倶楽部メモ:客車倶楽部過去ログ集:客車列車の旅

倶楽部メモSP
津軽海峡線の20年
鉄道連絡船の終焉から早20年


倶楽部メモ(398) 平成20年 1月 8日〜 1月18日


投稿者

クモイ103

投稿日

2008年 1月17日(木)22時58分49秒

タイトル

鉄道連絡船の終焉から早20年

雑魚様が触れられた通り、
今年は青函トンネルと瀬戸大橋の開通20周年にあたります。
(ちょうどリンク先のノーブルジョーカー様の掲示板で話題にしたところでした。)

明治・大正・昭和の3代にわたり、
島国日本の鉄道網を一つに結びつけてきた鉄道連絡船。
その実質的な終焉から、もう20年も経ってしまったのですね。

国鉄からJR北海道に引き継がれた青函航路は、
昭和63(1988)年3月13日の青函トンネル開通を受け、
その日1日だけトンネルと併存して運航されたのを最後に、
定期運航を終了して休止となりました。
同年夏、青森と函館の両港で開催された「青函博覧会」の期間中、
十和田丸と羊蹄丸がそれぞれ1日1往復の復活運航を行い、
博覧会の終了と共に正式に廃止されました。

JR四国に引き継がれた宇高航路は、同年4月10日の瀬戸大橋開通に伴い、
同日0:05宇野発の臨時便讃岐丸を最後に、主力船舶の運航を終了しました。
高速艇「しおかぜ」だけが残りましたが、
急行料金を収受していたためか利用者数はじり貧だったと見え、
次第に便数を減らされて、わずか2年でひっそりと消え去りました。

写真は「青函博」に伴う復活運航の上り十和田丸船上から、
すれ違う下り羊蹄丸を写したものです。
実は“現役時代”の青函航路では、このアングルの写真は撮れませんでした。
なぜなら、船舶は右側通行が原則のところ、
青函航路は例外的に左側通行で運航されていたためです。


倶楽部メモ(399) 平成20年 1月18日〜 1月21日


投稿者

雑魚

投稿日

2008年 1月18日(金)14時23分49秒

タイトル

静態保存候補地之四

▼クモイ 103様:
> その日1日だけトンネルと併存して運航されたのを最後に

この日は、鉄道で函館に向かい、連絡船で青森に戻る手合が多かったと記憶します。
三月下旬と、北国はまだまだ冷えるこの時期、徹夜待ちを厭わなかった「一番乗り
狙い」の行列がTVで紹介され、正に「鉄魂」を見る思いでした(^^)

> 同年 4月10日の瀬戸大橋開通に伴い

これを受け「一本列島」を標榜した記念オレンジ・カードが多々販売されましたね。
私も、東京駅地下「JR北海道プラザ」や、丸の内にあるJR四国の事務所などで、
度々、物色したものでした。

海峡線開業直後の 3月20日から大橋開通までの一箇月弱、本四備讃線は、茶屋町〜
児島で暫定開業しましたが、これは「瀬戸大橋博」の観客輸送に対応する為でした。
上記「青函博」ともども、博覧会興行が何かと持て囃された時代でした。その一方、
拠点性を喪失した宇野駅は、その後の移転再編で、実に簡便化されたのですね。

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妄想序でに「保存候補地」として、地元・鹿島鉄道跡も挙げて置きます(^^)現在、
小川高校下以遠の線路撤去は進んでいない様で(鉾田駅跡は、車両の留置状況から、
記念公園の整備が予想されます)線路が湖岸に最接近する画像(桃浦手前)付近の
線路を恒久保存し、往年の「パンダ号」風味を演出するのは 如何でしょうか(^^)

そういえば「パンダ号」牽引に供され、ここ数年間、常陸小川駅に放置されていた、
あの「カバさん」は、その後、どうなったのやら?


投稿者

てりてり

投稿日

2008年 1月18日(金)20時33分53秒

タイトル

長万部

 青函連絡船の序曲はこの駅にはじまりましょうか。優等列車が発車して
「只今より連絡船で本州方面にお越しのお客様に乗船名簿をお渡しいたします。
函館到着時、駅係員にお渡し下さい」と言う放送に胸が高鳴ったものです。
列車によっては大沼国定公園の案内放送があり函館駅到着を告げる最終放送で
「本日の連絡船は○○丸です。・・時の出航です。本日の津軽海峡は…」
と他には聞かれない放送に愈々北海道とお別れするのだな、と思ったものです。
 今は昔、時代は「昭和」と呼ばれていた頃のお話です。 それでは。


投稿者

クモイ103

投稿日

2008年 1月19日(土)20時52分13秒

タイトル

「あの日」の青函ツアー

>てりてり様
 列車の車内放送で、たしかに接続する連絡船の船名まで案内していましたね。
桟橋の待合室にも、「○時○分出航 △△丸」と大書されていました。
確かに多くの客にとっては「何便に乗る」でなく「何丸に乗る」方が重要でしょうし、
船というものは人格があるかのように扱われますから、それが自然なのでしょうね。

 さて、昭和63(1988)年3月13日は歴史に残る青函トンネル開通の日。
早朝から興奮に包まれた青森駅の式典準備風景を横目に、
6:02発津軽線923Mのクロハ481グリーン室を奮発して蟹田へ向かいました。
駅から少し青森方に歩いたところでカメラを構え、
トンネルを通過する下り旅客初列車「海峡1号」、続く「日本海1号」、
そして上り初列車「はつかり10号」などを次々に迎え撃ちます。
「海峡1号」と「はつかり10号」はそれぞれ所定6両のところ10両に増結、
「日本海1号」も付属を落とさずフル編成、いずれも堂々たる長編成の晴れ姿でした。
目の前には陸奥湾が広がり、今日で最後の連絡船が行き交う姿も遠く望めました。
 このあと「海峡3号」でトンネル初通過を果たし、
函館で少し船ちゃんをしてから札幌へ向かい、「北斗星6号」初列車で帰京。
この日最も衆目を集めた連絡船最終便には、ぢつわ立ち会っていない
「邪道連絡船ファン」のクモイ103でした(笑)。
 写真は記念すべき一番列車3121レ快速「海峡1号」、瀬辺地−蟹田間にて。


投稿者

岩崎安房守義将

投稿日

2008年 1月19日(土)21時53分23秒

タイトル

妄想は時に・・・

雑魚様、更に御提案感謝致します。
 小生も鹿島鉄道跡地は考えましたが、
会社と自治体と市民団体がちょっとすれ違いを起こして
今日の状況となった現地なもので、多分提案と同時に却下されそうです。
 或るファンが余計な動きをした事で、
諸々崩れた曰く付きの場になってしまった処が悲しいのですが、
小川のカバさんは廃止決定直前に現地で解体されたと報告を受けております。
 まぁ妄想は妄想なのですが、時としてそんな妄想が現実になる事も・・・
横川機関区やトラストトレイン、
C623機も原点は同じなので騒いだ者勝ちかな?と内々思っております。
 が、特定非営利活動法人の悲しさで、
現実性皆無のものは事業として着手出来ませんし、或程度の裏付けも・・・
その第一が「設置場所」だったもので・・・
 さて、青函連絡船の話題に釣られてしまいますが、
当時青函連絡船には「揺れ船」と「揺れない船」がありまして、
これがどの様な経緯で言われとなったかは不明なのですが、
確かに津軽丸型系列12隻中で
「津軽」「松前」「摩周」「十和田」は「揺れない」と言われ
(航行時の季節や天候により違いはあるのでしょうが・・・
小生の経験でも摩周と十和田は揺れなかったですね、
もっとも十和田は唯一の外洋航海設備を持っておりましたし・・・)
「揺れ船」としては「大雪」「石狩」「檜山」と良く聞きました。
 途中で客室部分を増設された「石狩」(三代目)と「檜山」は納得出来ますが、
「大雪」は凪でも揺れましたね。
 汽車と同じで船もクセがあるのでしょう。
 また末期は別として、一時船によって設備が異なったり、
食堂のメニューが若干異なったりとしたので
この「客務」的要素もあったと推測致します。
 国鉄末期の昭和61年11月まで上野駅案内所に勤務しておりましたが、
青函局にお願いして配船表を送って頂いておりました。
 週に一人は「連絡船、フネは何?」と御質問があったからなのですが、
配船変更の場合は原電(原文電報=ファクシミリ)で
お知らせ頂いた記憶がございます。

投稿者のホームページ


投稿者

雑魚

投稿日

2008年 1月20日(日)14時04分53秒

タイトル

G車の思い出

▼クモイ 103様:
> 6:02発津軽線 923Mのクロハ481 グリーン室を奮発して蟹田へ向かいました。

私も、同列車のG室を利用した事があります。ただし、この時は渡道せず、蟹田から
三厩行に繋いで、三厩駅で拾ったタクシーで津軽中里に出るなど、限られた時間内に
多くの路線を「消化」するという趣旨でした。

あくまで特急の間合運用という事で、おしぼり利用は不可というのが印象的でしたね。
この運用は、今なお健在で、首都圏や「特急崩れ」以外で、定期列車が自由席G車を
擁する例は、長野総合車両センター関連の「あずさ」編成回送を兼用したと思われる、
松本〜長野の快速と、津軽線の事例だけでしょう。それにしても、下り一本に対して、
上りが「休日運休」込みで二本とは、これ如何に?

G車と云えば、JR発足直後の87年初夏、青函連絡船で唯一寝台を利用した渡道の際、
函館で繋いだ「北斗」で利用したG車は、導入後間もない「ハイデッカー」車でした。
当時、夜行連絡船に接続する「北斗」は、函館を四時半頃に発つ全車指定の速達便と、
五時頃に発つ一部自由席の緩行便の二本立で、私が利用した前者は確か、東室蘭まで
無停車でした。この時間帯の下り「北斗」は翌年以降「北斗星」に函館回転のハザを
併結する体制に移行したと記憶します。

さて、折角の「ハイデッカー」G車で不覚にも少なからず眠り込んだ私が、札幌から
繋いだのは「ヒルネ用」B寝台を組み込んだ、14系「天北」でした。この時の様子は、
以前言及したかと思いますが、名寄から空気輸送状態だった静かな客レに揺られつつ
眺めていた、夕刻迫る宗谷地方の荒涼たる台地の印象は、正に「最果て」の趣でした。

日が暮れた頃に到着した稚内で、夕食を済ませた後(今考えると、勿体無い話ですが)
折返し運用の「利尻」で札幌に向けてトンボ返りと「道内旅行=14系」の刷り込みが
成された時期でした。それゆえ未だに、利尻富士の雄姿を拝んだ事が無い雑魚でした。


投稿者

クモイ103

投稿日

2008年 1月20日(日)21時14分32秒

タイトル

津軽線

>雑魚様
> それにしても、下り一本に対して、
> 上りが「休日運休」込みで二本とは、これ如何に?

 1975年頃の時刻表を見ると、
現在の下り初列車のスジにあたる923D三厩行きの前にもう1本、
休日運休の「921レ」蟹田行きがありました。
私の乗った1988年当時、
下り初列車は1975年の923Dのスジを受け継ぐ「923M」であり「921」は欠番。
現在も初発は「323M」であり「321」が無いということは、
つまりそういうことですよね(笑)。
 なお、1988年3月改正当時、
夕方にも1往復のG車付き普通列車がなんと583系9連で運転されており、
これも別の機会に乗りました。
この時は一部で有名?な竜飛岬の階段国道を訪れ、
その帰りに蟹田から青森まで乗ったのが、
私の唯一のサロ581乗車体験です(爆)。

 さて、ここは「客車倶楽部」ですからね、やっぱり客レで締めましょう。
前々書き込みの画像の続き、青函トンネルに向かう「日本海1号」初列車です。
変な棒がかかっていますが、足場の関係でやむを得ずと言い訳(笑)。


倶楽部メモ(400) 平成20年 1月21日〜 1月30日


投稿者

雑魚

投稿日

2008年 1月22日(火)14時08分6秒

タイトル

津軽海峡線の20年

▼クモイ 103様:
> かつての賑わいが嘘のように荒涼としたたたずまいでした。

閉館後も一年余、所蔵資料の貸出ないし公開などは行っていたそうですね。この跡地、
万世橋駅跡の公開の見込みは少ないと聞きますが、再開発の予定はあるのでしょうか。

>「321」が無いということは、つまりそういうことですよね(笑)

スジはあるが、需要が見込まれない為、旅客に開放していない、という事でしょうか。
そうしてまで上り便を設定するのは、県都・青森の求心力の産物なのでしょうね。

昨日発売されたRJ誌の特集「津軽海峡線の20年」を拝見しますと、本州〜北海道の
旅客需要における海峡線のシェアは、私が考えていた以上に、縮小しているのですね。

同誌では、青函隧道と同時期開通した瀬戸大橋との状況比較において、青森〜函館が
離れ過ぎ、都市や人口の規模が小さい事から(両都市自体は 人口30万前後の中核市)
海峡を挟んだ一帯感の醸成には至っていない、という趣旨の記述がありました。

個人的には、上記事情に加え「平成の大合併」で誕生した函館郊外の北斗市を除いて、
近接する「市」が無いなど、人口集積の展開性が小さい事も介在していると感じます。
特に「北斗星」「はまなす」などの客車運用を必然ならしめている五稜郭〜東室蘭の
非電化区間の内、函館や室蘭の都市圏を除く沿線郡部自治体の人口総計は、これ程の
距離にも拘わらず(渡島砂原迂回線沿線の鹿部町を含めても)十万人には届きません。

こうした人口分布では、尚さら「一点集中型」の航空需要に圧倒されがちでしょうし、
函館〜札幌(丘珠)にも航空便が一日七往復設定されている事を考えると、新幹線の
延伸計画との整合性を度外視しても、上記区間の電化は、現実的ではないのでしょう。

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昨日、阿字ヶ浦駅の画像を添付しましたが、先刻、一瞥した保険会社のTVCMでは、
同駅を発つ列車での別れの場面が演出されていました。何気無く見ていると、上記の
画像にある「準急色」と「羽幌炭鉱色」に挟まれた、普段は使用されていない側線で、
車止め方向に走り始めており、一瞬「あれ?」という雰囲気。どうやら、定期列車の
運転を妨げぬ様、撮影の為に車両を融通した「フィルム・コミッション」風味ですね。

この後、遠くへ走り去る列車の映像は、中根付近での「下り」と見受けられ、なまじ
地元事情を知っているだけに、思わずニヤリ(^^)そういえば、文房具のTVCMで、
教え子達に見送られ離任する女性教師、と思しき演出の中、やはり同様の走行場面が
登場しました。勝田から那珂湊への異動なら、それほどしんみりする話でもないかと、
突っ込んで置きませう(^^)


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