倶楽部メモ(577)
平成22年 2月 1日〜 2月 8日




投稿者 高速貨A
投稿日 2010年 2月 1日(月)19時20分47秒
タイトル 厚別〜新札幌など
ED76 109様、雪だるま様
新札幌下車→(徒歩)→厚別乗車の件について、徒歩15〜20分程度で「はまなす」新札幌下車〜「921D」乗車は可能ですが
下記の理由により、私は1回のみで取りやめにしました。
1.時間的余裕がない。
「はまなす」遅延時に対処出来ない。また新札幌到着から厚別乗車まで余裕がない。
2.体力的にきつい。
荷物を抱えて15分〜20分持久走?は、40歳台の私にはキツい。
まして「はまなす」自由席乗車後
(熟睡していないし、青函トンネル通過確認とか函館駅での機関車付替見物などで夜遅くまで起きている)で体力消耗している。

よって、北海道&東日本パスによる本州→旭川移動(道内)は、2回目から下記経路です。
苫小牧下車→追分→新夕張(時間調整で夕張往復)→新得→(気が向けば帯広に立ち寄った後)富良野→(気分次第で滝川経由)旭川
なお富良野の三日月食堂で「醤油ラーメン」を食べてから旭川に向かいます。

 荷物を抱えて15〜20分持久走はキツいと表現しましたが、かつて青函連絡船函館下船〜接続列車自由席確保を目指した
「函館ダッシュ(と私は呼んでいる)」もキツかった。
 しかしながらダッシュ→座席確保成功→函館発車→峠下トンネル通過後の小沼・駒ヶ岳の眺めは格別でした。

最後に14系座席車(簡リク)の感想ですが、今でこそ簡リク=はずれ車両と考えてしまいますが、
私が初めて乗車した時は「車体・室内ともに82系気動車より綺麗だし、ロックしないけどリクライニングする。
ましてや特急車両に乗車券のみで乗車出来る」と感動ものでした。
昭和56年2月、急行「ニセコ」札幌到着後、札幌運転区回送を兼ねて札幌〜手稲を普通列車として運行していた時の出来事です。



投稿者 ユーラシア鉄道
投稿日 2010年 2月 2日(火)01時30分37秒
タイトル 旧客通学・通勤
<雑魚 様>
 こんばんは。旧客通学の投稿に思わず、同じ想い出で思わず投稿
させて頂きます。

 [高校時代]・・・(登校)
 大阪8:00着・キハ58X8連で、うちキロ28X2両は開放
で、毎朝有難いグリーン車通学でした。

 [高校時代]・・・(日曜登校)
 同上列車は、日曜日のみ旧客編成に変わって運転されてました。
おそらく、通勤輸送に急行編成の篠山口への回送を省略していた様
です。

 [高校時代]・・・(平日下校)
 大阪17:52発・福知山行・旧客8連
 最後尾には、いつもオハ35・オハフ33・オハ61や、今は
高崎にいるオハニ36−11などの白熱灯車を、わざわざ選んで
乗っておりました。

 [高校時代]・・・(土曜日下校)
 大阪13:58発・キハ26X4連(キハ17も時たま併結あり)
 4時間授業を終え、駅弁を買って乗るこの楽しさは今だに、忘れ
られません。
 当時は土曜日の出勤は通常の時代でしたので、半ドンで会社帰り
の通勤者も多く、4連の為か、大阪出発時はかなりの満員でした。

 [通勤利用] ・・・(出勤時)
 高校時代同様・キハ58または次の大阪8:23着の旧客の何れ
かを利用してました。
 1986年から旧客はいっせいに12系に変わり、シートピッチ
のゴージャスさや、当時の非電化路線での、夏季の冷房は、本当に
有難かった想い出です。

 [通勤利用] ・・・(帰宅時)
 大阪23:00発三田行が最終列車でした。・キハ26X2連
 今思えば、何と早い最終ダイヤなのかと思いますが、当時はキハ
2連でも、がらがらでした。
 一番多く利用したのは、21:30発福知山行・キハ26X3連
でした。

 のどかな時代でした。
 当時、1時間に1本ヘッドの列車ダイヤなので、車掌さんも親切
で小生は、降りる駅を車掌さんに事前に告げると、眠っていても、
起こしにきてくれました。

 もうこんな長閑な時代はこないでしょう???

 古い写真ですが、白熱灯車の車内写真をみつけました。




投稿者 雑魚
投稿日 2010年 2月 2日(火)15時07分51秒
タイトル 樽見鉄道
▼高速貨A様:
> 青函連絡船函館下船〜接続列車自由席確保を目指した「函館ダッシュ」

我々は「函館マラソン」と称していましたよ(^^)連絡船に乗り込むと、先ず「海峡
ラーメン」を食べ、その後は、函館到着の一時間前まで「ゴロ寝」でスタミナを蓄え、
主に41レ(旧客による山線経由、札幌行の夜行快速)目当てに「バーゲンセール時の
オバタリアン状態」でした(^^)

>「ニセコ」札幌到着後、札幌運転区回送を兼ねて札幌〜手稲を普通列車として運行

その様な「粋なオマケ」があったのですか。そういえば、1987〜88年「出雲 3号」が
出雲市〜知井宮(現西出雲)で、同様に「回送序での普通列車」扱いでしたっけ。

▼ユーラシア鉄道様:
> 毎朝有難いグリーン車通学でした。

何と羨ましい!!! ラッシュ時のG車開放といえば、岡山到着後、そのまま「砂丘」に
化ける吉備線や「のりくら」間合い同士が半田で交換した武豊線の例を思い出します。
最晩年は、スジを途中で分割した上で50系に置換された「あしずり」間合いの土讃線
夜行快速も、高知への通勤・通学需要の一端を多少、担っていた記憶があります。

樽見鉄道では、輸送力の確保を第一義とした14系使用の列車が運転されていましたね。
廃止されたのが、2006年春ですから、途中で交差していた、名鉄の岐阜市内〜揖斐線・
谷汲線の廃止時期より、一年ほど永らえた訳ですね。

樽見鉄道と名鉄揖斐線の交差点付近に駅を持つのは、樽見鉄道の側のみゆえ、以北の
樽見鉄道の利用者が岐阜を志向する場合、名鉄に乗り換える導線が存在したのか否か、
気になりますね。名鉄側にもかつて「八ツ又」という駅があったそうですが、1969年
廃止という事で、岐阜への導線に与する事は、歴史的にも少なかった様に見受けます。



投稿者 雑魚
投稿日 2010年 2月 3日(水)14時31分22秒
タイトル だいせん
拙稿「出雲 3号」に関連した話題ですが、同様に出雲市に発着する「だいせん」では、
1978〜86年と比較的 短期間ながらも 20系が充当され、急行が、全国的に淘汰された
85年春の改正まで、普通列車として大社に直通していました。当時の鉄道誌における
大社線の紹介記事では「普通乗車券のみでブルトレが利用可能」という文言が、間々
散見されたものです。

今なお「健在」である大社駅の思い出として、駅舎の風格もさる事ながら、参拝客用
臨時列車の発着を意識したと思しき二面三線構造や、機回しの都合か、あるいは更に
出雲大社の近くまで路線を延長する意図があったのか、ホームから車止めまで、途中
踏切を擁してまで、線路が暫く続いていた様子、そして駅前の著名な蕎麦屋で頂いた
割子蕎麦が印象に残っていますね。

上記、下り「だいせん」崩れは、大社高校の生徒さんも多々利用された事と思います。
丁度、江角マキコさんが在学されていた頃ですが、大社線を通学に利用されていたか
否かは不明です。その数年前に卒業された竹内まりやさんが主題歌を手掛けたNHK
朝ドラ「だんだん」のOPでは、地元ネタとして一畑電車のCGが登場して、思わず
してやったり、という印象でしたね(主題歌に竹内さんが起用されたのも、出身地の
ゆえかと推察します)

大社線の廃止後も、一畑の大社線は健在で、現地の旅客導線が、とりあえず出雲市の
中心街を志向している可能性を考えると、川跡で乗換えを要し経路も迂回気味となる
一畑側が残ったのは意外でした。もっとも川跡では、松江・出雲市いずれの方面にも
すぐ接続し、使い勝手は良好とか。

同線は現在でも、大晦日かと正月三箇日は、出雲大社参拝客の為に、松江〜大社線で
直通ダイヤを組んでいますが、一畑口駅のスイッチ・バック構造に名残りがある様に、
電鉄の沿革としては「まず一畑薬師ありき」なのですね。

出雲大社の分祀先は、全国に幾つか存在する様ですが、我が地元では水戸線福原駅の
近所にもあります。画像は、その辺りで撮った、水郡線団臨用の高崎12系の回送です。
水戸線でこうした列車が見られるのも、もはや過去の風景となった様ですね。




投稿者 ED76109
投稿日 2010年 2月 3日(水)21時44分31秒
タイトル スジ屋さんのお話
 失礼いたします。「ED76109」でございます。

 全く話題から離れてしまう内容で恐縮ですが、
昨日の「NHK総合『プロフェッショナル・仕事の流儀』」はよかったですねぇ・・・。
御覧になった先達の皆様方もいらっしゃると思われましたが、
「東京メトロ東西線のダイヤ作成」の「スジ屋」さんが主人公でありました。
徹底した現場主義。「問題のある駅」での乗降客の様子を観察して、
実際のダイヤと机上のそれとの違いを肌で感じ取って問題点を改善するとともに、
相互乗り入れの「東葉高速鉄道車両」の運用の不都合を解消するために妥協を廃して、
電留線を活用することで「臨時ダイヤ」の効率化を図る・・・。
乗客のために「1本の電車のダイヤ」を「数十本のダイヤ」を改訂する心意気には、
感動するとともに「プロの仕事人」の姿を感じました。

 長々と失礼致しました。以上、「帝都高速度交通営団」の名前が懐かしい「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 クモイ103
投稿日 2010年 2月 3日(水)23時21分44秒
タイトル Re: スジ屋さんのお話
見ました。まさにスジの通ったプロ魂ですね。
副題「サラリーマンは、スジを通せ」…精神注入棒で打ち据えられた思いです(^^;。



投稿者 蜂屋
投稿日 2010年 2月 4日(木)21時56分9秒
タイトル 雪の旧客レ
今晩は。
先日雪が降ったので雪景色の列車を。

立ち昇るスチーム。 仄暗いホームに差し込む客車の暖かな灯。
木目に包まれた車内。 パキンと小気味良い音を閉てる灰皿。
窓側の足ばかり熱くなる暖房。 曇ったガラスに残された落書き。
カマのアイドリング音だけが聴こえるBOXシート。
発車のホイッスルと軽い衝撃。
無人駅に響く安全確認の声と機廻しの音。 辺りを照らす赤いテールライト。

「汽車」の味わいが好きなオヂサンの呟きです。

上:喜多方 下:熱塩 日中線終列車  1982年2月






投稿者 マロネロ38
投稿日 2010年 2月 6日(土)09時33分23秒
タイトル 雪の旧客について。
日中線はオハフ61ですか?
冬の旧客旅情と言えば、機関車交換駅で機関車が外れるとステイームの温度が下がって
暖房パイプが「パキンパキン,カンカン」と音を立てて‐‐‐‐交代機関車が連結されて
ステイームが通ると、また「パキンパキン----」アノ音がなんとも言えませんでした。
客車中央辺りの座席下の調節弁のリバーからホカホカと蒸気が漏れたり、機関車に近い
客車は暑く後部は寒い等々。
一度金沢から最後部の富山増結車に乗ったら小松辺りまで暖かくなりませんでした。
カレチが「寒かったら前の車に移ってください」と-----でも前がオハフ33で増結が
スハフ42だったので暫く我慢していました。
温暖な瀬戸内沿岸でも今朝は雪がチラチラ舞っています。ED76109先生の所は「雪祭り」
で賑やかでしょう、それにドカ雪予報ですね。



投稿者 外房線
投稿日 2010年 2月 6日(土)20時03分46秒
タイトル はくつる51号に乗りました!
はくつる51号かつ昭和47年の7月下旬という座席客車列車は、
存在していなかった?ようですが。
と言う投稿について。
私は昭和51年の夏休み(当時高校生)寝台車両に乗車するお金がないので、
仕方がなく臨時のはくつる51号(座席のみ)に乗車しました。
上野から野辺地まで乗車し下北半島方面に行きました。(当時の指定席券が存在するので添付します)
当時は寝台専用列車が不足しているというよりも、座席の臨時列車を運用することにより、
利用客の利便性をはかっていたようです。
あけぼの51号(座席のみ)にも乗車しましたよ。




投稿者 ED76109
投稿日 2010年 2月 7日(日)00時03分51秒
タイトル 本日、北の夜行は運休です
 おばんでございます。「ED76109」でございます。

 先達の皆様方、寒いですねぇ・・・。
小生の住む辺りでも「−20℃以下」を2日連続で記録しまして、「遠軽」以来の「−20℃以下」に度肝を抜かれました。
「春は名のみ」であります。

 マロネロ38様
 >ED76109先生の所は「雪祭り」で賑やかでしょう、それにドカ雪予報ですね。

  今年は、「厳冬」の下の開催ですので、「雪像」は最終日まで溶けないでしょう。
 恐らく、原型を留めたままの「雪像」がご堪能いただけると思います。
 小生も「生徒ボランティアの手伝い」で、明日「つどーむ」会場で「竹スキー」の手助けをさせていただきます。
  ところで、本日「日本海側の荒天、大雪」のために「トワイライトEXP」等の夜行列車は軒並み「ウヤ」であります。
 明日の撮影等の先達の皆様方、情報収集の後に行動されたほうが賢明なようです。

 それでは、本日は「冬の鈍行旅」を「戯言」させていただきます。

 1 昭和60年の1月末、道教委への最終意思確認面接のための「札幌行」の途中、
  「東北新幹線」を「一ノ関」で捨てて「仙台からの50系鈍行」に乗車。
  「青森」まで「トホホセ」をのんびり揺られた経験がございます。この日は北風が吹き荒れる吹雪模様。
  幾度と無く旧客レで揺られた「トホホセ」とは言え、
  果たして無事に「青森」までたどり着けるのだろうと気を揉んでいました。
  しかし、「盛岡車掌区」の初老のカレチさんは、一言胸を張って「お客さん、大丈夫。こったら雪では止まらねぇよ。」
  確かに「奥中山の吹雪」にも「野辺地辺りの強風」にも、
  「ED75」はびくともせずに「青森」に定時の「22時半すぎ」に到着。
  しかし、「赤べこ」と呼ばれる「ED75」は、全身粉雪まみれ。
  「真っ白い交流機」を目の当たりにして、小生初めて「北国の冬」の厳しさを体感したのでありました。

 2 上記1の札幌での面接は、わずか「3分(?)」。
  「こりゃ、乗り鉄!」と急いで「札幌」から「DCおおぞら」に乗車して、一路「新得」へ向いました。
  約1時間の待ち合わせの後、「新得」に現れたのは「釧路始発の滝川行旧客レ」。
  当然に最後尾の「スハフ44」に陣取って目指すは「厳冬の狩勝峠」であります。
  「DD51」に牽かれた「旧客レ」は、「日高山脈の北端」を左右にカーヴを切って、ノロノロと峠に挑みました。
  雪を抱いた山脈に広がる「十勝晴れの空」、そして小生一人しかいない「スハフの後尾」から流れる「雪の鉄路」、
  寂しげな「DD51」のホイッスル・・・。今では、味わうことの出来ない「至福の旅」がそこにはありました。

 3 平成6年の1月初旬、「遠軽」から「札幌」で開催される研究会に参加することになりました。
  しかし、いつもの「オホーツク」では面白くないと、小生「釧網本線経由」で「札幌」に向う計画を立てて、
  「遠軽始発の網走行DC」に乗車いたしました。
  当日は、「遠軽」で「−22℃」を記録した寒い日であり、
  「雪」というよりは「氷」で覆われていた「常紋峠」を通過して、一路「北見」へ。
  しかし、「常呂川」も「網走川」も一面の水蒸気が立ちこめてしまい、「濃霧」の中をノロノロ進む羽目に。
  しかし、幻想的な風景に初めて出会い、「オホーツクの冬」に素直に感動致しました。

 長々と失礼致しました。
以上、夫婦揃って「雪祭り」を、一度も「ライブ」で見たことが無い「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 雑魚
投稿日 2010年 2月 7日(日)13時22分47秒
タイトル 1985年 3月の事
▼ED76 109様:
> 明日の撮影等の先達の皆様方、情報収集の後に行動されたほうが賢明なようです。

そろそろ、星カマ「北斗星」を撮り納めて置かねばと、週末毎に強迫観念に駆られる
昨今ですが、御教示を受け、本日は遅くまで「安眠」しておりました(^^)水戸では、
那珂川沿いの低地から日光連山が見えますが、本日は久々に視界が良く、こんな日に
撮影できれば文句無しですけどね。ちなみに「星カマ」「カシオペア機」のどちらが
運用に就くかは、事前に判るものでしょうか?

>「東北新幹線」を「一ノ関」で捨てて「仙台からの50系鈍行」に乗車。

同年三月末、酒田から秋田・盛岡経由で仙台に移動した際、一ノ関以南の普通列車は
完全に電車化されていましたから、50系など、客レが仙台まで南下したのは、直前の
全国白紙大改正までだったのですね。朝夕の白石〜利府を除き、黒磯以北では極端に
電車便が少ない当時の東北線にあって、かかる電車化には感慨を覚えました。

しかし、一ノ関から利用した電車便は、近郊型車両と設計思想が異なる「月光型」を
無理に改造した 715系で、立席だと、窓の高さと水平視線がずれる点、一部トイレが
使えないのに撤去もされず、車内を圧迫していた点など、居住性はあまり宜しからず、
これなら、50系の方が余程、良いと感じたものでした。

この時、酒田→秋田は「日本海 3号」昼寝扱いで、これが初めての寝台車利用でした。
また、酒田への移動では、郡山→新潟で、快速に格下げされたばかりの「あがの」を
利用しましたが、キハ28・58による編成は、急行時代そのままでした。なお、急行の
最晩年は、新潟志向の通勤・通学需要が本格化する五泉〜新潟が快速の扱いで、一方、
仙台直通時代の名残りか、快速として、東北線を藤田まで直通していましたね。

旅の締め括りは、仙台からボンネット「ひたち」でした。当時の上野〜仙台直通便は、
停車駅が、水戸・常陸多賀・日立・泉・湯本・平・富岡・浪江・原ノ町・相馬・亘理・
岩沼と、固定化されていましたっけ。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2010年 2月 8日(月)10時20分6秒
タイトル 12系夜行臨時特急
確かに存在していましたね。
昭和50年の冬に東能代まで帰省した同僚が、「日本海」のハネが取れず、「日本海51号」の
オハ12系で「しんどかった」と言って居ました。(4人向かい合わせ席)と言って居たので
12系ですが、何故大阪‐青森みたいな長距離には14系を使わなかったのか?


               
「客車倶楽部」へ  
夜行列車や旧型客車列車の音や資料を掲載
客車専門サイト「客車列車の旅」はこちらから
掲示板「客車倶楽部」本体へはこちらから
過去ログ「倶楽部メモ」もこちらから