倶楽部メモ(574)
平成22年 1月16日〜 1月22日




投稿者 雑魚
投稿日 2010年 1月16日(土)12時00分41秒
タイトル 新函館駅
▼ED76 109様:
>「雑魚様」が提示された区間以外では、当地の「七飯・大沼」

肝心の例を失念していました(汗)その先の大沼〜森にしても、以前は優等列車全般、
現行「トワイライト〜」「はまなす」同様、下り便は駒ヶ岳、上り便は鹿部を一律に
経由したそうですから、広義の「上下線分離区間」と言えそうですね。

七飯〜大沼において、優等列車の「上り専用区間」にして、普通列車の便数も上下で
大きく異なる態様が珍しい渡島大野駅は、2015年に道内入りする新幹線の新函館駅に
供されますね。その時点でいわゆる「藤城線」は、少なくとも旅客面では存在意義を
失うかも知れず、同時に、新幹線に接続する優等列車が、従来通り、函館駅の発着を
維持するかどうか、気になる処です。

以前、そちらから御紹介を頂いた、新幹線開業後の江差線の処遇に関する、道内紙の
報道に鑑みれば「北斗星」「カシオペア」「トワイライト」「はまなす」の夜行便も、
淘汰される可能性が払拭出来ません。寝台客車の経年数を考えれば、時代の必然とも
言えそうですが、その場合でも、製造されて、まだ十年しか経過していないE26系は、
引続き、有効活用して頂きたいものです。

新函館駅は、函館市域ではなく、北斗市域に所在する為、駅名の命名を巡り、某かの
葛藤の可能性が取り沙汰されている様ですね。国鉄ではかつて、総武線飯岡や北陸線
寺井の様に、所在自治体より、当該駅を玄関口とする主要自治体名を優先する事例が
散見されました。全国に路線網を擁する手前、広域的な需要を考慮した感覚と思われ、
遠距離需要が航空便や高速バスに押され、優等列車が短距離化の傾向にある中、なお
広域性が強い新幹線の性格上、何らかの形で「函館」は冠するべきかと考えます。



投稿者 ホエ7030
投稿日 2010年 1月16日(土)13時55分37秒
タイトル 話題のD51
このところ、事件・事故にかかわったD51が話題になりましたが、
偶然にもこれらのD51を撮っていましたのでご紹介します。
 私は、下山事件は全く記憶にありませんが、松川事件や三鷹事件、桜木町事件などが起きたことは覚えています。
汽車が転覆した、電車がひとりで走り出した、電車が燃えて大勢の人が死んだ、程度の記憶ですが、
幼児だった私が覚えているのですから、ラジオのニュースで繰り返し伝えられていたのだと思います。
 三河島の事故の時は池袋におりましたので、翌朝のニュースを見て日暮里まで行き、現地に行こうとしたのですが、
広範囲に規制線が張られていて近寄れませんでした。
この事故では我が母校の先輩1人も亡くなりましたが、楽しいはずのゴールデンウイークに
多くの犠牲者が出た悲惨な事故でしたので、現場に行けなくて良かったのかも知れません。

D51364(田) S38.2.12 田端機関区 (S39.8.31付廃車)
D51651(平) S36.3.28 水戸機関区



投稿者 マロネロ38
投稿日 2010年 1月16日(土)14時28分24秒
タイトル うやむや事件が多かった。
ED76109先生:
貴地大雪らしいですね。鉄道は満足に動いていますか?市電はササラ電車フル回転で
しょう?
1201レ軍臨の事は聞いたことがあります。「進駐軍が下山総裁を殺した」と噂が流れ
たものでした。
松川事件も全員無罪で結局真犯人不明。三鷹事件も本当にアノ運転士がやっ
たのか?未だに謎で、日航の木星号三原山衝突も実際NWAの飛行機だったし、操縦士もアメ
リカ人、管制塔も進駐軍でうやむや。
(当時父が小さな貿易会社を経営していたので、ロンドンから来た手紙が何通か遭難し、
焼け焦げ封筒に東京中央郵便局長の郵便物破損の詫び状をガリ版印刷した付箋がついたの
を今でも保存しています)
未だに解らないのが石動‐青島町(庄川町と改名)の加越能鉄道車庫が2回共「ストーブ
過熱」火災(表向きの発表)でDC,DL,SLが焼けた事です。特に2回目は有田鉄道から買った
旧国鉄のキハ41000形を焼いており、コレが戦前トルコン試験試用車だった因縁もあり
ました。
(キハ41038→有田キハ205→加越能キハ11055予定)



投稿者 クモイ103
投稿日 2010年 1月16日(土)22時39分32秒
タイトル もう一つ「因縁話」
 一昨日のED76109様の書き込みに対する管理人様のコメントは、簡単に言えば
・事件に関わった車両についての話題 → 可
・事件そのものについての話題 → 好ましくない
…ということですね。
もとより近代史上の重大事件の社会的背景を詮索するような話題は、
下手をするとあらぬ方向に暴走する危険をはらんでいます。
私も気をつけましょう。

 ということで、車両についての因縁話を一つ。
 皆様ご存知の通り、オシ17という形式は戦前製の優等客車からの改造名義で車体を新製したものです。
台枠が再利用されたことになっていますが、一部新製説もあります。

 さて、昭和47年の北陸トンネル列車火災で焼失したオシ17 2018は、車歴上の新製は昭和5年3月、
栄光の1・2等特別急行「富士」に連結された1等寝台車マイネ37130でした。
それも同形式の5両中ただ1両、あの伝説的なシャワー室が設けられたのが、まさにこの車両だったのです。
 昭和10年7月、時の鉄道大臣・内田信也の発案で取り付けられたというシャワー室は、しかし残念ながら利用が少なく、
僅か2ヶ月で取り止められ、結局撤去されてしまいました。
列車で冷房など思いもよらなかった時代、真夏の優等客に汗を洗い流してもらおうという画期的なサービスでしたが、
当時の日本人にはシャワーを浴びるという生活習慣が無く、結果的に時代を先取りし過ぎたものだった様です。
また、4組運用だった「富士」にあって1両のみのため4日に1度しか当たらない事も、不利な要因だったと思われます。

 せっかく設けたシャワーが不発に終わってしまったマイネ37130は、それから37年後、
放水消火もままならない長大トンネルの中で、業火に焼かれて悲惨な最期を遂げることになります。
ここに何か因縁めいたものを感じるのは、私だけでしょうか…

【履歴】
S. 5. 3.30 マイネ37130として新製。
S.10. 7.15 シャワー室使用開始。
S.10. 9.20 同 使用終了。
S.16.10. 1 車両称号規程の改正によりマイネ38 1に改番。
S.30. 7. 1 1等寝台の廃止によりマロネ49 1に格下げ。
S.35. 8.16 オシ17 18に改造。
S.36年度  電気暖房の取り付けによりオシ17 2018となる。
S.47.11. 6 北陸トンネル列車火災事故に遭遇。
S.56. 9.24 廃車。



投稿者 ED76109
投稿日 2010年 1月17日(日)08時17分58秒
タイトル 本日大雪です
 おはようございます。「ED76109」でございます。

 まず、本日石狩管内が大雪(小生自宅付近も60p程度の積雪で外出が困難)であることから、
札幌周辺のJRは1時間半程度の遅延であります。
また、「スーパー北斗」等の特急も遅延が予想されており、
上り「北斗星」及び「トワイライトEXP」も遅延が予想されます。
明日の本州内での撮影・車番確認等の先達の皆様、ご参考まで。

  以上、戯言情報でした。



投稿者 ED76109
投稿日 2010年 1月17日(日)09時11分47秒
タイトル 色々とありますねぇ〜
 連投失礼致します。再び「ED76109」であります。

 ホエ7030様
 >D51364(田) S38.2.12 田端機関区 (S39.8.31付廃車)

 貴重なお写真ありがとうございます。
「防煙板」がひしゃげているばかりか、常磐線のゲタ電と衝突した左側面は完全につぶれており、
衝突時の衝撃の大きさを物語るばかり。
この後、「北オク」の奥まった留置線に証拠物件として、しばらく止められておりました。
しかし、大事故の当該機が一ファンによって自由に撮影できたことが、大らかな時代を示していると小生考えます。
前述したように、小生の両親が前日に常磐線に乗車しており、
翌日の新聞を見て、「鉄」親父はぞっとしたようでした・・・。

 クモイ103様

 >昭和47年の北陸トンネル列車火災で焼失したオシ17 2018

 「北陸トンネル火災事故」の時は、小生は小学校4年生。
ニュース画像を見ながら、「敦賀」から派遣された「救援列車の黒こげの女性客」の姿に大きな衝撃を覚えました。
原因は「食堂車の配線ミスによる加熱」と「マロネロ38様」等が仰っておられますが、この一件に係り、
「オシ17」が「幹線PC急行」から外されてしまったことは先達の皆様方には「釈迦に説法」でありましょう。
しかし、栄光の「富士」の「イネ」が晩年「シ」に改造され、
惨めな最期を辿ることになるとは、誰が想像できたでありましょうか。
まさしく「クモイ103」様の仰るように「因縁」を感じるものであります・・・。

 マロネロ38様

 昨年、「富良野」で発生した「列車衝突事故」は「除雪車の作業員が、快速DCの時刻を全く把握していなかったこと」
が原因との報道がございました。
件の作業員は「快速の進入経路も全く把握していなかった」とのことで、小生呆れ返るばかりであります。
一昨日も、「北広島付近」でレールの老朽を作業員が見逃した結果、「レール破断」で「千歳線」が2時間不通になるなど、
「JR北海道」に「喝」であります。

 長々と失礼致しました。
以上、道路へ降りる通路が「吹きだまりの雪」で、全く家の外へ出ることができない「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 雑魚
投稿日 2010年 1月17日(日)14時16分1秒
タイトル 阪神淡路大震災
事故の話題に関連して、私もひとつ。

早いもので「阪神淡路大震災」から今日で15年なのですね。その日の朝、TV報道で
映し出された、神戸の俯瞰映像に、当時、紛争の最中にあったチェチェンの様子かと
一瞬勘違いしまして、実は神戸での大地震と知った時の衝撃は、今も忘れられません。

鉄道に関しては、東海道線の六甲道駅、阪急の三宮駅や伊丹駅、阪神の石屋川車庫の
損傷が特に目立ちましたが、東海道線では、信越方面から戻って来た「シュプール号」
14系編成が立ち往生していた様子が、妙に印象に残っています。この日は「成人の日」
絡みの週末三連休が明けた朝で「シュプール」帰りの方を含め、気分を一新、仕事や
学校に赴く矢先だったのですね。

東海道・山陽線の不通が解消されるまで、山陰・福知山・加古川・播但・伯備各線で
迂回運転が行われ「九州ブルトレ」でも、同様の措置が採られた様ですね。その結果、
線区によっては、通常運転されない「珍しい被写体」を撮影する機会がありましたが、
当時の鉄道誌では、事が事だけに、かかる臨時便を撮影した投稿は受け付けない旨の
記載があったと記憶します。

2004年に加古川線が電化されたのは、震災時の迂回路としての機能を強化する意図が
あったと聞きますが、同様に、有力な迂回経路だった播但線では、断面の狭い隧道が
隘路となり、寺前以北は非電化の侭。場所柄、姫路都市圏の通勤・通学需要が大きく
一段落する地域なので、平時であれば、特に問題はないのでしょう。

この「部分非電化」もあって、今なお気動車で運用する「はまかぜ」では、2011年に
新型車へ置換する事が決定しました。名車 キハ181系が引退する事への感慨と同時に、
新型投入を必然ならしめる程に、姫路経由で畿内と但馬を結ぶ旅客導線需要は、結構
大きいのかと感じます。考えて見れば、今や余部橋梁を行き来する定期の優等列車は、
この「はまかぜ」のみですしね。それにしても、兵庫県域から鳥取に直通する山陰線
特急が一日一往復とは、寂しくなったものですね。

地震発生が、通勤・通学ラッシュの時間帯よりも早かった為、旅客輸送中の大惨事に
至らなかったのは、せめてもの救いだったのかも知れませんが、犠牲者の九割が居宅
倒壊の際に亡くなった事を考えると、改めて御冥福を祈りつつ、襟を正すばかりです。



投稿者 ユーラシア鉄道
投稿日 2010年 1月17日(日)23時57分33秒
タイトル 阪神淡路大震災
<雑魚様>
 阪神淡路大震災15周年でのコメント誠に有難うございます。

 自身当日、小生は自宅1階で寝ており、2階で寝ていた父上
は、照明器具・タンスの下敷きになり、3ヶ月ほどクラッシュ
症候群になやんでおりました。

 正直「関西に地震はない」とたかをくくっていたことも事実
で、心の準備が無防備だったこと、そして小生は、地震の瞬間
阪神工業地帯のガスタンクの爆発か?よもや国名は伏せますが
わが日本近隣の某国が??ドンミサイルを撃ち込みやがったか
?と考えてしまいました。(表現の荒さはご容赦ください)

 それくらい地震の経験がなかったのです。
(ただし地震の予兆として大阪府北部・猪名川町では6ヶ月位
前より震度1〜2のマグマ熱地下水脈煮沸(能勢地区は地下に
巨大温泉があるといわれています)での揺れが続いてました。

 また地震直後、近所の圧死・ショック死の高齢者を地元病院
に運んであげたとき、病院のホールは多数のけが人で一杯で、
今でも忘れられないのが、死んだ乳児を抱いた若い母親が泣き
じゃくっていた姿、非番の医師、看護師が私服のまま動員され
て懸命の治療行為に当たっていたこと等。
 まさに平和な日常が、一瞬にして変貌した1月17日でした。

 本日、博多博物館でポンペイ展を見学し、1935年の映画
「ポンペイ最後の日」を鑑賞してまいりましたが、栄華を誇っ
たポンペイが一夜にしてヴェスビオス火山噴火で廃墟となった
光景と重ね合わせてしまいました。

 当時の写真を添付します。

<1月24日の福知山線・線路脇の家屋が多数倒壊>
 1月17日から1月24日まで、中山寺付近の架線切断にて不通でした。

 1月17日の急行「だいせん」大阪行き客車列車は、どのあたりで運行を中止し、
乗客・車両はどのように対処したのでしょうか?
 ご存知の方がいらっしゃればご教示願います。
<中山寺駅近くの全壊したマンション>
 斜め45度に倒壊した場合、「階段」はどうなってるのでしょうか?

 この地震でお亡くなりになられた6500余名の方々には、改めてのご冥福をお祈り申し上げ、
不運にも肉親を亡くされた方々には、最大限のご声援を申し上げます。



投稿者 雑魚
投稿日 2010年 1月18日(月)11時18分2秒
タイトル みささ
▼ユーラシア鉄道様:

実際に惨禍を経験された方の言は、やはり重いですね。改めて居住いを正す処です。

地震発生の際、御指摘の「だいせん」は(運転時刻の記憶が曖昧ですが)大阪到着に
備えて、下車支度が慌しくなる頃ですね。当時の福知山線は「迂回列車」に供された
印象が強く、地震後、一週間ほど不通だった事は、存じませんでした。考えて見れば、
並行する阪急伊丹線があの惨状でしたからね。個人的には、不通解消まで三田ないし
宝塚で抑止された可能性を感じますが、復旧後も、一定期間運休したのか、あるいは
平常時と同様に、毎晩運転されたのか、その辺りも気になりますね。

この震災で出鼻を挫かれたのが、僅か一箇月前(94年の師走)に智頭急行開業を以て
設定された「はくと」「スーパーはくと」ですね。三月末までは、姫路折返しとなり、
本来の趣旨である「畿内〜鳥取の都市間連絡」が機能不全。1999年まで存続していた
福知山経由の「エーデル鳥取」が、辛うじて当該需要を網羅した形でしょうか。なお、
上記「はくと」用の キハ181系は、震災後「迂回列車」に充てられたそうです。

智頭急行の開業以前「はくと」「スーパーはくと」の前身に相当する列車を挙げると、
1989年まで運転された「みささ」が挙げられるでしょうか。姫新・因美線を経由した
この気動車急行は、津山以東で、中国勝山発着(津山以西は各駅停車)の「みまさか」
以遠で岡山発着「砂丘」を併結する、いかにも国鉄の気動車急行らしい陣容でしたが、
特に「砂丘」併結区間では、一編成にG車を二両も擁するという、稀有な存在でした。

愛称「みささ」は、倉吉郊外の三朝温泉に由来すると思われますが、鳥取以遠は確か
普通列車扱いで、鳥取界隈の風物を名乗った方が判り易いと感じたものでした。まあ、
運転区間が芸備線のみに限定された後も、米子直通時代の名残りで、松江城の雅称を
冠していた「ちどり」や、天橋立で折返し、出雲市や大社どころか、島根県域にすら
達しなかった「大社」の例を考えれば、まだ判り易いかも知れません。

震災の一年前、山陰に出張があり、時間を捻出して、斐伊川橋梁の袂で山陰線撮影に
興じた事があります。何れも「ブルトレ」仕様だった「出雲」二本や「だいせん」は
素より「やくも」以下、通過する昼行列車の、ほぼ総てが国鉄色で、感無量でしたね。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2010年 1月18日(月)20時54分20秒
タイトル 阪神淡路大震災
どうやって近くの子供広場まで逃げたか記憶も定かではありません。我が家は築5年
なのに半壊、私は頭と足に軽症の損害でした。
当日新幹線は京都ー東京間運転、阪急は終日不通、午後JRはトカホセが大阪→尼崎開通、
阪神は尼崎まで----山陽電鉄は明石以西?福知山線は三田止まりだったかと‐その後
宝塚まで???
翌日阪急神戸本線が梅田‐西宮北口間各駅停車のみ6分毎で復旧‐‐‐‐神戸電鉄と能
瀬電鉄は覚えていません。19日から出社しましたが神埼川鉄橋を過ぎて大阪市内に入る
と「地震」の影響が殆ど見られませんでした。
各鉄道の復旧が長く掛ったのは各位がご存知の通りです。

トカホセが4月1日に復旧した直後に「さくら」が軌道巡回車と衝突事故を起こすし、立花
駅迄市営バスで行き、三ノ宮まで207系に乗車しましたが、六甲道の倒壊した高架線を
無理矢理持ち上げた区間で徐行とぐらぐらと揺れたので怖かったです。

三ノ宮ではそごう百貨店や神戸新聞会館、交通ビルの大破、それに市役所が5階部分
でしたかが押しつぶされているのに声も出ませんでした。

見物ではなく我が家の殆ど全滅した食器類を、「神戸で買つたら商店の売上の応援に
なると」想って出かけ、コーヒー茶碗6人分のセットやその他若干購入して、205系
で帰ったものでした。もう地震と空襲だけは絶対ご免だと想いました。



投稿者 ユーラシア鉄道
投稿日 2010年 1月19日(火)02時56分5秒
タイトル DD51と震災復旧
<雑魚様>
 こんばんは? 夜分遅くに失礼致します。
 いろいろとご見解有難うございます。

 さて、阪神大震災後の復旧生活と、DD51の活躍について申し
上げます。

 小生の自宅は、屋根がガルバリウム鉄板での、屋根の軽量構造で
倒壊はたまたま免れました。
 鬼瓦のある「純和風日本家屋」は川西池田以遠には多く、日本の
気候風土にマッチするも、地震では、瓦の重みが家屋の倒壊に繋が
ることが、地震学・建築学的に実証されました。

 よってこの震災以降、全国的に「壁倍率」という工法で、従来の
「柱」+「胴縁バラ板」のみの工法から、必ず「筋交い」+「構造
用合板」で囲い、躯体を箱状にすることが推奨されています。

 さて本題のDD51の活躍ですが、
 小生自宅のガスの復旧には、1ヶ月かかり(名古屋の東邦ガス様
が復旧支援にきてくれてました・・・・ありがとうございました。)
その間、自衛隊様が野戦用浴場を開設下さり、その入浴の道中での
福知山線は、山陽本線への迂回ルートで頻繁にもDD51のコンテナ
列車、九州・四国行きの寝台列車を、懸命に牽引している姿に心底
惚れ込みました。

 正直、電化前には、当たり前に聴けたホイッスルや補助動輪含め
6軸のジョイント音に、再びかなりしびれました。・・・
 まるで「盲目の恋」のように・・・・・


 記憶では19:00〜23:00の間に下りだけでコンテナ列車
10本、寝台列車5本はあったように思います。

 当時のJR西日本は多数のDD51を擁してましたが、今や風前
の灯火・・・。

 国家全体の交通政策の範疇かも知れませんが、災害復旧を経験者
として思うのは、ディーゼル機関車はいざというときに貴重です。

 電化鉄道は災害に、かなりのもろさを露呈しました。

 JR各社はDD51を減らし続けており、例えば九州には1両も
ございません。筑豊本線・肥薩線・長崎本線・佐世保線のDD51
はもう過去のものです。

<DD51の英姿・武庫川鉄橋の客車列車>
*客車の宝庫は今やロシアしかない*
 ロシア+旧ソ連は、自動連結器のためPUSH−PULLがない
 ということがわかりました。
<冬のエストニア共和国・国境の駅ナルバでの客車増結作業>
 昔、川西池田駅では、昼間利用しない尼崎港線の客車を、大阪行き
定期列車に増結して宮原操車場へ連れ帰っておりました。



投稿者 雑魚
投稿日 2010年 1月19日(火)11時24分14秒
タイトル DD51 vs DE10
▼ユーラシア鉄道様:
> 19:00〜23:00の間に下りだけで コンテナ列車10本、寝台列車 5本はあった

緊急時の動力集中方式の強みについて、どなたか以前、当掲示板で仰っていましたが、
当該震災は正に教訓とすべき事例だったのですね。しかしその後も客レの淘汰は一層
進行した訳で、例えば震災の約一年前に発行された、普通客レ特集のRJ誌別冊では、
函館・東北・奥羽・男鹿・磐越西・山陰・芸備・日豊・筑豊・久大各線での運転例が
紹介されていましたが、これらは結局、2001年秋の筑豊・篠栗線電化に伴う、50系の
運用廃止を以て全廃されたのは、御存知の通りです。

その一年前、廃止直前だった西鉄北九州本線(軌道線)熊西〜折尾の惜別乗車序でに、
筑豊電鉄を消化し、直方から小倉に戻る際、朝夕のみ残っていた筑豊線の50系客レに
乗車する機会がありました。この時の編成内容は定かではありませんが、最晩年には
青地に白帯塗装の侭のスハフ12が連結されるなど、相当 カラフルだった様です(^^)

平日朝の乗車とあって、折尾を出る頃、車内は尋常ならざる混雑振りを呈し、折角の
旅行なのにこれでは興醒めと、黒崎で下車し、後続の「にちりん」に逃避するという
ヘタレ振りでした。今考えると、つくづく勿体無い事をしたものです。

> 筑豊本線・肥薩線・長崎本線・佐世保線のDD51は、もう過去のものです。

これは意外でした。と云う事は、余剰となった寝台車によるイベント列車(長崎線の
旧線でも運転と、実に粋な計らいですね)を牽引しているのは、DE10でしょうか?
重厚なブルトレには、前後対象のDLこそ相応しいと感じるのですが。九州における
DE10といえば「サザンクロス」や水前寺直通「有明」の専用塗装車を思い出します。
後者は、せっかく塗装を「こだま色」に揃えても、電源車代りのスハフ12が、異彩を
放っていましたね(^^)

水戸で身近なDLと言えば、やはり水郡線のDE10ですね。上段画像は、年に一度の
御楽しみ、12系仕立ての団臨ですが、同じ高崎の12系を充てて、06・07年に烏山線で
運転された「山上げ祭り」は、DD51牽引でした。全長20kmの盲挑線で、県都直通も
殆ど無い点から「水郡線の方が優位」と密かに感じていた私としては、些か解せない
措置でしたが(^^)東北線を含む全区間でDLが牽引する事情を踏まえたのですかね。

下段画像は、兄弟分のDE11が、尾久でブルトレを入替える様子です。なお、HMは
本家「出雲」の惜別撮影に行けず終いだった、我が「もどかしさ」の顕現です(^^)








投稿者 雑魚
投稿日 2010年 1月22日(金)17時16分36秒
タイトル 上野駅 レポート
先日、都内に出張して参りました。往路、水戸を八時頃に発つ特急を利用したところ、
上野駅では丁度「カシオペア」「北斗星」の並びが見られ、新型電機への置換を控え、
記念撮影組で結構な盛況振りでした。個人的に「カシガマ」同士の並びは、何となく
物足りないのですが(やはり「北斗星」は赤色機に牽いて頂きたいものです)これは
これで、貴重な記録になるのでしょうね。

帰途は「北陸」の入線シーンを見物。流石に、朝を大きく上回る賑わいでした。生憎、
最終「ひたち」の都合上「能登」は見られず終いでした。金沢と異なり、上野駅では
両者の並びは見られませんが「最後の花道」として粋な計らいが無いものでしょうか。

これに先立ち、上野駅前にある地元ゆかりの居酒屋で、同行の取引先と、一杯飲んで
来ましたが、聞けば近く営業終了との事。盛況だったのは「北陸」「能登」と同様に
名残り需要の側面もあるのでしょうか。何にしても、寂しい話です。

その「能登」が登場する漫画「鉄娘な三姉妹」第二巻、今回も表紙に釣られ購入です。
名作「母を訪ねて三千里」ならぬ「父を訪ねて チャレンジ 20,000km」と形容すべき
物語の是非はともかく(^^)鉄道の考察および描写は流石にしっかりしており、時に
ニヤけ、時に頷きながら、何だかんだと読み耽るのでした(^^)





               
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