倶楽部メモ(510)
平成21年 4月12日~ 4月13日



投稿者 尼港線
投稿日 2009年 4月12日(日)10時35分49秒
タイトル Re: 尼港線のジハ
> マロネロ38様
多忙な日々が続いており、お返事が遅くなり、申し訳ございません。
世間的には、今、一番こき使われている「新幹線世代」に属しておりまして…

さて、郷土史家様の「ジハが運転されていた」とのお話は、戦後のことでしたか!
若輩者ゆえ、小生、てっきり大正末期のお話かと思い込んでおりました。汗顔の至りです。

大正14(1925)年頃に「蒸気動車」が尼崎港線で使用されていたことは、日本旅行文化協会編纂の「汽車時間表」
(5月号が1000号となる、現在のJTB時刻表の第1号)からうかがえます。
それによると、池田(現・川西池田)〜尼ヶ崎(のちの尼崎港)×2往復〜神崎(現・尼崎)〜三田〜尼ヶ崎〜池田
という運用で、「汽」という記号がついた列車があり、時代的にガソリンカーやディーゼルカーではありえないので、
「蒸気動車」と推測できる次第。

戦争中の車両・燃料不足で、休車になっていた蒸気動車も復元整備されて使われたとの話は聞きますので、
尼崎港線を走ったのもその類ではないでしょうか(鷹取工場で修理されたというお話とも符合します)。
ただ、手許にはそれを確認できる資料はありません。
お騒がせして、申し訳ございませんでした。

せめてもの罪滅ぼし?として、尼崎港線の蒸気動車を描いた、神崎駅弁の掛け紙の画像をみつけましたので、
ご紹介しておきます。
「鉄道模型のジオラマ」↓
http://www001.upp.so-net.ne.jp/takao/
というサイトの目次にある「鉄道歳時記」というコンテンツの中の「昔の駅弁」の中、一番右上にあります。



投稿者 尼港線
投稿日 2009年 4月12日(日)10時40分43秒
タイトル Re: 尼港線のジハ(追記)
書き漏らした点の補足です。
「汽」という記号は、欄外に注釈があり「汽ハ汽動車 三等ノミ」(原文ママ)となっております。



投稿者 雑魚
投稿日 2009年 4月12日(日)13時06分43秒
タイトル 直江津駅
▼滉淬様:
> 夜間に新潟以北の距離を座席車にさせて特急を名乗らせるのは現実味がない意見

その意図する処が「サンライズ」交直両用型の開発か、種別を格下げしての座席化か、
はたまた仙台や秋田の波動用 583系を動員するのか、良く判りませんが、昨年の夏に
廃止された「まりも」よろしく 485系電車にB寝台客車を組み込む様な手法であれば、
それほど突飛な話ではなさそうにも感じます。

なお、寝台夜行便が座席のみの編成に移行した定期列車を挙げると「八甲田」「津軽」
そして「妙高」「能登」など、探せば結構ある様ですね。

▼プルマン様:
> 残り少ないブルトレが奇跡的に出会い束の間の慰め合いをしているようです。

長岡ほどの要衝性は失われましたが、1984年に保育社から刊行された「国鉄の車両/
北陸・高山線」で、深夜から明け方にかけて、夜行列車が次々に発着する直江津駅の
様子が紹介され、正にプルマン様が仰った世界に通じる雰囲気であった事と思います。

昨年、下り「能登」を直江津で降りた際、上野を先発した筈の「北陸」が続行で到着、
運転停車し、日が最も長い六月中旬だった事が幸いして、この様な場面が撮れました。
もう数分、ズレていれば、上り「日本海」も拝めたのですけどね(^^)なお、この時、
直江津駅の改札は意外や「無人開放」状態でした。車内検札が徹底される夜行便のみ
発着する時間帯という事で、特に問題にならなかったのかも知れません。




投稿者 雑魚
投稿日 2009年 4月12日(日)14時34分13秒
タイトル 「鉄」 な店
▼ED76 109様:
> 今年の「RF」に「『鉄』的なお店紹介特集」があり、

四月号で紹介された、居酒屋「キハ」ですね。相当「鉄分」を取り入れた作風ですが、
カップ酒・缶詰を主とする内容に鑑みて、風適法に定義される範疇ではなさそうです。
飲兵衛の立場から申せば、温かい、あるいは新鮮な肴が欲しい処ですが「鉄仲間同士
交流の場」と考えれば、最高の環境かも知れませんね(^^)

> 同様の「鉄道模型レイアウト」が大広間にある「旅館」が紹介されておりました。

修善寺の「花月園」の事ですかね。N、HO共にレイアウトが充実しており、週末は
模型持参の「鉄」なオジサマ方で大盛況との由、TV番組で紹介されていましたっけ。
同様の独自戦略として、ラジコン・カーを介したペンションも紹介されていた様です。

私自身は、模型に関しては全くの門外漢ですが、架線柱を含む電柱などの構造物にも、
リアリティーの更なる追求があって然るべきかと感じております。例えば、この画像、
ここならではの形態の架線柱ですが、どこの路線か御判りでしょうか?




投稿者 マロネロ38
投稿日 2009年 4月12日(日)14時57分4秒
タイトル ジハと網干事故
尼港線様:
ご教示有難う御座います。(汽)は確かに「ジハ」です。戦後と言っても私が尼港線
乗鉄し出してから(昭和22年秋)見ていませんので、戦争末期か21年頃?迄かと
想います。故亀井一男さんが昭和24年に姫路機関区で撮影された「播丹鉄道」のジハ
はいずれ管理人さんに送って掲載お願いする事にします。(もうボロボロ車ですが)
ED76109先生:
スロ346がぺしゃんこにされた116レと追突の8レですが、調べてみると当時としては
無理な?一種の過密ダイヤだった様ですね。
116レが下関6.20-柳井経由-岡山16.28-万富から区間快速になって、有年,那波
(相生)、網干17.47-姫路18.09着18.14発-明石18.46-兵庫19.05-神戸19.10-
大阪19.45着19.50発-京都20.27止。

8レが下関9.25-岡山16.55(116レと27分差)-姫路18.17着18.22発-神戸19.19-
大阪19.55着20.01発-京都20.39着-東京7.30

姫路では3分差で8レ到着より早発で、京都へ12分差で逃げ切りの当時としては曲芸
のスジでした。116レが網干に延着(霧とか)停車中に8レがこれも延着運転中で
3現示時代に回復運転に集中して「橙」を無視した速度超過で網干に突っ込んだもの
と想います。8レは当時下関-京都間にオイテ(木造展望車)を連結しており、呉線
経由だったので、海軍高官でも乗車していて回復運転を迫られていたのか?ですが
当時は軍部の事は報道管制でしたので解りません。
7-8レは洋食堂車付きの各等急行で関釜連絡船を介して「のぞみ」に連絡の急行
でしたが、表定速度は余り速くなかったみたいでした。(7レを舞子駅で度々見たが)
姫路-神戸:116レ54分(明石,兵庫停車)、8レ54分(ノンストップ)、三ノ宮-大阪
116レ28分,8レ30分、大阪-京都116レ37分、8レ38分。
上記を見ても8レの鈍足が解る一方、116レがギリギリの逃げ切りだった事も悲劇の
原因でしょう。昭和15年10月改正では宇野からの不定期列車も入って居るし、
当時としては「過密」気味だった様です。
姫路到着が9分差なれば「網干」の中線に116レを入れて8レを先に行かせて追いかける
スジなれば大事故も避けられたか----は素人考えですが。



投稿者 プルマン
投稿日 2009年 4月12日(日)16時27分13秒
タイトル ブルトレに乗りたい
ED76109様:
日本海縦貫寝台を15回御利用とは驚きました。
私とは比べ物にならず利用しょうなどと生意気なことを言いました。
トワイライト、10年前に一度乗りましたが、JR西が手持ちの定期用の寝台客車を一掃した今、
残るトワイライトも永くないでしょうか…
雑魚様:

北陸の画像は感動しました。
深いブルーは朝の始まりを静かに告げる使者のようです。早起きは三文の徳といいますが正にそうです。
鉄道の歴史にはあまり詳しくなく、ただ好きな列車を見ることと模型という子供のような感性しかなく、
鉄道を論じるこの場には相応しくないかもしれませんがご容赦下さい。



投稿者 ED76109
投稿日 2009年 4月12日(日)16時57分56秒
タイトル 「鉄」雑感あれこれ パート2
 連投失礼致します。「ED76109」でございます。

 マロネロ38様
 >「3セクの優等生」

 件の「女性カレチ」氏も含めてということでありますね。
「関西・山陰」を中距離かつダイレクトで直通し、現代の鉄道の理想的な姿が「智頭鉄道」にはあると考えております。
 小生が乗車した「上りスーパーはくと」も「鳥取」からほぼ満員。
金曜日の夕刻便であったことから、「ビジネス客」中心だったのでありましょう。
これからも「都市間輸送」に徹した益々の発展を心から祈念致します。

 >無理な?一種の過密ダイヤだった

 小生の勝手な素人考えでありますが、「姫路」で「116レ」を待避させて「8レ」の発車数分後の発車であれば・・・
と考えてしまいます。
当時は、「ATS」もなく「ダイヤ」の回復に第一義があったのであれば、「宇野」からの不定期列車の件と併せて、
件の大事故は起こるべくして起きたと言わざるを得ないと推察いたします。
 直接、この話とは結びつけられませんが、以前「出水」の叔母宅の近くにあった「折口」が、
「鹿児島本線」単線区間の交換駅として位置づけられていたようです。
何回か「旧客鈍行」で列車待避を経験しましたが、「CTC」が操作しているとは言っても、
いつも「1~2分程度の差」で猛スピードの「EC有明」とすれ違い。
幼な心に正直「恐怖感」を感じた記憶がございます。他言は不要ですが、
「福知山線」の一件と併せ、何事にも「余裕」が必要であるとの教訓でありましょう。


 雑魚様
 >どこの路線か御判りでしょうか?

 ずばり、「湖西線」ではないでしょうか。
この一定の距離をおいて金属性の電線柱が建っているのは、「近江今津・大津京」のはずであります。
小生、上り「トワイライト」や「日本海」で目にしており、小生のご贔屓である「谷村新司」さんを聞きながら、
終着「大阪」を目指しての心地良い走りを楽しんでいる区間であります。
「琵琶湖」と併せてこの風景を眺めると、また「8002レ」に乗りたいという衝動に駆られてなりませぬ・・・。

 長々と失礼致しました。以上、「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 ED76109
投稿日 2009年 4月12日(日)20時21分2秒
タイトル 3連投失礼します
 3連投、本当に失礼致します。「ED76109」でございます。

 プルマン様
 >残るトワイライトも永くないでしょうか…

 前述の「江差線」の一件がありますので、あまり楽観視は・・・と思われます。
ぜひ、「プルマン」様も「ブルトレ」の旅を楽しもうではありませんか。

 小生、産は東京なのですが、鹿児島の「出水」に「鉄」親父の叔母が在していたことから
「はやぶさ」、「桜島」に幼い頃から親んでおりました。
 また、25年前に「高校教諭」として「北の大地」に赴任したことから、帰省に「北斗星」や「エルム」を度々利用。
 さらに平成10年から6年間、「広島」の教科書会社の「アドバイザー」を引き受けていたことから、
「トワイライト」、「日本海」と「山陽新幹線」で「広島」へ。
帰路はそのまま「はやぶさ」、「富士」、「さくら」と「東北新幹線乗り継ぎ」で「札幌」へと
「ブルトレ」三昧に明け暮れていたのでございます。
ですから、過去の「悪行」が祟ったのか、今回の「はやぶさ・富士」には乗れずじまいでありました・・・。

 度々失礼致しました。



投稿者 赤まんと
投稿日 2009年 4月12日(日)22時12分19秒
タイトル 極めて貴重な記録ですね。
プルマン様初めまして。
90年代後半からひたすらブルトレ編成記録をライフワークにする、赤まんとです。
A個室投入初日の「日本海」の記録、興味深く拝見しました。
6、7号車に当日入ったオハネ25 203と169は検査期限切れのため、
転属10ヶ月という短さであっけなく廃車となった車両です。
私は昨年までずっと東京で生活していたため、「日本海」は大阪在住の友人がたまに送ってくれる記録のみが頼りです。
当時送られてきた記録にはたまたまこれら2両は編成から外れており、
私が調査した「銀河」にも運用の姿をついぞ見ぬままでした。
さらに、2号車には本来オハネのところ、オハネフが入っており、大変貴重と思います。
「瀬戸」廃止のあと、下関配置の24系の宮原転属は置き換え当日から翌日の日付で行われており、
最終下り編成は高松着後、日中早々宮原に回送されたことが「鉄道ファン」等に載りました。
したがって、7月から順次「日本海」「銀河」に使われたはずです。
当時、「瀬戸」最終を押さえて以来、9月まで就職活動等でなかなか編成記録に出かけられず、
2ヶ月ぶり、9/5の上り「銀河」を押さえて、編成中に2両、元下関車を見つけ、たいそう驚いた記憶があります。
13年2ヶ月で3937本のストックがあり、友人からの協力分も合わせると4489本。
今後、情報交換ができるかもわかりません。
私もNゲージを趣味としています。
また、2001年からはできうる限り、検査表記もメモするようにしてきたので、
使用列車により、ある程度の全検周期の推測が立つようになりました。
かように、相当ディープなことをしておりますので、編成記録を取られている方には心強さを覚えます。
残り少なくなったいま、俄然、客車に注目が集まるようになりましたが、年配のファンの方々が定年退職し、
自由に趣味に打ち込める状況下、今後編成記録にももう少し注目が集まらないかと願うばかりです。



投稿者 プルマン
投稿日 2009年 4月12日(日)23時55分14秒
タイトル 女性カレチ分析
新潟でも女性カレチが増えました。
DRIVERと記されたネ―ムプートを胸元につけた女性運転士は平成17年か出現しました。
新潟ではスレンダーで背の高い乗員をよく見かけます。
乗務に差し障りはないのか制帽にかなり長いポニーテ―ルのカレチも見かけます。
首都圏のようにマスクはしません。
ノリが大切なようです。
新潟の女子高生はスカートの丈が短いことで地元ニュ―スで取り上げる程問題視され、
彼女らがカレチと化した姿が現在の有り様のようです。
しかしながら優秀で突発的な乗り換えの質問もどれが得かわかりやすく、
アナウウンスもテレビやラジオのナレーションのように女性の声は聞きやすく、運転も停止は静かでした。
左右の脳を効率良く使えるという女性ならではの情報処理能力なのでしょうか。
しかし新潟駅緑の窓口でEF55ゆとりの切符が取りにくいときはペン回しを披露するなどキレ気味ででした。
彼女が後には車掌、運転士となるのでしょうか。
キラキラうえつでは女性カレチが担当。制服は赤であたかもアニメや漫画の世界です。
最終銀河の日ですが敦賀駅、日本海のカマ交換でも連日ヘルメットの女性でした。
専属なのでしょうか?
女性蔑視ではないですがベベテラン、老舗きたぐにの運転台に女性が座ってほしくありません。
運転台は男の憧れ。相撲の土俵が女人禁制のように、虚しいですが思うのです。
しかし鉄道界が明るく和やかになったのは確かのようです。女性カレチもチェックなら今すぐ新潟にレッツゴーです!
時代遅れな愚かなプルマン野郎でした。



投稿者 プルマン
投稿日 2009年 4月13日(月)01時15分39秒
タイトル ありがとうございます
連投失礼します。
投稿順序を間違いました。
お礼が遅れ済みません。
ED76109様:かなりの乗車歴で脱帽します。
寝台列車の運用資金に一役買うほどの素晴らしさです。
かなりの出会いとドラマがあったのではないでしょうか?
寝台列車に乗る間は新幹線、JR新系列の車両は眠ってます。
まさに国鉄時代にタイムスリップ。
かなりの人々と夜を過ごし、20系と共に働いた嘗ての栄光がこの空間、この時間にあるのです。
その時ED76109様はどんな気持ちでどう過ごしどんな思い出が蘇るのでしょうか?
寝台列車の旅を時代が許す限り、、これからもご一緒に楽しみましょう。

赤まんと様:
初めまして。
物凄い情報でした。すぐ文章を保存させて頂きました。
検査表記はHOゲ―ジの再現で必要です。
検査表記は日本海A初は2両確認済みですが、
他、ご存知なら御教示ください。
私は銀河、富士・はやぶさに、関西九州間ブルトレには乗車できませんでしたが、
最終瀬戸下り、最終はくつる上下、最終日本海函館行き、最終宮原日本海の上下、日本海単独初列車上下、
最終あさかぜ上下、単独最終富士上り、富士・はやぶさ初列車など乗車して
車内設備と編成の詳細を出来る限り記録してきました。
東京口は書籍などで周知されていいることでしょう。
それ以外、赤まんと様の記録の穴を埋められるなら、埋もれた10年余りが生きる光栄なことです。
本数は少ないですが公表してみます。
本日はありがとうございました。



投稿者 STARFLYER
投稿日 2009年 4月13日(月)08時36分43秒
タイトル 編成確認について
>赤まんと様

 お返事が遅くなりました。

 私の場合は東京6、上野4の割合でした。
 東京6といっても最後は「富士はやぶさ」のみでしたが・・・
 3月の改正後は上野駅のみとなってしまいましたね。

 現在、メインで編成を記録している列車は「北斗星」ですが、
 時間が合えば「あけぼの」「北陸」も記録しております。
 特に「北斗星」は昨年の列車統合以降、車両の組み替え頻度が極端に低くなり、
 面白味が無くなった様に思います。

 また仕事柄、地方へ行く機会にも恵まれているため、
 その際も時間の許す限りブルトレの編成記録を行っております。
 参考に昨年夏に札幌駅で確認したトワイライトの車番と、
 カイオペアの牽引機を書かせていただきます。


 2008年9月13日(金) 札幌駅
 8001レ トワイライトエクスプレス
 ■牽引  DD51-1095
      DD51-1138
 (荷)カニ24   14
 (9) オハネフ25 501
 (8) オハネ25  561 20-3網干
 (7) オハネ25  511  〃
 (6) オハネ25  522  〃
 (5) オハネ25  523  〃
 (4) オハ25   551  〃
 (3) スシ24   1   〃
 (2) オハネフ25 501  〃
 (1) スロネフ25 501  〃


 8009レ カシオペア
 ■牽引 DD51-1104
     DD51-1140
 (12)カハフE26  -1

   --省略--

 (1)スロネフE26 -1


 でした。

 赤まんと様の編成ストック数を拝見しました。
 私の様な若輩者は到底及びません。
 日頃からの地道な編成確認が重要と、改めて痛感しました。

 私のストック数は極めて少ないですが 情報交換等や
 駅でお会いする機会が御座いましたら、
 宜しくお願い致します。



投稿者 雑魚
投稿日 2009年 4月13日(月)08時48分29秒
タイトル 更に架線柱の話
> 一定の距離をおいて金属性の電線柱が建っているのは「近江今津・大津京」のはず

御明察。細かい事を申せば、かかる高圧線が架線柱よろしく線路を覆っている区間は、
唐崎~雄琴第一隧道および堅田~近江舞子に限られます。この作風は、小金貨物線や
鶴見線、更に岩国付近の山陽線でも見られ、工場地帯を象徴するかの如き印象ですね。
変わった処では、栃木県葛生の石灰鉱山等で、非電化区間を電化線と錯覚させる様な
作風も見られましたっけ。

では、これは如何でしょうか。この作風は、北陸線の今庄~糸魚川とここだけですが、
それ以前に、被写体でバレバレですかね(^^)




投稿者 ED76109
投稿日 2009年 4月13日(月)23時54分56秒
タイトル 旧客列車の想い出は・・・
  しつこくお邪魔しております。「ED76109」であります。

 雑魚様
 >これは如何でしょうか

 「東北本線」の「仙台近郊(国府多賀城あたり)」でありましょうか。
確か、昨年度運転された「イベント列車」のように・・・。
もし、当たっているのであれば(外れだったら恥の上塗り!!)、
帰省の折に使った「4レ(今はありませんが)」で一度目覚めた辺りです。
愚妻達は、まだ夢の中。
小生だけが夜明け間近の「松島」を眺め、先頭に立つ「EF81」の勇姿を眺めた想い出がございます
(トンネルが多いことが玉に瑕ですが)。

 プルマン様
 >かなりの出会いとドラマ

 夜行歴「39年」の小生としては、様々な想い出がございます。
それでは、いつもの「戯言」調で想い出を記させていただきます。
「プルマン」様を始め、いつものように先達の皆様方の話題にしていただければ、幸甚の限りであります。

 1 昭和46年の盛夏、「鉄」親父と「出水」の叔母宅への旅の折、
「東京」から「銀河1号の10系ハネ(スハネ16?)」で一夜を過ごしました。
しかし、熱帯夜のサービスであったのか、寝台車に乗り込んだ途端に「車内の冷気」を直接浴びてしまい、
中段寝台にもぐり込んでも一向に震えが止まりません。
さすがの「鉄」親父も堪えたのか、「東京車掌区」のカレチさんに頼んで冷房を弱めてもらいました。
翌朝、「大阪」で降りる時、件のカレチ氏に尋ねたところ、
「いや、失礼しました。(車内温度は)18℃でしたよ。」とのこと。
前述の「銀河51号の蒸し風呂騒動」といい、幼い頃から小生には「銀河」に少なからぬ因縁があったようです。

 2 昭和48年の春休み、「函館」から「鉄」親父と「下りPCニセコ」に初乗車。
すでに「C62」は引退しておりましたが、「DD51」仕立ての「憧れの旧客急行」は小学生の小生には、眩しい限り。
最前部の「スハフ」で旧客の旅を堪能いたしました。
「駒ヶ岳」から始まった「北の大地」の壮大な眺めに感動しているうちに、「PCニセコ」は「森」を発車。
噴火湾沿いの海岸線からは、対岸の「伊達紋別」や「室蘭」方面が夕映えに映え、
「有珠」の煙も鮮やかなシルエット・・・。
「山線」の隘路を行く「C62牽引のニセコ」が有名ですが、
小生は噴火湾沿いを快走する「PCニセコ」にも、筆舌に尽せない魅力を感じておりました。

 3 小生、高校野球が大好きで何度か「甲子園」を訪れました。
昭和49年の盛夏の帰路に利用したのは「上り桜島・高千穂」。
前述したように、小生には忘れられぬ「想い出のレトロトレイン」の一つであります。
当時、従兄宅のあった「明石」から「73系鈍行」で「神戸」まで行き、乗車しました。
しかし、車内は予想どおり満員でした。とても座れないと幼心に愕然としたのですが、
「大阪」で3分に2の乗客が一斉に下車してしまい、「ナハフ」の最後尾のボックスを二つ占領。
「東京」まで「EF58」のホイッスルをお伴に、夏風に吹かれながら、14両編成の迫力を堪能しました。
「1101レ・1102レ」の想い出は他にもありますが、
「白昼のトカホセ」を「旧客急行」で辿れたことは「中年客車鉄ちゃん」の「誇り」であります。

 長々と失礼致しました。以上、「中年客車鉄ちゃん」でありました。



 
 
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