倶楽部メモ(504)
平成21年 3月23日〜 3月29日



投稿者 さくら号
投稿日 2009年 3月23日(月)19時02分39秒
タイトル ナハネフ21、20
座席車改造のナハネフ21と、ナハネフ20の寝台通路側のつかみ棒?はあったのでしょうか?
昭和40年さくら号のナハネフ21に乗ったときは寝台の窓が狭かったと子供心に思っていましたが、
通路側のつかむ棒が合ったのかどうかわかりません。ご教示ください。



投稿者 秋田のHO
投稿日 2009年 3月23日(月)19時46分33秒
タイトル [ナハネフ20]
マロネロ38  様
[ナハネフ20]実車内のお話、誠にありがとうございますです。
更に御伺いしてすみませんが、
やはり小窓が連続する車体なので、[ナハネフ22]等と比較して、日中は必然的にB寝台区画や通路は
明るい雰囲気であったでしょうか?。
また、さくら号  様の質問に便乗致しまして、
通路側の折り畳み式椅子は、[ナハネフ22]等と同様な感じでありましたでしょうか?。
度々すみませんが、御教示下さればさいわいでございます。



投稿者 滉淬
投稿日 2009年 3月23日(月)21時41分43秒
タイトル 20系
失礼仕ります。

雑魚様

御紹介のサイト様に某も訪問致しましたところナハネフ22の日本海の画像を
確認出来ました。御紹介、誠に有難う御座います。

所で関水より明日さよなら20系が出荷されるようですね。二本帯はやはり三本帯に比べ
風格に欠けるとは思いますが初期あさかぜ、さくら等様々な形態を製品化していながら
尚新規製作を行うという所に拘りと同系の根強い人気を感じている次第です。
こうなると(半分別形式ですが)マヤ20の製品化も遠くないのではと思ったりも致します。
尤も構造的にも運用的にも異端児であったマヤ20ですので、有井辺りが出しそうな気も
しますが・・・。ワールド工芸が出しているので望み薄でしょうか。

何はともあれ今後は43系列再販、14系さくら、TOMIXから32系列と怒涛の如く発売される
様で、皆様におかれましても蝦蟇口が緩んでしまうことかと思われます。



投稿者 ED76109
投稿日 2009年 3月24日(火)00時32分3秒
タイトル 「鉄」雑感あれこれ
 おばんでございます。「ED76109」でございます。

 雑魚様
 >「臨レ」は、どの様な編成内容でしょうか

  小生は、残念ながら情報を持ち得ておりません。
 恐らくは「789系」等による「スーパー白鳥(白鳥)」スタイル仕立ての特別列車だったのではないでしょうか。
 いくら何でも、「海峡版50系客車」が復活したような話はありませんので・・・。
 ところで、このツアー参加の先達の方々は、座席で一夜を過ごされたわけであり、
 「上野・網走」間の「約32時間」に渡る「乗り鉄」は、どのようなものであったか伺いたいものであります。

 >「おおとり」は、(中略)道内では唯一の食堂車つき編成という上格の存在でした。

  「平成12年RJ5月号別冊・列車追跡リバイバルパートV」に、
 昭和60年当時の「おおとり」の食堂車(キシ8034)の様子が掲載されております。
 利用客の減少にも拘わらず「うな重」「洋朝定食」から始まり、「鮭のそぽろ」と「いくら」、
 「山菜」の三色丼がメインの「北海定食」まで19品が用意されていた充実ぶり。
 途中の「方向転換」が2回ということも併せ、「乗り鉄」の心を擽る人気DC特急でありました。

 蜂屋様

 小生は、「日中線」の旧客列車(補機がなければ・・・)のイメージで拝見させていただきました。
「スハフ32(33?)」でしょうか、狭窓が小生の旅心を誘います。
懐かしさを感じさせるグッドショットをありがとうございました。

 長々と失礼致しました。
以上、「生徒指導室」で十数人の生徒達と一緒に、
「北の哲人」のWBC応援で盛り上がった「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 雑魚
投稿日 2009年 3月24日(火)09時09分51秒
タイトル エンド交換
▼ED76 109様:
> いくら何でも「海峡版50系客車」が復活したような話はありませんので…。

現実味の追求という意味で「はまなす」用の14系ハザを充当する様な芸当を、内心
期待していたのですけどね。

>「上野・網走」間の「約 32時間」に渡る「乗り鉄」はどのようなものであったか

昨年「能登」で一夜を明かした際、学生時代に比べ大幅に鈍重化した手前、臀部の
負担が事のほか重大でした(^^)やはり、歳には勝てませんなぁ………

> 利用客の減少にも拘わらず(中略)19品が用意されていた充実ぶり。

これまた昨年利用した「グランシャリオ」が、和洋の別を選べる程度の選択肢にて
固定化されていた事を考えれば、拍手喝采モノですね。かつて、厳寒期の石北線の
路盤状態の悪さから、キハ80系特急の「素晴らしい」乗り心地が、TVニュースで
報じられた事があり「おおとり」厨房での御苦労たるや、察するに余りありますね。

> 途中の「方向転換」が2回ということも併せ「乗り鉄」の心を擽る人気DC特急

同じキハ80系による「おおよど」は、肥薩線大畑・真幸のスイッチ・バックを含め、
エンド交換が計五回と別格でしたが(^^)かの「ヨンサントオ」後、一回の運用で
複数のエンド交換を行う特急というと、現在は「カシオペア」「トワイライト」と、
二系統の不定期夜行くらいでしょうか(現行「北斗星」は、青森では短絡線を経由)

そう言えば、綾部・西舞鶴で二回交換した下り「あさしお」が、宮津線を迂回中に
後続の同僚に抜かれる、という珍事もありましたねぇ。

>「日中線」の旧客列車(補機がなければ…)のイメージで拝見

日中線なら、やはり終着駅で機回しを行わないと(^^)上総亀山駅も機回し可能な
構造だったと記憶しますが、構造が変更されたのでしょうか。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2009年 3月24日(火)09時35分34秒
タイトル ナハネフ20
>秋田のHO様:
昼間は明るい感じでしたが、22には乗車していないので比較は出来ません。
折りたたみ椅子はもう記憶にありません。
悪しからず。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2009年 3月27日(金)14時57分59秒
タイトル 網干事故の「ロ」
おかしな事をお尋ねしますが、太平洋戦争間近の昭和16年9月に山陽本線「網干」で
延着停車中の116レに急行8レが追突大事故を起こしました。その時に116レの「ロ」
に跳ね上げられた「ニ」がマトモに落下して前部デッキだけを残してぺしゃんこにな
り、「ロ」の乗客全員が死亡の大惨事になりましたが、新聞写真や解説スケッチでは
オロ31?かスロ34のW?見たいな気がしました。「事故車の型式番号」をご存知の方
が居られたらご教示下さいませんか?
実は事故復旧間もなく両親と岡山日帰り往復をやり、帰りが因縁の116レで運用が狂
ったからか、オロ36かオロ40の「広窓車」に乗車し、網干で中線に8レのC53が
ドテンと転覆して、道床にめり込んでいたのを目撃して,事故の恐ろしさを始めて
見たのでした。後年「名機関士」と言われた「名越一男さん」が途中下車していて
助かった事を自伝で書いて居られました。



投稿者 ED76109
投稿日 2009年 3月28日(土)11時54分7秒
タイトル 戦中にATS設置計画がありました
 おはようございます。「ED76109」であります。

 「マロネロ38」様がお探しの「事故車の型式番号」は残念ながら、当方の資料等では詳細がつかめませんが、
「網干事故」は戦時中の大事故の一つとして数えられております。
 昭和16年9月16日の夕刻、山陽本線「網干」構内で、下関発東京行き上り急行列車が赤信号を無視し、
停車中の下関発京都行き普通列車に追突して85名が死亡しております。
当時の「鉄道省」は、当該事故の約半年前に「塚本」構内で貨物列車が脱線転覆した事故と併せて、
本線の安全確保の必要性から、ATS設置工事を開始しました。
しかし、アメリカ軍の空襲により中止を余儀なくされ、同37年5月に発生した「三河島事故」の後まで、
本格的な開発と整備が遅れてしまったわけであります。
 実は、小生の両親が「三河島事故」の当日の夕刻、叔父宅からの帰路で「常磐線」を利用しており、
事故の新聞記事に「ぞっとした」との逸話がございます。
戦前の「網干事故」の教訓から「ATS」開発計画が順調に推移していれば、
鉄道の安全も数段の進歩を遂げていたでありましょう。
 改めて、鉄道事故で亡くなられた方々に心から哀悼の意を表するものであります。

 長々と失礼致しました。以上、「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2009年 3月28日(土)15時02分46秒
タイトル 塚本3重衝突事故
ED76109先生
事故被害の「ロ」はW屋根車だったと----型式番号不明ですか?116レは区間快速でした。
塚本事故は確か野里信吾所(今は無い)で宮原検車区方面からの回送線利用で下り方向に
東海道本線に合流しようとした貨物列車に省線電車(普通)が衝突し、それに東京発
の急行列車がブレーキが間に合わず追突した事故だと想います。新聞に電車が貨車に
乗り上げている写真が出ていたのを記憶しています。
当時下駄電は外側列車線を主に走り、急行電車が内側線を走っていたのですが、急行電車
運転時間外は下駄電が内側線を走る時もありました。塚本駅構内は当時棒線でしたから
その西方の野里信号所だったと想います。



投稿者 雑魚
投稿日 2009年 3月28日(土)16時18分53秒
タイトル 三河島事故
常磐線の上り特急で上野到着を告げる車内放送が入るのが、三河島を通過する辺りで、
事故発生の原因となった田端への貨物線が、下り勾配で分岐する様子を見る度、事故
翌日の撮影と思われる衝撃的な航空写真(?)が思い出され、襟を正す思いです。

事故の記録を改めると、最初に脱線事故を起こした貨物列車は、実に40両以上に及ぶ
長大編成なのですね。いかに「デコイチ」と云えども、牽引能力上、かなりタイトな
状況だった事が窺え、それゆえ、貨物線から常磐線に合流する手前の登坂区間で一旦
停止すると再起動が困難になり、かかる機関士の焦りも事故の背景になった、という
趣旨の記述を、何かの資料で一瞥した記憶があります。

加えて、事故発生が 夜の 21時過ぎだった事も、被害拡大の一因となったのでしょう。
1954年の「洞爺丸事故」や、1985年の「日航機墜落事故」も、日没以降の発生であり、
これが日中なら、状況は少し変わっていたのではないか、と感じます。三河島事故の
一箇月後に、北陸隧道が開通しますが、その十年後に発生した「きたぐに」の事故は、
これまた、発生時間が夜間帯でした。

常磐線の事故と言えば、1970年代後半と記憶しますが、土浦〜神立にて 415系電車が
踏切事故か何かで脱線、転覆し、田圃の中で、横倒しになった侭の中間車を、実際に
一瞥した記憶がありますが「ウィキペディア/鉄道事故」では該当記事が見当たらず、
被害規模としては比較的、軽微な部類だったのでしょうか。

数年前に発生した福知山線の事故では、出身校の同窓生名簿に記載のある方も犠牲に
なった旨、通知がありました。事故発生現場は、末期までDLが旧客を牽引していた、
尼崎港貨物支線(通称「金楽寺線」1984年廃止)の分岐点で、図らずも、取材ヘリの
空撮映像から、廃線跡の状況が明らかになり、何とも複雑な思いでした。

ATS等の安全装置不備を巡る大惨禍といえば、修学旅行中の高校生多数が死傷した、
1956年の紀勢線「六軒事故」が挙げられますが、発生国が異なるとは云え、それから
30年以上経過した1988年の中国で、やはり、日本の修学旅行生が巻き込まれた「上海
列車事故」が発生しましたね。本来なら、日本では既に稀少化しつつあった客レでの
貴重な旅行経験となる筈が、外国での事故という事で、事後処理が困難になり、特に
大きな禍根を残した印象を受けます。今更ながら「天災は〜」の格言の如しですね。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2009年 3月28日(土)17時34分33秒
タイトル 塚口−尼崎港
雑魚様
福知山線の末端ですが、現地での通称は「尼港(あまこう)線」で、金楽寺線とは
言いませんでした。大事故現場は分岐点より現尼崎駅寄りですが、東西線乗り入れ
の為に、東海道本線上下間に無理やり島式ホームを造ったので急カーブになったの
です。
北陸トンネル内501レのオシ17(昭和33年度以降製造車)は喫煙室ソファーが電
気暖房過熱で燃えたのですが、原因は「ヒューズに鉛ではなく鉄が取り付けられて
いた為に過熱」したので,工場か客車区の補修ミスが原因と報道されていました。
33年度以降車は喫煙室のシートが向かい合わせから、コの字形ソファーになったので
過熱発見が遅れたのと、ソファー下に熱が篭って発火を早めたのだとも聞いています。



投稿者 クモイ103
投稿日 2009年 3月28日(土)19時38分49秒
タイトル Re:網干事故の「ロ」
マロネロ38様

 車両史編さん会「国鉄鋼製客車史」の車歴表によりますと、
オロ31とスロ34Wの中で昭和20年以前に廃車されたものは、スロ34 6の1両のみです。
昭和18年3月27日付け、最終配置は「大」となっていますので、これが件の事故車ではないでしょうか。

 なお、昭和16年といえば、10月1日に車両称号規程が改正され、
鋼製客車が5桁番号から2桁型式番号+製造番号となった年ですね。
事故が9月16日という事であれば、この車両は事故保留状態で称号改正され、
1度も新称号で走ることなく廃車されたのでしょう。
 その点で、昭和29年9月26日の洞爺丸事故で海没したマイネフ38 5が、
翌年7月1日の1等寝台廃止に際して事故保留のまま書類上のみマロネフ49 5となり、
そのまま10月に廃車されたのと似ていますね。



投稿者 てりてり
投稿日 2009年 3月28日(土)20時48分22秒
タイトル ニュース映像を見つけました
 ご無沙汰しております。
 過去様々な出来事がありましたが、先日「日本映画新社」のブログで
『朝日ニュース昭和映像ブログ』というものを見つけました。
昭和30年代に上映されたニュース映像が見ることが出来ます。
 三河島の事故は『死者157人の大惨事』という題名で
 (検索は naj878(全て半角文字で)又は「昭和37年」『5月上旬』)
で当時の自己の模様を見る事が出来ます。最初見たときはただ呆然とするだけでした。
 この年は「交通戦争」という言葉が出てきたそうです。

 以前話題になりました「東田子の浦事故」はnaj0511(楽しい修学旅行を)に収録されています。
紫雲丸事故直後に発生した(naj0509・宇高連絡船{ブログでは連絡線}紫雲丸沈没)事もあり、
当時の修学旅行事故に対する不安が出ております。

 それでは



投稿者 ED76109
投稿日 2009年 3月29日(日)00時37分51秒
タイトル 「内側線」と「外側線」
 もう、ゆっくりと御休になられましたでしょうか。
「三河島事故」に「鉄」親父が遭遇していれば、この世には生を受けていなかったかもしれぬ
「ED76109」であります。

  マロネロ38様
  >当時下駄電は外側列車線を主に走り、急行電車が内側線を走っていた

 「列車線」の整備のためだったのでしょうか。
偶々の偶然だと想うのですが、小生が何度か利用した上りの「さくら」「はやぶさ」「富士」(ただ涙ですね・・・)は、
よく「内側線」を走っておりました。
小生が記憶しているだけでも、平成6年8月の「はやぶさ」、昭和57年9月・平成7年8月の「さくら」、
そして平成17年11月の「富士(はやぶさ併結)」が深夜(早暁)の「内側線」を走行。
 特に、平成6年の「はやぶさ」と平成17年の「富士」乗車の折は、
どちらの列車も「塚本」のホームに20分程度停車した後に、「大阪」進入直前に「列車線」に転線。
翌朝は「30分遅れで運転している」旨の「おはよう放送」を聞いたことがございます。
 そういえば、昭和59年の10月頃、「西明石」で上り「富士」が「列車線」から「内側線」への転線の途中、
ポイント付近で速度超過による脱線事故が発生いたしました。
この件に係り、当時深夜から早暁にかけての通過列車が「列車線」を通過することが多かったのでありましょうか。

 長々と失礼致しました。
以上、幼い頃に「田町」で「山手線」が「京浜東北線」の線路に進入することに、
淡い「興奮」を憶えた「中年客車鉄ちゃん」でありました。


 
 
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