倶楽部メモ(490)
平成21年 2月 4日〜 2月 7日



投稿者 クモイ103
投稿日 2009年 2月 4日(水)20時44分59秒
タイトル 1レその他ツアー(1/5)
 本来なら静かに見送る「富士・はやぶさ」の最期ですが、私なりの“こだわり”があって、
がらにもなくお名残乗車して来ました。
 その“こだわり”というのは、「東海道本線第1列車に乗ること」です。
これまで何度か利用してきた東海道ブルトレですが、「1レ」には乗ったことがありませんでした。
これが最後のチャンスです。

 大晦日の午前10時、某駅みどりの窓口。
腕時計の秒針を睨みながら、窓口係員氏が一瞬の気合いでキーを叩き、次の瞬間その表情が緩みます。
取れた寝台は「8号車5番個室」、往年の一等寝台車“イネ”の直系の末裔と言える東京発のシングルデラックスで
「1列車」の旅を飾るため、清水の舞台から飛び降りたのでした(痛かった…笑)。係員氏には大感謝です。

 そして1/31(土)18:03、念願叶って「特別急行第1列車『富士』」で東京駅を滑り出したのでした。
駅弁の食事を済ませた後、個室内の設備を一通り撮影しておきます。
廊下の外を頻繁に人の通る気配があり、今夜の1レは満席と車内放送が告げています。




投稿者 クモイ103
投稿日 2009年 2月 4日(水)20時45分54秒
タイトル 1レその他ツアー(2/5)
 個室内の洗面台の蓋を開けたところです。
 “イネ”の必須アイテムだった折り畳み式洗面台ですが、この車両では固定式となりました。
その後国鉄末期から百花繚乱となった豪華個室寝台では、省スペースのためか、
形を変えてまた折り畳み式になっているものもありますね。




投稿者 クモイ103
投稿日 2009年 2月 4日(水)20時47分50秒
タイトル 1レその他ツアー(3/5)
 明けて2/1(日)6:53、青列車様のお膝元徳山に着きます。
ホームを見回すと、何度となくご投稿でお目にかかっている上りホームのアングルが目に入ります。

 実は、私にしては珍しく寝台でなかなか寝付けず、この時不覚にも軽い乗り物酔い状態となっていました。
今思えば、乗車時すでに風邪をひきかけていたのでしょう。
徳山から乗り込んできた車販から幕の内弁当を購入すると、あとは個室の寝心地をひたすら堪能するという、
ある意味究極の寝台列車の旅を満喫したのでした(笑)。
関門での機関車交換も、8号車から最前部まで行くのは億劫だし、
どうせ大勢の人が撮ってるんだろうから私はいいや…と華麗にスルー(爆)。

 そして日豊本線の車窓も殆ど見ないまま、10:19、列車は宇佐に到着します。
予定では終点大分まで乗車し、噂に聞く大分空港アクセスの海陸直通(!)ホバークラフトに乗ってみるつもりでしたが、
この体調では自殺行為と断念。代わりに?宇佐神宮参拝と相成りました。
 バスなら門前まで10分位ですが、丁度良い便が無いので迷わず徒歩。
参道の長い石段を含めると、往復でかれこれ2時間近く歩きました。おかげで体調もだいぶ回復。
 最初の鳥居を入ったところに、クラウス製の蒸機が保存されています。
明治24(1891)年製造、九州鉄道が輸入し、国鉄を経て、大分交通宇佐神宮線で活躍したとのことです。




投稿者 クモイ103
投稿日 2009年 2月 4日(水)20時48分47秒
タイトル 1レその他ツアー(4/5)
 宇佐発13:15の普通4647Mで別府へ移動。
815系の2連で、ロングシートながら一人一人の着席位置がはっきりわかる座席構造が目を引きます。
 別府はさすが名だたる湯の町、駅前に足湯ならぬ「手湯」というのがあって旅行者を迎えます。
町中の温泉で体をほぐし、小腹が空いたので名物「うどん汁」でちょっとカロリー補給。
駅へ戻れば、程なく上り「富士」がやってくる時刻です。これをホームでキャッチ。
別府駅のホームには、昔ながらの洗面所が今も現役でした。
 私は17:01発の4655Mに乗車、先ほどの4647Mの編成がまたやって来ました。
乗車券の行き先より1駅手前の西大分で下車します。徒歩10分位で、やって来たのはフェリーターミナル。

 大分港19:00発、神戸六甲アイランド6:55着、ダイヤモンドフェリー「さんふらわあ ぱーる」、
最近新造されたばかりのピカピカの新鋭船です。
「スタンダード」のネット割引き運賃は\10,800-ナリ、
これが「富士」のシングルデラックスを上回る設備の快適な個室なのです。
夜行列車の競争相手として廉価な高速バスがよく注目されますが、船も全く侮れません。
 むかし宮崎から大阪までやはり夜行フェリーに乗りましたが、特急「彗星」より1時間遅く出たのに、
大阪南港には「彗星」の大阪着とさほど違わず着きました。
関西と九州東岸の間では、遠回りの鉄道ルートに対しショートカットの航路が有利なのですね。




投稿者 クモイ103
投稿日 2009年 2月 4日(水)20時59分54秒
タイトル 1レその他ツアー(5/5)
 そういうわけで2/2(月)朝、神戸空港までのポートライナー延伸区間乗り潰し、和田岬線の103系に初乗車と来て、
以前この掲示板でお知り合いとなった京都在住の「懐古知新」様とミニオフ会です。
 懐古知新様は、ご幼少時の思い出にある昭和30年代前半の国鉄京都駅に、並々ならぬこだわりをお持ちで、
Nゲージで駅全体を再現しようという遠大な作業に着手しておられます。
その情熱に共感し、私も及ばずながら情報面を中心にお手伝いさせていただいています。
実は今回、車両の転属(手渡し)のための訪問でした。

懐古知新様のブログ
「国鉄京都駅をNゲージで再現する、途方もなくあふぉな日記」
http//d.hatena.ne.jp/ms99/#edit_in_place(httpを半角に直して下さい)
(ブログでは「ms99」と名乗っておられます)

 その夜「のぞみ」で帰ってきたのですが、このトシで夜行2連泊は辛いです(^^;。
快適な筈の寝台でこうですから、かつて東京〜鹿児島間を2夜行で結んでいた
急行「さつま」利用者の苦労はいかばかりかと…

 ともあれ最大の課題が達成できたので、私としてはまあ90点の満足でした。
青列車様、またもやのスルーで失礼しました。
懐古知新様、久々に熱い京都駅談義を聞かせていただき、刺激になりました。

仙コリ様、皆様、とりとめのない日記的な書き込みで大変失礼しましたm(_ _)m。




投稿者 ED76109
投稿日 2009年 2月 4日(水)21時56分28秒
タイトル 「7p」のトリック
 またまた、お邪魔しております。「ED76109」でございます。

 雑魚様
 >151系の側窓は(中略)二重硝子の複層固定窓とされていますが、どの部位が開くのやら
 当時、「151系こだま」のシーンは、国鉄から「1編成」を借りて実際に「トカホセ」を走らせて撮影が行われました。
実は、「151系こだま」の窓は開かないのですが、洗面所の窓は「7p」だけ開くという構造が
重要なトリックになっております。
黒澤明監督らは、「こだまの設計図」を精緻に分析して国鉄に何度も問い合わせを行った結果、
不審者と勘違いされたとの逸話を聞いたことがあります。
「こだま」が「酒匂川の鉄橋」にさしかかるシーンの撮影においても、線路沿いの民家が邪魔になったことから、
持ち主に依頼して撮影の1日間だけ2階の一部を撤去させたというエピソードも・・・。
また、撮影当時はこのシーンで撮影に失敗した場合は、二千万円の損害が発生するため、
「田町電車区」に留置中の「こだま」で入念なリハーサルが行われたそうであります。

 長々と失礼致しました。
以上、「クモイ103様」の「1レツアー」のお話に、唯溜息のみの「中年客車鉄ちゃん」でございました。



投稿者 雑魚
投稿日 2009年 2月 5日(木)18時00分10秒
タイトル こだま
▼ED76 109様:

さすが「世界のクロサワ」とまで称されただけの事はありますね(驚)この映画から
半世紀近くを経た2007年に公開され「こだま」の描写が話題となった「続・三丁目の
夕日」を、黒澤監督(1998年没)が御覧になったら、どの様に評された事でしょうね。

>「クモイ 103様」の「1レツアー」のお話に、唯溜息のみ

御意。私には、飛び降りるべき「清水の舞台」すらありませんので(滂沱)ところで、
個室洗面台を「小さな用事」に供した事がある者は、後で 職員室まで来る様に(^^)



投稿者 尼港線
投稿日 2009年 2月 5日(木)22時15分58秒
タイトル 快速<レトロ横濱>
「トカホセ」「こだま」で思い出しましたが、この6月、久しぶりに?東海道本線・横須賀線で、
一般型客車を使った列車(快速<レトロ横濱>)が走るそうで。
(JR東日本のプレスリリース↓/2ページ目に記載されています)
http://www.jreast.co.jp/press/2008/20090105.pdf

1時間ほどの運転時間ですけど、頑張って1ヶ月前に指定券を確保して、乗ってみようかな…などと考えております。
小生、“新幹線世代”でありまして、福知山・山陰本線や北陸本線、東北本線などを走る一般型客車には
いろいろ思い出があるのですが、東海道・山陽本線を走る一般型客車には「間に合わなかった」のです。。。
それだけに今回ばかりは、かつての東海道・山陽本線の旅をしのぶ絶好の機会と思い、
ふだんは近付かないイベント列車に、意を決して近付いてみようと(笑)
横須賀線での運転は客車7両とのことですから、JR東日本の保存客車総出演になるはず。
撮影派の方にとっても、垂涎ものではないでしょうか?



投稿者 ED76109
投稿日 2009年 2月 5日(木)23時11分6秒
タイトル ビジネス特急「こだま」
 図々しく失礼しております。旅に出られぬ憂さを書き込みではらしている「ED76109」でございます。

 雑魚様
 >2007年に公開され「こだま」の描写が話題となった「続・三丁目の夕日」

 いつものように「釈迦に説法」で失礼します。
映画に出演した「151系こだま」は、川崎重工兵庫工場内に展示車両として保存されているもので、
同工場内で撮影が行われました。
 「151系」の設計にあたっては、同形式の前身である直流特急電車「90形」を基本としながらも、
様々な箇所の軽量化を図りました。
その結果、高速運転が実現され、新機軸の構造や設備が数多く採用されたのであります。
特徴のある「ボンネット形の前頭部」と「高い位置に設けた運転台」や車内に設置された「ユニットクーラー」、
特に当時としては画期的であった「1等車の座席に設置されたシートラジオ」と「車内電話」は大きな話題を呼びました。
 さらに、編成には「ビュッフェ」が組み込まれるなど、以後の「481系」等の特急や急行の運転機能や車内設備に、
大きな影響を与えたのであります。
 昭和33年11月、従来の「PCはと・つばめ」に加えて、「東京・神戸」で営業運転を開始。
「東京・大阪」を6時間50分で結び、同34年に6時間30分に短縮されました。
また、このスピードにより「日帰りの大阪及び東京出張」が可能となり、
「ビジネス特急」としての不動の地位を築くことになりました。

 参考 ビジネス特急「こだま」号解説(川崎重工)

  前述しておりますが、小生も「昭和38年」に1歳弱で乗車。(当然記憶などありません。)
「こだま」の車中で、母の腕に抱かれた小生が写真に写っています。
しかし、この「こだま」の登場が、鉄道がステータスではなくスピードを求められるきっかけとなった訳であり、
ある種「客車列車の衰退」の第一歩となってしまったことは皮肉なことであります。

 長々と失礼致しました。以上、入学検査の業務で寝不足気味の「中年客車鉄ちゃん」でした。



投稿者 太田拓也
投稿日 2009年 2月 6日(金)07時57分31秒
タイトル ジェネレーションギャップ
いかん、次元が違いすぎる…
自分は30過ぎのおっさんと思っていたが、ここの常連に比べればまだまだ子供であることを思い知る。
なんせ私は東海道ブルトレの牽引機がPFになった年の生まれですから。
物心ついた頃がブルトレブームなのでオロネ25への憧れというのは理解できます。

>旧客
同年代で旧客を知っている方も少なくないのですが、都会育ちで鉄道=電車という環境だったため、
初めての旧客は大学生になって1人で大井川鉄道に乗ったときです。

親が「食堂車は高くてまずい」「寝台車は揺れて眠れない」という思考のため子供時代は鉄としてかなり損した気がします。
新幹線の食堂車は通路から眺めるだけの存在でした。
1人旅ができるようになった頃には食堂車は壊滅状態、寝台車はロイヤルにもサンライズにも583系にも乗りましたが
一般的なボックス型ハネの経験はは幼少時に母と乗った「さくら」のヒルネだけだったりします。
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投稿者 マロネロ38
投稿日 2009年 2月 6日(金)10時17分54秒
タイトル こだまの替え玉
在来線の「こだま」は初期故障が多くて、車両のやりくりがつかず153系東海型の
代用がありました。特急料金は確か半額?これが「こだま」じゃなくて「替え玉」だと
大阪の鉄道ファン仲間から全国のファンに広がりました。
大阪駅で偶然「替え玉」を撮影していますが、ヘッドサインの「パタパタ」にちゃん
と「こだま」もあったので、用意が良いなと感心したり呆れたりでした。



投稿者 太田拓也
投稿日 2009年 2月 6日(金)10時53分45秒
タイトル Re:替え玉
マロネロ38様>

初期故障というよりは、2運用1予備なのに大阪に予備車が置いてなかったからです。
大阪から広まったのはそれで大阪発に替え玉が多いのが原因でしょう。
せっかく4+4の前後対称に分割できる設計なのですから
東西に4両ずつ予備車を置けばよかったのに。

特急料金ですが、登場時は「特急は専用のロマンスシート」という考えが徹底しておらず
(「平和」「はやぶさ」「かもめ」にナハ11が使われていた)
割引はありませんでしたが、その後「特急形車両」が普及すると若干割り引かれました。
しかい特急料金と急行料金の差に比べると雀の涙程度だったとか。
投稿者のホームページ



投稿者 ED76109
投稿日 2009年 2月 6日(金)23時32分50秒
タイトル 「はつかり」も揶揄されました
毎度毎度、お邪魔しております。「ED76109」であります。

 マロネロ38様及び太田拓也様

 昭和30年代に登場した前評判の高い「新型特急」は、どうも滑り出しが今ひとつでした。
話題の「こだま」にせよ、「上野・青森」に登場した「DCはつかり」にせよ、登場直後にトラブルを連発して、
新聞の見出しに「『はつかり』事故ばっかりでがっかり」等と出されてしまい、
世間の関心を買ってしまったようであります。
しかし、「こだま」も「はつかり」も改良に改良を重ね、エリート特急としての地位を確立していきました。

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 前置きが長くなりましたが、今回は「冬旅の戯言」を述べさせていただきます。
ちょっと古い「戯言」なのですが、いつものように先達の皆様方に話題にしていただければ、幸甚の限りであります。

 1 小生のアルバムに、「昭和40年冬、土樽駅にて」という写真があります。
両親に連れられて、真冬の「谷川岳」と「湯沢温泉」を尋ねた旅だったようです。
写真には、2メートルはあろうかという「雪の壁」。
そして、雪を抱いた三国山脈に囲まれた「土樽駅」の長閑な風景が写っています。
まだ「新清水隧道」が完成する前ですから、当然上下の列車とも「湯檜曽のループ線」を走り、
「清水隧道内の茂倉信号所」が活躍していた頃になります。
帰京に使ったのは「165系仕立ての佐渡」だったようですが、
当時は「佐渡」は「○号」ではなく「第○佐渡」と呼ばれていました。
小生、「第○〜」の列車名に思わず時代を感じました。

 2 前述しましたが、既に「113系」等が湘南電車として活躍していた昭和40年代の前半、
「EF58」が牽引する品川始発の「旧客熱海行」が一往復残っておりました。
ガラガラだったこともあり、家族で「熱海温泉」や「伊東方面」の観光旅行の折には、
御用達のような感じでいつもお世話になっていたようです。
アルバムには、昭和41年頃の冬に「D52」が残っていた「御殿場線旧客」を訪ねた時のスナップがあるのですが、
小生のバックに写っているのは「オハフ60」。
何かの都合で、本来なら「トカホセ」ではお目にかかることのない、「北海道向け」の車両が運用されていたようです。

 3 昭和42年の黄金週間、家族で「十和田湖と八甲田山」を旅したようです。
全く記憶がないのですが、「花輪線」を走る旧客車中のスナップが撮影されており、
「十和田南」で制帽を借りてポーズを取っている小生の写真があります。
実は、小生が乗車したのは「混合列車」。
肥薩線でも「D51」牽引の混合列車に乗車した(こちらは記憶がありますが・・)ことと合わせて、
今では味わう事の出来ない贅沢な汽車旅を経験できたことは「鉄ちゃん」として幸せであったのだと自負しております。

 長々と失礼しました。以上、「中年客車鉄ちゃん」でございました。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2009年 2月 7日(土)09時09分51秒
タイトル ファンの毒舌は鉄道好きの裏返し。
「替え玉」、「がっかり」、「ボロ山」(立山)、「取り替え基地」(鳥飼基地)、
「焼き場の釜」(580系の貫通扉の形状から)、「屁カリ」、「どたま」、等々
ファンの毒舌が多かったですが、鉄道好きの裏返しみたいな物でそれなりに
「好きだから」言っていたみたいでした。何だか「女性心理」みたいな???
ボロクソに言っても「鉄道車両が好き」なのです。



 
 
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