倶楽部メモ(548)
平成21年 8月18日〜 8月21日



投稿者 マロネロ38
投稿日 2009年 8月18日(火)14時01分32秒
タイトル 関釜連絡船と景福丸
クモイ103様:
運用はお説の通りだったかも知れませんね。客車列車写真館の鉄道連絡船特集にある
戦後撮影した拙作の「徳壽丸」(下関)と「興安丸」(神戸三菱ドック)を見て
下さっても、「徳壽丸」クラスの貨物積載トン数は知れています。「興安丸」は
船体も3倍ほどありますし、第一,第ニハッチも相当積めそうです。

資料を書くと複雑になりますが、船舶の積載貨物トン数は普通貨物が「容積トン」
で40cft=1ton計算でしたが、鉄道省も「容積トン」計算??

それから「新羅丸」3102G/T,16.0Knが残っていたはずですが,これなど貨物船
に改造されていたのでしょうか?(1945年5月)触雷沈没。

ED76109先生:
ご教示有難う御座います。矢張り「鉄道弘済会」の経営でしたか。



投稿者 クモイ103
投稿日 2009年 8月18日(火)21時43分56秒
タイトル Re: 関釜連絡船と景福丸
マロネロ38様

 手持ちの資料は「鉄道連絡船100年の航跡」(古川達郎著・成山堂書店刊)で、
巻末の付表に各連絡船新造時の主要目が示されており、
「載貨量」のトン数がありますが、「容積トン」かどうかは説明がありません。
ちなみに関釜航路の主な船のデータは下記の通りです(総トン数は小数以下四捨五入しています)。

・初代壱岐丸/対馬丸(明治38年就航)
  … 総トン数1681/1678トン、旅客定員317人、載貨量300トン
・高麗丸/新羅丸(大正2年就航)
  … 総トン数3029/3021トン、旅客定員603人、載貨量930トン
・景福丸/徳寿丸/昌慶丸(大正11/11/12年就航)
  … 総トン数3620トン、旅客定員949/945/945人、載貨量430トン
・金剛丸/興安丸(昭和11/12年就航)
  … 総トン数7082/7080トン、旅客定員1746人、載貨量3170/3174トン
・二代目壱岐丸/対馬丸(昭和15/16年就航)
  … 総トン数3519/3516トン、旅客定員なし、載貨量4617トン
・天山丸/崑崙丸(昭和17/18年就航)
  … 総トン数7907/7908トン、旅客定員2048/2050人、載貨量2223トン

 新羅丸は、姉妹船の高麗丸と共に大正時代の大半を通じて関釜航路の主力でしたが、
景福丸級が登場した大正12年からは、定期貨物便に運用されるようになりました。
昭和6年、高麗丸は稚泊航路に転属しましたが、新羅丸は関釜に残って、
昭和10年、お説の通り貨物船に改造されたということです。
 その後昭和17年に青函航路へ派遣され、20年に関釜航路へ戻る回航の途中、
目的地を目の前にした関門海峡東口・部崎(へざき)沖で、米軍機の投下した機雷に触れて沈没、
32年の生涯を閉じたのでした。


 景福丸ホテルの存在は、当時仕事で函館に行く機会の多かった父から聞いていました。
 青函トンネル開通後に訪れた函館駅前、いかにも最近出来た感じの土産物を扱う大型店舗の名前が
「けいふく」となっていてニンマリ。
試しに若い女性の店員に「店名の由来を知っていますか」と訊いたけれど、やっぱり知りませんでした。
まあしょうがないのでしょうか…



投稿者 クモイ103
投稿日 2009年 8月19日(水)00時20分6秒
タイトル Re: マイテ展望車
ユーラシア鉄道様

マイテとTR73の件にレスを頂いていたのに、ご返事が遅れて失礼しました。
大宮のマイテ39は幸い気軽に見に行ける環境にありますが、西日本のマイテ49は遠いです。
一度は三軸台車の乗り心地を体験してみたいですね。

> いまやマイテ492のパートナーは山口線の
> 12系改造レトロシリーズのみとなりました。

…大井川鉄道に入線できればいろいろパートナーが得られる…なんて妄想をしてしまいました(笑)

そもそも一般的な二軸ボギー以外の軸配置を持った車両に乗車する機会は、そう多くありません。
私の乗車体験で今思い出せるのは、国鉄予土線で乗った「清流しまんと号」のトラ、銚子電鉄の「澪つくし号」… 
単車ばっかりじゃん(爆)



投稿者 マロネロ38
投稿日 2009年 8月19日(水)17時31分24秒
タイトル 3軸連接車
クモイ103様
1970年にロスアンジエルス駅でSanta Feの客車で「3軸(TR71タイプ)の連接車」を
撮影しました。生憎乗車の機会が無く乗れたのは当時のBurlington Norternの
プルマン1等パーラーカーでこれは2軸車でした。(Portland→Seattle)
アメリカは案外古い物が残っている国なので、Amtruckになっても,旧Santa Feの路線
に3軸車が残って居るかも知れません。



投稿者 竹中@ノーブルジョーカー
投稿日 2009年 8月19日(水)22時53分48秒
タイトル 関釜連絡船
クモイ103様、マロネロ38様
「汎交通」(日本交通協会)昭和57年9月号から翌8月号に「思い出の連絡船」という記事が連載されてい
ます。
ここではダイヤについての記述はありませんが、金剛丸・興安丸が関釜間を7時間で結ぶために速力21節
を出せる高速船であったこと。その足の速さに海軍が目をつけ、空母に改造できる構造であったこと(鉄
道連絡船は石炭焚きであったのに対して空母は重油焚きであった)、意図に反し(?)空母に改造されな
かったのは貨客の輸送を求めていた陸軍が同意しなかったからなど興味深い内容が盛り沢山です。
また、鉄道連絡船は時刻通りに運行することから、貨物の積みつけに充分な時間がとれず、船倉の能力を
下回る運行が日常的であったことから、夜行専用とすることにより充分な時間がとれるようになったそう
です。
なお、一番大きな船倉は機関車が積める寸法だったとか。
投稿者のホームページ



投稿者 クモイ103
投稿日 2009年 8月19日(水)23時40分42秒
タイトル Re: 関釜連絡船
竹中@ノーブルジョーカー様
 補足ありがとうございます。
 海軍の要求で空母への改造準備工事がなされたものの、陸軍の反対で実際には改造を免れたという話、
「鉄道連絡船100年の航跡」にもコラム扱いで載っていました。
鉄道連絡船はそれぞれの時代における最先端の優秀船でしたから、
国鉄以外の諸事情が入って翻弄される場面もあったようですね。
 「船倉の能力を下回る運行が日常的であった」とのお話しは、初めて伺いました。
 「汎交通」の連載記事、いつか鉄博で見てみたいと思います。



投稿者 ED76109
投稿日 2009年 8月19日(水)23時49分27秒
タイトル つまらない質問なのですが・・・
 おばんでございます。「ED76109」であります。

 関釜連絡船の話題の中、大変申し訳ないのですが、先達の皆様方に質問がございます。
 今回、小生の乗り鉄の際に気付いたのですが、列車交換の際は
「先着後発(先に到着した列車は、対向の列車が発車した後に発車する)」のルールに基づいていたはずでありました。
しかし、「根室本線」でも「石北本線」でも「先着後発」ではなく、待機していた対向列車が先に出発。
CTC等の活用によって「先着後発」のルールが消滅したのでしょうか。
単純なのですが、先達の皆様からの御教示があれば幸いであります。

 以上、「インフルエンザ」という見えない敵に苦闘する「道民球団応援団」の「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2009年 8月20日(木)11時58分22秒
タイトル 陸海軍の対立
これは有名な話ですね。
日本郵船の「新田丸」、「八幡丸」は最初から空母予定で重油ボイラー(海軍式)
建造中空母化は「春日丸」。
それにもう一回り大きい「出雲丸」、「橿原丸」は全くの空母予定構造だった事が
有名です。2船とも建造中空母化。
連絡船は「石炭ボイラー」だったから改造に手間が掛る面もあったのでしょう。
それにしても「ごり押しの陸軍」が連絡船を結果として助けたのは皮肉な結果ですが。



投稿者 雑魚
投稿日 2009年 8月20日(木)12時18分35秒
タイトル 道東四方山話
▼ED76 109様:
>「旭川紋別道」の建設が進行しておりました。

旭川愛別道路、愛別上川道路、上川上越道路、上越白滝道路、白滝丸瀬布道路……と、
石北線沿線では、高速道に準じる高規格道路が、断続的に整備されていますね(将来、
一体的な有料道路として再編されるのでしょうか?)興味深いのは、上川〜留辺蘂で、
層雲峡を経由する国道39号線と経路が大きく異なる点で、これは、紋別を意識しての
措置という事でしょうか。

バイパスの整備具合から、上記高規格道路は、遠軽以東も以西同様、国道 333号線を
踏襲すると見受けられますが、常紋峠を隔てた特急停車駅・留辺蕊は蚊帳の外となり、
北見界隈では比較的、交通の要衝と目された同地の、今後の推移が注目されます。

上記国道が経由する佐呂間町若佐地区では三年前、大規模な竜巻事故がありましたね。
その南には、渡良瀬遊水地の建設に伴い強制廃村された栃木県谷中村からの入植者に
由来した「栃木地区」がありますが、結局、定住には至らなかった様です。

途中駅廃止で駅間距離が30km強となった上川〜上白滝ですが、この峠区間開通を以て
石北線が全通したのは1932年。それ以前は、1911年に野付牛(現北見)翌年、網走に
到達した旧池北線が「網走本線」とされましたが、1921年に名寄線が全通して以降は、
優等列車は、こちらを経由した様です。直後に開設された稚泊航路と接続する宗谷線
優等列車の運転体系に組み込む発想ではないか、などと想像しています。

池田と名寄、何れを経由するにせよ、石勝線や湧網線すら未開通だった時代、現在の
石北線に比べれば、相当の迂回経路となり(遠軽駅でのスイッチ・バックは、かかる
鉄道網が形成された経緯を如実に反映したものと言えますね)19世紀から設置された
網走「番外地」の感覚たるや、正に「地の果て」「陸の孤島」の趣だった事でしょう。

1953年に全通した湧網線では、1970年代、網走を発つ最終列車が、先発した石北線の
夜行急行に、遠軽で接続した逸話が有名でしたが、一面に珊瑚草が咲く原野を、単行
キハが行く様子も、今は過去の情景となりました。学生時代に訪れた中湧別駅北方の
堂々たる「三方向分岐点」の「栄華振り」も「諸行無常の響きあり」ですね。



投稿者 ED76109
投稿日 2009年 8月20日(木)23時42分20秒
タイトル ガラガラだった「道内DC特急」
 失礼致します。「ED76109」であります。

 雑魚様
 >常紋峠を隔てた特急停車駅・留辺蕊は蚊帳の外

 小生が今回「留辺蘂」から利用した「オホーツク8号(18D)」は、帰省ラッシュの翌日とは言え、
「ハザ」は「自由席50%・指定席30%」、「ロザ」は「2名」のみでありました。
まさしく、「ガラガラ」であります。
以前から、雑魚様が御指摘のように「高規格道路」が整備され始めており、
「都市間バス」の充実等・「石北本線高速化」の遅れと相まって「オホーツク」は苦戦しております。
しかし、今回の「乗り鉄」でこの傾向が「スーパー宗谷」及び「スーパーおおぞら」にも散見され始めている感であります。
8月中旬の時期であれば大抵50〜60%の指定席利用率と、小生は考えていたのですが・・・。
「稚内」からの「スーパー宗谷4号(2034D)」にせよ、「釧路」からの「スーパーおおぞら14号(4014D)」にせよ、
「ハザ」は20%程度の乗車率。
う〜ん、沿線人口の減少が最大の原因とは言え、あまり芳しくはない現状が気にかかりました。

 >学生時代に訪れた中湧別駅北方の堂々たる「三方向分岐点」の「栄華振り」も「諸行無常の響きあり」

 前述の「オホーツク」には、「留辺蘂」から「5人」、「遠軽」から「13人」の乗車があったのみ。
昭和48年の早春に「鉄」親父と利用した「釧路発札幌行(釧網本線経由)」の「DC急行大雪4号(604D)」は、
「遠軽」で8両編成の約4割程度の乗客が乗降した記憶があり、
まさしく「鉄道が地域の生命線」であったという印象が残っております。
小生が「遠軽」に在していた当時(平成7年ころ)よりも過疎化が進行しており、
街の灯りの薄暗さと相まって、淋しさばかりが募った旅でありました。

 長々と失礼致しました。以上、「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2009年 8月21日(金)08時56分11秒
タイトル ミキ300-103
雑魚様:
ひたちなか海浜のミキ300-103が8月30日から営業に出るそうです。
社長さんは「お盆過ぎ」と言って居られましたが少し遅れましたね。

あれ割と冷房が効きますし295PSだから引出しも速いですから,一度乗車して
見てください。アメリカの保険会社のCMにミキ300-103を使ってほしいですね。
いまは222だけれど--------(地井武雄が出ているCM)



投稿者 雑魚
投稿日 2009年 8月21日(金)09時18分42秒
タイトル 更に道東四方山話
▼ED76 109:
> 沿線人口の減少が最大の原因とは言え、あまり芳しくはない現状

JRの電化区間から外れた道内で人口が十万を超える自治体は、帯広・釧路・北見の
三市のみですが、何れも20万未満。夫々を擁する十勝・釧路・網走各支庁の総人口は、
旭川市単独と同等か、それ以下。そして、宗谷・根室・日高・檜山・留萌に至っては、
支庁全体で十万未満という状況ですからねぇ。

道東・道北では特に、一定規模の人口が限られた「点」に集中する傾向が顕著ですが、
かかる街と道都を結ぶ特急の存在意義が、並行する高速バスに脅かされつつある昨今、
数十年後のJR北海道の路線網は………などと、あれこれ考えてしまいます。

> この傾向が「スーパー宗谷」及び「スーパーおおぞら」にも散見され始めている

日高山脈越えの区間が開通すれば「おおぞら」にとって大きな脅威であろう道東道は、
現在、終点付近で本別と足寄、二股に分かれますね。前者は最終的に、北見に達する
北海道横断自動車道「黒松内北見線」を形成するとの事です。旧池北線の前身である
網走本線のステイタスが、思わぬ形で復活する印象ですが、そうなると遠軽以東でも
バイパス整備が行われている遠軽国道との整合性は、どの様な事になるのでしょうか。

斯様に考えると、札幌〜釧路・網走を、14系夜行「まりも」「大雪」で度々往来した
学生時代が、物凄く遠い過去の話に思えて来ます。


 
 
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