倶楽部メモ(603)
平成22年 5月30日〜 6月 2日

宮崎事情 ・ その後の青大将客車


投稿者 コスモス
投稿日 2010年 5月30日(日)11時42分11秒
タイトル 末端区間の昼ネ解放
雑魚 様 ED76109  様

手持ちの古い時刻表を見てみました。
昭和51年1月号では、西鹿児島行「富士」は宮崎からBネを自由席として利用できました。
宮崎発15:48で西鹿児島着18:26という時間帯でした。上りについては時刻表では自由席利用の表示はありませんでした。
しかし営業案内のページ(ピンク色の紙)には特定特急券で利用できる列車として
「富士」上りの西鹿児島−都城が示されています。

昭和56年8月号では、宮崎終点になっていて、下りは山陽本線柳井駅(7:03発)から利用できました。
上りは宮崎−門司間が利用できました。
下りは立席特急券、上りは指定席特急券が必要との違いがありました。



投稿者 雑魚
投稿日 2010年 5月30日(日)19時05分19秒
タイトル 宮崎事情
▼コスモス様:
> 宮崎発 15:48 で西鹿児島着 18:26 という時間帯でした。

宮崎空港は1966年、地方空港としては嚆矢となる、ジェット機就航やレーダー管制の
対応を整えており、その意味で「昼寝開放」が15時台からというのは少し意外ですが、
宮崎以北で輻輳する昼行優等列車が充実していた、という事の現れでしょうか。

> 昭和 56年 8月号では、宮崎終点になっていて、

日豊線の全線電化(1979年)から僅か一年後に宮崎折返しとなったのですね。その後、
1990年から、大分折り返しとなる1997年までは、南宮崎折返しとなりますが、これは、
機関区が併設されていた宮崎駅の高架化に伴い、車両基地機能を、南宮崎に集約した
措置と思われ、1995年に都城から撤収した「彗星」も、2005年まで南宮崎発着でした。



投稿者 クモイ103
投稿日 2010年 5月30日(日)22時23分33秒
タイトル Re: 宮崎事情
南宮崎発着時代の「彗星」で思い出すのが、宮崎港から大阪南港まで乗ったフェリーです。
「彗星」より約1時間遅く宮崎港を出航し、大阪南港には「彗星」の大阪着と大して違わず着きました。
そこから大阪の中心部へ向かうには新交通+地下鉄で手間暇がかかりますが、
目的地が大阪南部であれば列車よりも船の方が格段に速いという現象があったわけです。
九州東岸−関西間は、遠回りの列車に対してショートカットの船が有利なんですね。
こんなところにもブルトレ衰退の一要因があったのかなと思ったりしましたが、フェリーと列車ででは客層が違いますね。
私のようなあまのじゃくはそう多くないでしょうから(^^;。



投稿者 くらやみのまろ
投稿日 2010年 5月30日(日)23時35分15秒
タイトル 5月26日発の2レ「北斗星」
ED76109様

26日に2レ北斗星に乗車されたとのことですが、当方、ED76109様が27日朝にご覧になられた撮影者の中の1人で、
「栗橋のカーブ」で撮っておりました(笑)
なので、そのときの写真のうち編成全体と、1号車を撮ったものを掲載させていただきます。
この日の編成は以下の通りで、
5号車オハネ25 550番台(ソロ)の代わりに、2号車にオハネフ24 500番台が連結される変則編成でした。

■2レ「北斗星」 5月27日、栗橋〜東鷲宮にて記録
EF81 88
カニ24 506
オハネフ25 215
オロハネ24 552
オロハネ25 501
オロネ25 506
スシ24 504
スハネ25 501
オハネ25 566
オハネ25 563
オハネ25 562
オハネフ24 501
オハネフ25 4


投稿者のホームページ



投稿者 くらやみのまろ
投稿日 2010年 5月30日(日)23時51分20秒
タイトル Re:1032レ鴎
連投、失礼いたします。

マロネロ38様
乗車された「鴎」の食堂車が冷房車だったとは、さらに驚きです。
マイネロフに乗車されたことだけでも、大変貴重な体験かと思ってしまいますが、
そのうえさらに、戦前の数少ない冷房車にまで乗車されていたとは…。
また、「鴎」食堂車は基本的にスシ37丸屋根車(スシ37800)が使用されていたものと思っていましたので、
『夏場はマシ38の日とスシ37(丸屋根)の日と交互に使用されたらしい』との話も初耳で、
これも大変貴重なお話と思います。
回答いただきまして、ありがとうございました。
投稿者のホームページ



投稿者 雑魚
投稿日 2010年 5月31日(月)09時06分25秒
タイトル 細島線
▼クモイ103様:
> 九州東岸−関西間は、遠回りの列車に対してショートカットの船が有利なんですね。

これは興味深い現象ですね。九州東岸の航路というと、川崎・大阪・神戸と細島港を
結んだカー・フェリーを連想しますが、同港には現在、フェリー接岸は無い様ですね。
細島港で思い出すのが、日向市から分岐していた細島線で、あるいは上記フェリーと
連携した「ボート・トレイン」の如きもあったのかと思いましたら、フェリー就航が
1971年であるのに対して、その翌年には細島線の旅客営業が廃止されており、実態は、
清水港線、福知山線の尼崎港支線、播但線の飾磨港支線に近いと見るべきでしょうか。

我が地元でフェリーといえば、大洗〜苫小牧の商船三井です。夕刻に大洗を発つ便は、
津軽海峡で、翌日午前に福島を発つ新千歳行 全日空便から俯瞰できます(画像参照)




投稿者 クモイ103
投稿日 2010年 5月31日(月)20時19分57秒
タイトル Re: 細島線
雑魚様
 JTBキャンブックス「鉄道廃線跡を歩くX」P.219に掲載の地図と、
国土地理院HPの現状の2万5千分の1地形図を比べてみますと、
フェリー発着場は国鉄細島線と全く離れて位置するようですね。
やはり仰る通り「清水港線、福知山線の尼崎港支線、播但線の飾磨港支線に近い」ということだと思います。



投稿者 クモイ103
投稿日 2010年 5月31日(月)20時46分47秒
タイトル その後の青大将客車
 いよいよ今日が“青大将”の終焉50周年の当日です。
 本サイトの3号車「客車資料館」の特別企画に
 「青大将・はつかり色」としてこの色になった車両の一覧表を掲載されていますが、
 青大将運転終了にちなみ「その後の青大将」のお話しをちょっと。

【1等展望車】
・マイテ(→マロテ)39 1、39 21、58 1、58 2
 1ヶ月後の2等級制移行に伴い「マロテ」に改称しましたが、用途は無く、そのままマロテ39は昭和36年2月15日に、
 マロテ58は昭和37年2月28日に廃車となりました。実車の標記が書き換えられたかどうかはわかりません。

・マイテ(→マロテ)49 1
 ぶどう色2号になって貴賓用の特別列車に用いられましたが、昭和39年3月30日に廃車されました。
・マイテ(→マロテ)49 2
 マロテ39と同じ昭和36年2月15日に廃車、
 翌37年1月21日に開館した弁天町の交通科学館(現在の交通科学博物館)に保存展示されました。
 当初はマロテ標記+淡緑帯でしたが、後にマイテ標記+白帯となりました。
 昭和62年、国鉄分割民営化の直前まさかの復活を果たし、その後は皆さんよくご存知の通りです。
【1等車】
・マイ38 1、38 2(→マロ39 1、39 2)
 ともに昭和38年2月9日廃車。
 その間マロ39 1はマロテ49 1と共に貴賓用特別列車に使用され、ぶどう色になったと思われます。
 2の方は使用記録が見当たらず、最後まで淡緑色のままだったかもしれません。
【食堂車】
・オシ17 1〜17 4
 鹿児島へ転属し、急行「霧島」のスシ48を置き換えます。
 当初淡緑色のままでしたが、短期間でぶどう色になったとのことです。
・マシ35 11、35 12
 同じ宮原持ちの急行「なにわ」に転用。
 それまでも「なにわ」所定のマシ29が検査等の際に代理で組み込まれることがありましたが、
 マシ29が転出した後を受け所定使用車となりました。
 しかしそれもつかの間、秋にはオシ17の増備で捻出され、小倉工場で近代化改造を受けます。
 そして東鉄へ転属して一時品川で急行「瀬戸」などに使用の後、36-10改正で尾久へ転じ常磐急行「北上」「北斗」に。
 翌年電暖改造を受けて常磐ルートに定着し、45-10改正で引退するまで最後の「10系以前の食堂車」として活躍しました。
【2等車】
・ナロ10 1〜10 27
 大半がオシ17と共に鹿児島へ転属、急行「霧島」および「高千穂」用となりました。
 やはり当初は淡緑色のまま使用されるも、短期間でぶどう色になりました。
 その中の一部は他区持ちの急行「雲仙」や「阿蘇」にも入った記録がありますが、これらはイレギュラーと思われます。
 一方宮原に数両が残って、急行「月光」に使用。
 しかしそれも竹下へ転属して12月に特急「かもめ」のスロ54を置き換えました。
 こちらの塗色は、遅くとも「かもめ」使用時にはぶどう色になっていたと思われます。
【3等車、3等荷物車】
・スハ44 1〜44 25、スハニ35 1〜35 6
 直後の動きは資料が乏しく、よくわかりません。
 鉄道公報や大鉄局報では、スハ44 1〜44 22およびスハニ35 4〜35 6の合計25両が
 昭和36年3月31日に大ミハから東鉄へ転じたことになっていますが、
 実際は多くのスハがそれよりずっと前に近代化改造及び一部は緩急車化改造を受けて、
 「いこい」や「南紀観光」に用いられています。
 また未改造の淡緑色スハの少なくとも2両が「はつかり」に混結され、
 35年末の臨時急行「第2みちのく」にも使用されたことは、本掲示板でも既出の情報です。
 この時期のスハ・スハニの詳しい動きは、塗色変更も含めて謎だらけです。
 何か情報がありましたらお寄せ頂ければ幸いです。

 ちなみに昭和36年10月白紙改正後のスハ44系の配置は以下の通りです。

【福島】
 スハニ35 11、12(2両)
【磐越西線管理所】
 スハニ35 10(1両)
【品川】
 スハ44 1〜8、26〜29(12両)
 スハフ43 15〜24(10両)
 スハニ35 4〜6(3両)
【尾久】
 スハニ35 1、7〜9(4両)
【京都】
 スハ44 23〜25、30〜34(8両)
 スハフ43 1〜3、11〜14(7両)
【宮原】
 スハニ35 2、3(2両)

なお、京都所属のスハ44 30〜34及びスハフ43全車の合計12両については、
36-10改正時に東鉄から転入したことが確認できています。



投稿者 ED76109
投稿日 2010年 5月31日(月)21時24分45秒
タイトル 「ブルートレイン」雑感など
 おばんでございました。「ED76109」であります。

 マロネロ38様

 >昭和40年9月にC6133牽引

 小生、殆ど記憶にはないのですが、昭和42年ごろに「叔父宅(伯母が「鉄」親父方)」近くの「西出水」駅で、
「C61」牽引の「旧客鈍行」の姿と線路沿いの「電線柱(ハエタタキ)」をバックにした「スナップ」がございます。
「従兄」は「60代の白髪紳士」で、数年前に「近畿圏に本店を置く都市銀行の○○○支店長」を定年退職。
長年住み慣れた「明石」の自宅から「出水」に戻り、年に1回程度「青春18」を愛用している「鉄もどき(従兄曰く)」。
「東北新幹線は『はつかり』で充分。」と血気盛んな「薩摩隼人」であります。


 コスモス様及び雑魚様

 >下りは立席特急券、上りは指定席特急券が必要

 正しきご教示ありがとうございました。
「九州ブルトレ」は軒並み「九州内」では、「ハネは「立席」や「指定席」、ロネは「G席」で利用できたはずであります。
小生の記憶では、「ED76」に牽引されていた「はやぶさ」にせよ「富士」にせよ、
「九州内のEC特急」の補完的な役割をしておりましたが、「久留米(?)」や「中津(?)」で待避していたように思います。
やはり、「ブルートレイン」が「ECのお荷物」的な存在になってしまったことはいがめません。


 くらやみのまろ様

 >27日朝にご覧になられた撮影者の中の1人で、「栗橋のカーブ」で撮っておりました

 左様でございましたか・・・。「那須野」辺りは「小雨」と「濃霧」で難渋しておられた「撮り鉄」の先達の方も・・・。
あの辺りは、上野方左側の3番目の窓ガラスから、通路の「折りたたみ椅子」に座って車窓を眺めていたはずであります。
「ここで会うたも、何かの縁〜」などと、「笑点の某師匠」のような「戯言」は申しませんが、
「手」を振れば良かったですかねぇ・・・(笑)。
しかし、慌てて「上野」で車体番号を記憶したせいか、
小生の記憶と車体番号が異なっていたようで、正しい番号が分かりました。
ありがとうございます。
しかし、「上野のフォーム」でもメモを採りながらの「鉄」の先達の方が・・・。
小生のようなずぼらな「鉄」から申しますと、尊敬に値するものであります。


  クモイ103様

 >鹿児島へ転属、急行「霧島」および「高千穂」用となりました

 以前にも記させていただきましたが、昭和47年にお世話になった「桜島のG車」が、
正しく「ナロ10」から「冷房化されたオロ11」でありました。
「鉄」親父に東京車掌区のカレチさんが語った「『はと』のお古」という言葉は、今でも脳裏に残っております。

 長々と失礼致しました。
以上、このサイトに投稿された先達様が乗車された「はやぶさ」を撮影された「雑魚様」と、
同様の体験に驚く「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 雑魚
投稿日 2010年 6月 1日(火)18時21分0秒
タイトル 酸っぱい葡萄
▼ED76 109様:
> 東北新幹線は『はつかり』で充分

歴史的にはそれが判り易いのでしょうけど、水戸駅で、現役時代の運用を日々眺めた
立場としては、愛称募集で堂々の三位と聞く「みちのく」も捨て難いですね。これが
新函館までの一括開業となると、単純に「白鳥」がスライドしたのかも知れませんが。

在来線とは、高速性で明らかに一線を画した、開業当時の東海道新幹線特急が、光速・
音速を連想させる感覚で命名されたのは、非常に明快な話で、少なくとも、フル規格
区間のみ走行する新幹線特急の愛称を、こうした高速感覚で統一できれば、すっきり
する様にも思います。その意味で「やまびこ」は、実に良い命名ですね。

同様の感覚として、ブルトレは「銀河」「天の川」など、天体事象関連で統一すれば
判り易かったかな、とも感じます。夜行列車の大所帯時代であっても「恒星」「惑星」
更には「火星」「遊星」「ガミ○ス」「イス○ンダル」「パ○ドラ」まで動員すれば、
命名ネタには不自由しなかった事でしょう(^^)

> 先達様が乗車された「はやぶさ」を撮影された「雑魚様」

583系「水戸寒梅」や、JR東日本における 14系座席車の惜別運転を含め、本掲示板
関連では、計三件ありますね。常磐線で移動中、生温かい視線を感じたら、線路際で
私が仁王立ちになっているかも知れませんよ(^^)

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学生さんの衣替えが妙に眩しい本日は実に良い天気でした。ひたちなか方面に仕事の
予定があって、昼休みに湊線で国鉄型キハ(なぜか平日運用が主流)を撮れるかなと
期待していたら、突然のデスク・ワークで外出能わず。まぁ、最近、単行運用が多い
キハ2004形「準急色」だったら、そんなに惜しくないかと「酸っぱい葡萄」の論法で、
自分を慰めていたら、代りに出掛けた同僚が帰社早々「急行色だったよ」滂沱………



投稿者 マロネロ38
投稿日 2010年 6月 1日(火)20時32分18秒
タイトル 2005?
雑魚様
2005を見損ないましたか?時々ひたちなか海浜鉄道のHPに運用が出ているのですがね。
2004は準急色ですが、吉田社長がキハ58色が好きらしいので2005を塗り替えたとか。
どうも土、日曜はキハ205(キハ20の2次型で水島時代に冷房したDC)とミキ300-103
(他の車と総括制御出来ない)らしいですね?

スカイマークが神戸−茨城線を始めたので一度撮影や社長と黒猫「おさむ」に会いに
行きたいのですが、日帰りできないフライトなので二の足をふんでいます。水戸から
大阪まで夜行バスがあるが、しんどそうですから-----



投稿者 千キウ
投稿日 2010年 6月 1日(火)21時06分18秒
タイトル RE青大将客車
お久しぶりです。
クモイ103様の研究発表には頭がさがります。
補足という程の知識は無いのですが、気づいた点をいくつか。

・マイテ(→マロテ)49 2
たぶんこの車輌と思いますが、昭和35年に貴賓用として急行吾妻の最後尾に・・増車
(鉄道ピクトリアル昭和47年の、お召し列車100年の記述にあり)

【磐越西線管理所】
 スハニ35 10(1両)
国鉄鋼製客車Tのスロハ322059の左車と思われます。60−8−19という事で増号車の準急ひばらでしょうか?

品川のスハニ354−6に関してはブルー時代に準急白樺に使用された後に高崎
に移動して全検?時に茶色になり品川に戻り急行さぬきに使われたのは有名ですね。
鉄道ファンによると68年末の臨時急行ながさきに使用予定と記載はありました。
この間、立ち読みした鉄道ピクトリアル東北線特集号で黒磯で写された緑のスハニには驚きました。
団臨?とも思いましたが、電暖の必要のない夏場には、しばしば見られた・・・とあり、
かなり前にこの掲示板にもあった大宮で見られた、
緑の白山もマンザラではないやに思います。

スハフ43 15〜24 10両
品川車ですが全部、青色で登場したのでしょうか?
60-12の臨時特急あさかぜが最初と思われるのですが。SIDE-VEW JNR-PC1 57の写真では茶ですね。
手元にある写真ではレールマガジン264号の銀河の写真と以前の鉄道ファンに
あった準急いこての処女列車程度しか見あたりません。予想するに4315−4
317の3両でしょうか?鉄道ファンにあった準急越後(最終日)→急行天の川処女日には色の記述までありません。
特急みずほ時代の写真を見てもすべて茶色
です。

スハ44系につきましては宮原の車が準急ゆのくにに使用されたとか、代走特急
はつかりに使用されたなど、この掲示板にも出ておりましたので割愛致します。

廃止になった60年生まれの為、四国時代しか44系は見た事がありません。
古雑誌と化している為、号などは御希望があれば後日に追伸します。



投稿者 ED76109
投稿日 2010年 6月 1日(火)23時34分33秒
タイトル トカホセEC急行スタートの年でもあります
 度々お邪魔しております。「ED76109」でございます。

 「クモイ103様」の研発に比較すれば・・・。「貧者の一灯」にも値しませんが、小生も「鉄」勉強の一こまを。

 昭和35年6月1日の「青大将」引退に伴い、「トカホセ昼行急行」にも動きがございました。
それは、日本初の「EC153系」による「急行せっつ」の運転開始であります。
 「ECこだま・つばめ」の補完列車として新たに設定された「ECせっつ」は、「東京・大阪」間を、
従来運転されていた「PCなにわ」よりも、約1時間早い「7時間46分」で走破いたしました。
しかし、このことが「こだま」の登場と併せて、ECの時代の本格的な到来をも象徴していたわけであり、
「客車の衰退」への第一歩と化してしまったことは、先達の皆様方には「釈迦に説法」でございましょう。
 なお、「せっつ」運行当初は、「特別2等車」に使用したリクライニングシートが装備された「2等車」がなかったことから、
従来からの回転クロスシート装備の2等車である「サロ153」が採用されております。
また、同時に先達の皆様方の話題となりました、「80系不定期急行はりま」が、
80系の最長運転区間である「東京・姫路」に運転を開始。
 その後、ECによる急行は、「昭和36年10月改正」に伴い、EC化された「なにわ」、「せっつ」に加え、
「東京・大阪」に「いこま」・「よど」・「やましろ」・「六甲」が新設された結果、
「昼行2往復・夜行1往復」の計3往復から「昼行6往復・夜行3往復」の計9往復へと大幅増となり、
増加する輸送量への対応がなされたのでございます。
 EC急行は、この時から「東京・大阪」をPC時代の特急「つばめ」などと同じ「7時間30分」で走破を開始。
しかし、「下りいこま」は、「大阪・宇野」の「準急鷲羽」との接続を考慮した「7時間25分運転」でありました。
この時、「なにわ」、「せっつ」、「いこま」、「よど」、「やましろ」、「六甲」の6種類のEC急行は、
全て前述しました「153系12両編成」での運転となったことから、
「東海道電車急行6人衆」と後になって呼ばれるようになりました。
この「6人衆」は上下ともに、「六甲」→「やましろ」→「いこま」→「なにわ」→「せっつ」→「よど」の順に
運転されたというユニークな存在でもありました。

 長々と失礼致しました。
以上、小生の「拙宅のローン」と同様の「減らない借金」に、塵労感を強く感じる
「道民球団応援団」の「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 雑魚
投稿日 2010年 6月 2日(水)08時13分18秒
タイトル 国鉄型 キハ 運用
▼マロネロ38様:
> 時々 ひたちなか海浜鉄道のHPに運用が出ているのですがね。

HPに記載があるのは「週末列車」であり、その時に「御披露目」して何ぼと思しき
肝心の国鉄型キハは、通常はなぜか、平日運用に特化している様です。



 
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