倶楽部メモ(758)

平成28年 8月 3日〜 8月 7日

「はまなす」を巡る話題について



投稿者

EF58 129

投稿日

2016年 8月 3日(水)04時15分25秒

タイトル

初めの御挨拶

初めてお邪魔させて頂きました。
24ページまで読んで感想を書かせて頂きたく
大変遅いレスで申し訳ありませんが・・・。
クモイ103様
2014.7.13付「12系・14系座席車活躍の頃(3)」の筑波号(1983年5月3日運転)、
当時小学校6年の私がそれに乗車しておりました。
私は関東鉄道常総線沿線在住ですが、取手ではなく上野から乗車したかったので
一人先発し上野から乗車、後から家族が合流するという嫌な餓鬼でした。
当時編成をメモしたのですが紛失してしまいうろ覚えで申し訳ないのですが、
この12系客車は高崎のもの、常磐線内はEF80の牽引でした。
尚、翌年1984年春は尾久の14系に変更、窓が開けられなくなり非常に不満を覚え、
1985年は科学万博輸送で中止、1986年も復活せず、1987年3月31日筑波鉄道自体
廃止という非情な最後となりました。

1987年3月31日と云えば同年7.20付「国鉄最後の日」、私も葬式鉄に行きましたが、
夕方以降混雑がひどくなるのと、
父親がうるさいので早々に帰宅せざるを得ませんでした。
「旅立ちJR号」は全て落選(乗客は葉書による公募)し、
見るだけ悔しいというのもありましたがTVでその模様は観ておりました。
特に癪だったのはマイテ49の最初で最後の上京。
「旅立ちJR西日本」は東京10番線発車、撮影するなら12番線で三脚を張るのが
常套手段ですが、日本テレビ(もう時効でしょう)が特番放映で〆切独占。
観ていて「あれはずるいやり方だ!」と憤ったものです。
翌日のニュースでは案の定ホーム下の階段で鉄と鉄道公安官がもみ合いになり、
抑えきれず警察出動と報道されてました。
そしてマイテ49もあの日以降30年近く経ちますが、一度も上京しません。
悔しいですね。せめて鉄道博物館のマイテ39 11が動けばいいのですが・・・。
長くなりそうなので一旦終わります。




投稿者

EF58 129

投稿日

2016年 8月 3日(水)10時48分27秒

タイトル

初めての御挨拶2

ED76109様
初めまして。
「はまなす」を巡る話題について(2015.10.14付)、拝読させて頂きました。
私は2013.9.10、札幌発「はまなす」に乗車、
B寝台・指定席・のびのびカーペット車は満席、
自由席は立席が出る程の盛況、
連休の時期とはいえ優秀な列車だと思った次第です。
私の乗車したB寝台車は2号車、
オハネ25で運よくスハネフ14に当たらず安眠できました。
そしてほぼ満席のまま青森に、
そしてほとんどの乗客は「つがる」2号に乗り換え出発。
多分新青森で新幹線に、そして仙台や東京に向かうのでしょう。

私も列車の撮影後、新青森から新幹線で戻りましたが、11時過ぎには東京へ、
茨城には午後一番に帰着できました。

しかし、こんな便利で利用者の多い列車を
有無も言わさず廃止したのか不満が残ります。
また先生のコメントにて長万部までの最終列車という側面があった
ということを知りました。
廃止の理由は新幹線問題、そしてJRお得意の言い訳「車輛の老朽化」。

何故早期に14系に代わる客車を開発しなかったのか、
1988年の運転開始時点から数えても
今年3月までに28年(その前に車齢として10年前後あります)。
これは43系客車製造終了の1955年から
急行運用から離脱した1982年までの27年より長く、
せめて2000年頃に新車を開発するべきだったと思う次第です。
これはJR北海道に限ったことでなく、「北斗星」
「トワイライトエクスプレス」を運行して、
同じ言い訳で列車を廃止したJR東日本、西日本も同罪ではないかと思われます。
「一人旅の客は客に非ず」と云わんばかりの「カシオペア」より、
一人旅もグループ旅行も受け入れられ、懐事情も勘案できる
「北斗星」「トワイライトエクスプレス」、そして
「内地への大事な足」だった「はまなす」を
大事にしてほしかったと思うのは私だけでしょうか・・・。

他、急行「桜島」「高千穂」のオロ11の事や
「オリエント急行'88」の事など興味あるお話が多いのですが、
相当長くなりそうなので改めて書かせて頂きます。




投稿者

鈴木昌生

投稿日

2016年 8月 4日(木)23時38分47秒

タイトル

続・死んだ子の年を数える

この題名には不快感を感じられる方がいらっしゃるかもしれませんが,
そういう内容ですので,今回まではご容赦願います。

EF58 129様,はじめまして。
私も夜行列車は好きです。特に客車のそれは良いですね。
滑るような走り具合は,正に夜の乗り物にふさわしいと思います。
ですが,方式を問わず「旅客夜行列車」の衰退は避けられなかった,と思います。
「はまなす」を例に挙げれば,EF58 129様の乗車経験を私は信じますが,
今年ツイッターで見た,2月ごろだと記憶していますが,
ほとんど乗客のいない「はまなす」も,私は「事実」だと思っています。
「はまなす」に関して言えば,
「スーパーとかち」を10年で引退したキサロハが転用されるという話が,
鉄道誌に載っていたのを書店で見た記憶があります。15年ほど前ですね。
単純に「平均しての乗車率」が悪かったのでは無いでしょうか。
「電車化」とはいえ,「出雲2・3号」「瀬戸」が存続し,
「最後の日常の移動手段としての夜行列車の灯」
を守っている事実と比べると,そうとしかいえないのではないでしょうか。

ちなみに私はツイッターで「トワイライトエクスプレス」の「不遇さ」にも
一人吠えていたのですが,
あれこそは下に投稿しましたように「元祖クルーズトレイン」で
最終期も「それに戻りました」。
正に「一人旅の客は客に非ず」という発想でしたね。
「トワイライトエクスプレス」,また「北斗星」はツッコミ所が多い印象があり,
私は「名列車」というより「迷列車」というのがふさわしい,
特に「トワイ」はそうだと思います。その事例を挙げます。

A3編成準備され定期運転が不可能では無かったのに,そうしなかった。
B新潟・函館に寄って寄れない事は無いのに「無視」。
確か「鉄道ジャーナル」投稿欄で指摘。
C平成14年にリニューアルでお茶を濁す。

「トワイ」に限らないのですが,
昭和末期から平成初期に雨後の筍の様に登場した「改造寝台車」は,
儲かったのか極めて不思議なのです。
なぜなら,カネ掛けて定員を減らしたからです。
寝台数が減っても「ロイヤル」「スイート」など
「売れればいい」とも言えますが,
定員減は乗車券・特急券収入の減少に繋がり,
文字通りの「出血大サービス」としか言えません。
特に「ソロ」は2段式と同じ値段でしたから,
「将来像」など各社考えていなかった証拠であり,
「こうなる」のは理の必然だったのではないでしょうか。

結局,「乗らなかった客が悪い」と私は主張します。
好きな人が集うこの場だから「こそ」こう書く意義はあると思うのです。




投稿者

EF58 129

投稿日

2016年 8月 5日(金)21時33分48秒

タイトル

御意見ありがとうございます

>鈴木昌生様
はじめまして、EF58129です。
「はまなす」の件、ご意見頂き誠にありがとうございます。
2013年9月の渡道の際、帰京の折乗車したのですが、
確かにあの時期の夜行列車とは信じ難いほどの乗車率で札幌を発ち、
翌朝青森でかなりの旅客が「つがる」2号に乗り換えて行ったのを見ております。
それも2013年9月10日(札幌発)は平日の火曜日。
それで余計印象に残った次第です。
まだ大学・専門学校が夏休みというのもあったからかもしれません。
そこまで追求せず乗車効率の良い列車と判断した私が宜しくないですよね。
これが厳寒期になれば話も違ってくるかもしれませんし・・・。
学生で満員御礼かもしれませんし、閑散期らしいうら寂しい列車かもしれません。
そして「サンライズ出雲・瀬戸」はまさに
「最後の日常の移動手段としての夜行列車の灯」ですね。
寝台券が取れないと不平が聞こえる程の盛況ぶり、
これが客車列車ならと思う程です。

「トワイライトエクスプレス」の件、その通りですね。
編成両端が展望スイートなら
あのような熾烈な寝台券の奪い合いは緩和されたと思います。
私の悪友も新婚旅行の際、何度挑戦してもダメだったと嘆息していました。
定期運転せずにいたのは検査周期を浮かすため、
新潟と函館に寄らないのも怠慢と邪推できます。

金をかけて定員減した豪華な客車をジャンジャン改造して稼げたか・・・。
丁度あの時期、消費税導入の代わりに通行税が廃止され、
A寝台料金・グリーン料金が10%→3%〜5%(当時)と税率が下がったおかげで
「北斗星」も最盛期の多客期は定期3往復、
臨時1往復、開放B寝台のみの「エルム」も含めれば5往復ということもあり、
また、種車も国鉄継承・使い古しの14系・24系24型・24系25型を使ってますので、
それ相応に収入があったと考えたいところです。
ただ、食堂車「グランシャリオ」のディナータイムは閑散としていました。
パブタイムは酔い潰れており確認できませんでした。朝も空いていました。
(1999年12月に上り北斗星6号・札幌→上野、
2000年3月に下り北斗星81号・上野→東室蘭に出張にて乗車)

また確かに一両当たりの定員減が収入減や寝台券の確保の困難から
鉄道離れにつながったのかもしれません。
事実、2度目の私的な渡道だった2014年、
「北斗星」の「ロイヤル」欲しさに何度も挑戦したものの確保できず
(原因はヤフオクでの転売目的でしょう。事実数回分は売られてました)
忸怩たる思いで飛行機とビジネスホテルを利用することとなりました。

宿泊施設の低廉化、航空運賃・夜行バス運賃のダンピング的な安値、
ヤフオクで転売して利ザヤ稼ぎするネタにされ確保しづらくなった寝台券。
これでは移動手段としての夜行列車の価値は下がり、
「サンライズ」以外は「ななつ星」や現在の「カシオペア」のような高価な
団臨という道しか無いのでしょうか・・・。

確かに「乗らなかった客」が一番悪いのですが、
「乗れなくしたヤフオク」も更に悪いとも思います。
ここにはいないと思うのですが、旧型客車使用列車の指定席券や
末期の寝台列車の寝台券にヤフオクでの転売・利ザヤ稼ぎ目的で
湧いた(湧く)転売厨と売れればあとは知らん顔のJR、
転売厨を取り締まれない警察、ヤフオクという転売の場を設けているYahoo!。
JRは自分の首を絞め、善良な利用客は袋叩きに遭った格好かもしれません。
ブームとInternetの普及で今後の見通しも暗いです。
暗い話で〆てしまい申し訳ありません。




投稿者

マロネロ38

投稿日

2016年 8月 6日(土)14時12分22秒

タイトル

乗れなくした鉄道側の責任は?

「乗らなかった乗客が悪い」には違和感を感じます。
3段ハネが600円、700円、8000円時代には
出張や私用で度々利用しましたから。
結局寝台料金を「高止まり」状態にして利用者を遠ざけたのは誰だったか?
は明白です。
それにLCCや高速バスが「利用出来なくされた乗客を横取りしてしまった」
のが事実でしょう。

私見ですが「ハネは14系3段」と同じ寝台サイズで、
料金を安く設定して呉れていたらブルトレ全滅も無かったでしょう。

トワイライトの新潟問題は3回の方向転換で
出発駅と到着駅では方向が逆になる事もあったでしょう。
越後線を通過させれば2回で済みますが、線路容量とか列車交換に問題があった
から出来なかったのでは?と存じます。

高望みかも知れませんが、
カナダのCanadian Pchific Railwayの"CANADIAN"号の様に
ステンレス車体の客車で毎日運転の定期列車を走らせて欲しかったです。
1970年 にVancouver BC終点でこの列車を見た時は大いに羨ましかったものです。

お二人には素人の妄想と写るかもしれませんが。




投稿者

クモイ103

投稿日

2016年 8月 6日(土)19時32分4秒

タイトル

Re: イテの帯色

マロネロ38様

昭和23年にマイネ40で復活した1等車の等級帯がクリーム色になり、
昭和24年、特急「へいわ」のマイテ39もクリーム帯を巻いた話は、
星晃氏の著述から有名になったようですね。

このようにクリーム帯が登場した経緯は知られていても、
時代が下ってその10年余り後、それが消滅した前後の時期については
記録がきわめて乏しいのが実情です。
何かご存知の情報がありましたらお寄せ頂きたくお願いします。




投稿者

クモイ103

投稿日

2016年 8月 6日(土)19時32分39秒

タイトル

Re: 初めてのご挨拶

EF58 129 様

はじめまして。
あの日の「つくば」号にご乗車だったとは、ご縁があるのですね。
当日私は鉄研の仲間10人余りと共に出掛け、
田植え真っ最中の筑波山麓で列車撮影、
その後ケーブルカーで登って、山頂からの俯瞰撮影などしていました。

国鉄最後の日には、「旅立ちJR西日本号」の発車を見送って、
後発の急行「銀河」に乗車、歴史の節目を車中で過ごしました。

どちらも約30年経ってしまったのですね。
思い出話にお付き合い下さりありがとうございました。




投稿者

理左衛門

投稿日

2016年 8月 7日(日)06時27分13秒

タイトル

復活カシオペア

郡山で出会えました。北海道紀行は時間分かるのですが、
クルーズと盛岡片道の返却の時間がわかりません






 
 
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