倶楽部メモ(488)
平成21年 1月29日〜 1月31日



投稿者 太田拓也
投稿日 2009年 1月29日(木)14時15分4秒
タイトル 寝台車の座席開放
>ED76109
宮脇氏が乗ったのはロビー室ではなくマロネ38の「特別室」と思われます。
本来なら1等車に乗るべき師団長クラスを2等車の主な利用客であるブルジョワジー階級から
隔離するために作ったものですが、寝台セット時以外は自由席扱いじゃ意味ないがな…

宮脇氏の「時刻表昭和史」によると、昔の寝台車は昼間は完全に座席車として利用されていたような記述になってますね
(ロネだとグリーン車自由席扱い)。
それが時刻表に明記の無い限り座席利用できなくなったのはいくつからなのでしょうか。
営業関係の知識をお持ちの方はいらっしゃいませんか?

「鮭フライ定食」のことは後年の宮脇氏の食堂車コラムでもたびたび触れられていますね。
投稿者のホームページ



投稿者 仙コリ(管理人)
投稿日 2009年 1月29日(木)21時53分53秒
タイトル 連絡船、樺太について
皆様の青函・稚泊航路や樺太の鉄道の話、興味深く拝見しております。
私自身、鉄道連絡船には乗らずじまいでして、ほとんど知識が無いもので…皆様すごいですね。
ちなみに最近の稚内桟橋駅や樺太の鉄道については、漫画ですが昨年発行の「駅弁ひとり旅」の第6巻に掲載
されていまして、稚内桟橋駅の形態等については私自身この漫画で知ったような次第でして…

>クモイ103様
先日の列車番号変遷に青函連絡船のデータも追加掲載したのですが、なにぶん実際に乗船した経験が無いので
接続列車の実態がわからない点もあり、接続列車の変遷一覧表は列車番号のつながりのみを重視したかたちで
作成しましたが、おかしな点などありましたらご指摘いただけると助かります。

>マロネロ38様
樺太に渡った客車についてですが確かに聞きませんよね。
手落ちの資料はざっと目を通してみましたが、樺太に関する記述は例のスハ32以外には見当たりませんでした。
推測ですが鋼製客車に限って言えば、内地の客車が樺太に渡ったことは無いのではないでしょうか?
例のスハ32にしても内地のスハ32が樺太に渡ったわけではなく、樺太向けに新製されたスハ32タイプの
客車が樺太に渡る事無くスハ32に編入されたものですよね。
当時の樺太の鉄道事情はまったく存じませんが、寒冷地でもあり全て専用の車両が用意されたのか、もしくは
古い木造客車(その場合でも北海道用の客車?)が渡ったのかどちらかではないでしょうか?
あくまでも推測ですので、実情をお知りの方がいらっしゃいましたらフォローいただけると幸いです。



投稿者 クモイ103
投稿日 2009年 1月29日(木)22時53分16秒
タイトル 稚内駅構内/Re:連絡船、樺太について
>雑魚様
> 稚内駅は現在、機回し不可の構造と見受けられます。
…というわけで、機回し可能時代の写真です。スキャンに手間取りレスが遅れて失礼しました。
撮影日は前出の利礼ドームと同じ昭和62(1987)年5月2日、停車中の編成は上り急行「天北」です。
向かって左側の空き地に、かつては貨物ヤードが広がっていたのでしょう。

>仙コリ(管理人)様
…普通こういう資料は、運航時刻とか「スジ」の変遷を軸にして構成するのが一般的と思いますが、
もともと列車番号・船便番号の話題から来ていますので、こういうのもアリではないでしょうか。
私は楽しませて頂いております。
 まあ、時刻も入っていた方がより広い読者のために分かり易いとは思いますけど、
これだけまとめて下さっただけでもけっこうな作業量と思われ、感謝しております。




投稿者 仙コリ(管理人)
投稿日 2009年 1月30日(金)00時20分53秒
タイトル Re2:連絡船、樺太について
クモイ103様
早速のレスありがとうございます。
確かに変遷表にも時刻を入れたほうがわかりやすかったかもしれませんね。
表の横幅から省略してしまい、変わりに下部に接続時刻表を掲載したのですが、
よりわかりやすい表示方法を考えてみたいと思います。
そこで再度質問なのですが、続行便がある場合の乗船案内がどうなっていたのかを知りたいのです。
例えば昭和39年10月の下り列車の青森着時刻と下り便の青森出港時刻を見てみると

11レ 「みちのく」23:31着
2001D「白鳥」  23:47着
1D 「はつかり」23:55着

1便 0:15発
11便 0:30発

といったように列車番号・船便番号を主体として見ると、順番が逆転しているので、
こういった場合でも1Dの乗客は1便へ、11レの乗客は11便へといったような案内と
なっていたのかどうかが知りたいのです。
もっとも晩年にこのような逆転現象があったかどうかがわからないのですが、
もしお知りでしたらご教授頂ければ幸いです。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2009年 1月30日(金)10時29分30秒
タイトル 樺太のスハ32(円屋根)
1両だけ例の樺太番号スハ2652(多分北海道仕様)が樺太へ行っていますが(出自:
鉄道ピクトリアル、スハ32特集)星晃氏との対談。日本車両東京製だったとの事。
後は内地残存で故野村董氏が「端面に梯子がついた車があった」と言っていました。
真偽の程は現車を見ていないので何とも言えませんが。
それから「ロネ」の昼間解放は戦前確かにありました。602レが金沢−大阪間解放で
(午前7時頃から解放したのでは)?実際にW屋根のロネに家族で乗った事がありました。



投稿者 雑魚
投稿日 2009年 1月30日(金)14時32分43秒
タイトル 長崎駅
▼クモイ 103様:
> 昭和62(1987)年 5月2日、停車中の編成は上り急行「天北」です。

これはこれは、貴重な記録を有難うございます。よく考えてみると、私もほぼ同時期、
渡道しており、この時は「昼寝編成」下り「天北」で、稚内に赴き、同夜「利尻」で
折り返しました。もう少し、稚内の滞在時間帯を考慮すれば、かかる光景を見る事が
出来たろうにと、今頃になって後悔しています(^^)

宗谷線の客車急行は、旭川での長時間停車中に(機関車交換?)稚内行が後続特急の
到着を待ったり、札幌行が特急を先発させていましたね。当時、八代でも上りに限り、
鹿児島特急と肥薩線急行が同様の状況にありました。

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盲腸線の末端に発着する客車といえば、既に現在の構造に移行していたブルトレ直通
末期の長崎駅では、頭端式の構造上(過渡期には、架線柱や架線はその侭、長崎港に
通じていた線路を舗装し駐車場に充てるという、珍妙な光景が見られました)留置線
回送は、機回し方式では無い、と想像しています。同じ長崎県内では「あかつき」も、
早岐以遠が、DE10を加えた「プッシュ・プル」体制でしたからね。

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画像は、クモイ様の写真に触発され掲出した「似た様な状況」です(^^)07年七月末、
烏山駅にて。08年は運転されなかった12系「山上げ祭り」今後の予定は無いのかな?




投稿者 ED76109
投稿日 2009年 1月30日(金)21時33分51秒
タイトル 青函航路の想い出
    度々、御邪魔しております。「ED76109」でございます。

 仙コリ(管理人)様
 >続行便がある場合の乗船案内がどうなっていたのか
  小生の初渡道の帰路の折(昭和48年春)のことを、記憶に基づいて・・・。
 「鉄」親父と小生は、前述のように「122レ」で「函館」到着。そのまま、「連絡船待合室」に入りました。
「乗船名簿」に記入して「窓口」に提出した時、「鉄」親父が「いなほ2号」に「青森」から乗る旨を伝えたところ、
「じゃ、『2便(0時40分発)』に乗ってくれませんか。『12便(0時15分発)』に「ニセコ3号」と「北海」の
お客が乗るので。」と「窓口氏」に言われたことを覚えています。
 やがて、接続列車の「北海」と「ニセコ3号」が次々と到着。
「疾走する乗り継ぎ客」に、職員が放送等で
「「はつかり1号」と「みちのく」ご利用のお客様は、『八甲田丸』(12便)にご乗船ください。
「白鳥」ご利用のお客様は、後続の『羊蹄丸』(2便)にご乗船ください。」と案内しておりました。
そして、日付が変わって「おおぞら3号」が到着。当然、乗り継ぎ客は『羊蹄丸』(2便)に乗船。
どうやら、多客期には「接続列車ごとに「接続便」を分けて乗客を案内していた」ことがあったようです。
 以前の「時刻表」には、接続列車の指定券や当該便の寝台券等を持っている乗客が優先的に乗船できる記述がありました。
また、昭和20〜30年代には、乗船できない乗客の切符の有効期間を一日遅延する「スタンプ」を押印してもらう列が、
待合室に長く伸びたという「エピソード」を「種村直樹氏の著述」で読んだ記憶があります。

 長い前置きで恐縮ですが、今回は「青函航路の想い出話の戯言」を記してみます。
客車ネタではありませんが、先達の皆様方の話題にしていただければ、幸甚の限りでございます。

 1 昭和48年春に利用した「下り十和田丸」は、「急行八甲田」や「はくつる3号」等の接続便。
しかし、小生らが乗車したのは、「新幹線工事で宮城野貨物線を経由する八甲田51号」でした。
朝の六時半過ぎに慌てて下車し、「青森駅の連絡船待合室」にたどり着いた時はすでに「八甲田の乗客」で行列ができており、
「鉄」親父とともに長い列の後ろに並びました。
すると、周囲の人たちの話題はどういうわけか、「洞爺丸」の話に。
「吹雪の海だら、ひとたまりもねぇ。」の話で、思わず幼心に恐怖を感じましたが、
後ろの方が「大丈夫。今日は波はないからね。」と頼もしい一言。
映画「家族」に出演した「渥美清」さんのような優しい初老の紳士の方が、
船内で食べた「かに寿司」よりも強く印象に残っています。

 2 昭和60年の1月下旬、道教委への採用書類持参の札幌行のため、0時過ぎ発の「下り八甲田丸」に乗船。
しかし、天候は「青森」まで乗車した「50系トホホセ鈍行」を牽引した「ED75」が、
「真っ白い雪だるま」に変身したほどの「猛吹雪」。
熟睡するために奮発した「グリーン指定席」で不安におののいておりました。
検札の乗客掛の方が、「大丈夫ですかね。」と尋ねた小生に、
「大丈夫ですよ。ただし、絶対に棚にはバッグは置かないでください。落ちてケガされないように。」と一言。
すると、なるほど「津軽海峡」に出た途端に、まるで「エレベーター」のような乗り心地になりました。
数少ないグリーン客の中で、妙齢の美女がいらっしゃいましたが、数分おきに顔を歪めて席から離れて・・・。
おそらく、その方は今後絶対に連絡船には乗らないだろうなぁと、小生、気の毒でなりませんでした。

 3 昭和61年の8月、東京へ「車」で帰省しようと思い、「自動車航送」を予約しました。
出帆の2時間前に「函館埠頭」に乗り付けて、愛車「マーチ」の中で待機。
黄色いヘルメット姿の掛員の誘導で、「津軽丸」の航送甲板に停止させました。
しかし、航行中は車に近寄らないように指示されただけで、車のキーは自分で持ったまま、
燃料は「満タン」でしたが特にお咎めもなく、意外とのんびりムード。
海峡も快晴で水平線に沈む夕日を堪能。小生は、船内で「シャワー」を浴びてゆっくり休養できました。
熟睡の目覚めは、「大音量の小鳥の囀り」。
お陰様でしっかりと目が覚め、夜中の「東北道」を1人でしっかりと運転することができたようでした。

 先達の皆様方の「青函連絡船」の想い出は如何だったでしょうか。

 本当に長々と失礼いたしました。以上、「中年客車鉄ちゃん」でした。



投稿者 ヒゲ無し雷鳥
投稿日 2009年 1月30日(金)23時48分52秒
タイトル 寝台車の座席解放
>>太田拓也様
昭和24年5月1日にそれまでの特別寝台車を1等寝台車と改称する際、
従前の特別寝台車旅客運賃料金及座席料金が廃止され、寝台を使用しない
旅客に対しては1等旅客運賃だけを又寝台利用の旅客に対しては1等旅客
運賃と寝台料金とを収受することになりました。
戦後すぐの時点では寝台車の座席解放は制度化されていたようですよ。



投稿者 仙コリ(管理人)
投稿日 2009年 1月31日(土)00時44分33秒
タイトル 青函航路の乗船案内について
ED76109様
青函航路の乗船案内についてご教示いただき、ありがとうございました。
先日の書き込みをした後に考え直していたのですが、やはりそこまでどの列車に乗車してきたのかではなく
連絡船の後にどの列車に乗車するのかが重要だったようですね。
よく考えてみれば当たり前のことなのですが…本当に勉強になりました、ありがとうございました。
旅行のルートは旅人それぞれであり、どの列車に乗り継いでいくかは一人一人異なるので、同番号の接続は
あくまでも鉄道側の事情によるものですが、やはり鉄道ファンとしては同番号の接続は夢がありますよね。
1度でよいから1づくしの接続を経験してみたかったものです。
現代でも同番号(若番)の接続はどこかに存在するのでしょうか?



投稿者 スイロフ
投稿日 2009年 1月31日(土)01時34分45秒
タイトル 同番号づくし
こんばんは。
私は2づくしの接続をやったことがあります。
1980年の3月、釧路から2D「おおぞら6号」(14:10発)〜青函2便(0:40発)
〜2M「はつかり2号」(5:13(遅発)発)と乗り継ぎ、上野に14:10(遅着)に
着いたメモが残っていました。奇しくも丁度24時間の旅でした。
私は大満足でしたが、同行した人(後の私の奥さん)には強行軍だったかも...



投稿者 太田拓也
投稿日 2009年 1月31日(土)07時45分4秒
タイトル 等級制廃止がポイント?
マロネロ38様、ヒゲ無し雷鳥様、情報ありがとうございます。
どうも私の考えるところ、昭和40年ごろまでは普通に座席利用していたように思います。
というのも581系設計当初、急行の客車ハネの座席利用が珍しくなかったので
ナハネ11をそのまま電車化しても昼行急行として通用すると考えられたようです。
実際には「夜行と昼行で1往復」というコンセプトから特急のスピードが要求され
昼行特急として通用する並ロ級ボックスシートになったのは周知のとおりですが。
投稿者のホームページ



投稿者 クモイ103
投稿日 2009年 1月31日(土)11時13分18秒
タイトル 青函連絡船、ホテルシップビクトリア
 青函連絡船への初乗船は昭和57(1982)年3月3日、1便「松前丸」でした。
先に出航する11便でも良かったのですが、初めて乗る青函連絡船を「1便」にしたかったのと、
「松前丸」の語感に何となく惹かれてこちらの列に並び、結果的に函館から接続列車に座れず、
千歳空港(現・南千歳)まで4時間、洗面所に立ちっぱなしの憂き目に遭うのでした(笑)。

 後で知ったことですが、こうして私が初めての北海道旅行に踏み出している3月4日、
フラッグシップの「津軽丸」が最後の運航を迎えており、また私が乗った松前丸もその秋に後を追って引退し、
共に翌年北朝鮮へ売却されたという事です。
 2隻の引退補充として、貨車航送専用船だった「石狩丸」と「檜山丸」が客室設備を設ける改造を受け、
青函トンネル開通までのつなぎ役を果たしたのでした。
(ED76109様のお話しで、昭和61年の8月…「津軽丸」とありますが、何かのお間違いではないでしょうか?)

 というわけで、私は残念ながら「津軽丸」に乗ったことがありません。
乗ったのは順に松前、大雪、摩周、大雪、檜山、八甲田、大雪、十和田、羊蹄と、あと残るは「石狩丸」でしたが、
これは果たせませんでした。(最後の十和田、羊蹄は、青函博覧会に伴う復活運航時でした。)
 「大雪丸」だけ3回当たっており、これも何かの縁と、
同船が引退後長崎で「ホテルシップ ビクトリア」として開業した際、泊まりに行ったものです。
うろ覚えですが、2001年の年明けを祝うTV局の企画で、函館の摩周丸→青森の八甲田丸→東京の羊蹄丸→長崎の大雪丸と、
当時国内に残っていた元青函連絡船4隻の汽笛リレーが行われたかと記憶しています。
 その「ビクトリア」も3年くらい前に廃業し、昨年中国へ引き取られたとのことですが、現地でホテルシップとして
再起するという当初の報道とは異なり、実はスクラップ扱いだったとの情報もネット上で見受けられます。

 画像は平成8(1996)年12月、長崎港でホテル営業中の「VICTORIA」こと大雪丸です。




投稿者 ED76109
投稿日 2009年 1月31日(土)15時49分16秒
タイトル 車検証のコピーが写らない!!
 失礼します。部活指導を終えた「ED76109」であります。

 クモイ103様
 失礼しました。仰るとおり、確か「石狩丸」でございました。勘違いしたようですみません。
「石狩丸」で「マーチ」を航送した時は、日高本線の「某駅」で申し込みました。
車検証の印字が薄く、窓口氏がコピーできずに「写らねぇべあ!」と一言。
如何にも面倒くさそうだったようで、小生の印象に残っております。
しかし、「津軽丸」以外は乗船されているとは・・。正直驚きました。
道民の中で全便制覇した方、いるのかなぁ・・?

 雑魚様
 >宗谷線の客車急行は、旭川での長時間停車中に(中略)札幌行が特急を先発させていましたね。
  小生「遠軽高勤務」の頃に全道大会の引率の折は、いつも「旭川」で「特快きたみ」から「DC急行宗谷」に
 いつも乗り換えておりました。
 大体、後部に増結された「キハ56」のボックス席の先客に、
 「よろしいですか。」と一声かけて生徒達を座らせていたものです。

 長々と失礼しました。以上、「卓球部」から「弁論部」へと顧問を鞍替えた「中年客車鉄ちゃん」でした。



 
 
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