倶楽部メモ:客車倶楽部過去ログ集:客車列車の旅

倶楽部メモSP
20系急行列車 ・ 仙台・大阪・韓国の事情
発車前到着後の寝台利用サービス・「あさかぜ」の不採用ダイヤ


倶楽部メモ(422) 平成20年 5月12日〜 5月14日


投稿者

廣瀬 正幸

投稿日

2008年 5月14日(水)17時38分48秒

タイトル

思い出話

 また、時間を忘れて、みなさんの話しを楽しませていただいております。
本当に楽しい客車列車のお話、ありがとうございます。
さて、また思い出を書き込ませていただきます。
何かの話のネタにしていただければ幸いです。

1 昭和53年の夏に「日本海(2号か4号、ちょっと記憶がはっきりしません)」で
青森から大阪まで乗車しました。
すると驚いたことに自分の寝台のハンガーに「九鉄」の文字が刻印され、
びっくりして大阪車掌区のカレチさんに尋ねたところ、
「このクルマは、あかつきとの共通運用ですよ。」
と笑って説明してくれた記憶があります。
14系の所属区は早岐客貨車区とのことで、今では考えられない車両運用でした。

2 昭和52年の8月の末に、仙台から常磐線経由の上野行の旧客鈍行で
(ただし、時刻表では「平(現在のいわき)」で列車番号が変わる別列車扱いでした。)
東北鈍行紀行の最後を満喫しました。
終着間近の「牛久」で、特急「ひたち」の待避待ちの合間、
上野車掌区(水戸車掌区ではなかったと思いますが)のカレチさんが、
当時の国鉄の旅行キャンペーンのテーマソング
「夜行列車(唄は森進一さん。題名は確かだと思うのですが・・)」を
流してくれたことが記憶にあります。
粋なカレチさんと心暖まる歌詞に、なぜか心がキュンとなりました。
(客車ネタでなくてすいません。)

3 平成17年11月2日、出張で「はやぶさ・富士」に
小倉から東京まで乗車した際、翌日熱海付近でダイヤが乱れ、
「新所原」で1時間以上足止めを食いました。
しかし、後続の浜松行等のローカルはすべて先行させ、
「はやぶさ・富士」は所定時刻の「1時間30分」遅れぴったりで東京まで運転。
向かいの下段の「同業者」さん(早稲田の学生さんで、ブルトレフリークでした)が、
「おそらく、以前の『さくら・はやぶさ』のスジが
列車遅延用ために設定されているにちがいありません。」
と力説しておられました。真実はいかがなのでしょう・・・。

  また、投稿させていただきます。


倶楽部メモ(423) 平成20年 5月14日〜 5月18日


投稿者

雑魚

投稿日

2008年 5月17日(土)16時35分51秒

タイトル

チェックアウト・サービス

▼廣瀬正幸様:
> 以前の『さくら・はやぶさ』のスジが列車遅延用ために設定されている

東海道線の様に、相応の波動運用を伴う一大幹線ともなれば、かかる緩衝域の設定は、
充分考えられる事と存じます。かかるダイヤの機動的なアドリブ運用も、複線区間が
整備されていればこその事ですね。

以前、上野→青森で利用した「あけぼの」が、上越線内の異変で大幅に遅延した事が
あります。一部複線区間が交じるも、大半は単線仕様という、新津以北の事情により、
回復運転どころか、遅延の幅が少しずつ拡大。大館に到着した頃には、東北新幹線の
始発から花輪線に繋いでも大して変わらない様な時間帯で、思わず嘆息したのでした。

20系登場以降の「ブルー・トレイン」で、運転区間が完全に複線化されていた事例を
思いつく侭に挙げると、現行「北陸」の他、東京〜下関・博多の「あさかぜ」東京〜
大阪の「銀河」上野〜青森の「はくつる」上野〜盛岡の「北星」上野〜仙台の「新星」
………そんな処でしょうか。

それ以外は、遅延が発生した場合のダイヤ処理において、相応の御苦労があったかと
拝察しますが「新星」の場合は、運転区間が区間ですから、遅延等が発生して初めて、
寝台利用に足る「所要時間」を確保できたのか と、意地悪く考えてしまいます(^^)
幼少時に読した「ケイ○ンシャ」百科事典の記述でしたか、仙台駅にて長時間「開放
停車」を設定する事で「寝不足対策」の一助としていたとか。

1989〜91年、下り「北陸」が金沢到着後に東金沢駅で行っていた「チェック・アウト
サービス」も同様の趣旨と言えそうですが、サービス終了時刻である 9時は、現行の
航空ダイヤを見ると、羽田から富山・小松に、一便ずつ飛び終えた後の時間帯となり、
そう考えると、サービス終了は当然か、とも感じます。

こうした事例とは次元が異なりますが、平成改元頃までは、昼行普通列車が拠点駅で
折返す際、旅客開放扱いで長時間停車している事を見越し、たっぷり昼寝するという
御仁を間々見掛けましたっけ(^^)


投稿者

bell

投稿日

2008年 5月17日(土)21時48分15秒

タイトル

急行『新星』

雑魚様 こんばんは。
本日コメントされてました急行『新星』は昭和52年に初めて寝台車に乗車したこともあり、
自分自身にとって思い入れのある列車です。
本の中でしか見たことのなかった20系寝台車、
嬉しくてよく眠れなかったことを覚えています。
(当時は編成記録をメモする習慣がなく、今となっては惜しいことをしたと思います)

さて、昭和53年9月の時刻表を見ますと、
1102レの運転時刻は仙台23:20−上野5:36と寝台列車ながら寝台利用時間が極端に短いため、
22時前に入線し21時55分から寝台利用ができるようになっておりました。
昭和57年に廃止されるまで運転時刻・入線時刻ともにほぼ同じだったと思います。


投稿者

らん丸

投稿日

2008年 5月18日(日)10時52分3秒

タイトル

EF58牽引の20系「銀河」

今年の春に廃止された「銀河」ですが、今を去る30年前に家族旅行で乗りました。
東京駅の13番線にEF58に牽引されて颯爽と現れる20系客車に感動し、
あまり眠れぬまま大阪に着いたという記憶があります。
当時、季節運転の14系座席車の「銀河51号」が先発(12番線発)で、
定期の「銀河」との並びを見ることが出来ました。

話は変わりますが、あまりにも多種多様になりすぎた「ロネ」のうち、
スイート・ロイヤルに関しては」「イネ」表示にして分離した方がいいと思います。
JRグループは「イネ」表示に躊躇する理由でもあるのでしょうか?
「イネ」表示と敗戦と供に無くなった白帯
(戦後、進駐軍車両に白帯が使われたので一等車は黄色っぽい白になった)を
復活させるべきです
(戦前、主流だった欧州式のコンパートメント型個室寝台が最近また主流となり、
戦後、主流だったアメリカ式のプルマン型開放寝台が実質上絶滅したので)。

投稿者のホームページ


倶楽部メモ(424) 平成20年 5月19日〜 5月22日


投稿者

雑魚

投稿日

2008年 5月19日(月)15時48分53秒

タイトル

20系

▼bell様:
> 本の中でしか見たことのなかった20系寝台車、嬉しくてよく眠れなかったこと

私が20系を利用したのは、86年春の「だいせん」でした。貧乏旅行の哀しさで、山陰
ワイド周遊券による「往路タダ乗り」状態でしたが、寝台車に準じたナハ21の異様に
高い天井は、独特の雰囲気がありましたね。同年夏に訪れた九州では、20系寝台車+
12系座席車で編成された「かいもん」「日南」も「常連状態」でしたが(^^)やはり
周遊券利用の哀しさで(^^)私は専ら12系の利用でした。

これらの列車における20系運用は、宝塚〜福知山〜城崎の電化が大きな話題となった、
1986年秋の改正で消滅。イベント改造編成「ホリデー・パル」を含む不定期の運用も、
1997年に消滅しています。この時期、寝台車については「三段式→二段式」といった
居住性が主な関心事でしたが、気がつけば幼い頃からの憧憬の形式が消えていた訳で、
駅撮りで良いから、せめて写真記録を残して置くべきだったと、今も、悔やまれます。

> 21時55分から寝台利用ができるようになっておりました。

現行ダイヤを重ねると「新星」入線時刻の直前に仙台を発つ「やまびこ70号」が同夜、
午前様直前に東京に到着と、隔世の感ここに極まれりですね。兄弟分の「北星」共々、
東北新幹線の開業時に廃止されましたが、従前は「プラチナ・チケット」扱いだった
羽田〜花巻の航空券が「ブリキ板」に化けた、という比喩が、当時の報道で散見され、
何とも印象的でした。


投稿者

クモイ103

投稿日

2008年 5月19日(月)21時00分26秒

タイトル

仙台増結の寝台車

 東北随一の大都市ながら、上野−青森間のほぼ中間に位置し、
いずれのターミナルからもやや中途半端な距離にある仙台というところは、
夜行列車の時刻設定において、時に無理を強いられる宿命を背負っていました。
そのため、寝台急行「新星」で行われていたような、
出発時刻の遅い寝台車を早めに据え付けて
利用者の便を図る措置は、意外に古くから行われていたようです。

 時刻表復刻版昭和29年10月号を見ると、青森発常磐線経由上野行きの2本の優等列車に、
仙台増結の2等寝台車(ロネ)が21時乗車開始との注記があります。
実際の仙台発車時刻は、準急210列車が23:28、急行1202列車に至っては
なんと3:11というとんでもない時間帯でした。
 翌昭和30年8月号では、1202列車の対となる下り1201列車(仙台着1:45)にも、
切り落としのロネ車が7時まで利用可との注記があります。
この急行1201-1202列車というのは元・連合軍専用列車ですから、
こうした措置はもしかしたら連合軍の指示で始められたのかもしれませんね。

 時代は下って昭和40〜50年代、東北本線経由上野−青森間急行「八甲田」で、
仙台−青森間連結のハネ車においても、同様の措置があったと記憶しています。
当時の「八甲田」は仙台−青森間が夜行となる時間帯に運転され、
同区間のみの増結車がありました。
下りの仙台発はたしか夜半頃でしたが、
増結のハネ車はやはり21時台から利用可能という注記が、
時刻表の東北本線のページにおいて長らくお馴染みの記載事項でした。

 雑魚様が言われるように、その時刻に新幹線に飛び乗れば東京へ日着する時代となり、
仙台駅の良き伝統も、歴史の波間に忘れ去られようとしています。


投稿者

スイロフ

投稿日

2008年 5月19日(月)21時42分15秒

タイトル

Re: 仙台増結の寝台車

昭和50年代の八甲田では仙台−青森でBネとハザを1両ずつ増結していたと思います。
当時、下り八甲田に乗っていると、仙台到着時に「寝台車と座席車を増結します」
というアナウンスが流れていたような記憶がありますが、
あまり定かでありません(すみません)。
それはさておき、寝台利用の人で早くから寝ていた人は、
連結の衝撃で起こされたりしなかったのでしょうかね?(^^;;)


投稿者

ヒゲ無し雷鳥

投稿日

2008年 5月19日(月)22時59分9秒

タイトル

仙台と寝台車

仙台から20系新星に乗車したことがありますが
22時ころにハネ下段に潜り込み爆睡、目が覚めたら
上野に停車中で走行中の記憶はなく列車ホテル状態でした。
ところで仙台を軸とした寝台車というと上野、青森行きが一般的ですが
秋田発仙台行というのが北上線経由でありましたね。
秋田横手間は上野行おがとの併結でしたが、
仙台編成はおがと名乗ってなかったようです。


投稿者

雑魚

投稿日

2008年 5月20日(火)14時50分8秒

タイトル

仙台 ・大阪 ・韓国の事情

▼クモイ103様:
> 夜行列車の時刻設定において、時に無理を強いられる宿命を背負っていました。

仙台における御指摘の様な措置は初めて聞きました。遠距離移動で、鉄道が圧倒的な
優位にあった時代の、多様な旅客需要を反映した印象ですね。もっとも、その当時の
仙台といえば、仙山線が大都市近郊の通勤路線として殆ど機能していなかった(元々、
仙台〜山形の都市間連絡が第一義で、客車主流だった1980年代中期まで、愛子以東の
途中駅は、北仙台・陸前落合のみ)事もあり、都市圏としての展開は、現在に比べて
かなり小規模なものだった様に感じます。

同様の視点で、東京〜九州の中間たる大阪での発着事情を見ると、1942年の関門隧道
開通(工期が一年遅れれば、戦局の悪化で開通は戦後かなり後回しになった可能性を
感じます)の直後、1945年まで東京〜鹿児島に急行が設定された以外は、東京〜九州、
大阪〜九州ともに、1950年代半ばの設定となった様で、さすがに仙台基準に比べると、
かなり融通が効いた内容だった様ですね。

なお、20系化前の「あさかぜ」は、1956年の登場当時、深夜帯となる大阪を通過して、
かなりの物議を醸したと聞きます。これは、丑満時ないしは、その前後の時間帯でも、
大阪駅で一定の乗降需要があった事を示している様に感じます。

> 東北随一の大都市ながら、上野−青森間のほぼ中間に位置し、

上野〜仙台の距離は、近隣国で見るとソウル〜釜山と概ね同じですね。京釜高速線の
開業による並行在来線化で、現在の東北線と同様の状況になっているのかと思いきや、
特急格の「セマウル」や急行格の「ムグンファ/無窮花=ムクゲ」はまだまだ健在で、
後者では、夜行を含む客車運用も残っているとの事。

京釜線での昨年の夜行便の状況を見ると、一晩に数往復ほど運転されている様ですが、
釜山着が午前2〜3時台の便もあり(かつて夜間外出禁止令が出されていた当時の該当
時間帯ですね)有効利用時間帯との整合性や如何に、とも感じます。寝台車もあると
聞きますが、座席車で概ね事足りそうな雰囲気ですね。

一方、秋夕(旧盆)絡みの連休における帰省ラッシュは、首都への人口集中もあって、
日本の盆暮をも凌ぐ一点集中的な大渋滞・大混雑が慢性化しており、そうした時には、
上記列車群も「本領発揮」するのかも知れませんね。

韓国の鉄道における海外からの技術導入といえば、韓国版TGVこと、京釜高速線が
有名ですが、首都圏電鉄や釜山交通公社路線の架線柱の形態を見ると、JRの作風も
少なからずある様に感じます。


投稿者

廣瀬 正幸

投稿日

2008年 5月20日(火)15時13分44秒

タイトル

ありがとうございました。

 雑魚様
 丁寧な解説を含めたご返答ありがとうございました。
 小生、札幌市内の某高校に勤務している「中年の客車鉄ちゃん」です。
 また、私の戯言に雑魚様から解説があれば幸いです。
 先達の皆様方、これからもよろしくお願いいたします。
   失礼いたします。


投稿者

クモイ103

投稿日

2008年 5月20日(火)19時34分55秒

タイトル

Re:仙台 ・大阪 ・韓国の事情

>雑魚様
 東京−大阪間は上野−仙台間と違って夜行急行の運転におあつらえ向きの距離ですし、
何よりも「天下の台所」たる大阪を丑三つ時に通り抜けようという度胸のある旅客列車は、
歴史上長いこと存在しませんでした。
そこに現れた稀代の歌舞伎モノ(笑)が、昭和31年11月19日ダイヤ改正で新設された
特急「あさかぜ」だったわけですが、
深夜帯ながらも京都・大阪・神戸にちゃんと停車していました。
文献によっては「深夜に通る」ことを「通過」と表現した文章がありますので、
勘違いし易いですね。
下り…京都1:19着/1:24発、大阪2:00着/2:01発、神戸2:29着/2:30発
上り…神戸1:58着/1:59発、大阪2:28着/2:29発、京都3:05着/3:10発
(時刻表復刻版1956年12月号より)
 物議を醸したのは、「天下の台所」が有効時間帯から外された事に対する、
気位の高い反発だったと聞き及んでいます。

 実際、東京−九州間の急行列車は、京阪神地区を有効時間帯に入れるため、
「東海道昼行・山陽夜行」または「東海道夜行・山陽昼行」の
いずれかのパターンをとることが必然であり、
それは昭和50年3月改正で廃止された最後の1往復「桜島・高千穂」
(前者のパターン)に至るまで、律儀に守り通された鉄則でした。
 それに対し特急「あさかぜ」は、「禁」を破って京阪神を丑三つ時に走り抜ける快挙
(大阪の人にとっては暴挙(^^;)を成しました。
またその結果、急行では3組の客車編成を要する東京−博多間において、
初めて2組運用を実現するという効率化も達成したのでした。
その後次々に登場した東京−九州間特急群はみな、
目的地への到着時刻を優先させて京阪神無視の時間帯設定をとり、
それが当たり前になりましたが、先鞭を付けた「あさかぜ」の功績は、
日本の鉄道史に特記されてしかるべきでしょう。


投稿者

クモイ103

投稿日

2008年 5月20日(火)20時03分55秒

タイトル

Re:仙台 ・大阪 ・韓国の事情(2)

> 韓国の鉄道における海外からの技術導入といえば、
韓国版TGVこと、京釜高速線が有名ですが、
首都圏電鉄や釜山交通公社路線の架線柱の形態を見ると、
JRの作風も少なからずある様に感じます。

 1988年のソウル五輪に際し、韓国の複々線区間を行き交う長距離列車と通勤電車が、
日本のJTB時刻表の表紙を飾りました。
あの通勤電車、前面は国鉄301系もどき、屋上にはグローブ型ベンチレーターが並び、
どう見ても「日本の電車」でした。

 話が戻りますが、仙台で行われていた増結寝台車の「早寝」扱い、
急行「銀河」が廃止された現在、
大阪で上り「サンライズ」に実施できたら…なんちて(爆)

 連投失礼しましたm(_ _)m


投稿者

壁線

投稿日

2008年 5月20日(火)21時04分18秒

タイトル

「あさかぜ」の不採用ダイヤ

ちょっと気になった部分があったので横レス失礼いたします。
>クモイ103様
それに対し特急「あさかぜ」は、「禁」を破って京阪神を丑三つ時に走り抜ける快挙
(大阪の人にとっては暴挙(^^;)を成しました。
またその結果、急行では3組の客車編成を要する東京−博多間において、
初めて2組運用を実現するという効率化も達成したのでした。

何かの本で「あさかぜ」のダイヤ案が決定するまでの経緯を読んだことがあります。
東京を昼下がりに出て、大阪に22〜23時台に到着、
博多には7,8時台に着くという案(具体的でなくてすみません)が出ましたが、
合計3編成必要になるので不採用になったようです。
もしこの案だと途中で2回すれ違ったのでしょうか。
あるいは「安芸」のように折返し時間が足らなかったのでしょうか。
読んだ本のタイトルが思い出せず、分からないでいます。
ご教示の程よろしくお願いします。


投稿者

クモイ103

投稿日

2008年 5月20日(火)23時54分0秒

タイトル

Re:「あさかぜ」の不採用ダイヤ

>壁線様
> 合計3編成必要になるので不採用になった
…そうですか、そっちが主な理由だったのでしょうか。

 夜行列車のダイヤ設定における一般論として、上下の列車が午前3時にすれ違う、
つまりダイヤグラム上で3時を軸にした対称形とするのが理想と言われます。
これは、0時〜6時が「非有効時間帯」、6時〜24時が「有効時間帯」
と認識されており、上下で同じ使命を持ち対となる列車は、
同じ区間を「有効時間帯」に入れることが求められるからです。

 登場当初の「あさかぜ」のダイヤは、
下り東京18:30発→博多11:55着、上り博多16:35発→東京10:00着でした。
上下のすれ違いは、前書き込みで示した様に大阪−神戸間のほぼ中間地点で
2:15頃と推定されますから、まあまあセオリー通りだったと言えましょう。
 壁線様ご紹介の「不採用ダイヤ」を、仮に実際の時刻より4時間早いとすれば、
東京14:30発→大阪22:00着/22:01発→博多7:55着となります。
これに対応する上りの時刻は、逆に実際より4時間遅らせることになり、
博多20:35発→大阪6:28着/6:29発→東京14:00着と、
明らかに東京側(品川客車区)での当日折り返しは不可能ですね。
仮定の時刻を多少いじってみても、大阪を有効時間帯に入れようとする限り、
品川での整備時間が苦しくなるのは避けられません。

 特急でもこうですから、同じ事を急行でやろうとすれば、
もはや下り東京発よりも上り東京着の方が遅くなってしまい、
すれ違いが発生します。
かといって東京側の折り返し間合いを確保するため
思い切って東海道区間を夜行にすれば、
今度は博多側で当日折り返しが出来ません(「筑紫」がこのパターンでした)。
これが、急行だと3組運用が避けられなかった事情です。


投稿者

EF58 29

投稿日

2008年 5月21日(水)09時47分52秒

タイトル

あさかぜの大阪飛ばしの出典

お久しぶりです。
 壁線さまのご質問ですが
>読んだ本のタイトルが思い出せず、分からないでいます。

 阪田貞之著「列車ダイヤの話」(中公新書 昭和39年)
と思われます。それにしても20系あさかぜの登場から50年、
現在の夜行列車の衰退ぶりを誰が予想できたでしょうか。


投稿者

マロネロ38

投稿日

2008年 5月22日(木)09時44分42秒

タイトル

あさかぜ

EF5829さんの「列車ダイヤの話」がそうだと想います。
この本奇跡的にまだ本棚に残っているので出してみて「e」案採用の事を
読みました。


倶楽部メモ(425) 平成20年 5月22日〜 5月25日


投稿者

雑魚

投稿日

2008年 5月22日(木)09時48分52秒

タイトル

新潟、韓国、土浦 etc

▼クモイ103様:
>「天下の台所」が有効時間帯から外された事に対する、気位の高い反発

さながら「ワシに一言の挨拶もせんと 過ぎんといてや」という感覚でしょうか(^^)
それなら「出雲」機能集約を兼ね山陰線経由で………という他愛も無い話はさて置き、
こちらはこちらで、深夜通過となる京都で葛藤が無かったのか、とも感じます。

同様の事例がありそうな地勢として、日本海縦貫線における新潟はどうか、と思うも、
こちらは元々「新津から分岐する支線の終点」であり、阿賀野川の渡河前後の湿地の
克服がよほど困難だったのか、白新線の開業も1956年と割と新しく、大阪とは事情が
大きく異なりますね。

ちなみに、青森直通時代の「きたぐに」は、新潟以北が事実上の「昼行枠」だった為、
1982年の上越新幹線開業時、新潟始発に再編された「いなほ」に集約されたのですね。
新潟を度外視して上野に直通していた「いなほ」のスジは、一日一往復の「鳥海」に
継承されましたが、新幹線開業後も、需要は高かった様です。

> どう見ても「日本の電車」でした。

あの表紙写真は強烈でしたね。塗装柄、私は「東武鉄道風」を強く感じました。隣を
並走していたのは「セマウル」だった様に思いますが、KTX開業以前は、最新型も、
端部の動力車が中間の非動力車を牽引する「客レ」仕様だったそうですね。

あの時刻表、確か韓国の駅名は、漢字と英文字の併用表記でしたね。韓国では永らく、
自国語の公式表記における漢字使用の是非が大きな論点になっていますが、鉄道では、
金大中政権下、1998年の「漢字復活宣言」以前から一貫して漢字が併記がされており、
日本や中国からの旅行者にとっては、大きな一助となった事でしょう。

> 大阪で上り「サンライズ」に実施できたら…なんちて(爆)

営業列車における同趣のサービスとして、1985年の筑波科学博の際、土浦の電留線に
留置した 20系・583系を宿泊施設に充当する「エキスポ・ドリーム」がありましたね。
行列待ちが苦手というだけの理由で、茨城県民の癖に、科学博は行かず終いでしたが、
これだけは試して見たい処でした(^^)

ちなみに、当時の常磐線における輸送状況を見ると、取手以南のH電に接続する形で、
我孫子・取手〜土浦に設定される臨時便が目立ちました。どうせなら上野直通の方が
便利だろうに、などと感じましたが、H電区間でのダイヤ確保や、交直流両用編成の
絶対数の不足が、隘路になったのでしょうね。

水戸界隈では、開幕時のダイヤ改正で廃止された水郡線直通急行「奥久慈」のスジが、
科学博対策の臨時快速として 辛うじて残ったのが印象的でした(確か佐貫折返し?)


投稿者

クモイ103

投稿日

2008年 5月22日(木)22時29分20秒

タイトル

大阪飛ばし、京都飛ばし

>EF58 29様
 たいへんご無沙汰しています。お元気でしたか。
 その本、持ってません(泣)。図書館で探すかな。

>雑魚様
> 深夜通過となる京都で葛藤が無かったのか、とも感じます。
 「あさかぜ」が物議を醸した昭和31年当時、「出雲」は大阪・福知山線経由で、
 [東京−大阪間夜行]+[大阪−大社・浜田間昼行]という時間帯設定でしたから、
 何も問題はなかったと思われます。
 もともと大阪−山陰間の昼行列車だった「いずも」が、
 編成の一部を大阪から「せと」に併結して東京へ乗り入れていたものを、
 31-11改正で独立の一列車にしたものでした。
 大阪を通らず京都から山陰線に入る運転経路となったのは、昭和36年10月改正からです。
 それでも当初は下り京都着5:02、上り京都発23:45と、
 目くじら立てるような時間帯ではありませんでした。
 京都が深夜通過となったのは、昭和47年3月改正の特急格上げ後ではなかったでしょうか。
 余談ですが、36-10改正以前の「出雲」の昼行区間のスジは、
 同改正で新設された別列車「三瓶」が引き継ぎ、
 43-10改正の愛称名統合で「だいせん1−2号」、
 のち「だいせん1−1号」となってその後も長く続きました。


投稿者

マロネロ38

投稿日

2008年 5月23日(金)09時02分27秒

タイトル

大社急行=いずも

戦前から戦時中までの有名な「ローカル急行ピカ一」大社急行401−402レが前
身でしたね。
停車駅が少なくて大阪−三田−福知山−和田山−豊岡−城崎−鳥取−上井−
米子-松江−出雲今市−大社(402レだけ401レと交換で「荒島」停車)
客車も宮原のオール円屋根、優等車はスロ34、機関車はC55流線型でした
(昭和17年8月初め)


投稿者

クモイ103

投稿日

2008年 5月24日(土)20時45分49秒

タイトル

Re:大社急行=いずも

>マロネロ38様
> 戦前から戦時中までの有名な「ローカル急行ピカ一」大社急行401−402レ
…九州で使用されていたマイシ37900を格下げしたマロシ37900が運用された
 という列車でしょうか?
 格下げとはいえ、座席は1等(イ)時代の1+2列のままだったようで、
 確かに「ピカ一」だったでしょうね。
 昭和17年8月初めにオール丸屋根になっていたという事は、
 マロシ37900は外されたのですね。
 C55流線型は、大社まで牽引したのでしょうか?


投稿者

マロネロ38

投稿日

2008年 5月25日(日)14時12分45秒

タイトル

大社急行

私が乗車したのは下りが和田山ー上井、上りが大社−和田山でした。食堂車は
往復利用しましたが確かに「円屋根」でした。「ロ」は洗面所が2ケ所あったの
でたぶんスロ34だったのでしょう。
機関車は和田山で乗車した時はC55流線型でしたが、帰りの大社
からは標準型だったか?確かな記憶がありません。
客車が良かったのは「大ミハソ」で大阪始発の東海道、山陽本線急行と予備車
共通だったからか?と想像します。時刻表を見ても戦後の特急「まつかぜ」よりも
少なかったのですから大した急行列車でした。
(蛇足ですが播但線の「ロハ」が木造で「ロ」がロングシートの旧型でしたから
ホロハかナロハだったのでしょう)帰途交換待ちの「長谷」駅の井戸水が冷たくて
美味しかった(カルキ無し)のを覚えています)


倶楽部メモ(426) 平成20年 5月26日〜 5月31日


投稿者

クモイ103

投稿日

2008年 5月26日(月)23時07分41秒

タイトル

Re:大社急行

マロネロ38様
 食堂車も丸屋根ということは、全室食堂車になっていたわけですね。
 ピク誌の「国鉄急行列車愛称変遷史」では、S.10.3.15新設、S.18.2.15廃止で、
 マロシ37900が連結されたとだけ記されています。
 当時本州では珍しかった半室食堂車が使用された点について
 「ローカル急行的性格を物語っている」と評されていますが、
 末期においては立派な幹線急行に成長していたのでしょうね。
 貴重なご証言、ありがとうございます。

 現代の感覚からはつい忘れがちな事ですが、昔は格式の高い神社への参拝客が、
 鉄道の大きな需要を形成していたようですね。
 江戸時代の「お伊勢参り」の流れを汲む参拝行脚の需要は、
 現代の「初詣臨」とは違って、年間を通して安定しており、
 定期列車の運行に値するものであったと察せられます。
 実際、伊勢神宮のお膝元伊勢市へ向け、東京から急行「伊勢」が、
 近畿圏からは所謂「鳥羽快速」、のち急行「志摩」が長らく運行されていたことは、
 「参拝需要」がかなりあった為ではないかと愚考します。
 そう考えると、くだんの大社急行401-402レは
 「出雲大社への参拝列車」ということになり、
 特急並の停車駅や、当時としては豪華版と言えるオール丸屋根の客車編成も、
 この列車の性格から来る「格式」を表していた様にも思えてきます。

 …なんて話は、考えすぎでしょうか?


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