倶楽部メモ:客車倶楽部過去ログ集:客車列車の旅
倶楽部メモSP
水郡線の客車運用について
下り2本・上り1本だった客車列車の運用は?



倶楽部メモ(334) 平成18年 8月 9日〜 8月17日

投稿者 怪鳥Aはなわ
投稿日 8月16日(水)14時58分40秒
タイトル はじめまして 水戸界隈の件
はじめて書き込みをさせて頂きます。
 ホエ7030様、雑魚様、実にうらやましいセッチュエーションだったと推察します。
小生は通学に3年間水戸駅を通過しました。
水郡線からのお上りさんで、DD13、ホヌ30、スハニ32の組み合わせで、荷物室をよく利用させて貰ったものです。
 鉄道模型の方が主で、水郡線の列車を模型化すべく資料を集めています。
しかし、当時(30数年前)はそれほど意識もなく、資料として使えるものは充分に揃えるまでには至りませんでした。
フィルムも小遣いと比べると高額で気軽に撮りまくることはできませんでした。
 今でも解らないことがあるのですが、水郡線の客車列車で夕方2本の常陸大子行きが設定されていましたが、
上りは翌朝の一本だけ夜のうちに回送されていたのかと思えるのですが、ご存じでしたらお教えください。
今後ともよろしくお願いします。

投稿者 雑魚
投稿日 8月16日(水)15時44分39秒
タイトル 水郡線の客車運用
> 水郡線の客車列車で夕方2本の常陸大子行きが設定されていましたが、
> 上りは翌朝の一本だけ夜のうちに回送されていたのかと思えるのですが、

一週間前の書込でも言及しましたが、機関車の扱いは不明ながら、夕方の下り二本を、
翌朝の上りで纏めて「回送」する運用と記憶します。当時、水郡「本」線で、混雑が
最も激しかった便と一本ずれていた事もあり、常陸大宮以南においても、着席機会は
かなり保証されていた様子です。

余談ながら、上記の「最混雑便」が上菅谷で接続する常陸太田行は、常陸太田市内に
通学する高校生でこれまた大混雑でした。最前部の一両のみ、折返し後、上菅谷駅で
急行「奥久慈 2号」に繋ぎ替えとなりましたが、急行の前運用にてあの混雑振りとは、
常陸太田駅にて車内清掃を、きちんと行っていたのか、などと感じたものです(^^)

16:37発の常陸大子行となる客車が勝田方面から推進運転で入線した際、16:11発の
青森行「みちのく」と少しの間「並び状態」となるのが御約束の光景でした。当時の
常磐線にあって国鉄色 583系は、実に重厚な印象で、一緒に眺めていた同級の友人は、
旅情が断ち難かったのか、勤勉の末、札幌の大学に進学し、地元との往復に際しては
この「みちのく」が定番だったそうです。めでたしめでたし………(^^)

投稿者 怪鳥Aはなわ
投稿日 8月16日(水)23時45分29秒
タイトル Re:水郡線の客車運用
 早速のご教示ありがとうございます。
 当方の昭和51年3月10日改正、翌年3月1日訂補の「機関車・気動車ダイヤ」水戸鉄道管理局調製によると
DD13は4両の運用があり、16時40分ころ下る2341レは仕業4、
18時10分ころ下る2343レは仕業3となっています。
後者が翌朝の2342レとなり、DD13の牽引定数26(スハ1オハ6)ホヌがついて満タンのようです。
下りが3または4両の編成とは考えにくいのです。
ダイヤグラムの読み方が不完全なのかもしれませんが?

投稿者 雑魚
投稿日 8月17日(木)09時40分25秒
タイトル 水郡線の客車運用 ・弐
> 下りが3または4両の編成とは考えにくいのです。

かなり曖昧な記憶ですが、下りの四両編成と五両編成、纏めて九両編成を、翌日朝に
水戸に戻す運用だった様に思います。当時の水郡線としては破格の長大編成でしたが、
その長大振りゆえに、当時は常陸太田支線列車の専用駅(上り始発と下り最終に限り、
本線列車も停車したと記憶します)だった常陸津田・後台・中菅谷に加えて、後発の
停留所仕様である野上原や中舟生も通過扱いでした。一方で、やはり九両編成だった
件の「最混雑列車」は、気動車という事で(とにかく雑多な編成で、扉の開閉方法も
まちまちゆえ、操作が覚束ない御年寄りが、途中駅であわや下車し損ねそうになった
事例は少なくない様です)多少融通が効いた為、この二駅は停車扱いでした。

ちなみに私は、ホーム有効長が充分確保されていたにも拘らず、運転士の技量不足か、
停車位置がズレた結果、旧客から「ダイブ」した事があったりします(^^)

投稿者 車掌@仙コリ
投稿日 8月17日(木)11時38分44秒
タイトル Re:水郡線の客車運用
怪鳥Aはなわ様、はじめまして。
私は水郡線の逆端に住んでおりますが、水郡線とはあまり縁がなく…
話題となっている常陸大子行き客車列車の運用についてですが、
怪鳥Aはなわ様がご乗車になった時代とは多少異なると思いますが、
客車運用晩年(昭和58年)の運用表・編成表を見ますと
下り2341レ 水21運用 4両編成(オハフ×1・オハ×3)
下り2343レ 水22運用 5両編成(オハフ×2・オハ×3)
上り2342レ 水21運用+水22運用 9両編成
(オハフは45・46、オハは46・47)
となっています。
この時点では牽引機はDE10に変わっていたようです。
昭和55年頃も同様だったようですが、それ以前の運用ついては不明ですが
使用されていた車両については以前ホエ7030様が書き込まれていますので、
過去ログ「倶楽部メモ−204」をご参照下さい。

参考資料:JRR国鉄客車ガイド・国鉄気動車客車編成表

投稿者 雑魚
投稿日 8月17日(木)13時41分56秒
タイトル 「奥久慈 レトロ」 回送
> 客車運用晩年(昭和58年)の運用表・編成表を見ますと(中略)となっています。

御教示、有難うございます。一応、私の記憶通りだった様ですね。

車掌@仙コリ様の地元と思しき郡山界隈における水郡線の陣容を見ると、列車本数や
東北線を間借したホーム構造において、水戸側と比べ寂しい印象があります。しかし、
街としての郡山は、人口において水戸を七万人以上も凌駕し、中核市の指定も受けた
要衝であり、この辺りのバランスが少々謎ですね。もっとも、寒冷気味の地の都市は、
一点集中型で、首都圏の様に他の自治体が衛星圏を構成する素地は小さいとも言われ、
その分、鉄道の近郊輸送需要も比較的小さい、と見る向きもある様です。

その郡山側における水郡線ですが、私が通学で旧客を利用していた当時は、既に総て
気動車に置換済みでしたね。確か、水郡線からの客車引退の契機となったCTC化が
実施された1983年頃までは、東北線の黒磯以北や磐越西線でも旧客列車は健在であり、
そこから分岐する水郡線のこの状況には、ちと意外な印象を受けました。

画像は、その水郡線常陸大子以北を旧客が走った時の貴重な映像です。昨年11月初日、
快速「奥久慈レトロ」の運用に先立ち、磐越西線か磐越東線で使用した高崎の編成を
郡山から水戸へ回送する際のもので、早朝、水戸機が遥々、御迎えに赴いたのでした。

撮影場所は、茨城・福島県境に近い下野宮駅の北方で、国道 118号線からの俯瞰です。
この先、水戸−郡山の概ね中間地点となる矢祭山駅付近の公園を起点に一昼夜かけて
水戸まで移動するという、なかなかしんどい(^^)遠足を高校時代に行った事があり、
その時は、この足場の辺りで、急行「奥久慈」の通過を見かけた様に記憶します。

多分、ホエ7030様も同趣の遠足を経験されていると思いますが、その当時は、線路の
向こう側を走る旧道を経由されたのでしょうね。ちなみに、この遠足を元ネタとした
映画「夜のピクニック」が、近く公開されますが、ロケ地は、原作者が一年生の時に
経験した水戸→涸沼→大洗→那珂湊→東海→勝田→水戸という「循環バージョン」で、
水郡線は(校門付近の掘割区間は映るかも知れませんが)無関係の様子。残念(^^)

さて、今秋も「レトロ奥久慈」は運転して頂けるものでしょうか………


投稿者 車掌@仙コリ
投稿日 8月17日(木)19時27分21秒
タイトル 郡山界隈の鉄道事情
郡山界隈における鉄道事情についてですが、東北本線(上下方面)と磐越西線は、近辺に
大きな都市や観光地を抱え、かっては特急・急行が多数運転され、普通列車も長大編成の
客車列車が運転されていた幹線ですが、水郡線と磐越東線に関しては郡山近郊においては
特に大きな街もなく、短編成の気動車が運行する純然たるローカル線となっていますので
そのあたりの理由で水郡線が寂しく感じられる状況となっていると思います。

水郡線に早期に気動車が投入された理由についてはわからないのですが、郡山側における
上記のようなローカル輸送(短編成・中短距離の折り返し)の実情にあわせた効率化と、
雑魚様もあげられている郡山駅のホームの形状の影響もあるのかと考えられます。
文章で表現するのは難しいのですが、郡山駅における水郡線のホームは東北本線のホーム
の南端の部分の幅を半分ほどにして、行き止まりの線路を設置したというか、東北本線の
ホームの端に細い端頭式のホームを継ぎ足したような形状となっていて、○番線とは別に
水郡線ホームと呼ばれています。
(参考までにJR東日本のえきねっと http://jreast.eki-net.com/ から、
駅・店舗情報 → 駅構内図 → か行・郡山 と進むと郡山駅構内図が見れます)
そのような状況の為、客車列車時代に機廻しをどのようにおこなっていたかわかりませんが
いずれにせよ東北本線側にも影響があったものと推測されますので、早期に気動車化された
一因なのではないかと思います。

投稿者 怪鳥Aはなわ
投稿日 8月17日(木)22時12分19秒
タイトル 水郡線の客車運用2
様々なアドバイスありがとうございます。
参考にさせて頂きます。

倶楽部メモ(335) 平成18年 8月17日〜 8月23日

投稿者 クモイ103
投稿日 8月17日(木)22時28分25秒
タイトル Re:郡山界隈の鉄道事情
 皆様、こん**は。
 水郡線のお話、興味深く拝読しております。
私自身はあまり馴染みがないのですが、かつての東北ワイド族(笑)の要衝・郡山駅の話が出てきたので、
蛇足をさせていただきます。(車掌@仙コリ様、ご当地の話題に割り込んですみません…)

 郡山駅水郡線ホームのような構造を、時に「欠き取り式」と言ったりもしますね。
古い駅の専売特許かと思っていたら、高架化後の金沢駅でも七尾線ホームがそうなっていますし、
岡山駅などは瀬戸大橋線の増発のためにわざわざ欠き取り式ホームを増設したようです。
考えてみれば、上下移動なしの平面乗り換えを増やせるのですから、
短編成列車が頻繁に行き交う今の時代に合った駅構造と言えるかもしれませんね。

 ところで、水郡線郡山側の車種ですが、時刻表1958(昭和33)年11月号ではすでに全列車気動車となっています。
その2年前の1956(昭和31)年11月号では7往復のうち客車2/気動車5でした。
 車掌@仙コリ様も言われるように、水郡線の郡山側は輸送量の少ないローカル線であることが、
気動車化を早めた大きな要因でしょう。
当時の感覚として、気動車化はまず短編成列車からというイメージがあります。
当時一般型気動車は10系から20系への過渡期にあり、すごい勢いで増備されましたが、
それらはまず、各地のSL+短編成PCというあまり効率的でない列車の置き換えから充当されていきました。
 一方の東北本線はと見れば、客車時代は10両以上の長大編成が当たり前でした。
もう一つの要因である、荷物車・郵便車を含む複雑な広域運用という事情も手伝って、
気動車化の対象にならない典型例だったのです。
また、電化後も長く客車時代が続いたのは、交流区間のため電車化のコストが高かったためと思います。
この点は磐越西線も同じで、ED75やED77という客貨両用の優秀な機関車があるので、
安心して(?)客車運転を続けることができたのでしょう。

 客車が元気だった頃の東北筋には学生時代の思い出がたくさんあるので、また長くなってしまいましたm(_ _)m。

投稿者 雑魚
投稿日 8月18日(金)09時44分57秒
タイトル 水郡線 と 磐越東線
> 水郡線と磐越東線に関しては郡山近郊においては特に大きな街もなく、

水郡線の場合、福島県内の直営駅は、磐城棚倉と磐城石川のみですしね。余談ながら、
泉郷以北では 国道118号線沿いに北上させ、独自の市街地を擁する須賀川で東北線に
接続した方が、何かと融通が効いた様にも感じています。それ以前に東白川郡域では、
旧白棚線を介して白河に出た方が、地域の旅客需要に合致した印象ですけどね。

磐越東線の場合も直営駅の設置頻度は小さそうですが(三春と小野新町、その他には
船引くらいでしょうか)それでも小野新町までは、区間便の設定において、郡山圏の
面目躍如との印象ですね。興味深いのは、郡山といわきの中間点に位置する小野町が、
県立高校の通学区において、県中区(郡山)といわき区の共通区となっている点です。
夏井川渓谷の人口希薄地帯ゆえに便数が極端に少ない、小野新町以南の状況を見た時、
いわき志向の通勤・通学需要が実際にどの程度あるのか、興味深いところです。

> 時に「欠き取り式」と言ったりもしますね。

富山駅における高山線ホームも、その典型ですね(現在は運休中の「ひだ」もここに
発着します)こうした仕様は、御指摘の様に平面移動が効く点で、バリア・フリーを
踏まえた今後の鉄道駅のあり方を示唆した一形態であると感じますが「間借り先」の
本線ダイヤに干渉する可能性もある事から、運転頻度が大きな大都市圏には、あまり
適さないかも知れません。郡山発着の水郡線車両事情については、車掌@仙コリ様の
御推察通り、ホーム構造の制約も介在しているかも知れませんね。

それにしても、気動車投入が閑散線区における合理化対策であるなら、日中線の例は、
どの様に解釈するべきですかねぇ………(^^)

投稿者 雑魚
投稿日 8月18日(金)10時02分21秒
タイトル 仙台都市圏の場合
> 電化後も長く客車時代が続いたのは、交流区間のため電車化のコストが高かった為

83年頃より以前の東北線黒磯以北における普通電車は「なすの」「あぶくま」などの
急行崩れや快速「くりこま」を除くと、仙台近郊で 417系が朝夕中心に細々と動いた
程度であり、それも岩切以北は専ら利府支線乗入れでした。これは塩釜や多賀城での
旅客需要が、駅の立地や運転頻度において、使い勝手の良い仙石線に収束する傾向が
大きかった為ではないかと想像します。

全くの余談ですが、東北線の小牛田以南で仙台都市圏路線の性格が強まって来た現在、
仙石線を系統分割して、石巻への直通便は松島辺りまで東北線経由で速達させた方が
便利ではないか………などと妄想するも、電源方式が違いましたね(^^)

仙台都市圏では、東北線や仙山線が、広域都市間連絡の趣が強い客車主体の陣容から、
都市近郊型の電車主体に移行した80年代半ば以降、宅地開発に象徴される圏域拡大が
顕著である様に感じます。特に変貌著しいのは仙山線の愛子以東ですね。

84年以前は北仙台−陸前落合に途中駅は無く、仙台市と旧宮城町の境界付近の、割と
急峻な広瀬川の渓谷を過ぎると、急に郊外に来たという印象でした。一方、現在では、
仙台−山形の都市連絡は、高頻度運転の高速バスが主流となり、快速停車駅において、
速達性があまり顧みられなくなった印象を受けます。広域移動手段としての、鉄道の
趨勢において、色々と考えさせられる事象です。

投稿者 クモイ103
投稿日 8月19日(土)20時58分29秒
タイトル 水郡線など
 雑魚様、近年の鉄道輸送を取り巻く情勢変化から今後の展望に至るご考察、興味深く拝読しました。
 欲を言えば、水郡線のルート変更案のお話の中で、現在のルート決定に至った建設当時のいきさつや、
白棚線がなぜ廃止されたのかといった周辺の事情をも踏まえられていれば、説得力があったかと惜しまれます。

> それにしても、気動車投入が閑散線区における合理化対策であるなら、日中線の例は、
> どの様に解釈するべきですかねぇ………(^^)
→過去ログでも触れられていますが、日中線はみな混合列車でしたので、対象外と考えられます。

> 仙台都市圏の場合
→電車化が進まなかった理由についてのお説ですが、
塩釜や多賀城での旅客需要の問題が、東北本線全体の施策に影響するほどの重大問題であれば、
或いはその様なことがあるやもしれませんね。ただ、その辺の判断は私にはできかねます。

投稿者 雑魚
投稿日 8月20日(日)10時40分53秒
タイトル クモイ 103様へ
> 現在のルート決定に至った建設当時のいきさつ

国道 118号線の経路が古くからの街道筋だとすれば、須賀川で東北線に合流する案も
検討されたものと想像します。現在の経路は、阿武隈川の渡河事情を考慮した印象が
ありますね。また、須賀川市域にあっては、川東駅の周辺地区でちょっとした市街が
形成されていますので、その点を考慮したとも考えられます。

> 白棚線がなぜ廃止されたのかといった周辺の事情

磐城棚倉到達では水郡線より先輩格だった白棚線ですが、不要不急路線として線路が
剥されたのは、後発の水郡線に利用者が流れた為です。これは、磐城石川という街の
存在に加え、自動車が普及しなかった当時、鉄道による広域移動志向も作用した為と
考えています。

一方、東白川郡は現在に至るも、広域行政圏・経済圏の双方で、白河市の志向が強く、
同市の高校では矢祭町までスクール・バスを網羅している例もあります。棚倉町自体、
裁判所を擁するほどの要衝ゆえ、あの辺りの水郡線の需要は、色々な流れが錯綜して
いると思いますが、同地の知人の話を踏まえるに、磐城棚倉以南の沿線域では、まず
白河ありき、というのが主たる導線ではないでしょうか。

> 塩釜や多賀城での旅客需要の問題

利府経由の旧線が並存していた当時、貨物線の性格が強かった岩切−塩釜−品井沼が
本格的に旅客線化されたのは、塩釜・松島(当初は「新松島」)の二駅が設置された
1956年と比較的新しく、上記二駅についても、中心街との位置関係では、仙石線より
不利な立地という印象があります。

多賀城市域に至っては郊外地に陸前山王駅を擁したのみで(国府多賀城の開業時期は
2001年)優等・貨物列車が多数往来する手前、普通列車の設定も制限されたであろう
東北線の事情も勘案すると、仙台湾沿岸域の旅客需要面では、仙石線が永らく優位に
あったと思われます。こうした事情から、新幹線開業に伴いダイヤにゆとりが持てた
80年代半ばまでは、東北随一の主要都市の近郊区間にあっても、本格的な電車置換が
見送られたのではないでしょうか。

ちなみに陸前山王と塩釜港(仙石線本塩釜駅の近所)を結んでいた貨物線(1887年に
東北線が宮城県域に到達した当時は本線の一部)では、昭和10年代、長町発着の便に、
内燃車を充当した緩行線運転が行われ、長町・行人塚・三百人町・仙台・小田原東町・
東仙台・岩切・多賀城前(現陸前山王)塩釜西口・塩釜と、緩行線専用の小駅を設け、
一時間に1〜2本程度の運転頻度だったそうです。これが本格化されれば、仙石線にも
少なからず影響したのでしょうが、結局、戦争の激化で立ち消えとなりました。なお、
塩釜港線自体が旅客営業を廃止したのは、現在の塩釜駅設置を受けての事でした。

長くなりましたが、取り急ぎ補足まで。

投稿者 コスモス
投稿日 8月20日(日)12時49分3秒
タイトル ローカル線と混合列車
日中線は貨物扱いがありましたね。会津加納駅には近くの鉱山からの索道があり、ここでも
貨車の扱いがあったそうです。
貨物列車を旅客列車とは別に設定するほどではなかったのでしょう。
1983年(昭和58年)10月で貨物扱いを止めましたが、このとき以前は混合列車だったようです。
機関車は1974年10月(昭和49年)まではC11、以後はDE10でした。鉄道の廃止は1984年3月(昭和59年)でした。

静岡県の清水港線(清水-三保)は1984年3月で廃止となりましたが、ここも混合列車だった
そうです。

飯山線、五能線、倉吉線も客車+貨車の混合列車があったように思えます。

Webの混合列車関連のHPで写真を見ると、機関車の次位は貨車であることが多いですね。
これだと機関車からの暖房用の蒸気供給はできませんね。
かといって客車を次位にして、途中駅の入れ換えを客車も付けたままで
貨車を側線に押し込むようなことはできないのでしょうね。

途中駅での入れ換えがないと思われる肥薩線人吉−吉松間のD51牽引の
混合列車は客車が機関車の次位が定位置のようでした。

投稿者 雑魚
投稿日 8月20日(日)13時35分12秒
タイトル 倉吉線
> 飯山線、五能線、倉吉線も客車+貨車の混合列車があったように思えます。

倉吉線の場合は関金までだった様ですね。1958年に開業した終点の山守駅は、当時の
写真を拝見すると、無人の一面一線という実にあっさりした構造で、岡山県真庭への
延伸計画の途上、とりあえず終点として設置された様な印象を受けます。盲腸路線の
途中で客レが折り返した例としては、樽見鉄道(客車便廃止)や片上鉄道(廃止)も
想起されますね。

なお倉吉駅は中心街から少し離れている事から、倉吉線の前身である軽便線の中心街
最寄駅に「倉吉」の名を譲り、一時「上井/あげい」を名乗っていました。1972年に
駅名を「倉吉」に戻し、倉吉線の中心街駅を「打吹/うつぶき」としたのは、全国に
路線網を擁する国鉄の性格上、幹線上の拠点駅が市名を冠した方が、遠来の旅客には
判り易いという判断が介した為ではないかと想像します。同様の経緯を持つ八戸駅が
旧称の「尻内」から改称したのは、その前年の事でした。

投稿者 クモイ103
投稿日 8月20日(日)21時32分59秒
タイトル 補足ありがとうございます
 雑魚様、早速に詳細な補足を頂き、ありがとうございました。
 昭和10年代に長町−塩釜(港)間で緩行運転があったとは、初めて知りました。
もしそれが発展していれば、京浜東北線の仙台版(?)になり、
後の時代に迎える東北本線電化の方式にも影響したかもしれませんね。

投稿者 雑魚
投稿日 8月21日(月)08時18分54秒
タイトル 塩竈
> もしそれが発展していれば、京浜東北線の仙台版(?)になり、後の時代に迎える
> 東北本線電化の方式にも影響したかもしれませんね。

仙台圏が終焉する要衝、例えば小牛田を交直接続点とする可能性も出た事でしょうね。
かかる緩行運転が施行されたのは、偏に塩釜(自治体の公式表記は「塩竃」です)の
港湾都市としての要衝性、そして城下町・仙台との機能分化に伴う連携性のゆえかと
感じます。中間の多賀城市には、陸奥国の国府・鎮守府としての歴史もありますしね。

旧塩釜港駅の直前における仙石線の高架区間との絡み具合は、両者の「宿敵関係」を
象徴するかの如きですが、仙石線が高架化されたのは1981年で、それ以前はどの様な
状況だったのか、あまり印象がありません。どなたか御存知の方がいらっしゃったら、
どうぞ御教示下さい。

三陸道整備に伴い最近は御無沙汰ですが、あの一帯を車で通過する度、国道45号線の
S字クランクが何とかならないものか、と感じてしまいます(^^)

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