倶楽部メモ(630)
平成22年10月31日〜11月11日

ダージリン・ヒマラヤ鉄道 ・ 日本海縦貫線と新潟


投稿者 マロネロ38
投稿日 2010年10月31日(日)09時08分50秒
タイトル 鈍行の旅
ED76109先生程の鉄ではないので余り長距離の経験がありませんが、出張で何度か利用
した、513レ大阪→高岡はロの旅費が出たので、サヤ稼ぎせずに盛アオのオロ31後
オロ41に乗車しました。上手く行けば転換クロスを倒して4人分占領で仮眠出来ました。
後は鉄友と木次線に乗りに行った時,京都から下関行夜行に異級乗車で、米子までロに
乗車時なんとオロフ32で儲けものでした。(後の「山陰」)

高山本線横断は最初がナハ21000系で、「飛騨金山--19分停車」!(北海道なら珍しく無い
ですね)、高山でアイスキャンデイーを買ったら,戦前の丸いアイスケーキ形とか。
2度目の富山から逆行はオロハ31.
加古川線横断は距離の割に所用時間が長く,オハユニ716(大カコ)の台車がどう見ても
DT13系で、明らかに電車の台車だったとか,電灯ブラケットがオハ35と同じとか、
戦災復旧車の面白さを満喫でした。私は何故か客車の珍車に乗れた機会が多かった
ですが、これも客車ファン冥利でしょうか?
鈍行の面白さは沿線の人々との触れ合いとか、駅弁や予期せぬ名物の饅頭や羊羹が車窓
から買えたりでしたが、もうこんな雰囲気も味わえなくなりました。



投稿者 ED76109
投稿日 2010年10月31日(日)23時16分29秒
タイトル 今では「幻」となった鉄道風景
 本日2度目の乗車失礼致します。「ED76109」でございます。

 マロネロ38様
 >ED76109先生程の鉄ではない

  そんなことはございません。
歴史的かつ小生が「鉄」親父や「鉄雑誌」でしか知り得ぬ「憧憬」を、ライヴで体験されているのですから。
様々な「鉄話」をぜひ拝聴したいものであります。今回はそんな小生の憧憬の風景を「戯言」させていただきます。

 1 小生、旧客王国であった「山陰本線」や「東北」は数度となく訪れたのですが、
意外と「北陸本線」はどういう訳か、縁遠かった気がいたします。
そんな「北陸本線」は、小生が生まれた昭和30年代後半〜40年代前半に大きな転換期を迎えました。
「北陸隧道」完成や「新疋田ルート」開通。
さらに、「名立」や「筒石」に代表されるように「長大隧道」による「高速化」であります。
「杉津」の辺りの「木の芽峠」越えや「柳ヶ瀬・刀根」の峠越えは、小生の興味をかき立てるものであり、
「大阪・青森の2夜鈍行レ」で一度眺めて見たかったものであります。

 2 前述しましたが、「中央西線や中央東線の旧客PC」に親しんでいたのは、昭和40年代後半。
木曽路を走る「D51」や新宿発の「西イイ」の旧客鈍行には、
「篠ノ井線の山越えのスイッチバック群」の印象が残ります。
しかし、小生が開眼した頃には「スカ色115系」が席巻しており、
「中央東線のスイッチバック」と同様にほとんど体験できなかったのは「暖房車」。
確か、「EF13」辺りが牽引していた昭和45年頃までは、「EL」の次位に連結されており、
「新宿」で一度眺めた記憶がございます。

 3 「トカホセ」を下る「夜行鈍行」と言えば、小生の世代では「347M」。
しかし、「鉄」親父にしてみれば、先代の「143レ」の一代前である「111レ」が
定番レであった話を聞いたことがあります。
「鉄」親父にしてみれば、昭和20年代後半に勤務先の「集金旅行」で「九州方面」に出張する際の愛用列車。
「東京発14:30」で翌日の「門司着22:01」の後、「鹿児島行(日豊本線経由)」、
「長崎行」そして「都城行(鹿児島・肥薩線経由)」の「夜行鈍行レ」に接続して、
「車中泊4日」で「東京・九州」を往復したようでありました。
時代が違うとは言え、「4日間のハザ車中泊」とは強行軍と知りつつも、
一度ライヴ経験がしてみたかった「夢旅」であります。

 長々と失礼致しました。以上、「懐古趣味」に走りがちの「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2010年11月 1日(月)12時04分20秒
タイトル 大正時代のインドの珍しい写真。
私の父が大正時代に某財閥商社駐在員でボンベイ〔現ムンバイ}に
6年間居た間に現地で購入持ち帰った観光写真集にある珍しい写真です。
もう著作権はとっくに切れていると想えるのでお目に掛けます。

1)プーナ.ガットと読むのか?の物凄いスイッチバックです。

物凄い押し上げ線は"Nose of Duke"=公爵の鼻と呼ばれる線で、
こんな所へ押し上げたら,機関車の缶水や火室の石炭移動、乗客が座席から飛び出しそう等々です。

本線の線路の間に所々何か光る物が見えるのでラックレールみたいですが、アプトでないとこの勾配を登れないでしょう。

本線が複線なので結構幹線みたいですが、右下の列車は明らかに2軸単車?です。

後部補機が頭をモグリ込ませて居る白くて細長い物はどうやら落石防護覆いらしいです。

機関車や客車の大写しが無いので惜しいですが。

2)有名なダージリンの軽便鉄道です。

ループNO.3とありますが、この駅だけの為にループを造って居ます。
サドルタンクが写って居ますがこの線にはお似合いの機関車です。

父が乗ったそうですが、「ぐるぐる廻るので方向感覚が無くなった」と言って居ました。




投稿者 マロネロ38
投稿日 2010年11月 3日(水)08時51分45秒
タイトル インドの写真-2
管理人様:
どうも皆さんノーコメントの様ですが、皆さんのお気に召さなければ引っ込めて
下さっても結構です。このHPを閑散路線にする気持ちはありませんから。

私としては鉄道建設の歴史の一つなので、死蔵しておくのは勿体無いと存じて公表
させてもらいましたが,余りにも現代とかけ離れているので、皆さんびっくりなさった
のかな?とです。

私は当時のイギリスの鉄道建設技術水準が極めて高かった事を、この
スイッチバックの写真から知りました。
本当に「物凄い」の形容詞しか出て来ないのですが----



投稿者 EF6113
投稿日 2010年11月 3日(水)09時59分42秒
タイトル Re.インドの写真
 本当に久しぶりに書き込みます。九州ブルトレ全廃ですっかり鉄道趣味から遠ざかっています。
かわりに最近は戦後のモータースポーツについてあれこれ調べています。
 調べて思ったことはイギリスが戦後のモータースポーツにおいてソフト、ハードとも多大な貢献をしていることです。
ドイツやイタリアに目を向けがちですが、ベーシックなもの、後になって進歩が進む技術の先駆けのなるものは、
イギリスから登場している場合が多いようです。
 マロネロ38様の投稿された写真を見て、改めてイギリス人恐るべし、と思った次第です。
いろいろな点で停滞気味の我が国ですが、今の時局の打開のために、もう一度イギリス人が元気だった頃の、
テクノジーへのアプローチ手段など見習うことも必要なのでは、と思います。
英国自体も以前に比べ停滞気味ではありますが。



投稿者 ED76109
投稿日 2010年11月 3日(水)10時24分26秒
タイトル ダージリン・ヒマラヤ鉄道
 おはようございます。「ED76109」でございます。

 「マロネロ38様」からのお写真には、小生度肝を抜かれたのが、正直な感想でございます。
いつものように「鉄」勉強させていただいた内容を、「戯言」調で述べさせていただきます。


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 「ダージリン・ヒマラヤン鉄道」は、インドの東北部である「シワリク丘稜」にある
「軽便鉄道(英語名「Daarjeeling Himalayan Railways)」であり、世界遺産に登録されている。
同鉄道が世界遺産に登録されたのは1999(平成11)年のこと。
運用路線は全長約88kmであり、始発駅が「ニュー・ジャルパイグリ」、終着駅が「ダージリン」となっている。
全線が「軌間610mmのナロー・ゲージ」であり、「極狭軌」とも呼ばれており、「トイ・トレイン」との別名も存在している。
同路線内には3つの「ループ橋」、6つの「スイッチバック」が存在し、全てが世界で最も初期であるもの。
特に、「スイッチバック」は同鉄道が発祥の地と言われている。
なお、同鉄道の敷設されている「シワリク丘稜」は大雨被害が絶えることなく、土砂災害による不通と復旧が繰り返されてきた。
同鉄道の最高標高地点は一般的には2257mであり、「マロネロ38様」のお写真のように、
山岳鉄道として現在も観光地として有名とのこと。
なお、現在使用中の車両は、展示中心の英国製「B形SL」1機、峠区間を走行するインド製「NDM6形DL」1機であり、
車歴が100年を数える「SLヒマラヤン・バード」を所有している。
同鉄道の起源は、「イギリス」による植民地時代の「馬車鉄道」。
当時、避暑地であった「ダージリン」への交通手段として開設されたものと言われている。


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  小生、小学3年生の夏頃(?)の「RF」に乗車記が記載されて、筆者の方が夜明かしした「駅の待合室の寒さ」と
「寝袋で寝ている間に靴を盗まれた」という記述が印象に残っております。

 長々と失礼致しました。以上、「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2010年11月 3日(水)13時07分1秒
タイトル 610mm軌間とイギリス
日本で610mmはトロッコゲージと呼ばれていますね。旅客用では神岡鉄道が1067mm
改軌以前660mmだったらしいですが。神戸近辺なら昭和17年まで明石駅の裏口(城側)
から今の市民病院の場所にあった大日本紡績明石工場まで,製品,資材運搬用の馬車
鉄道→ガソリン機関車軌道があり610mmでした。実物を見ていますが本当に乗せて
欲しかったです。
イギリスは本当に技術革新の先端を走っていましたが、レーダーやジェット機もイギ
リスですし、船舶のレシプロ蒸気機関と排気利用前進用タービンの組み合わせとか--あ
の「タイタニック号」がそれだったり、(日本では郵船の「香取丸」)技術革新の先鞭を
つけるのがイギリスでした。鉄道、船舶用デイゼル機関でもカミンズのエンジンもそう
です。
現在でも大いに見習う必要があると存じます。



投稿者 雑魚
投稿日 2010年11月 4日(木)15時01分30秒
タイトル 日本海縦貫線と新潟
▼ED76 109様:
> 昭和57年の秋「新津〜青森」の「833レ」制覇が思い出されます。

上越新幹線の開業に伴うダイヤ改正で、上野直通「いなほ」が新潟始発体制に移行し、
白新線の優等列車路線たる地位が相対的に高まった時期ですね。その後も、新津から
酒田方面に直通する旧客便は存続し、需要面で、その存在意義は少々懐疑的でしたが、
客車運行には適さないと思われる白新線の平均駅間距離や、旧新津機関区の存在など、
多分に運用上の都合ゆえでしょうか。その白新線にしても、当時は気動車便が主流で、
新潟都市圏の北端・村上まで直流電化されながら、115系の不足か 電車便が本格的に
設定されたのは、意外に後年でした。

2007年に政令指定都市になるなど、本州日本海側では最大の都市規模を擁する新潟も、
1956年の白新線の全線開業までは、日本海縦貫線から見れば「枝線の終点」に過ぎず、
広域導線としての拠点性は、新津の方が遥かに高かった事と思いますが、その新津も
現在は新潟市域の所在(秋葉区)ですね。

羽越線の新発田以南が開業したのは、信越線が新潟に到達した、十数年後の事ですが、
古くより港町として栄えていた新潟が縦貫線の経路から外れたのは、信濃川が市街を
二分する特異な地形(一時は、長岡・新発田両藩が両岸で相対する状況でした)ゆえ、
中央停車場の立地確定で紆余曲折があった新潟ならではの事情が作用したと考えます。

加えて、車両基地の旧称にも用いられた「沼垂」という地名や鳥屋野潟に象徴される
湿地気味の地勢、それらに少なからず作用したであろう、乱流気味だった阿賀野川の
河口付近での架橋は、当時の技術では困難だったと思われ、何より動力集中方式では、
エンド交換は一大隘路ですね。最盛期から見ればかなり淘汰されたとは云え、福岡県
筑豊地方の鉄道網が入り組んでいるのも、苅田港・若松・戸畑・八幡への運炭列車を
スルー運行ならしめる為のものだったそうな。

その白新線が全線開業した1956年より以前、急行を含む羽越線の各列車における新潟
直通の有無やその頻度は、どの様な状況だったのやら?

上段画像は、成田発の国際線から俯瞰した新潟の街です。新幹線は視認も容易ですが、
在来線は、さすがに識別困難ですね。この時、訪れた英国では、仕事の合間に訪れた
オックスフォードシャー州ブレナム城(チャーチル元首相の生家)で中段画像の様な
遊覧鉄道を見掛けましたが、これは 610mm軌道より更に狭そうですね(^^)

610mmと云えば、やはり 立山砂防軌道を連想しますね。平日の朝夕なら、ヤードへの
立入許可を求めずとも、人車列車(これも立派な客車?)が続行する様子を構外から
見物できますが、生憎、私の訪問は週末に限られる為、DLはシャッター付き倉庫に
厳重に格納され、留置された無蓋貨車ばかりを眺めるのでした。




投稿者 EF6113
投稿日 2010年11月 4日(木)21時57分17秒
タイトル グレートノーザン
 大英帝国及びその植民地には本当にいろいろなケージが存在しますね。
彼らの鉄道に対するノウハウの豊かさ、懐の深さを感じます。

 グレートノーザン鉄道の超広軌って、実際どうだったのか、タイムマシン
があったら、この目で実際見てみたいものです。



投稿者 ED76109
投稿日 2010年11月 6日(土)08時28分11秒
タイトル 「しらゆき」が初めてのようです
 おはようございます。修学旅行出発前日の「ED76109」であります。

 雑魚様
>その白新線が全線開業した1956年より以前、急行を含む羽越線の各列車における新潟直通の有無やその頻度は、
どの様な状況だったのやら

 いつものように「鉄」勉強の成果を。
昭和29(1954)年の時刻表を確認しましたところ、「日本海」や「津軽(上越・羽越本線経由)」、
そして「大阪・青森直通鈍行レ」が「新津経由」で運転されているとともに、
「酒田」等から「新潟行の中距離鈍行レ」が運転されております。
しかし、これらは全て「新津経由」での運転であり、鈍行レは「新潟・新津逆編成」ということになるのでありましょうか。
その後、昭和36年10月改正で「DC白鳥」が誕生いたしますが、
当初は「新津から羽越本線直通」で運転されたのでありました。
「白新線経由」で運転された「日本海縦貫の優等列車」は、昭和38年4月に登場した「DC急行しらゆき(金沢・秋田)」
が最初であり、同年10月に「日本海」が「白鳥」とのダイヤ調整に係り、「新潟経由」に変更。
そして、昭和40年10月には「白鳥」が「親不知付近の線路改良」等による運転時間短縮に伴い、
「新潟経由」へと変更されております
(いつものように何か間違いがあるかもしれません。先達の皆様方の訂正、補足等を御願いいたします)。
小生、「DCしらゆき」は「制覇」できませんでしたが、以前ご紹介した「約束(昭和47年・松竹)」という
「萩原健一さんと岸恵子さん」主演の「悲恋映画」の舞台として取り上げられております。
真冬の日本海の車窓とともに車販嬢の姿や長距離列車特有の雰囲気が感じられる「キハ28の車内風景」が
たっぷりと描かれており、ストーリーの素晴らしさと併せて、印象的な映画であります。

 長々と失礼致しました。以上、気分は「旅人」である「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2010年11月 6日(土)10時40分44秒
タイトル 急行しらゆき
ED76109先生:
これを送信する頃はもう空の上かと---
「しらゆき」当時は金沢−青森じゃなかったですか?秋田で当時の「あけぼの」に併結
でした。最初は金沢−新潟だったか?高岡駅で大きなヘッドマーク(雪の結晶)デザイン
を撮影しています。
坂町→大館間指定席のキハ28に乗車した事がありました。号車番号が逆になって居まし
たから確かに白新線経由でした。
修学旅行無事に終えられる様に---



投稿者 クモイ103
投稿日 2010年11月 7日(日)11時12分50秒
タイトル 急行「日本海」の新潟経由変更
ED76109様

> 昭和38年4月に登場した「DC急行しらゆき(金沢・秋田)」が最初であり、
同年10月に「日本海」が「白鳥」とのダイヤ調整に係り、「新潟経由」に変更。

との情報は、どのようなソースから仕入れられたのでしょうか?
よろしければご教示お願いします。

501-502レ急行「日本海」が運転時間帯を大幅にシフトし、同時に新潟経由となったのは、
昭和38年でなく昭和36年10月白紙改正時だったことが、時刻表からも確認できます。

36-10改正以前の「日本海」の運転時間帯は大阪−北陸間が夜行で、富山回転の寝台車を連結していました。
しかし改正で北陸地区が深夜帯の通過となり大阪−新潟間夜行列車の性格となったのに呼応し、
寝台車の途中回転は新潟となって、それはのちにヨンサントオ改正で「きたぐに」と改称されてからも長く続きました。
なお36-10改正以前の「日本海」の大阪−富山間夜行のスジは、新設の準急「つるぎ」に引き継がれました。

ちなみに白新線の全通は昭和31(1956)年4月15日とのことですから、
昭和29年であれば新潟から羽越線へは新津経由が必然ですね。



投稿者 雑魚
投稿日 2010年11月 7日(日)16時26分3秒
タイトル 客車列車の エンド交換
▼ED76 109様:
>「酒田」等から「新潟行の中距離鈍行レ」が運転されております。

十八番の保育社「国鉄の車両/奥羽・羽越線」の記述によると、羽越線の優等列車は、
1960年まで客レ一辺倒との事で、白新線の開業前に、わざわざ新津で機回し、または
機関車交換を行ってまで、羽越線の優等列車が、新潟に直通する事はなかったと見て
良いのでしょうかね。

白新線から羽越線に直通する普通電車便の普及を受けて、新潟から新発田までは40分、
村上までは更に40分程度と、新潟平野北端の村上までは、新潟志向の通勤通学導線が
明確に存在すると思われます。一方、白新線の開業以前は、非電化当時の速達能力も
考えると、今でこそ「新潟近郊区間」に含まれる新発田ですら、新潟の衛星都市たる
側面は小さく、むしろ城下町として今以上に独自の求心性を発揮していたと考えます。

白新線沿線の豊栄(現新潟市北区)が、合併で豊栄町を形成したのは、白新線全通の
前年である1955年で、当時の人口が26千人。その三年後に、長浦村を編入した時点で、
町としては県内最大の人口35千を擁したとの事。従前は、県都入りを阻む阿賀野川の
治水で御苦労が多かった地域が、県都直通の導線の恩恵に浴した事を受けて、人口の
集積が進んだ事情が窺えます。

国鉄優等列車体系の一大転機を「ヨンサントオ」と見た場合、それ以降、定期運転の
客車列車がエンド交換を行った例は、どの程度あるでしょうか。直ちに思いつくのが
現行事例となる函館(北斗星・はまなす)のほか、青森(北斗星・日本海・はまなす)
長岡(北陸)直江津(能登)金沢(能登)名古屋(紀伊)亀山(紀伊)早岐(さくら・
あかつき)辺りですね。

なお、青森の「はまなす」は不定期の秋田直通によるものです。輪島に直通していた
輪島直通「能登」が一運用で往復する金沢〜津幡において、津幡への停車はどの様に
扱われていたのでしょうか。また「紀伊」が伊勢鉄道開業後も亀山経由だったか否か、
記憶が判然としません。



投稿者 ED76109
投稿日 2010年11月11日(木)23時12分8秒
タイトル Re:急行「日本海」の新潟経由変更
  本日、修学旅行の引率から帰還いたしました「ED76109」であります。

 クモイ103様
 >どのようなソースから仕入れられたのでしょうか?

 重ねて「クモイ103」様に、多謝返礼であります。
「羽越本線」ネタであることから、「中央本線のEF64」を中心とされた「サイト」の情報を
引用させていただいております。
慌てた小生の誤読かもしれませんが・・・。

 雑魚様
 >定期運転の客車列車がエンド交換を行った例は、どの程度あるでしょうか?

 当地の「PC大雪」が「遠軽」でエンド交換であります。「オロハネ10」が運用されていたことで有名でありました。
前述させていただきました「マロネロ38様」が渡道の際に利用された「石北の前身である準急」が御先祖様です。

 長々と失礼致しました。以上、「中年客車鉄ちゃん」でありました。



 
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