倶楽部メモ(672)
平成23年 8月19日〜 8月22日

20系客車の側灯について ・ 急行霧島編成の復習


投稿者 旧狩勝線を楽しむ会
投稿日 2011年 8月19日(金)21時14分15秒
タイトル 20系客車の側灯について
詳しい方がいらっしゃったら是非教えていただきたいのですが、
20系客車の側灯についてです。

旧新内駅にある20系客車は、ナハネ20(昭和40年製造)、ナロネ21(昭和33年製造)、ナロネ22(昭和35年製造)の3両で、
いずれも廃車は昭和53年です。
この中で、側灯がついているのはナロネ22だけなのですが、側灯が必要なら3両全部にあってもよさそうなもので、
ナロネ22だけなのが不思議です。
側灯についてのいきさつなどわかりましたら是非教えていただきたく思います。


ちなみに本日の新内駅でのできごとですが、
15時すぎ、雲行きが怪しくなり暗くなってきたので、ナロネ22のAC100Vの電源を投入して室内灯をつけました。
(車掌室、デッキ、喫煙室、通路の足元、個室の廊下、寝台の読書灯のみ点灯します)
しばらくしてふと見ると、ナロネ22の側灯が点灯していました。
いままで電源を入れても側灯がついているのを見たことがなく、
不思議なことがあるもんだなんて気楽なことを言ってそばに近づいていくと、
なにやら車内からけたたましいブザー音が鳴り響いているではありませんか。
あわてて車内に入ると音の発信源は車掌室で、火災報知機の火災が点灯していて大慌て。
(火災は発生していません)
火災報知機の電源をOFFにして事なきを得ましたが、ほっとして外にでると側灯が消えていました。
そういう意味の側灯なのでしょうか?
(ちなみにジャンパ線がつながっているせいか、ナロネ21の車掌室からも鳴っていました)
それならそれで、他の車両にも側灯があってよさそうなものと思いまして、いったいこれは?
という疑問がわいてきましたのでここに質問で書き込ませていただきました。
どうかよろしくお願いします。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2011年 8月19日(金)21時43分22秒
タイトル 準急ひだ時代
昭和33年3月?が運転開始だったでしょうか?最初鵜沼で撮影していますが、キハ55、
26、キロハ18、55でロがボロ?33年8月に名古屋から富山まで乗車しましたが、(当時
名古屋-岐阜−富山間)、オロ36みたいな固定クロスで、扇風機の取り付け場所だけ
半円形に天井が高くなっていて、少しも涼しくないし台車もDT19系で乗り心地が悪
かったです。
トイレと洗面所だけはマトモに付いて居ましたが。
その後終着駅が高岡まで伸びてZ型に走る様になりましたが、高岡に気動車区があった
理由よりも、正力松太郎氏の圧力が原因で、鉄道ファン連中が「正力準急」だと。

庄川鉄橋で撮影したら、キロハ18だけが車体幅が狭いのでカッコウが悪い編成が丸々
解りました。その後はキロハ25を経てキロ25になりましたが、(名古屋16時代の
何号か?)車内灯が20Wx2列で岐阜から高岡まで薄暗い車内で過ごしました。

それから案外ご存知無いファンが居られますが、高岡駐泊明けに城端線を早朝1往復
普通列車でアルバイトをしていました。
これは名古屋発最終の急行「加越」になってからも早朝の城端線アルバイトが継続して
いました。

後で準急のまま左廻り「しろがね1-2号」、右回り「こがね」の「中部循環準急」になり
ましたが、「しろがね1号」が高山本線内夜行の設定でした。ガラガラかと思いきやいず
れも混んでいましたので、38豪雪の開通直後にはキハ20の増結車に乗せられたりでした。

当時の写真が見つかればいずれ管理人様へコピーを送ります。



投稿者 雑魚
投稿日 2011年 8月20日(土)11時44分53秒
タイトル 急行 「のりくら」 の 「内職」
▼XD1様:
> 首都バンコクの比較的新しい電車は、頑張っているようです。

慢性化した道路渋滞を他所に、定時性を確保出来る都市鉄道に対する潜在的な需要が
如何に大きかったか窺える様ですね。その意味では、バンコクも交通導線の近代化で
大きな一歩を踏み出した印象を受けます。

政治的話題に抵触する為、詳細は控えますが、タクシン元首相を巡る経緯を考えると、
円楽師匠、もとい、インラック首相がどの様な舵取りをするか、南沙諸島問題を巡る
中国vsアセアンの構図において、高速鉄道の導入構想を含め、今後が注目されますね。

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準急時代の「ひだ」における「城端線バイト」の事例紹介がありましたが、1988年に
武豊線を消化した際は「のりくら」の間合い運用で、無料開放のG車を楽しめました。
確か半田で間合い運用編成同士の交換がありました。

その後、名鉄の支線も消化し、神宮前から「北アルプス」で富山に移動したのですが、
退避設備が無い構内構造ゆえに、停車時間も僅かで、特急始発駅の情趣は皆無でした。
事実上の始発となる新名古屋も同様の雰囲気でしたが、一面一線構造の豊橋を含めて、
限られた空間を目一杯活用する、名鉄の作風が窺える様でもありました。

同様の開放G車は、岡山からそのまま「砂丘」となる吉備線の各停でも経験しました。
1980年代、四国や九州の気動車急行では、G格下車が指定席に充当されていましたが、
間合運用の無料開放区間として、土讃線(夜行快速)や三角線(「火の山」崩れ)で
利用した事もあります。

常磐線でも、1985年のダイヤ改正後に「ときわ」廃止で急行運用から外れた 453系が
G車を伴った侭、淘汰された客レの置換用として、平(当時)以北の各停に充当され、
私自身、仙台への移動で利用した事があります。

その常磐線、震災や原発事故に伴う不通区間の復旧の目処は、全く立っていませんが、
今月七日付の新聞報道によれば、宮城県山元町では震災復興に際し、常磐線の経路を
国道六号線の西側に迂回させる基本方針を決定した、との事です。これが確定すれば、
国道沿道の主要地区から外れた海岸線近くを走る相馬〜亘理の相当区間で、大規模な
経路変更が行われる可能性も考えられますが、最大の隘路である、原発の近接区間で、
列車の営業運転再開が可能となるのは、いつの日か………



投稿者 マロネロ38
投稿日 2011年 8月20日(土)21時11分49秒
タイトル 射水線富山市内直通
ミキスト様:
廃止前1-2年復活---まさにその時に乗車しています。坂下町から加越能の7000系で
越ノ潟−フェリー堀岡−練屋−四方−富山駅前こちらは5010系でしたが、行き先が西町
でした。
最初に「放生津潟」の南側を迂回のルートも候補に上がっていたらしいですね。それが
四方経由になったのは、あの辺に飛行場計画があったからでしょうか?
まだ繋がっていた時代に新湊(現六渡寺)-新富山間「魚屋電車」増結があって、
2軸単車の客車ハニフ1利用でした。当時は凸電機の6501や旧富岩のボ1が居たりで
本当に面白かったです。



投稿者 EF6113
投稿日 2011年 8月20日(土)22時23分7秒
タイトル クモイ103様へ 急行霧島編成の復習
お久しぶりです。EF6113です。
クモイ103様へご質問したく思います。

10年ほど前に、この掲示板で故白井良和氏(数年前に惜しくも亡くなられました)のサイドビューに載ってた
EF61牽引の霧島について話題になったことを覚えておられるでしょうか?(倶楽部メモ90前後)

昭和38年12月に撮影された写真です。

1.ARC資料館のデーターによると当時の編成は鹿児島寄りからオハネーナハネーナハネとなっています。
三宅俊彦氏の「銀河」物語には昭和38年度末寝台車使用状況が掲載されていますが、
霧島用の2等寝台は門タケ所属の博多回転車がオハネ2両、鹿カコ所属がナハネ1両となっています。
ということは38年12月時ではオハネーオハネーナハネということでしょうか?

2.熊本回転車の2等座席車が東京寄りに、鹿児島寄りからオハーオハースハフの3両(写真では減車で2両)あったようです。
ARC資料館のデーターでは当時オハ47となっていますが、当時熊クマのオハ47はなかったようです。
オハ46(670番台、680番台)やオハ36、35は在籍してたようです。
当時の急行に使用したのは46か36と思われます。
写真の東京寄りから2両目の車輌は36でしょうか、それとも46でしょうか?妻面が今一つ断定しかねます。
もし特定できる根拠があればご教授下さい。特定困難なら感想だけでも結構です。

この10年でこの編成を16番で再現したく車輌を集めてきましたが、ここ2、3年は仕事のこともあり放置したまま。
たまたま、雑誌にも投稿歴のある方に知りあう機会があり、
思い切ってその方に完成することと、散逸しないことを条件にお譲りすることとしました。

ですので、これを機会に当時の霧島の復習する必要から投稿させていただきました。
(他にも晩年の高千穂桜島、10系晩年の銀河編成があります。これについては後日お願いします)



投稿者 クモイ103
投稿日 2011年 8月20日(土)23時58分31秒
タイトル Re: 急行霧島編成の復習
EF6113 様
お久しぶりです。
ご指名ですので何かお答えしなければなりませんね(笑)。

ご指摘の写真は「サイドビュー国鉄一般形客車」のP.49上段に掲載された
「名古屋駅に接近する上り急行列車」の写真ですね。
確かにこの列車は、以前この掲示板で急行「霧島」と特定されました。

1.について:
 39年3月末の時点なら、仰る通り鹿児島寄り(写真では後寄り)から
1号車オハネ−2号車オハネ−3号車ナハネで良いと思います。
三宅俊彦氏の「銀河」物語に示された昭和38年度末寝台車使用状況の元文献である
「旅客車の現状 昭和38年度末」のコピーを持っており、
門タケ「門附1」(1・2号車)の使用車輌がオハネ17×2、
鹿カコ「鹿1」(3号車)の使用車輌はナハネ11という情報を確認しました。

 但し「門附1」の車種は短期間に複数回変わっています。
 「主要客車列車編成順序表」によると、36-10改正時には1号車マロネ29−2号車ナハネ11でした。
その後37年4月にマロネがハネに置換され、
38年1月24日の大鉄局報では1・2号車ともナハネ11から1号車を所定のオハネ17に復帰(実施済)という記載もあり、
その時点ではARC資料館の情報通りオハネ−ナハネ−ナハネだったことになります。
さらに2号車がオハネに置換された時期は残念ながら情報を持っておらず、
サイドビューの写真の38年12月の状況はわかりません。
(ARC資料館はアクセス出来なくなっていますね)

2.について:
 写真の2両目はオハ36でしょう。
 1両目スハフ42との連結部をよく見ると、2両目の妻面が1両目の陰に隠れて全く見えません。
完全切妻のオハ46であればデッキドアの前方にも車体側面とツライチに妻面の端が見える筈ですが、
この写真の車両はいわゆる「キノコ妻」とか「食パン」とかいわれる、オハ35系戦後後期形の特徴を見せています。
光線の具合でアルミサッシの光沢は確認できませんが、
スハフ42に比べて窓枠の太さが見えないのでおそらくアルミサッシでしょう。
この時代、オハ35にアルミサッシ車はまだ存在しなかったはずです。

製作途中で停滞している中途半端な編成は、私の所にもごろごろしてます(つーかそういうのばっかり)…



投稿者 仙コリ(管理人)
投稿日 2011年 8月21日(日)00時42分44秒
タイトル Re:20系客車の側灯について
旧狩勝線を楽しむ会様

ご質問の20系客車の側灯についていろいろと調べてみたのですが、確定的な答えがなかなか見つからないので、
調べた範囲と私なりの推測を述べさせていただきます。

まず側灯(正式には「車側表示灯」というようですね)は、主に「戸閉め表示灯」「非常用(故障表示用)」
の2種類が一般的なようで、20系客車の場合は後年の12系併結改造車以外は「戸閉め表示灯」は当然無い
ですし、火災報知機に連動して点灯したという事で「非常用(故障表示用)」であるのは間違いないです。

「非常用(故障表示用)」の点灯条件ですが、車両によって差異があるようですが、今回のような非常時
(火災報知機連動:非常警報装置連動)や車両設備(電源装置・空調装置やブレーキ装置)の故障時など
のようで、客車では12系以降には当初から装備されているようです。

問題の、なぜ装備しているのがナロネ22だけなのかという点ですが、あくまでも私の推測でありますが
個室寝台が関係しているのではないでしょうか?
通常の開放型の車内では、非常の際に車掌または他の乗客が発見することが比較的容易だと思いますが
個室内では困難であるため、個室内に非常通報装置(非常ボタン)が装備されているのではないでしょうか?
そのような場合に、もちろん車掌室でも確認できるでしょうが、より発見しやすくするために非常用の側灯も
点灯するようになっているのではないかと思います。
もっともこの推測があっていたとしても、製造当初のナロネ22の写真を見ても側灯は存在していませんので、
後で非常通報装置(非常ボタン)が付けられたのか?、あるいは非常用の側灯だけが後年追加されたのか、
また、いつ頃そのような改造がされたのかは全くわかりませんでした。

いずれにしても、個室内に非常通報装置(非常ボタン)が無ければこの推測は的外れですので、個室内を
確認していただければ幸いです。

また、火災報知機が作動していた問題ですが、通常の建物内の火災報知機でも誤報はたまにありますが、
北海道とはいえ最近は暑かった?ところに「雲行きが怪しくなり」との事なので、急激に湿度が上昇し
それによって火災報知機が誤動作したのではないかと思われます。

以上ですが、あくまでも私の推測ですので、詳しい方がいらっしゃいましたらフォーローしていただけると
助かります。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2011年 8月21日(日)09時24分43秒
タイトル オハ36
スハ42の軽量化ですから当然「茸妻」ですね。大鉄には余り配属されていなかった様で
一度乗車しただけでした。
一時北陸本線の鈍足急行503-504レ「立山」に1輌連結されていたのを見ていますが、
蛍光燈化、オルビット扇風機4台、シート等はスハ43並でしたが、痰壷が廃止されて
いたと記憶します。
大ミハだったのか借用だったのか?そこまでは記憶にありません。当然
アルミサッシでした。



投稿者 EF6113
投稿日 2011年 8月21日(日)16時51分28秒
タイトル 天賞堂新製品客車
クモイ103様、マロネロ38様ありがとうございます。

編成車輌はTOMIXやKATOのプラ客車、フジモデルの塗装済みなど集めてそろえてあります。

昨日知ったのですが、天賞堂から茶色つばめ、青大将、客車はつかりがプラ客車でリーリス
されるそうです。

ということはナロ10、オシ17、スハ44、スハフ43もプラ客車で出るということか?

トラムウェイからはスハ42が出る予定があります。

色の塗り替えで昭和38年当時の霧島はマニ60以外オールプラ化できる可能性がでてきました。
サイドビューのオハ36と思われる車輌はキャンパス屋根ですので、スハ42の窓をサッシ表現、
扉の交換でオハ36にできそうです。サイドビューのオシ17はクモイ様の以前のご指摘通り
14と思われますが、その他のオシは青大将の転属組だったことを考えれば初期型でも
構わないのでは思います。

機関車への負担を考えれば、プラの比率が高くなることはいいことではないかと思います。

銀河、桜島、高千穂はまた近いうちにご質問したいと思います。



投稿者 旧狩勝線を楽しむ会
投稿日 2011年 8月21日(日)21時31分9秒
タイトル Re:Re:20系客車の側灯について
仙コリ様

確かに側灯は非常灯であるようですね。いろいろな情報をありがとうございます。
本日調べましたが、個室にも車掌室にも非常ボタンらしきものは見当たりませんでした。
(ボタンは車掌を呼ぶための呼鈴だけ)
車掌室内には非常ベルのリセットスイッチがあるのを発見しました。
(でも非常ボタンはありませんでした)
車掌室そのものが、のちの改造で追加されたものですので、これらもこのとき追加されたのかもしれません。
(あくまでも推測ですが)

ご指摘のとおり当日は確かに暑く、晴れている日の日中は電源を入れることはないので
突如天候が悪くなり、室内灯をつけるのに電源を投入後に火災報知機が検知したかもしれません。

いろいろとありがとうございました。ゆっくりとしかできませんが、
開放寝台側通路の蛍光灯をなんとか点灯させたく思っていますので、
配線等調べていきたいと思います。

ありがとうございました。



投稿者 客車
投稿日 2011年 8月21日(日)22時34分9秒
タイトル つばめ天ぷら客車
JAMユーチューブにての○天の映像を見る限り、紹介されていた形式はナロ10だけでオシ17は出てきませんでした。
よって販売数の期待出来ない食堂車は青大将はつかり共にマシ35で逃げ切る公算が大と見ています。
同様にマイテ39も青大将への使い廻しを考えて11の可能性は小と見ています。
ブドウ色の売れ行き次第では変更も有るかもしれませんが、私的にはかもめを考慮してスロ54の発売を念じています。



投稿者 仙コリ(管理人)
投稿日 2011年 8月21日(日)23時59分26秒
タイトル Re3:20系客車の側灯について
旧狩勝線を楽しむ会様

>個室にも車掌室にも非常ボタンらしきものは見当たりませんでした。

調べていただきありがとうございました。
昨日の私の推測は見事にハズレだったようで失礼いたしました。

となると可能性として高いのは、後年の急行運用時の写真などを見ると側灯が設置されている車両が
多く見受けられるので、側灯を順次追加していき、優先度として電源車・食堂車等の機器類が多く
比較的危険性の高い車両が最優先で、その後ロネ・ハネの順に設置していく過程で、ロネの中では
個室寝台がある車両が優先され、他の2両は設置前に廃車となってしまったのではないでしょうか?

またまた勝手な私の推測ですので、参考までにしていただければ幸いです。

どなたか答えをご存知の方はいらっしゃらないでしょうか。



投稿者 ミキスト
投稿日 2011年 8月22日(月)11時12分0秒
雑魚様,マロネロ38様,
私は鉄道にはあまり詳しくはありませんが,小学校の環境が自ずと興味深くさせました.
特急「ひだ」は朝6時台と19時台の1往復でしたから,学校から見る機会はありませんでしたが,
早朝に神通川の土手沿いに鉄橋まで見に行きました.
80系の先頭車のデザインは衝撃的でした.
自宅の2階の自室からは遠くに鉄橋が見えていました.
夜行列車をよく見ていました.自分もどこか遠くに行きたいなぁ・・・って.
新しい橋ができて今では見えなくなりました.帰省しても寂しいものです.



 
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