倶楽部メモ:客車倶楽部過去ログ集:客車列車の旅
倶楽部メモSP
急行「たかちほ」の牽引機
「日南1号」「たかちほ」の牽引機・テンダーの振り替え



倶楽部メモ(96) 平成13年 7月16日〜 7月23日

投稿者 JNR  
投稿日 7月16日(月)17時55分52秒
タイトル 昭和47年頃の「日南1号」
本文 みなさんこんにちわ。
いつも掲示板を拝見しております。
来週九州に出張に行く事になり、高校生のときに蒸気機関車の撮影に明け暮れていた日豊本線が
気にかかり、当時の時刻表を眺めていて気がついた事があり資料をあさりましたが、
解決できなかったので教えて下さい。
昭和47年頃の下り「日南2号・3号」は有名ですが、臨時の下り「日南1号」の編成が気になり
時刻表をめくっていると、全席指定でグリーン車が連結されていました。
この当時、全席指定の臨時は12系が多かったので「国鉄資料の編成表」を見てみると、
「宮原」持ちの編成になっておりグリーン車が連結されている様子がありません。
実態をご存知の方、「編成・受け持ち・牽引機」等を教えて下さい。
よろしくお願いします。

投稿者 マイロネフ37  
投稿日 7月19日(木)23時49分59秒
タイトル 急行たかちほについて 
本文 S29年当時の、急行たかちほ・げんかいの、門司〜都城間の牽引機をご存知の方は
お教えいただきたいのですが。

投稿者 車掌@仙コリ
投稿日 7月21日(土)09時55分43秒
タイトル RE:日南・たかちほ
本文

JNR様

急行「日南」についてですが、私自身は12系+20系時代の門司港−宮崎間
にしか乗車した事がなく、詳しくはわからない状態なのですが・・・
当時の臨時列車は12系が多かったと思いますが、グリーン車が連結されていたと
いうことは12系ではなかった可能性が高いですよね。
あくまでも想像モードですが、臨時とはいっても1号という番号が与えられていた
という事から考えると、近年の「○○81号」といった状態ではなく、少し前の
「北斗星3・4号」のように、実際はかなりの稼働率があり、専用の編成?が用意
されていた、といった状態であったのではないでしょうか?
もしそうであれば、当時の定期の日南と同じように、10系軽量客車を中心とした
編成で、グリーン車はオロ11またはスロ54という可能性が高いのでは・・・?
どなたか詳しい事を知っている方、いらっしゃいませんでしょうか。

マイロネフ37様

昔の列車の客車の編成については、最近いろいろな本も出ていますし、多数掲載した
ホームページもありたいへん参考になりますが、前述の臨時列車についてや、牽引機
については、情報が少ないのが現実ですよね。
当時の急行「たかちほ」について、いろいろと調べてみました。
昭和29年当時の牽引機は、残念ながら手持ちの資料ではわかりませんでしたが、
列車名が漢字の「高千穂」となった昭和31年時点での門司以南の牽引機は、C57
であったようなので、昭和29年当時もC57であった可能性が高いのでは?
こちらも想像モードなので、詳しい方の書き込みをお願いしたいと思います。


投稿者 マイロネフ37
投稿日 7月22日(日)21時38分00秒
タイトル 車掌@仙コリさまへ 
本文  牽引機がわかりました。どうやらC55が門司からロングランしていたみたいです。
そのC55は、テンダーをD51半流のものに振り替えた、51、52、53、54号機で
53号機はなんとあのD5123のスーパーナメクジから持ってきたものなんですね〜。
その後D5123はC55のテンダーで日豊線で活躍した後転属し、また新たに
他のD51のテンダーに振り返られたそうな・・・。
なにはともあれ車掌@仙コリさん、どうもお手数おかけしました。

投稿者 車掌@仙コリ  
投稿日 7月23日(月)10時03分27秒
タイトル RE:たかちほの牽引機
本文

マイロネフ37様

急行「たかちほ」の牽引機が判明したようでなによりです。
私の予想ははずれたようなので、なんの力にもなれませんでしたが・・・
それにしても特別?な機関車が牽引していたようですね。
蒸気機関車については、ほとんど無知なのですが、テンダーの振り替えというのは
よくあった話なのでしょうか?
C55・D51のテンダー(炭水車)について調べてみましたが
 C55 12−17形式(石炭12トン・水17リッポウメートル)
 D51  8−20形式(石炭 8トン・水20リッポウメートル)
 (D51については標準型の炭水車・初期の半流のものが同じかは?)
と、かなり石炭と水の割合が違うようなのですが、これを振り替える特殊な事情が
日豊本線にあったのでしょうか?


倶楽部メモ(97) 平成13年 7月23日〜 7月27日

投稿者 8927
投稿日 7月23日(月)14時04分04秒
タイトル テンダーの振り替え
本文

「たかちほ」牽引のC55のテンダーが振り替えられていたのは 
門司からのロングランに対応するためではないかと思います。
おそらく ロングラン運用を行うには C55用の12−17テンダーでは水槽容量が足りないので 
D51用の8−20テンダーに振り替えたのではないかと思います。

鉄道ジャーナルの 96号の「燕」の記事に 「7両編成(285t)の列車が東京ー神戸間
610キロ走ったとして計算してみると、おおよそ石炭5t、水40〜45tを使うことになり・・・」とあり 
石炭に比べて 水の消費が非常に多い事がわかります。
また同記事には 蒸気機関車のロングランは門司港ー鹿児島間(400キロ)・
小樽ー釧路間(428キロ)などが最も長い部類・・・とも書いてあります。

テンダーの振り替え例としては 戦前、明石区のC53で 
C53用の12−17テンダーから D50用の8−20テンダーに 
同じくロングラン目的で3両 テンダーの振り替えが行われているのが有名です。
(C51は写真などを見ると 4種類程テンダーがあるようです。)

D51のテンダー 初期型・標準型とも 8−20テンダーですが 
戦時形(D51 1001〜1161)は10−20テンダーで生産されています。


投稿者 車掌@仙コリ
投稿日 7月23日(月)18時57分21秒
タイトル RE:テンダーの振り替え
本文

8927様

詳しい解説ありがとうございました。
ロングラン運用における水槽容量確保の為との事で、途中駅での給水・機関車交換に
要してしまう時間を避けるための措置だったのでしょうね。
当時の国鉄の優等列車にかける意気込みが感じられますよね。

逆に初期型のD51は、初期型ゆえにその時点で長距離運用はなかったのでしょうね。


投稿者 221レ  
投稿日 7月23日(月)23時02分06秒
タイトル C55の急行
本文 車掌さんほか皆さんこんにちは!
C55も急行高千穂牽引の任に活躍していたのですね?
日豊線は勾配区間が多く
蒸気時代は柳ヶ浦−立石あたりでも補機を付けていたくらいだから
D51のテンダ車が必要だったのかも知れませんね?
ところで以前、茨城県龍ヶ崎市にある歴史民族資料館で
竜ヶ崎鉄道(現 関東鉄道竜ヶ崎線)の写真展を見たことがあるのですが
戦後も無煙化するまで活躍したというマッチ箱客車(古典客車)の写真に混じり
佐貫駅を発車する急行列車という写真がありました。
そこには常磐線で活躍したC55流線型の姿がありました。
戦前は急客機としても活躍していたのですね。
話を九州に戻しますが
私の親父が子供のころ小倉でC55流線型をよく見たというのですが
関門トンネルが開通したころ
1・2等特急富士の九州内の牽引機ってどの機関車だったのでしょうか?
戦争で中止されるまでのわずかの間でしたが
C55が特急牽引に活躍する場ってあったのでしょうか?
もしご存知の方がいたら教えてください。
なんとなくC51のような気もしますが・・・
それでは。

「客車倶楽部」へ
夜行列車や旧型客車列車の音や資料を掲載
客車専門サイト「客車列車の旅」はこちらから
現在や過去の夜行列車に関する資料を掲載
全盛期の時刻表データ等も掲載しています
掲示板「客車倶楽部」本体へはこちらから
過去ログ「倶楽部メモ」もこちらから
 
客車専門サイト「客車列車の旅」