倶楽部メモ:客車倶楽部過去ログ集:客車列車の旅

倶楽部メモSP
「洞爺丸」の慰霊碑
「洞爺丸」沈没事故・稚泊航路


倶楽部メモ(369) 平成19年 6月 2日〜 6月 9日


投稿者

クモイ103

投稿日

2007年 6月 2日(土)23時37分55秒

タイトル

「越路」の教訓

 国鉄史上空前絶後の106時間21分という大遅延を記録した、
昭和38年1月23日新潟発上野行き704レ急行「越路」。
この列車を発車させたことの問題点について、
鉄道ピクトリアル第304号(1975-3)で瀬古龍雄氏が次のように指摘しています。

−引用−
 たしかに23日午後は新潟では無風であったが,
新津ではすでに10m以上の南東風が吹き,風雪でかなり荒れた状態であった.
新津は気象的にかなり問題のある所で,阿賀野川を吹き抜ける南東の局地風
(いわゆるダシの風)の実によく吹く所である.
新津で15〜20m程度のダシの風が吹いても,
新潟三条では無風ということは珍しくない.
しかも,冬場にこのダシの風の吹くときは,
その後北西の季節風をともなった吹雪の前兆になることが多い.
 新津の風雪ではとても越路を受けとれる状態ではなかったので,
新津駅では一旦断ったものの、このくらいの風で
(新潟ではダシのことはわからない),何だ頑張れということで
無理に新潟を発車させたことが悲劇の始まりともいわれている.
−引用終わり−

 瀬古氏は「越路」の発車を批判する立場で論じているので、
この時の新津と新潟のやりとりが実際にはどのようなニュアンスだったのかは、
一歩引いて読み解く必要があるでしょう。
しかし、輸送を守る現場同士でぎりぎりの判断のせめぎ合いがあったことは
容易に察せられます。

 実は瀬古氏はこのあと、青函連絡船洞爺丸の沈没事故を引き合いに出し、
その教訓が生かされていなかったと論じています。
洞爺丸の場合も、一旦弱まった台風15号が勢力を盛り返して
すぐそこに迫っていることを知らず、「無理に」出航したために起きた悲劇…
という点では一見似ています。
しかし、瀬古氏が触れていない大きな違いは、
洞爺丸の場合は「危険の情報」を現場が知る術が無かったことです。
それは当時の気象観測技術の限界でした。
洞爺丸の出航は、その時現場が得ていた情報から適切に判断した結果であり、
悲劇はその情報自体が不完全だったことにありました。

 「越路の発車」の場合、「洞爺丸の出航」と違って、
危険の情報はしっかり新津駅から新潟駅に伝えられていたようです。
であるならば、情報を受けてからの「判断」に問題があると見るのが自然でしょう。
そこに「運休は最大の恥辱」という意識が働いていたとすれば、
そこを反省点としてその後雪害対策を見直した国鉄の対応は、
まことに理にかなった大きな改善であるように思います。


投稿者

雑魚

投稿日

2007年 6月 5日(火)18時20分21秒

タイトル

鉄道連絡船

> 洞爺丸の出航は、その時現場が得ていた情報から適切に判断した結果であり、
> 悲劇はその情報自体が不完全だったことにありました。

記録を改めると、洞爺丸の遭難場所は出発地の函館港から目と鼻の先だったのですね。
出航してから事故発生まで数時間、函館市街の灯火が目視圏にありながら、成す術を
持たなかった乗員・乗客の心境たるや、察するに余りあります。客貨車を満載しつつ、
最後は、概ね裏返しの状態で沈没したそうですが、映画「タイタニック」の印象をも
上回る惨状だったのかも知れませんね。函館港との位置関係に鑑み、七重浜に何とか
辿り着いた後に力尽きた犠牲者も少なくなかった様で、思わず、襟を正す様な話です。

この時、青函連絡船の僚船四隻もまた転覆・沈没し、事の次第では連絡船の運航体制
それ自体の存続が危ぶまれたらしく、関係者の事後処理そして運行再開に至るまでの
御苦労もまた、推して知るべしですね。

1950年代でこの状況ですから、流氷が発生するなど、津軽海峡より更に寒冷な海域で、
戦時体制という極限の要因も介在した稚泊航路に至っては、どの様な様相だったのか、
想像すら出来ません。学生時代「氷雪の門」と聞くと、札幌にある蟹料理店の事しか
連想しなかった自身の無知振りと併せて、これまた襟を正すのでした。


投稿者

クモイ103

投稿日

2007年 6月 6日(水)22時19分46秒

タイトル

「洞爺丸」の慰霊碑(1)

> 記録を改めると、洞爺丸の遭難場所は
出発地の函館港から目と鼻の先だったのですね。

 以前に管理人様より、客車のHPではあるけれど鉄道連絡船の話題もOK
とお許しを戴いておりますが(倶楽部メモ-228/平成16年 3月 4日(木)の書き込み)、
私自身が連絡船の話になると熱くなってしまいますので、ちょっとセーブしながら
いきますね(^^;。+

 洞爺丸事故の詳しい経過は、数多くの出版物で様々な立場からの記述が
世に出ていますので、今さら私が御託を並べるまでもないでしょう。
 七重浜に建立された慰霊碑は、
洞爺丸とともに沈んだ僚船4隻の沈没地点をも遠く望み、佇んでいます。
場所は江差線七重浜駅から約1km、
海沿いに走る幹線道路に面しているのですぐわかります。
写真はちょっと古いですが1992年8月の撮影、
函館港口を隔てた対岸には函館山がそびえています。


投稿者

クモイ103

投稿日

2007年 6月 6日(水)22時22分3秒

タイトル

「洞爺丸」の慰霊碑(2)

 なお、犠牲者に対する慰霊碑の他に、
沈没した船に対する「殉難船碑」も存在することは、
あまり知られていないのではないでしょうか。
こちらは函館山ロープウェイの山麓駅から登山道を徒歩数分登った右側にあります。
ここには元々、青函連絡船も壊滅的な被害を受けた
第二次大戦中の殉職船員に対する慰霊碑がありましたが、
そこに洞爺丸台風における殉職者が合祀されるとともに、
その傍らに、洞爺丸・第十一青函丸・北見丸の3隻を偲ぶ碑が建てられています。
石碑の表面に、北見丸の船底の鉄板がひとかけら貼り込まれていて、
関係者の「船」への思いが伝わってきます。
 なお、沈没した残りの2隻、十勝丸と日高丸は、
のちに引き揚げられて修理・改良の上再就航しています。

> 稚泊航路に至っては、どの様な様相だったのか、

 稚泊航路に関する詳しい話は、専門書でないと
なかなかお目にかかれないかもしれません。
もしご興味がおありで、図書館通いが苦にならなければ、
そのものずばり「稚泊連絡船史」のご一読をお勧めします。
厳冬の宗谷海峡における氷雪との闘いはもちろんのこと、
ソ連軍が突如侵攻してきた終戦前後の極限状態でもなお、
輸送を完遂せんとした関係者の国鉄魂には圧倒されます。


投稿者

雑魚

投稿日

2007年 6月 8日(金)17時38分12秒

タイトル

宗谷線 & 稚泊航路

> 図書館通いが苦にならなければ、

最寄の図書館まで、車で20分はかかるので(^^)小史的な資料はないかと、ネットで
探したところ「天翔艦隊」なるサイトの「文書資料室」に、当該航路に関する記述が
ありました。文章量としてはボリュームもあり、これを一読しただけでも、運行上の
様々な御苦労が偲ばれますね。

稚泊航路は、1922年に宗谷線が浜頓別経由で稚内(現・南稚内)に到達した事を受け、
その翌年に開設されました。もっとも、稚内港(現・稚内)延伸は1928年、更に稚内
桟橋(稚内ドーム)延伸は1938年ですから、鉄道連絡船と云いつつ、乗換には相応の
手間隙を要したのですね。

一方、1905年のポーツマス条約で北緯50度線以南が日本の主権下に置かれた樺太では、
その翌年、軍政下の物資輸送を第一義とした鉄道が、大泊〜豊原にて開通しています。
しかし 1910年の改軌までは、急拵えの軽便規格ゆえ、表定速度は自転車以下で(^^)
客車は、厳寒期でも無蓋車のテント張りと、かなり脆弱な状況だった様ですね。なお、
稚泊航路の開設以前の樺太往来には、函館〜小樽〜大泊の定期航路が供されたとの事。

後発の音威子府経由が本線となったのは、20km以上もの短絡性と急勾配が少ない事に
拠るそうですが、開通が1926年と、浜頓別経由とは僅か四年しか違わず、宗谷地方の
鉄道敷設が、稚内到達を第一義としたなら、そもそも、宗谷線が当初は浜頓別経由で
計画・敷設された必然性は何だったのか、とも感じます。

それでも、1989年の天北線廃止まで急行「天北」一往復が残ったのは、偏に浜頓別の
要衝性ゆえでしょうか。20年ほど前、札幌から稚内まで急行「天北」を乗り通した際、
音威子府を出て暫く、人家が極端に少ない山の中を暫く走った後(編成の相当部分が
ホームからはみ出した小頓別駅は御愛嬌でした)オホーツク海沿岸の平坦地が広がり、
浜頓別の街が見えた時は、本当に安堵しました(^^)

しかしその後、猿払村から稚内市にかけての丘陵区間では、夕暮れも相まって一段と
寂しく、開放寝台車を含む堂々の14系編成にあって、乗客が私を含め、十数名程度の
車中にあって、既にヤル気が失せたと思しき車販嬢が、ボックス型に改めた客席にて
居眠りこく中「ここはどこ?私は誰?」と うろたえたくなる様な雰囲気でした(^^)

その「天北」や「宗谷」が共通運用を組んだ夜行便「利尻」が、夏季臨時便になって
一年以上経ちました。現在、稚内に発着する定期列車は、特急三往復に普通五往復と、
何とも寂しい陣容です。利用者も一日 200名以下で、同様に稚内市街に位置する隣の
南稚内駅を合わせても 300名程度。

旭川都市圏から外れる名寄より北側の、沿線自治体の人口を見ると、中川郡(美深町・
音威子府村・中川町)8千人、幌延町 3千人、豊富町 5千人、そして稚内市 41千人と
名寄〜稚内の距離が 180km余である事を考えると、また色々と勘ぐってしまいますね。

宗谷線沿線では 名寄まで 5往復、幌延・豊富まで 4往復、稚内まで(含夜行)6往復、
それぞれ札幌直通の長距離バスが設定されています。また旭川〜名寄は12往復に及び、
豊富発着便が経由する留萌では、増毛経由の札幌直通便も 2往復あります。厳寒期の
定時性や信頼性において、鉄道とバスがどの様に比較・評価されるかは存じませんが、
かかる地域におけるローカル鉄道の存在意義とは何か、考えれば考えるほど難しい処。
ちなみに、札幌〜稚内の夜行バスは、冬季の所要時間を30分余計に見込んでいますね。


倶楽部メモ(370) 平成19年 6月10日〜 6月23日


投稿者

クモイ103

投稿日

2007年 6月10日(日)22時34分54秒

タイトル

Re:宗谷線 & 稚泊航路

>雑魚様
 サイト「天翔艦隊」の「文書資料室」、すっ、凄い…!ですね。
これは良いものを紹介していただき、ありがとうございます。
 初めて稚内を訪れた昭和57年3月には、
夜の天北線列車で到着後そそくさと上り急行「利尻」で折り返してしまい、
駅から一歩も出ませんでした(^^;。
一泊してじっくり稚内めぐりをしたのは昭和62年5月、
この時はまだ利礼ドームの前にC5549号機が保存されていた他、
なんとかつての稚内桟橋駅へ通じる線路の踏切跡がありました。

 この辺の話を続けていると、またぞろ「稚内桟橋行き急行1レ」の編成は?とか、
「宗谷丸」の1/150模型はないのか?
なんて言い出しかねない(言ってるじゃん(爆))ので、
ほどほどにしておきますね(^^;。
# 交通博物館にあった「亜庭丸」の模型、ちゃんと大宮に引き継がれるんだろうか…


投稿者

雑魚

投稿日

2007年 6月11日(月)09時42分54秒

タイトル

終戦前

> これは良いものを紹介していただき、ありがとうございます。

御参考になった様で、何よりでした。これだけ詳細かつ貴重な内容を執筆されながら
管理者の方は20代というのが驚きです。既に厄年を過ぎた私の場合、他界した祖父が、
貨車に揺られ移動した各地で、末端歩兵として、八路との交戦に動員された様ですが、
かくも薫陶を受けるには至りませんでした。

終戦直前に除隊となり、貨物列車で封鎖前の北緯38度線を通過、釜山からの引揚船が
無事、舞鶴に入港した時の感慨を、言葉少なではありますが、淡々と語っていたのが
非常に印象的でしたけどね。


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