日〜10月16日



投稿者

マロネロ38

投稿日

2009年10月12日(月)15時21分5秒

タイトル

昭和30年の急行列車

ED76109先生:
先生が見られたら「ウワーッ」!!で前原国土交通大臣が見たら
羨ましがる様なのを今管理人さん宛に投函してきた所です。
戦前から「ローカル急行のぴか一」と言われた401-402レの戦後版で
401-402レ時代の生き残りスハニ32が先頭に連結されています。
管理人さんがアップして下さったらご感想をお願いします。




投稿者

仙コリ(管理人)

投稿日

2009年10月14日(水)23時21分30秒

タイトル

昭和30年の急行列車画像

マロネロ38様から画像が届きましたので、代理アップさせていただきます。

昭和30年8月に撮影された、大阪経由時代・大社行の急行701レ「いずも」
牽引機は福知山区のC57128(重油併燃)
撮影地は福知山線・中山寺−宝塚間




投稿者

マロネロ38

投稿日

2009年10月15日(木)10時50分31秒

タイトル

急行701レ「出雲」

当時の時刻表が無いので編成の解説はお持ちの方にお願いしますが、
「瀬戸」併結時代と想います。
実は大阪駅で入れ替えを見たのですが、半世紀以上前の記憶なの
であやふやです。
1)C57が「出雲」基本編成を牽いて大阪駅4番ホームに到着。
2)C57+スハニ32がホーム先端の切り欠き部分に移動。
3)3番に 「瀬戸」到着。
4)スハフ42とスハ43,スロ53が切り離されてC59かC62が入れ替えで4番の
  オロ35以下の基本編成に連結。
5)C59かC62が3番へ戻り「瀬戸」に連結。
6)C57+スハニ32が4番へ戻り先頭車オロ35に連結。
こんな入れ替え状況だったと想います。
当日始めてスロ53を見たのでそちらに気をとられていたので,
ざっとこんな記憶です。
スハニ32は戦前の「大社急行」(ローカル急行のぴか一といわれた、
停車駅が少なくて速かった)401-402レ時代にも使用されていました。
------------------------------------------------------------
401-402レ時代の停車駅:大阪‐三田‐福知山‐和田山‐豊岡‐城崎‐
鳥取‐上井〔現倉吉)‐米子‐松江‐出雲今市(出雲市)‐大社。
上り402レは下り401レと離合の為「荒島」停車。

ED76109先生やPCファンの方々がこの写真にご満足下されば幸いですが。




投稿者

ED76109

投稿日

2009年10月15日(木)22時09分1秒

タイトル

「貴婦人」が牽引する急行への憧憬

 おばんでございます。「ED76109」であります。

 マロネロ38様

 小生には、憧憬でしかあり得なかった
「C57牽引の旧客急行」には感動の一言であります。
関係サイト等を確認しましたところ、以下のようであります。

 戦前、「大阪・大社」間に運転されていた「急行列車」が、
昭和22年に6月に「昼行準急列車」として運行を復活致しました。
しかし、この時点では「いずも(出雲)」の愛称はなかったようであります。
その後、同26年の11月に急行に格上げされて、
「いずも」の列車愛称を与えられるとともに、
編成の一部が「大阪」から「東京・ 宇野」間急行「せと」に併結が開始され、
「東京・大社」間の運転となりました。
さらに、同29年からは「大阪」から「浜田」発着の編成の連結が
開始されたようであります。(「出雲市・浜田」間は快速)
  「福知山線経由のいずも(出雲)」は、鉄道物のミステリー作家「鮎川哲也」氏が、
「急行出雲」という「車両の増結に係るトリック」をテーマとした
短編推理小説として、
また、「松本清張」氏の名作「砂の器」で
「今西警部補が亀嵩行」の際の乗車列車として、
昭和30年代に取り上げており、名作の舞台としても有名であります。
「東京」からほぼ1日かがりで「浜田」まで辿る、夢のような列車。
小生は、昭和55年の春に「いなば」で「東京・米子」に乗車した程度で、
「出雲」を冠した列車には乗車経験はありませんでした。
 そういえば、「マロネロ様」は当地でも「準急石北」の前身列車で
「C57牽引の旧客列車」にご乗車とのこと。
まさしく「鉄道黄金時代」のお話、感動しながら拝見させていただきました。
ありがとうございました。

 長々と失礼致しました。
以上、「旧客レの思ひ出」が走馬灯の如くに蘇ってきた
「中年客車鉄ちゃん」でありました。




投稿者

クモイ103

投稿日

2009年10月15日(木)22時43分16秒

タイトル

Re: 急行701レ「出雲」

マロネロ38様

見事な編成写真を見せて頂き、ありがとうございます。
宝塚の手前でこの風景とは、やはり時代を感じます。

ちょうど昭和30年8月の時刻表復刻版を持っていますので、
早速編成図を確認しましたが、正に写真の通りでした。
1両目ハニ(スハニ32)は号車番号が無く、
2両目ハ(スハフ42)が1号車で以下8号車までの9両編成。
図の脇に「1,2,3号…東京−大社 以外は…大阪−浜田」
という注釈があります。

ちなみに運転時刻は、東京発22:30、大阪着9:30/発9:50、宝塚発10:20、
大社着18:35、出雲今市で分かれた一方の浜田着は20:16でした。
なお、「せと」の大阪発は9:40なので、
マロネロ38様が解説して下さった大阪駅での入れ換え作業中、
3)から5)までの所要時間は10分以内だったことになりますね。




投稿者

マロネロ38

投稿日

2009年10月16日(金)15時10分17秒

タイトル

急行「出雲」

ED76109先生
クモイ103さん
拙昨に過分なご評価光栄に存じます。
C55-C57は煙モクモクよりも、薄い煙をたなびかせて走っている姿が
一番美しいと想います。
大阪駅での入れ替えは慌しいものでした、
「瀬戸」は機関車が再び連結されるとすぐに発車して行きました。
当時大社へはハx2+スロ53が行き、スハニ32+オロ35----が浜田行きだったので
すね。
大社へ行くオロ35の客はこの区間指定券無しでスロ53に乗れた???
戦後準急で復活した時は酷いものでした。オハ二30+オロ31+ハは種々雑多で、
滅茶苦茶なのは、スロハ32x2それもローハ+ローハの真中にハが入るなど、
どちらかを転車台で転換してロ側同士連結したら良いのに-----でした。

「石北」の前身は例の「インチキ準急」で網走からC58、遠軽からD51、
旭川からC57だったと想います。
岩見沢で室蘭本線に乗り換えました。W屋根のスロハフ30.




倶楽部メモ(560) 平成21年10月18日〜10月20日



投稿者

クモイ103

投稿日

2009年10月18日(日)07時44分33秒

タイトル

Re: 急行「出雲」

マロネロ38様

> 大社へ行くオロ35の客はこの区間指定券無しでスロ53に乗れた???

 確かにスロ53(特ロ)は大社編成、オロ35(並ロ)は浜田編成ですから、
大社線内では、当時としては異例の特ロのみ連結の豪華(?)列車
という事になります。
 昭和30年当時の特ロは指定席ではなく、特別2等車料金を支払って乗る
「ワンランク上の自由席車」だった筈ですが、
昭和33年10月改正で2等車が指定席車+自由席車の体制に移行した後も、
指定席車スロが大社行き、自由席車オロが浜田行き
という関係が続きましたから、同じ事ですね。

 時刻表S30-8の大社線の欄を見ますと、
「701.702 出雲今市−大社 普通2等なし」とあります。
従って、オロ35の客がこの列車で大社へ行こうとしたら、
大社線内だけ特別2等料金(300キロまで300円)を払うか、
さもなくば下級変更するしかなかったと思われます。
 元々この列車で大社を目指そうという人の殆どは
「非日常の特別な旅行」をする人で、
当時人気のリクライニングシートの特ロを選ぶ人が多かったので
大した問題にはならなかった…のでしょうか?
 今の感覚では、特例措置で普通2等客も特ロに乗車可能
なんて事も考えつきますが、
当時はそういう発想は無かったのでしょうね。

 なお、その後36-10改正の直前には、指定席車も浜田行きとなり、
大社行きはオール「ハ」の編成になっていました。
出雲市−浜田間が急行に格上げされたことと関係ありそうですが、
「出雲詣で」よりも地元の都市間輸送のウェイトが高くなった
という事なのでしょうか。




投稿者

ユーラシア鉄道

投稿日

2009年10月18日(日)10時06分0秒

タイトル

貴婦人C57-128の撮影地

<マロネロ38様>

 貴婦人の優雅なるお写真、有難うございます。

 撮影地ですが、中山寺駅を通過後の小川にかかる鉄橋の手前かと
推察いたします。
 現在では「ダイエー中山寺店」の少し東側地点と思われます。

 終戦前後の宝塚界隈の話を、小生の母上(父上は軍務中)に尋ね
ますと、阪急宝塚線でも電車は1〜2両で、沿線周りは竹林の連続
で、空襲警報発令時は、電車が停止し竹林の中に隠れたと申してお
りました。

 戦時中は、中山寺駅南東方向に、軍需工場があり、専用引込線が
(現在も天井川トンネルが自動車道として残っています。)あり、
宝塚村内(当時宝塚は温泉・歌劇・停車場[駅]の名称で住居表示
は兵庫県川辺郡小浜村、長尾村でした。)の米軍空爆目標は、この
軍需工場でした。

 ただ宝塚市内でも中山寺駅(「停車場」の表現のほうが詩的?)
近辺は、コーナン、上新電機ができるまでは日本の原風景が残って
おりました。

 福知山線でこの風景を求めるなら「相野」まで行かなければ?
[相野駅」での、朝夕のみに残る113系通勤「列車」の到着に
合わせた、働く夫の出迎え光景に、汽車時代の憧憬を重ねてしま
います。
 つい2−3年前までは、113系は湘南色の美しい編成だった
のがJR西日本色に変わりました。


 長閑な日本の原風景に貴婦人+旧型客車(当時はこれが当たり前)

     **これ以上のものは、ございません**

 いいお写真有難うございました。

 以前にも掲載させて頂きましたが、貴婦人いるのあたりで撮影
しました写真を再掲載させて頂きます。

<中山寺駅西方・小川を越えたばかりのキハ26X9連>

<  同   ・小川手前ダイエー中山寺店脇のDD51> 




投稿者

マロネロ38

投稿日

2009年10月18日(日)10時23分31秒

タイトル

急行の特ロ

特ロは最初から指定席制で席番が決まっていました。
特別2等車指定席だったのです。
昭和31年8月10日乗車の602レ大阪→金沢の「特別2等車券」を保存して居ますが、
13時50分発、602列車2号車41番。
昭和28年の602レ分裏面には姓名と年齢が書いてあります。
(申し込み書に姓名年齢を書かされた)
昭和33年10月改正で「急行のロはすべてリクライニング車」になって、
車両が足りないと定員の半分ぐらいが自由席でした。
最も特ロの需要が多い急行には従来の並ロが暫く連結されていました。
601-602レは上野‐福井に短縮され、
大阪‐富山に悪名高い鈍足のおんぼろ急行503-504レ「立山」が新設されましたが、
これは指定席スロ60+自由席スロ50か51、
「しろやま」などは遅くまで並ロがオロ40の日がありました。

当時701-702レの特ロは多分出雲今市→大社間オロ35の客を黙認していたか、
発券当時「異級乗車券」発券だったのか?も知れません。




投稿者

マロネロ38

投稿日

2009年10月18日(日)17時18分54秒

タイトル

中山寺の軍需路線

戦時中中学生で勤労動員された方の話では、戦車工場だったそうで、
結局使用されなかったらしいです。
C57128は確かに鉄橋の手前で撮影しました。
ハエたたきと煙突がかぶらない様にしたのです。
広角があればもっと良い写真が撮れたのですが、
当時は大学入学祝いに父が買ってくれた,
キャノン4sb,f1.8,50mmしかなかったのであんな離れた構図になりました。




投稿者

クモイ103

投稿日

2009年10月18日(日)19時54分1秒

タイトル

Re: 急行の特ロ

マロネロ38様

特ロがはじめから指定席制だったとは、不勉強でありました。
ご教示感謝いたします。
昭和33年10月改正に絡むピクトリアルの記事を読んでも、
そのことが読み取れませんでした。




投稿者

ユーラシア鉄道

投稿日

2009年10月18日(日)19時56分35秒

タイトル

想い出のフォトアルバム11

 福知山線の想い出写真です。

 事故問題でにわかに喚起されていますが、長閑な時代の写真です。

<宝塚電化後の高架を行くDD51(中山寺駅東方)>

<中国自動車道下のDD51(中山寺ー宝塚間)> 
 
 

<阪急雲雀丘車庫下の大阪行きDD51(川西池田手前)>




投稿者

ユーラシア鉄道

投稿日

2009年10月18日(日)20時08分1秒

タイトル

想い出のフォトアルバム12

 続投で失礼致します。

 電化前・電化後と交錯して恐縮です。

<電化前・福知山行きキハ26・キハ17混結編成>

<武庫川渓谷を行く大阪行きDD51> 
 
 

<篠山口駅留置線の大阪行き客車(今は223系電留線)>




投稿者

クモイ103

投稿日

2009年10月18日(日)20時59分2秒

タイトル

続・急行の特ロ

 改めまして、特ロの話題を続けさせて頂きます。
 昭和33年10月改正を境に、急行列車のロザをめぐる旅客制度が
大きく変わっています。
例によって、ちょっと長いですが文献引用です。

鉄道ピクトリアル第87号(1958-10)
「改正された旅客営業規則」(平林喜三造)より抜粋
****************
 普通急行列車の2等サービスの改善については,
特別2等車の増備と併せ研究していましたが,
この10月から,いよいよ普通急行列車の2等は
原則として特別2等車とすることとなります.
すなわち従来は特別2等車料金を要する特別2等車のほかに
必ず普通2等車を連結運転していましたが,
こんどは特別2等車のみの連結とし,
2両の場合はそのうち1両を指定席,1両を自由席
(当分の間自由制の車両は車の都合で普通2等車を連結する場合がある)とし,
また1両の連結で充分なものでは,その1車両の中に一部分を指定席,
他を自由席とすることとします.
このようにして2等車の連結の合理化によって生み出された列車のけん引余力は
3等寝台車の増結にあてられます.
ところで,この座席指定制の採用によって,あらたに座席指定席券を発売し,
距離に関係なく2等200円の料金をいただくことになりました.
****************
 この最後の方の記述で、「指定制が新たに採用された」
と思い込んでしまったのでした。_l ̄l○

 なおこの改正から、急行列車の特別2等車料金が免除される様になった事が、
時刻表の営業案内から確認できます。
距離によって300円〜720円の特別2等車料金が、
200円の指定席料金に代わった訳で、実質の値下げですね。
 ちなみに当時、準急以下の列車には特ロは連結されていなかったので、
これで特別2等車の制度が事実上消滅したことになります。
 名目だけとなった特別2等車の制度は、
翌昭和34年6月1日に正式に廃止されました。
車両称号規程が改正されて「特別2等車」の名称が消滅したことが、
前日5月31日付けの鉄道公報から確認できます。
 但し、宇高航路の特別2等船室料金60円はその後も存続していました。




投稿者

マロネロ38

投稿日

2009年10月20日(火)10時16分34秒

タイトル

601-602,503-504レ訂正

訂正します:
31-11-19改正で601-602が上野‐福井に短縮、503-504レ「立山」新設でした。
「立山」の初日は優等車が601-602レ時代のスロ51+スロ34からスロ60+オロ40と
並ロが悪くなり、スロ60も「つばめ」のお古でした。
「ハ」はスハ43系。「大ミハ」持ちでした。
33-10-1改正で並ロがスロ50か51になったのでした。
以上訂正させていただきます。



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