倶楽部メモ:客車倶楽部過去ログ集:客車列車の旅

倶楽部メモSP
米原構内の配線変更・交直接続
交直接続駅の構内配線・運用について


倶楽部メモ(428) 平成20年 6月 1日〜 6月 8日


投稿者

himeikanai

投稿日

2008年 6月 7日(土)22時47分39秒

タイトル

Re:(5月31日・6月1日の投稿)

雑魚様
廣瀬正幸様

ご返事おそれいります。
俄かに残業が連続した上に、今日も仕事をしてきたので、ご挨拶が遅れて失礼いたしました。
会社PCでweb閲覧ならまだしも、bbs投稿は流石にご法度なもので。

小学生の頃、新聞に画餅の如く扱われていた都市交通?審議会答申?の地下鉄が
、3月の横浜4号線、この6月の東京13号線をもって遂に本格実現するとは・・・
(その後とり下げた横浜2号線を除く)。
日本国内における公共事業としての鉄道整備の緩慢さと、年月の経過に感慨一夕であります。

当時、上り寝台特急を見に平沼橋駅に出かけてました。
横浜駅停車中の20系客車が見え、妙に深い屋根が印象的でした。
確か、相鉄の駅員さんに集札をいくつか戴いた憶えがあります。

また、武蔵小山といえば、中学の数学の先生がそこにお住まいで、毎日通勤されてました。
確か、使用済の定期券を戴いた憶えがあります。
この頃、大船工場に2号編成の供奉車が半ば捨て置かれており、何枚か写真を撮りました。


さて、今話題の1956.11改正関連で、京都附近について、気になっている点を一つ。
京都の現1番のりばは、昭和のころの1番のりばではない!点が忘れられ、
現1番のりばが、まるで戦前「燕」・戦後「つばめ」等の発着した上り線
であるように思われている・・・。
現駅舎の新築の頃、旧1番線(これが昔からの旅客上り線の乗り場)が板で埋められ
(その後、本工事で完全に埋没)、
旧2番線が新1番線(現在の1番のりば)となって、現在に至っています。
昔と今の写真を比べて見れば、1番のりばと2番のりばの間の線路の数が違うので
(4本から3本に減っている)簡単に判ります。
当時の日記がすぐ出てこないので変更された正確な日が出せず申し訳ありませんが、
その頃京都駅をよく利用していたため、実際に切替された後に驚いた憶えがあります。
(米原構内の配線変更・移転にはもっとビックリしました)


投稿者

雑魚

投稿日

2008年 6月 8日(日)18時20分49秒

タイトル

米原駅

▼himeikanai様:
> 米原構内の配線変更・移転にはもっとビックリしました

東海道上り線が北陸線を跨ぐ現在の配線は、1957〜58年の滋賀県内の北陸線複線化に
備えた措置と見られ、1955年に改められていますね。いわゆる「高度経済成長期」の
初期とされるこの当時は、列車本数も増加の一途を辿り、平面分岐点におけるダイヤ
相互干渉の解消が、大きな課題になって来たものと思われます。

もっとも、幹線同士の分岐が平面のみで行われる光景には、ある種の威厳が感じられ、
その意味で、暫く並走した後に線路が分かれる岩沼の情景は、今なお「萌え」ですね。

東海道線と北陸線系統との主要分岐点は、現在、山科にシフトしていますね。方向別
複々線の東海道線における外側線と内側線を集約した湖西線が分れる完全立体方式は、
いかにも近代的ですが、北陸線下り特急の車窓展望DVDを見ると、これとは別個に、
東海道線の上り外側線から左側に分岐し、長等山隧道内で湖西線の下り線に合流する
線路を辿っています。幾何学的に、どの様な存在意義があるのか、と思うも、これは、
貨物列車を主たる対象とした勾配緩和の為の線路だそうですね。

滋賀県域における北陸線の電化状況を見ると、先ず、中央分水界越えとなる深坂隧道
経由の新線が開通した1957年に田村〜敦賀が交流電化。SL・DLによる継走措置が
行われた米原〜田村が直流電化されたのは1962年で、この間、電化網で見た北陸線は、
ある種「孤立状態」だった訳ですね。

その少し前の1959年に、黒磯駅で交直流の地上切替方式が採用されており、運転上の
拠点性が高い米原駅構内で同様の措置を講じれば、煩雑な継走措置を解消できた様に
思うのですが、米原駅構内において、何か物理的な制約があったのでしょうか。

1949年に板谷峠区間が直流電化された奥羽線についても、1968年の交流方式切替まで、
福島駅と構内外れの信号所の間の僅かな区間が上記と同様、継走対象区間だった様で、
東北線の交流電化が福島まで北上した1960年より後の数年間は、かなり煩雑な状態に
なっていたものと推察します。


倶楽部メモ(429) 平成20年 6月 8日〜 6月13日


投稿者

523レ

投稿日

2008年 6月12日(木)21時58分14秒

タイトル

米原駅

管理人様
 いつも拝見させていただいております。
 幅広い世代の方々の寄稿が集まり、いつも読むのが楽しみです。

雑魚様
 米原駅構内が縮小され寂しく思う近年です
(米原駅の古い部分は近江鉄道の移転で完全になくなりました)
旧米原駅構内の様子から想像するに、大ざっぱにいえば、
もともとは1番が東海道下り、2・3が折り返しと東海道下り、
4・5番線が北陸線用で、直通列車は例外あり、
というのが原則ではなかったかと思われます。
それを、おっしゃる通り、戦後東海道上り線が北陸線を跨ぐようになりました。
 問題の、電化後の交直直通運転のための措置についてですが、
ひとつ考えられることは黒磯では単純に南側が直流で北側が交流なのに対し、
米原や福島では駅の一方は直流(たまたまどちらも南側)なのに対し、
別の一方(北側)には交流、直流が並在したことがあるのではないでしょうか


投稿者

コスモス

投稿日

2008年 6月12日(木)22時04分1秒

タイトル

福島駅の交直接続

▼雑魚 様

こちらでは、初めて発言させていただきます。

>1949年に板谷峠区間が直流電化された奥羽線についても、1968年の交流方式切替まで、
福島駅と構内外れの信号所の間の僅かな区間が上記と同様、継走対象区間だった様で

奥羽本線の福米直流時代の福島駅での交流直流接続方法ですが,
中学生(昭和30年代後半)のころ郡山市の親類に泊まりに行ったときに,
福島まで探査に行きました。
福島駅構内は交流電化しており,奥羽線列車はホームから出発するときはD51が牽引して
駅構内の米沢方にある福島機関区あたりまで進んで停まり,
そこでEF16に機関車交換していました。
上り列車は当然ですが、この逆になります。
北陸本線の米原ー田村間と同様の方法ですが,構内の一部分だけをSLが担当する方法でした。
以南から奥羽線に直通する急行客車列車などは,
福島駅構内でEL→SL,SL→ELと2回交換していたわけですね。
最後に、一声だけ、カットバセーツチコー! スイコータオセー オー
と吠えさせていただきました。(。_・☆\ バキッ)


倶楽部メモ(430) 平成20年 6月13日〜 6月16日


投稿者

雑魚

投稿日

2008年 6月13日(金)16時30分28秒

タイトル

板谷峠

▼下総守こみや様
> メードスタイルは確かに往年を思い出します。(耳と尻尾は当然無かった)

食堂車「星空バー」がフル稼働状態だった頃の「出雲」でしたか、丑満時に食堂車を
横切ると「メイドさん」達が、制服着用の侭、客席に突っ伏して仮眠中でした。髪を
振り乱しつつ涎を垂らすその様子に、百年の恋も醒めましたね(^^)

▼523レ様:
> 駅の一方は直流(中略)なのに対し、別の一方(北側)には交流、直流が並在

なるほど。米原駅は北陸線電化に合わせ、大阪方面行の列車が東海道線下りホームに
スルー進入する様になりましたし、福島駅の奥羽線上り列車でも同様の措置があれば、
支線直通列車の為に、本線上にピン・ポイントで地上切替区間を設置する必要があり、
設備保守の面では、確かに煩わしいですね。

本線から分岐して早々に山越えとなる奥羽線はさて置き、分岐後も長浜・木之本など
街が続く事で、琵琶湖岸の一体的な電車運行体系(現アーバン・ネット・ワーク)を、
北陸線まで及ぼす発想は、1957年の電化開業時に存在しなかったのか、と感じますが、
要は、機関車交換を一大要衝である米原の周辺域で纏める必要性という、客車主流の
時代ならではの発想かも知れませんね。

▼コスモス様:
> こちらでは、初めて発言させていただきます。

どうも初めまして(^^)打倒「ツチコー」一筋、スイコー出身の雑魚と申します(^^)

> 構内の一部分だけをSLが担当する方法でした。

当時「中継区間」は、純粋な「非電化区間」だったのでしょうか。架線柱の類が全く
無かったとすれば、これは興味深い光景ですね。

板谷峠が電化されたのは1949年。この時ようやく、スイッチ・バック各駅に通過線が
設けられた様です。それまでは深夜の急行といえど、乗降客の存在も疑わしい状況下、
赤岩〜大沢の各駅に停車という、いわば矢岳越えにおける「えびの」と同様の現象が
見られた訳ですね。

件の電化後、峠を行き交ったのは「デッキ」仕様のEF15あらためEF16で、その後、
1964年から交流化された68年まで、EF64が導入されました。同機がキハ80系による
特急「つばさ」を牽引する様子は、同じ時期に同じ形式で運転された特急「白鳥」が
碓氷峠でEF63に牽引される情景とそっくりで、よく勘違いしたものでした。

板谷峠より早い1937年に直流電化された仙山線の仙山隧道の前後(その後、1960年に
直流仕様の侭、山形まで電化延伸)における当時の白黒写真を見ると、ED14という、
見るからにクラシカルな機関車が映っています。

仙山線といえば、北仙台〜作並で交流電化方式の総合試験が行われた事が有名ですが、
それもこれも、当時は専ら仙台〜山形の都市間移動需要に特化し、愛子を中心とする
旧宮城町域への仙台都市圏の展開、延いては通勤列車の為にダイヤを編成する必要が
殆ど無かったた為でしょうね。


投稿者

himeikanai

投稿日

2008年 6月14日(土)16時17分44秒

タイトル

構内配線

文末たった一言の「米原構内の配線変更」の話が膨らみ、おそれいります。
そういえば、暫く前に話題だった1956.11改正関連の京都附近でも、
京都〜向日町がそれ以前の線路別を
現在の方向別に改めたと、何かの本で知りました。
元は梅小路の出入のため北側2線が貨物、西大路のある南側2線が旅客で、
線路容量の均等化を図って現状になったと。
変更前、上り旅客列車は京都駅進入前に貨物2線を平面横断していたそうで。
(大船の東海道下りの上をゆく交通量で、さぞうるさかったかと)

拙者、実は、まともに記憶している汽車旅としては、
中学生の頃の上野発高崎行→長野行(承継し1日がかり新潟行)が最初で、
当時の足寄の有名歌手の「人生の空から」が印象にカブったお蔭で記憶が強化されています。
小学生の頃の中央西線は記憶が殆ど風化しており、
「乗った記憶」の記憶として2次的に憶えている程度
(断片的な光景が当時の時刻表や、当時と大きくは変わっていない
現在の上松駅の情景(林鉄を除く)と矛盾だらけで、
おそらく別の記憶と混ざっており、本当に記憶していると言えるのか甚だ疑問)。
「桜島・高千穂」オロ11など先述(倶楽部メモ(426))のとおり、
乗ってすらなく外で撮った写真だけ。

振返ってみれば、日本の客車で最も乗った車輌はおそらくオハ12系で、
オハ(フ)50、固定編成寝台系がそれに次ぎ、
オハ35一族(大抵スハ42)やスハ43一族(大抵オハ47)は極僅か。
ナハ10一族や、オハ61一族、ハニ等合造車、各種在来型ネ・ロザ等優等車は皆無であります。
下手すると国内より国外の方が客車乗車総延長距離が長いかも知れません。
そういえば、初の国外旅行は先ず「あかつき」の3列ハザで博多へ出て、船で出国しました。
せめて中学〜高校生の頃に、
辛うじて残っていた常磐線を東京近郊区間だけでも乗るべきであったと、
返すがえす本当に悔やまれます。
30歳台になるとその後悔に学び、京都名古屋間でよく乗った「ひかり」では
必ずと言っていいほど食堂車を利用しました。
夕食時間でなければいつ乗ってもガラガラで、その後の廃止も当然に思われました。
食堂車はいつ頃から客が減ったのか??

今朝は栗駒地震(最近の制式名称は無駄に長過ぎ)で大変ですが、
実は、正にこの土日に福米・山形・仙台への1泊旅行を水にしたところでした。
(金が工面できず、半月程前に宿の予約を断念)
「土日きっぷ」(だったかな?最近ありがちの覚え難い名前)
買っていたら完全に赤が出てました。
貴重な休みの日の撮影行が流されて残念な方も多いかと思いますが。(左沢の蒸機?)
10年前の6月、Deutsch経由でWienに旅行した時、
Frankfurtに着陸した正にその日にICE脱線事故がありました。
予定していたICEの1時間前の便が遅れてやってきて不思議に思い、
翌日の新聞で知って驚いた事があります。
Zurich直通でなく、Baselの、それも手前の駅(Bad.)止りで、
(東京の品川と言うよりは、近距離列車がないので、釜山の釜田に似た感覚)
今日中に予定どおりZurichに着けるか少し不安で、結局1時間程後のintercityに乗れ、
今度は編成調査で歩き回りヘトヘトになった筈。
さらにその3年前、神戸大震災(英文標記ではHanshin~でなくKobe~らしい)の日は、
18切符消化試合のため始発で越美北線に向かう予定が、強制取消になった事があります。


倶楽部メモ(431) 平成20年 6月16日〜 6月18日


投稿者

コスモス

投稿日

2008年 6月17日(火)13時07分27秒

タイトル

交直接続

▼:雑魚 様

当時の福島駅構内における,直流,交流の架線接続ですが,
交直デッドセクションを介しての架線接続はしていなかっただろうと思われます。
当時は交直両用機関車(EF80型のような)は当地では運用していなかったし
当然急行電車の東北線から奥羽線への直通も未だありませんでした。
直流機と交流機の基地も本線を挟んで北側(交流機)と南側(直流機)に分離していました。

ウイキペディアの福島駅の項目に、同駅の交直接続に以下のような記述があります。
「1960年の白河〜福島間交流電化に際して、
当駅構内での奥羽本線との交直接続が問題となった。
黒磯駅に比して広大な構内と複雑な配線を持つ当駅では、
駅構内への地上切替え設備の設置は断念され
(当時は、車上切替え方式は実用化されていなかった)、構内全部を交流電化として、
直流電化区間との接続点は奥羽本線上の800m庭坂寄りの
福島第二機関区(電気機関車基地)付近に設置され、
そこで機関車交換を行うこととした。」

矢祭町町民ふれあい号の運転は無いようですか。
長く続いていた事業のようですが、JR側の都合か、主催の町側の都合なのか気になりますが
客車列車の運転が見られないのは、残念です。
烏山山あげ号が今年も運行されるのに期待したいところです。


投稿者

雑魚

投稿日

2008年 6月17日(火)22時33分30秒

タイトル

▼コスモス様:
> 直流電化区間との接続点は奥羽本線上の 800m庭坂寄りの福島第二機関区

御教示、有難うございます。この文章からすると、分岐点〜第二機関区は、赤色機の
回送用に、交流電源の架線が張られていたという事になりそうですね。

> JR側の都合か、主催の町側の都合なのか気になりますが

12系改め14系による「成田山参拝臨」が、毎年二月に水郡線で運転された当時を知る
沿線の知人によると、臨時列車の設定を必然せしめる程度の参加人員を確保する為に、
各地区の町会長が奔走気味だったと聞きます。福島県東白川郡全域の人口が四万人を
割っている状況下、車両をわざわざ高崎から回送してまで、列車を仕立てる必然性が
小さくなった………という事なのでしょうか。

> 烏山山あげ号が今年も運行されるのに期待したいところです。

今年は祭自体が 7月25〜27日の実施ですので、運転があるとすれば、26・27日ですね。
烏山での機回しの手間を考えると、十数年前の福島臨海鉄道における臨時列車と同様、
キハ110系(12系と同じ 高崎車セに所属する八高線用)を融通できないかと感じます。


倶楽部メモ(432) 平成20年 6月19日〜 6月22日


投稿者

コスモス

投稿日

2008年 6月19日(木)00時10分15秒

タイトル

福島の交直接続

▼:雑魚 様

 福島駅と機関区(交流機)の間は,奥羽本線とは別の出入区専用の機走線がありました。
交流電化以前は,構内の奥羽線ホームや奥羽線貨物列車用副本線などは
直流架線が張られていたのでしょうね。
 別の資料によると,白河ー福島間の交流電化が完成した
昭和35年3月に福島第一機関区と第二機関区が統合されて福島機関区になっています。
福米間の直流電化が完成した昭和24年4月に,
既存のSLに対するELの機関区として第二機関区が誕生し,
それまでの福島機関区がSL配備の第一機関区になっていたものが、
再整理されて新生福島機関区になったように思われます。

国鉄時代に第一,第二と2つの機関区が設置されたところは,
岩見沢,長岡,富山,高崎、稲沢,吹田,姫路,広島などが思い出されます。
客車の話題に結びつきにくくて恐縮ですが,
福島駅も当時の東北線南部の客車運用の要でしたね。

去年の6月に運転された矢祭町民ふれあい号を石岡駅停車中に見ましたが、
12系6両編成がほぼ満席でした。
80人×6両=480人ぐらいは乗っていたようです。
年に1度のお楽しみとして、車内で町民同士の交流の場としての役目も
果たしていたのでしょうね。


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