倶楽部メモ:客車倶楽部過去ログ集:客車列車の旅

倶楽部メモSP
実は一般庶民でも乗れた「イネ」「ロネ」
イネ・ロネには本当に上流階級しか乗れなかったのか?


倶楽部メモ(457) 平成20年 9月25日〜 9月27日


投稿者

らん丸

投稿日

2008年 9月25日(木)22時51分35秒

タイトル

実は一般庶民でも乗れた「イネ」「ロネ」

最近発売された鉄道ピクトリアルにも他の本にも
「イネ・ロネは上流階級しか乗れなかった」という記述をよく見ますが、
実際はそうでしょうか?

「乗れない」理由はあくまでも2等は3等の3倍・1等は3等の6倍の
運賃を払わなければならず、
当時の平均年収と比較して「非常に高すぎる乗り物」だった
(故に昭和30年に1等寝台が2等寝台に格下げされた)ので、
必然的に金持ちと無料パスを持っている
国会議員、外人観光客しか乗らなかったのにすぎません。
もしも、その様な「規定」があるのなら、
内田百けん(表示されないので仮名で書きます)の「阿房列車」
(先生は借金してでも1等に乗った)は出来なかったと思う。

明治以降、一応「階級制度」はできましたが、
実際は「皇族とその他大勢」という形であり、
御料車とマロネフ59(三直宮用)以外は
「カネさえ積めば何でも乗れた」というのが現実なのです
(祖父が交通公社にいた関係で、
祖母や父から聞いた話の中にこの話があります)・・・
現代に置き換えて、18歳の少年が「お金次第で」マイバッハやフェラーリを
買う事が出来るのは日本位だという話
(欧米に限らず、他の国ではたとえ金持ちであっても
「階級・階層による選別」があるので絶対にありえない)もあります。

現実、一等寝台を「道楽」で乗っていた
(普段の生活を切り詰めても道楽に命をかける人はどの時代にもいました)
「普通の庶民」もいるだろう。
では何故、こういった「事実」を書かずに「上流階級の乗り物」
という「空想的」な事しか書かないのだろうか?


投稿者

マロネロ38

投稿日

2008年 9月26日(金)16時27分39秒

タイトル

イネ、ロネの乗客

P誌の記述は間違いでしょう。私の父は戦前神戸で小さな会社を経営して居ましたが
17‐18レ(1。2等急行)のロネで東京出張、507-508のマロネロ38、時には7レ
のロネで帰神したり(17レが取れなかったら)しました。私も両親と「かもめ」で
上京、北陸経由で帰った時に602レ(急行)の「ロネ昼間開放」に金沢から乗りました。
1等は大臣、高官、佐官以上、大会社社長、代議士が多かったのは事実でしたが
内田百先生みたいな「贅沢汽車旅族」でも商店経営者でも
運賃を払えば余程のオカシナ風体でない限り乗れた筈です。
喜劇役者の古川ロッパなども「富士」の展望車で興行旅行した記述があります。


投稿者

マロネ29

投稿日

2008年 9月26日(金)17時57分47秒

タイトル

RE:実は一般庶民でも乗れた「イネ」「ロネ」

らん丸様の書き込みを拝見し、人によって感じ方が異なるんだな、
文章を書くのは難しいなと感じています。
(私はピクトリアルの著者ではありませんし、著者を擁護する目的もありません)

>「乗れない」理由はあくまでも2等は3等の3倍・1等は3等の6倍の
>運賃を払わなければならず、
>当時の平均年収と比較して「非常に高すぎる乗り物」だった

これは事実であり、全くその通りでしょう。

>現実、一等寝台を「道楽」で乗っていた
>(普段の生活を切り詰めても道楽に命をかける人はどの時代にもいました)
>「普通の庶民」もいるだろう。

ここで認識に差が出てくるようです。
現代はフツーのOLが数ヶ月の倹約の結果として
ルイ・ヴィトンのバッグを手にすることが普通のことです。
しかし、この感覚は「一億総中流」と言われるようになった
昭和40年あたりから以降のことなんですね。
江戸時代の士農工商という厳然とした身分制度から
100年の歳月を経て「一億総中流」に至った訳で、
この100年間を現代の感覚で語ってしまうと
大きな間違いを犯してしまう可能性がありますね。
1等寝台が廃止された昭和30年より前は、
「切り詰める余裕すらない庶民」が多数存在していました。
また、「道楽に命をかける人」は余裕がある層であり、
「庶民」という範疇に入るかどうか微妙かと思います。
おそらく、らん丸様はマロネ29、オロネ10やナロネ21の
現役時代をご存知ない世代なのかと推測しております。
このような昭和40年以前の社会情勢を知っている世代としては、
『「上流階級の乗り物」という「空想的」な事 』とは思いませんし、
『こういった「事実」』が書かれていなくとも違和感はありません。

客車の話題から離れてしまって申し訳ありません。
ちょっと違和感がありましたので書き込みさせていただきました。


投稿者

EF6113

投稿日

2008年 9月26日(金)19時50分9秒

タイトル

百けんは偉い人

マロネ29様のおっしゃるとおり
「イネ・ロネは上流階級しか乗れなかった」という記載は
「お金を持っていても社会的地位が高くなければ乗ることができなかった」
ということではなく、「イネ・ロネに乗ることができる、
乗ることを考えるほど余裕のある経済力を持ってる人、
会社、職場からイネ・ロネを使用した運賃を出してもらえる人は
とても少なかった」ということでしょう。

新幹線開業前にクロ151に乗ったことがある人を探したことがありますが、
今のところたった1人だけしか見つかりません。
その方のお爺さんが旅館業で財をなし、乗り物好きということで
その方が小学生時代、家族旅行の際に区分室に乗ったことがあるそうです。
もちろんお爺さんが旅費を出したとのこと。

内田百けんは戦前は陸軍士官学校教授、法政大学教授、海軍機関学校の
非常勤講師をしていました。
とても「偉い人」だったわけです。
教員をやめたあとも日本郵船の非常勤をしていましたが、
郵船の本社で個室を与えれるぐらいかなり優遇されています。
少なくとも2等を利用した出張費が出るポジションにはいたと考えられます。
戦後の「阿房列車」についても、
一緒に行動した平山三郎氏は国鉄勤務であることから、
「阿房列車」の執筆は国鉄のPR目的だったと思いますので、
国鉄が百けんから実際お金を取ったか大いに疑問です。
そうでなくても出版社が立替えていたと思います。

名もない庶民の「旅」は映画「張り込み」に出てくる
「三等の座席車に新聞紙引いて」というのが
実際だったのではないでしょうか?


投稿者

下総守こみやさん(^^)

投稿日

2008年 9月27日(土)12時04分54秒

タイトル

Re:実は一般庶民でも乗れた「イネ」「ロネ」

いろいろな文献を見るとお金さえ出せば乗れたと思います。
その料金が払えるかどうかの問題ですよね。
但し、富士のマイネ38の特別室は皇族方の為に
一般の人にはご遠慮願っていたみたいです。


投稿者

赤まんと

投稿日

2008年 9月27日(土)20時10分38秒

タイトル

昭和最後に登場した、庶民のための豪華列車

みなさまこんばんは。
なにやらイネ、ロネの話題で盛り上がっている様子で、興味深く拝見しております。
件の「ピクトリアル」は私も買って、暇を見つけては少しずつ楽しんでおります。
さて、イネ、ロネは一般庶民にも乗れたかどうか、ですが、
私は「あさかぜ」からナロネ20が引退する直前に生まれたため、
当然当時のことは資料でしか知りえません。
それとなく両親に訊いてみると、とてもではないが1等寝台など無理、
というか、大半の一般庶民には、よほど旅慣れた人、
旅や鉄道そのものが好きな人以外、1等寝台、1等車に乗るなどというふうには、
考えもつかなかったといいます。
昭和30年代は高度成長が始まったとはいえ、まだまだ日本全体が貧しく、
生活することで精一杯。
レジャーという言葉が生まれても、
その恩恵に与れるのはよほど恵まれた人たちであり、
ごくごく少ない割合だったと話します。
現在はたとえ学生であっても、アルバイトで貯めたお金で、
「カシオペア」なり「トワイライト」なりに乗れはします。
が、少なくとも国鉄黄金期は、何と表現したら良いか、
適切な言葉が浮かびませんが、
まだまだみな自らの「分」みたいなものをわきまえており、
仮に1等車に乗れるようなお金がたまたま手に入ったとしても、
そんな贅沢はしなかったというのです。
1等車や特急列車というものはまさに特別な存在であったというのは、
別に鉄道に興味を持たない両親の話からも伺い知れます。
尾久は特に都内でも下町であり、どちらかといえば、やはり貧しく、
日々生活するのに懸命な住民の町だったのです。
したがって、中には幸運にもイネ、ロネや、
その後の1等車に精一杯贅沢して乗ることができても、
そういう人でさえ、一般の人から見れば、充分恵まれた人、ということのようです。
私は、既にいろいろな特集記事にあるように、庶民には高嶺の花であり、
とても手が届くようなものではない、特別な存在だった、と捉えるほうが、
より一層、1等車の価値、輝き、ロマンといったものが高まると感じています。

話はガラリと変わりますが、昨日、都内某所へ、
トミー「さよなら銀河」セットを買いに、
蓮田9時06分発逗子ゆき湘南新宿ラインに乗りました。
その4分前、定時に「北斗星」が通過してゆきました。
3795本目の編成記録はバッチリで、意気揚々、E231系に乗り込みました。
列車は滑らかに走り、川口を過ぎ、いよいよ荒川橋梁にさしかかり、
都内に入ろうかというところ。
60キロ程度でのんびり走る「北斗星」を難なく抜き去りました。
このダイヤにはびっくりしました。
こちらが赤羽に停車中に抜き返されましたが・・・。
昭和末期に登場した、庶民のための豪華列車
(スミマセン、ピクトリアル誌から表現を借りました)は、
後続の通勤列車に抜かれてしまうダイヤなのでした。
蓮田〜上野は35キロほど。各駅停車は35分前後で走ります。
「北斗星」は大宮にしか停まらないのに、上り39分、下り35分所要です。
ゆったり走るのはいいのですが、通勤列車に抜かれるとなると、複雑です。

長々脱線した内容、失礼いたしました。
留意したつもりですが、不適切な表現がございましたら、お詫びいたします。


投稿者

マロネロ38

投稿日

2008年 9月27日(土)20時14分50秒

タイトル

マイネ38

皇族用車でしたが皇族が利用されない時は陸海軍の将官や代議士が利用したの
では?
「大本営が震えた日」(吉村 昭著)に開戦直前に会議を終えた山本五十六
が徳山まで行くのに「富士」にイネを増結して、怪しまれない為に他の海軍
士官もそのイネに乗車させた---との記述があります。徳山は海軍燃料廠があった
所ですが----


投稿者

クモイ103

投稿日

2008年 9月27日(土)20時35分35秒

タイトル

Re:実は一般庶民でも乗れた「イネ」「ロネ」

 くだんのピク誌を本日入手しました。これでやっと話題に参加できます(笑)。

> 何故、こういった「事実」を書かずに
「上流階級の乗り物」という「空想的」な事しか書かないのだろうか?
…という疑問をお持ちになったらん丸様は、
何かご自分で答えを見つけるための努力をなさったのでしょうか…
という点も気になりますが、まあそれは置いといて…

 今回のピク誌の文章では「上流階級」でなく「特定の身分」
という文言が使われていますから、その表現に従いますね。

********

 いま大宮の鉄道博物館に保存展示されている1号機関車が、
文明開化の牽引車として華々しくデビューしたのは明治5(1872)年。
当時の運賃は「下等」でさえ37銭5厘(米一升が5銭)と、
とうてい庶民が気軽に利用出来るものではありませんでした。
しかし、それでも多くの江戸っ子、ハマっ子が利用したようです
(当時ハマっ子という概念は無かったか(^^;)。
 開業式典と記念列車には天子様もお出でになったという「陸蒸気」ですから、
多くの庶民にとっては、それに乗ること自体が特別な「ハレ」の行為
だったと解釈して間違いないでしょう。

 「ハレ」とは、正月をはじめ儀礼や祭りなどの(良い)「非日常」のことです。
それに対して、生活時間の大部分を占める「日常」は「ケ」と呼ばれ、
この2つは対をなします。
「ハレの日」には庶民も特別な正装をして、特別な食べ物を頂き、
普段接することの叶わない「特定の身分」の人とも同席したり、
場合によっては親しく会話できたりもします。
 …なんて話は、実はせいぜい数十年という短い間に、
私たちが急速に忘れてしまっただけで、
もともとは日本の風土に古来根付いてきた常識…
というか「自然な感覚」だったんですね。

 鉄道が普及し、「下等」(のち「三等」と改称)は
庶民が普通に利用するものになっていきましたが、
「上等」(→「一等」)は、やはり「特定の身分」の人のものでした。
 なお、「中等」(→「二等」)は、庶民が「ちょっとした贅沢」
で乗れる感覚だった様です。
それをうかがえるのが夏目漱石の名作「坊っちゃん」で、
松山に赴任した主人公が仲間と連れだって道後温泉に出かける際、
「青切符」(=二等)を奮発するというくだりがあります。

 坊っちゃんはその後「湯舟で泳ぐべからず」
との「規定」?をつきつけられますが(笑)、
「庶民は一等車に乗るべからず」なんて「規定」はありません。
従って、実際に小遣いをはたいて乗った人がいても別に不思議はないのですが、
それでもやっぱり優等車両は「特定の身分」の人のものだったんです。
何故でしょうか?

 もうお分かりと思いますが、庶民が優等車に乗る事は「ハレ」の行為なんです。
それなりの覚悟をして、「特定の身分」の人と同席しても良いような身なりを整え、
場合によっては物腰や言葉遣いすらも改まって乗るのですから、
それはもはや「庶民」の行動とは一線を画したものになります。
 温泉行きの二等車ならまだしも、特別急行「富士」のマイネ37130に
下駄履き・着流しで足を踏み入れるような「たわけ」は、
常識的に居なかったと考えられます。

 「ハレ」と「ケ」、つまり非日常と日常の区別が薄れ、
かつては「ハレの日」でなければ得られなかったモノやシチュエーションを、
日常の気まぐれ次第、金次第で手に出来るようになったのは、
ほんのここ数十年のことです。
昭和63(1988)年に「北斗星」が登場した頃、
上野駅では毎日「ロイヤル」で出発する客に駅長が直接挨拶したそうですが、
その客が子供であることが時々あるというのが話題になりました。
 子供の小遣いで「ロイヤル」に乗れる、
というより「親が乗ることを許す」というのは、
少なくとも「イネ」が活躍した時代には考えられない破廉恥なことでした。
禁止されていたわけではないけれど、常識的に誰もやらなかったのです。

 そう、「特定の身分」がなければ乗れなかった…というのは、
「規定」などではなく「一般常識」だったのです。

********

 今回のピク誌の記述をはじめ、心ある著述者が折に触れて同様のことに言及するのは、
そうした当時の一般常識を、それを忘れてしまった現代の読者にきちんと伝えなければ、
鉄道の辿ってきた歴史が背景を失い、
どこか遠くの国の夢物語に成り下がってしまうと懸念するからに相違ありません。

 鉄道のこと、ましてや本掲示板の主旨である客車のことを話題にすれば、
数十年、或いはそれ以上にわたる歴史の流れが舞台となることが自然と多くなります。
 昔のことを語るには、当時の人々がどういう常識に基づいて行動していたのか? 
現代の常識はその時代に通用するのか? 
ということを考えないと、本質を外した議論に陥ってしまう恐れが多分にあります。
常に気にかけていたいものです。


 マロネ29様のご発言には略同意いたします。
また、本書き込みを下書きしている間に、赤まんと様からも私と同趣旨のご発言があり、
意を強くした次第です。
 長文失礼しました。m(_ _)m


投稿者

赤まんと

投稿日

2008年 9月27日(土)21時45分23秒

タイトル

キーワードがありますネ

たびたびの投稿、失礼いたします。
こんかいの「ピクトリアル」の中村光司さんの記述の結びに、
絶好のキーワードがありますね。
「是非今の視点ではなく、当時の視点で考えて頂きたい」
昭和49年生まれの私にとって、昭和30年代は小学生高学年の時分から、
心惹かれる、じつに興味深い時代でした。
今でも書店でいいものを見つけると、財布と相談し、
当時の世相について書かれた本や、町並みを写した写真集を買っています。
また、乗用車もかなり好きなので、やはりそれについての本は増えています。
これらと当時の客車全盛時代とを重ね合わせていくと、
また深く面白く感じることができます。
ほんとうは、資料だけではなく、実際に当時を生きた方と交流し、
いろいろな生の体験談を聞いてみたいものですが。

らん丸様
当時を知らない私がこう書いてしまうのも生意気ではあるのですが、
あれこれ記述や、当時を生きた身内の話などから判断し、
どうも1等車というのは、ほんとうに特別な存在で、
庶民には高嶺の花の、オーラを放つ存在だったようです。
だからこそ、半世紀を経てもこうして語り継がれる存在なのだ、
と捉えれば、さらなる興味もわくのではないでしょうか。
イネ、ロネについてはまだまだ未知の部分が相当あるように思います。
今後、趣味誌で従来、明かされることのなかった内部写真や
経歴などが公表される可能性があると期待しています。


倶楽部メモ(458) 平成20年 9月28日〜 9月30日


投稿者

ED76109

投稿日

2008年 9月28日(日)00時51分38秒

タイトル

「鉄」親父の話から・・・

 お邪魔致します。「ED76109」でございます。
 「イネ」「ロネ」に係り、小生の「鉄」親父の話を少し書かせていただきます。
参考にもならないかもしれませんが・・・。
 「鉄」親父は、昭和20〜30年代に「某商店」の「集金」の仕事で、
週一度日本全国を国鉄で駆け回ったらしいのです。
しかし、何処に行くのも(東京から九州や東北が多かったとのこと)
出張旅費は「三等普通運賃」。
日当が多少付くことはあっても「準急料金」など支給されず、
「夜行鈍行の往復」で出張旅費を浮かすのが
当たり前だったと話していました。
そうしないと自分の足りない給料では生活できなかったと・・。
(「はと」「つばめ」は、自分とは「世界が違う列車」だと笑っていました。)
 その後、親父方の叔父達と昭和38年に「関西」へ出かけることになったのですが、
映画「天国と地獄」で有名になった「こだまの二等車(ハザ)」で西下する計画を、
同行する「祖母」(明治32年生)に「特急なんかに乗れる身分でない!!」
と最後まで反対され、当時1歳に満たない小生が同行することで、
叔父達が「祖母」を渋々納得させたとのことでした。
 その後、「鉄」親父は叔父の伝手で「都職員」に転職。
少し経済的に余裕が出て、
ずっと親しんでいた「時刻表」を片手に「乗り鉄」の道を歩み出したようです。
(当然、小生も同じ道を辿っております)
 「祖母」は、昭和20年の「東京大空襲」で夫である「祖父」を無くし、
裸一貫から働き抜いた「市井の庶民」でした。
 ですから、小生の自宅のある「北海道」に両親が遊びに来る際、
「北斗星」や「カシオペア」の「個室」に小学生が一人で乗っていると、
「鉄」親父は要らぬ説教をしたくなってしまうようです・・・。
「前近代的な分相応」という考え方が理解されるか否かが、
今回の「イネ」「ロネ」の話の出発点ではないかと、小生は考えております。

 失礼致しました。また、投稿いたします。
以上、「道民球団」の最後の夢に期待をつなぐ「中年客車鉄ちゃん」でした。


投稿者

小荷物係1年生

投稿日

2008年 9月28日(日)14時42分2秒

タイトル

実は庶民でも?優等寝台車

こんにちは、いつもROM専でしたが、面白い話なのでお邪魔させていただきます。

らん丸さまの書き込みに対する、マロネ29様の書き込み、
クモイ103様の書き込みに、そうだなーと思いました。
いずれにしろ、戦前の風習やバブル期以前の世の中の常識が、
今ではすっかりなくなっていることを思うとともに、
(おそらく高齢の方が多いであろう)
鉄道ピクトリアル等の著述者の皆様におかれては、
今の読者にはそういうことを補足しておかないと、ギャップが生じますよ
ということを、ご留意いただければと思いました。

らん丸様のお書き込みで気になる点ですが
>明治以降、一応「階級制度」はできましたが、
>実際は「皇族とその他大勢」という形

このあたりは、学者によっていろんな考えがあると思いますし、
身分や階級には難しい問題もあるので、
「こうだ」というのは難しいですが、皇族のほかに華族制度があり、
また文官のあるレベル以上の公務員にある
判任、奏任、勅任、親任の区分は非常に大きなものでした。
軍人の階級はいうまでもありません。
こういう格の世界は知っておく必要があると思います。

また、今、うだつの上がらない私がマニア心でグリーン車に乗っていて、
社長がグリーン車に後から乗ってきて遭ったとしても、会釈をすれば済みますが、
何事にも分相応が求められる戦前であれば、これは大事件。
分相応、常識を守らない人間として大減点の対象になるでしょう。
地位の低いものが優等に乗っていて、
それが上司いえ社会からとがめられないで済むのは、
やはり新婚旅行か、年長者の随行の時でしかなかったはずです。
従って、制度としては「カネさえ積めば何でも乗れた」であっても、
今よりもっと厳しかった「分相応の振る舞い」が
(それがいいか悪いかは申しませんが)求められた時代、
普通の市井の人間が、趣味で優等車両を試すのは相当難しく、
とくに年少者においては困難だったと思います。

>祖父が交通公社にいた関係で・・・

これは最も疑問なところです。戦後においても交通公社は特別な存在でした。
これは戦後ですから実体験ですが、
交通公社は今で言えば街一番の銀行のようなところで、
子供がフラフラ行くところでもありません。
まあ、別にノーネクタイでも、高校生でも入れるには入れましたが、
問題は切符です。
ご承知のとおり当時国鉄駅以外に国鉄切符を買える場所(旅行会社)は
交通公社しかなかったですし、マルスがない時代(あっても最初の頃)は、
各地域の乗車センター持ちの指定券類以外は
各駅、公社支店毎の手持ち席を販売するわけですが、
これ、いい列車の切符は法人のお得意様のために
売り惜しみしているのが半ば「常識」で、
人気のあるハネなどは、発売日でも、ふらっと来て「空いていますか」では、
あいていないと平然と言われ、なかなか手に入らない。
店側は、お得意先の法人が使わないのがわかってから、
数日前に一般にも出すような感じでした。
ただし、新婚旅行などの特別な事情で宿と一緒に頼めば別です。
要するに交通公社では、数の少ない、いい列車の優等の切符については
出し惜しみと客の値踏みをしていました。
それは常識でしたが、それをあれこれいう人が庶民に居なかったのは、
まあ、縁遠い存在だったからでしょう。
庶民は理由がないと特急1等や、急行寝台車を買わない・・・
新婚旅行、親孝行の温泉旅行・・・理由を考えて、
公社の人は、「これなら出してやろう」と席を出してくれる。
こんな感じでした。
あまり表に出てこない話ですが、当時を知る方なら、
金を払えばほいほい先着順位に売るということは
なかったことは承知かと思います
(駅は、さすがに戦後は先着順で売っていたと思います)。
ついでいうと、そういう優等指定席の切符を自分で買う人も、
実はあまりいませんでした。
大会社には事務雑用をやる(今はあまりいい言葉ではないので使いませんが)
小遣いさんという人がおり、
彼らが御用聞きよろしく交通公社に取りに来ていました。
大企業の管理職が社用の出張の切符を交通公社の窓口に行くことはまずないわけで、
つまり言い換えますと、優等列車の優等車の切符は、
自分で乗る分を自分で買う人は少なかった・・・そういうものでした。
今は、秘書のつくような方は別ですが、大会社の管理職でも
(派遣の事務員でも居れば頼むのでしょうが)
自分で窓口に行く、あるいは電話やネットなどで切符を頼むことが
珍しくないと思いますが、
そういうことは、当時(高度成長期の体験でも)まずありませんでした。

これから「昭和」の時代を懐かしむドラマなどがどんどん出てくるとは思いますが、
鉄道でいうのならば、車両の時代考証だけでなく、
営業スタイルというか、切符の手配の仕方、買い方、
ボーイとの付き合い方なども重要になるでしょう。

私は無論、そういう上級車両の世界とは無縁の小僧でしたから、
そうですね、高度成長直前くらいの思い出と言うと、
2等(ハ)の長距離旅行なら皆さん結構やったこと・・・
チッキで荷物出したり、両親に頼まれて赤帽を詰所に呼びに行ったり、
車内で親に勧められて専務車掌から電報打ってもらったりしたくらいです。
でも、これすらもう出来なくなってどれくらいたつのでしょうか?
長文失礼いたしました。


投稿者

らん丸

投稿日

2008年 9月28日(日)18時06分39秒

タイトル

人それぞれの考え方もあるでしょう

ちょっとお騒がせして申し訳ないです。

ただ、歴史と社会学を学んだものとして、
「特定の史観にコチコチに凝り固まるのはいけない」と
先生方からきつく言われたことを思い出しました。

第一次大戦期のいわゆる「大正バブル」の頃の
「イネ」「ロネ」の客層を調べたら面白いかもしれません。
作品名は忘れましたが、戦前に書かれたHな小説で、
主人公と妾が「富士」の「イネ」に乗り、
シャワー室に行ったというシーンを読んだことがありますが、
Hなシーンはさておき、列車や個室の描写、他の客の描写が非常に良かったです。
そういった小説や雑誌などから紐解いて研究するのも面白い。


投稿者

クモイ103

投稿日

2008年 9月29日(月)20時10分28秒

タイトル

Re: キーワードがありますネ

赤まんと様
 私より一回り以上お若い方と、この様な話題で同調することが出来て、
大変嬉しく思います。
 私も、物心ついた時には東海道新幹線が走っていましたから、
昭和30年代はほぼ「想像の時代」に属するのですが、
何よりも戦前生まれの両親や明治生まれの祖父母から聞いたナマの話が、
私の世界を拡げてくれていると思います。
そのせいか(?)今では自分の生まれた昭和36年を中心に
優等寝台車や食堂車などのことをあれこれ調べ、
模型を作っては悦に入っています。

 ところで、問題の(苦笑)記事の筆者中村光司氏が運営されるサイト
「客車空気調和装置資料室」が、本サイトのリンク集に入っています。
ついでに手前味噌の宣伝モードですが、同サイトのコンテンツに、
私が書いた「イネ格下げロネ 配置と運用の変遷」を
掲載して頂いておりますので、何かご参考になれば幸いです。
「客車関係資料室」→「吉岡真一氏」とお進み下さい。
(既にご存知でしたらご容赦を。)


投稿者

クモイ103

投稿日

2008年 9月29日(月)22時43分54秒

タイトル

庶民の旅行

ED76109 様
 ご祖母様とご尊父様のお話、興味深く拝読しました。
 私の幼少時も、急行列車に乗ることはあっても夜行のハザが当たり前、
1等車(ロ)は無縁の別世界でした。
私が初めて「ロ」に乗ったのは中学生の時で(それも東海道線の普通列車)、
もう「グリーン車」でしたから、
結局私は「1等車」に乗ったことはありません。今思えばちょっと残念(笑)。

> 「前近代的な分相応」という考え方が理解されるか否かが、
>今回の「イネ」「ロネ」の話の出発点ではないかと、

…私の感覚ではこれは正しく「近代」ですので、
「前近代的」という言葉に含まれる否定的なニュアンスには
やや違和感もありますが、文脈としては正にその通りと思います。
なればこそ、単にお金が払えるか否かの問題ではないことを強調したく、
長文の書き込みに及んでしまいました(^^;。
 植木等の演じるスチャラカ社員が、
谷啓の扮するちょっと気の弱そうな部長をあしらうシーンは、
「分相応」をわきまえている人が見るからこそ、爆笑モノなんですね。


小荷物係1年生 様
 具体的かつ明快な解説ありがとうございます。
とりわけ交通公社に関する件はこれまで認識が無く、勉強になりました。

> これから「昭和」の時代を懐かしむドラマなどがどんどん出てくるとは思いますが、
鉄道でいうのならば、車両の時代考証だけでなく、
営業スタイルというか、切符の手配の仕方、買い方、
ボーイとの付き合い方なども重要になるでしょう。

…言われてみれば全くその通りですね。
 私も「上級車両の世界とは無縁の小僧」でしたが、ふと母の話を思い出しました。
幼稚園に入る前の私と2歳下の妹を連れ、大きなバッグを3つも抱えて、
父の滞在先である広島から北浦和の自宅まで帰ってきたことがあったけど、
どうやったのか自分でも覚えていない(爆)と…
 案外チッキや赤帽のお世話になっているかもしれません。


投稿者

ED76109

投稿日

2008年 9月30日(火)11時42分40秒

タイトル

「鉄道ゼミナール選手権」開催!!

 度々御邪魔しております。「ED76109」でございます。
 ど素人様
 >ゴールデンイエローのモケットでびっくりしたものでした
  そういえば、そうでしたねぇ・・・。
  平成6、7年以降のブルトレのB寝台で見ました。(小生の記憶ではですが・・)
 「暖かみが感じられる」色(!?)でしょうが、
 やはりモケットは「青系統の色」でないとしっくりきませんね。

  クモイ103様
  「前近代的」ではなく、「前現代的(!?)」の方が文脈的には正確かもしれません。
 御指摘ありがとうございます。
  前述しましたが、「みどりの窓口」に徹夜で並んだにもかかわらず
 「富士」に乗り損ねた話の折、
 小生は「寝台券が取れれば個室A寝台でも買うぞ」と考えていたのですが、
 「鉄」親父の「高校生がA寝台?」の一言で、「B寝台」を買うはめになりましたね
 (結局、買えずじまいでした・・・。ちょうど今から30年前の話です)。


  さて、本日の「道新(北海道新聞)」に
 「鉄道ゼミナール選手権」の記事がありました。
 来月11日の「苗穂工場」での「鉄道の日記念イベント」での一環として
 「予選」が行われ、 10月18日に「岩見沢レールセンター」で
 「ニンテンドーDSソフト 鉄道ゼミナール」を用いた
 「本選」が行われる予定だとか・・。
  優勝者には、「北海道フリーパス」等の賞品が贈呈されます。
 秋の連休に「北の大地」で「鉄」試しはいかかでしょうか・・・。
 (なお、詳細は「JR北海道のWebページ」に掲載されております。)
 以上、「戯言」情報でした。


投稿者

雑魚

投稿日

2008年 9月30日(火)16時13分5秒

タイトル

津山鉄道部

一等寝台における「階級制」の話題、興味深く拝見しました。階級制の名残を感じる
農村に生まれ育った者としては「倹約の余裕すら無い庶民が多数存在した、一等寝台
廃止以前の社会状況」を示されたマロネ29様や、クモイ103様の「規定外の一般常識」
あるいは小荷物係1年生様の「分相応の振る舞い」など「暗黙の不文律」の考え方が、
全てを物語っている様に感じます。

====================================================

合衆国での金融安定化法案の否決に伴う株価の急落が報じられた、本日正午のNHK
ニュースに続き放映された「生中継・ふるさと一番」では、梅小路に次ぐ規模を誇る
津山の扇形庫が紹介され、国鉄色のキハ58一両を移動し、転車台で回転させるという
演出があり、一緒に食事していた「鉄分多目」な上司と 暫く見入っていました(^^)

正に要衝の風格ですが、優等列車は、車両・ダイヤの両面で、快速「ことぶき」との
差別化が窺えない急行「つやま」が一日一往復発着するだけと、寂しくなりましたね。
今や、昼の定期便としては全国唯一の急行ですが、いつまで急行として残るものやら。


倶楽部メモ(459) 平成20年 9月30日〜10月 3日


投稿者

クモイ103

投稿日

2008年 9月30日(火)21時46分19秒

タイトル

遅レス2件

マロネロ38様
 さすが名高い百けん先生、相当の「かぶき者」だったのですね。
 恥ずかしながら小生、百けん氏の著作に触れたことが無いので
 的確なレスが出来ずすみません…

ED76109様
 いやその、「近代」というのは私個人の感覚ですので
 「指摘」なんてつもりはありません。
 で、こちらは「指摘」なのですが(^^;、
 下河原線の単行電車はクモハ12でなくクモハ40でしたよ。
 現在青梅と大宮にそれぞれ保存されているクモハ40054とクモハ40074は、
 配置履歴から見てどちらも関係なさそうですけど。

# いずれも遅レスで申し訳ありません。


投稿者

らん丸

投稿日

2008年 9月30日(火)23時42分42秒

タイトル

時代はどうであれ、「趣味人」はいた

「敗戦までの階級制度」と「一般庶民の生活」というものの「認識」に関して
こういう話もあります。
「戦前は皆が貧しかった」という認識は敗戦後、
アメリカによって押し付けられた「史観(ヤルタ・ポツダム史観
と言われている)」であり、「事実」を歪められたものであるという説です。
現に、大正時代(25歳以上の男子のみであるが普通選挙が施行され、
英国型議会制民主主義が行われていた。
都市部において、新中間層が勃興し、彼らが消費を牽引していた
という今と変わらぬ豊かな時代であった)の事は全く語られず、
昭和初期の東北大凶作と世界恐慌の時の農村部の人身売買に代表される
「影の部分」ばかり強調した物(小説・ドラマなど)があまりにも多い。

「昔は生活にゆとりが無かった」という考えで完結させるのはおかしい。
ならば、翌年に太平洋戦争が始まる昭和15年(既に国家統制経済になっていた)に、
安月給の中からなんとか費用を捻出して岡山から九州全土の軽便鉄道の撮影に行った
牧野俊介氏(「岡山より汽車を求めて」の著者)の様な
「一般庶民の趣味人」は時代がどうであれいるのですよ。

「3食塩かけ飯でも二コンFを買った学生さん(私の職場の大先輩です)」
の様に「何かを犠牲にしても乗るぞ」ということでなけなしのお金をはたいて
「イネ」に乗った名も無き趣味人は絶対にいると思います・・・。


この議論はあまり突っ込みすぎると
「イデオロギー論」になり不毛の論争になりますが、
「趣味人」という「人種」は洋の東西問わず、どの時代にも存在した
という事実をわかっていただきたいです。


投稿者

赤まんと

投稿日

2008年10月 1日(水)18時58分4秒

タイトル

趣味人の存在

みなさまこんにちは。
このネタであまり引きずるのは少し気が引けてはいるのですが・・・。
らん丸様記載の「趣味人」の言葉に惹かれてしまいました。
「趣味人」いい言葉だなあと思います。
おっしゃるとおり、時代にかかわらず、趣味人は存在したと私も考えます。
中には、周囲から奇異の目で見られながらも、生活費を削ってまで、
列車の乗り潰しをしたり、車両写真を撮って残した方がいたからこそ、
こんにちの特集記事にもつながっていると考えます。
しかしながら、やはり現代に比べればおそらく、
圧倒的な少数派であったろうと思います。
一億総中流の時代ではありませんからね。
そういった背景からか、「趣味人」という響き、私は非常に好きです。
では、いまの「トワイライト」「北斗星」「カシオペア」といった豪華列車に、
イネ、ロネほどの価値や輝きがないのか、
それらの乗車記録、撮影記録が劣るか、といえば、ノーです。
時代ごとの世相、価値観というものがあり、そういった要素も考えると、
さらに鉄道趣味も楽しめるのではないか、と考えています。
現代より趣味に興ずることができる割合がごく少なかった分、
イネ、ロネの時代が輝いてみえる、という側面はあります。
このところ地味なブルトレばかり乗ってきましたから、
私も「北斗星」に乗りたいところです。
せっかくの豪華列車、少しオシャレなんかして・・・・。
下町だったから、なのか、まだそういう空気は残っていたのか、私が小学生のころは、
特急列車や新幹線はまだ、特別な乗り物、
そうおいそれと乗れるものではない、という捉えられ方でしたヨ。
夏休みで幸運にも乗ったヤツはそれこそ、いっとき話題の中心になったものです。
ほんの25年ほど前のことです。


投稿者

小荷物係1年生

投稿日

2008年10月 1日(水)21時12分16秒

タイトル

お騒がせしました

 何か、はじめて掲示板に書き込んだら、ヤルタ・ポツダム史観等々
厳しいご指摘で、ご迷惑をかけたようですいません。
まだまだ勉強不足なのでしょうか、皆様にお詫び申し上げます。
 私も戦前に趣味者が居なかったとは思っていません。
牧野俊介さんは著書のサブタイトルにもあるように
軍機保護法をかいくぐっての決死の撮影活動をされていますし、
古山善之助さんは阿波池田で駅員に咎められ列車が着いた徳島駅で
特高警察に連行され厳しい取調べを受けるところまで
客車の番号のメモを続けております。
 また、どなたか忘れましたが、車両の番号をメモするのを
咎められないようにと、学生服を着て数学の教科書を持ち、
教科書の余白に数字を書き込むことで怪しまれないように
記録を残した方もおられます。
 このような体を張った活動をやる先人たちがいて、
私たちの活動があるわけです。
そういう意味で、戦前にも立派な趣味者がおられたわけで、
そういう方々を異端視するつもりは毛頭ありません。
 しばらく発言は慎むことといたします。大変ご迷惑をおかけしました。


投稿者

仙コリ(管理人)

投稿日

2008年10月 1日(水)23時02分56秒

タイトル

Re:実は一般庶民でも乗れた「イネ」「ロネ」

上記の話題でかなり議論がなされているところで、
非常に興味深い話題でもありますが、
歴史認識等もからんできまして、これ以上話題を続けても
水掛け論となりかねない状況であると判断されますので、
勝手ながらこのあたりでドクターストップならぬ管理人ストップ
とさせていただきたいと思いますので、皆様よろしくお願いします。

基本的には、一般常識的に「特定の身分」か「特別な事情」がなければ
優等車には乗車できなかった。
また、一般庶民と称される方々はそういったことを考えもしなかった
というのが一般的であったようで、
ピク誌等の記述もそういった考えに基づいているものと考えられます。

一方、らん丸様が主張されているように、
どの時代にも「趣味人」は存在し、それこそ他の全ての事を犠牲にして
趣味に生きた方がいたことも間違いないと思いますが、
全体から見れば極めて少数派であったであろうことが想像され、
それが話をややこしくしている原因であると思います。

「趣味人」である私たちや「趣味誌の記述」において、大先輩であろう
昔の「趣味人」の存在を無視するのは問題があろうかとは思いますが、
一般常識を元に記述したほうがわかりやすく、また「趣味人」にとっても
特別であり憧れの存在であった事が強調されるのではないかとも思います。

私も上手にまとめることが出来ませんが、上記の通りまことに勝手ながら
この話題はこれをもって終了とさせていただきたく思いますので、
ご理解・ご協力の程よろしくお願いいたします。

追伸:小荷物係1年生様
 昔の交通公社に関する件など、とても興味深く拝見し勉強になりました。
 この「客車倶楽部」は皆様のさまざまな書き込みにより成り立っており、
仮に発言に間違い等があったとしても、それにより話題が発展し、
私も含めて皆様の知識の糧となりますので、
「しばらく発言は慎むことといたします。」などとは言わずに、
また書き込みいただければ幸いです。


「客車倶楽部」へ
夜行列車や旧型客車列車の音や資料を掲載
客車専門サイト「客車列車の旅」はこちらから
現在や過去の夜行列車に関する資料を掲載
全盛期の時刻表データ等も掲載しています
掲示板「客車倶楽部」本体へはこちらから
過去ログ「倶楽部メモ」もこちらから
 
客車専門サイト「客車列車の旅」