倶楽部メモ(457)
平成20年 9月25日〜 9月27日


投稿者 らん丸
投稿日 2008年 9月25日(木)22時51分35秒
タイトル 実は一般庶民でも乗れた「イネ」「ロネ」
最近発売された鉄道ピクトリアルにも他の本にも「イネ・ロネは上流階級しか乗れなかった」という記述をよく見ますが、
実際はそうでしょうか?

「乗れない」理由はあくまでも2等は3等の3倍・1等は3等の6倍の運賃を払わなければならず、
当時の平均年収と比較して「非常に高すぎる乗り物」だった(故に昭和30年に1等寝台が2等寝台に格下げされた)ので、
必然的に金持ちと無料パスを持っている国会議員、外人観光客しか乗らなかったのにすぎません。
もしも、その様な「規定」があるのなら、内田百けん(表示されないので仮名で書きます)の「阿房列車」
(先生は借金してでも1等に乗った)は出来なかったと思う。

明治以降、一応「階級制度」はできましたが、実際は「皇族とその他大勢」という形であり、
御料車とマロネフ59(三直宮用)以外は「カネさえ積めば何でも乗れた」というのが現実なのです
(祖父が交通公社にいた関係で、祖母や父から聞いた話の中にこの話があります)・・・
現代に置き換えて、18歳の少年が「お金次第で」マイバッハやフェラーリを買う事が出来るのは日本位だという話
(欧米に限らず、他の国ではたとえ金持ちであっても「階級・階層による選別」があるので絶対にありえない)もあります。

現実、一等寝台を「道楽」で乗っていた(普段の生活を切り詰めても道楽に命をかける人はどの時代にもいました)
「普通の庶民」もいるだろう。
では何故、こういった「事実」を書かずに「上流階級の乗り物」という「空想的」な事しか書かないのだろうか?



投稿者 ED76109
投稿日 2008年 9月25日(木)23時03分0秒
タイトル 鈍行紀行よ永遠なれ・・・
 また、お邪魔いたします。「ED76109」でございます。
 「北陸本線」も旧客の牙城でしたね。
小生は、友人が旅行中のバイク事故で「福井市立病院」に入院した昭和57年の10月、
「中部地方乗り潰し」に出かけた昭和58年9月の2回訪れ、「522レ」と「521レ」にお世話になりました。
どちらも、北陸らしい曇天の日で鉛色の日本海が印象に残ります。
「青海川」付近の海岸線が「ソフトタッチの海」、それに対して「親不知、子不知」は「厳しき海」という感じでしょうか。
やっぱり、鈍行紀行が一番ですね・・。
 前置きが長くて申し訳ありません。いつもの通りの鈍行紀行の「戯言」を並べます。
先達の皆様方の話題にしていただければ幸いであります。

 1 昭和53年の黄金週間、「磐越東線」の旧客鈍行に乗車。
11時過ぎに「平」を出て、13時半ごろに「郡山」に到着するローカル旧客でした。
薄曇りの阿武隈路は、田植え前の田んぼが山間に広がり、風情ある寒村風景に大満足。
先頭は「オハニ61」だったのですが、「ニ」の部分にも一般客が乗り込んでも、
いつものことなのか「郡山車掌区」のカレチさんは全く動じていませんでしたね。
本当に「のんびり」という言葉が似合う鈍行紀行でした。

 2 平成17年の盛夏、当地北海道の「最長距離鈍行」の「2429D(滝川発釧路行)」を完乗。
「キハ40」で下った「狩勝峠」は、S字カーブを左右に切る度に麓の「新得」の町並みも左右にも広がり、
遙か遠くに大雪が望める雄大な眺め。
さらに「厚内」からは「太平洋と湖沼・湿原」が広がる、乗り鉄ご推奨の「鈍行」です。
また、快晴の夏は沿線の温度変化が大変激しく、「スーパーおおぞら」を待避待ちした「幕別」では
車内温度が「35℃」まで上昇しましたが、終着の釧路到着時はなんと「20℃」まで急降下。
来年に「制覇」を予定されている方は、ぜひ体調を整えてからご挑戦下さい。

 3 昭和47年3月15日の「全国ダイヤ改正」に伴って、様々な「長距離鈍行」が廃止されましたが、
小生が「制覇」する前に廃止されてしまい、幼な心に地団駄を踏んだ「鈍行列車」がありました。
それは「米原発東京行」の「トカホセ電車鈍行」。
確か、「米原」を早朝5時過ぎに発車して「東京」に16時半(?)ごろに到着する強者で、
「湘南色80系」で運転されていたはずです。
「鉄」親父は、「制覇」を目論んでいたようだったのですが、機会を逸してしまったようでした。
もし、ご乗車された先達の方がいらっしゃたのであれば、想い出話をお聞かせいただけないでしょうか・・・。

 長々と失礼いたしました。また、投稿致します。以上、「中年客車鉄ちゃん」でした。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2008年 9月26日(金)16時27分39秒
タイトル イネ、ロネの乗客
P誌の記述は間違いでしょう。私の父は戦前神戸で小さな会社を経営して居ましたが
17‐18レ(1。2等急行)のロネで東京出張、507-508のマロネロ38、時には7レ
のロネで帰神したり(17レが取れなかったら)しました。私も両親と「かもめ」で
上京、北陸経由で帰った時に602レ(急行)の「ロネ昼間開放」に金沢から乗りました。
1等は大臣、高官、佐官以上、大会社社長、代議士が多かったのは事実でしたが
内田百先生みたいな「贅沢汽車旅族」でも商店経営者でも運賃を払えば余程の
オカシナ風体でない限り乗れた筈です。
喜劇役者の古川ロッパなども「富士」の展望車で興行旅行した記述があります。



投稿者 マロネ29
投稿日 2008年 9月26日(金)17時57分47秒
タイトル RE:実は一般庶民でも乗れた「イネ」「ロネ」
らん丸様の書き込みを拝見し、人によって感じ方が異なるんだな、文章を書くのは難しいなと
感じています。
(私はピクトリアルの著者ではありませんし、著者を擁護する目的もありません)

>「乗れない」理由はあくまでも2等は3等の3倍・1等は3等の6倍の運賃を払わなければ
>ならず、当時の平均年収と比較して「非常に高すぎる乗り物」だった

これは事実であり、全くその通りでしょう。

>現実、一等寝台を「道楽」で乗っていた(普段の生活を切り詰めても道楽に命をかける人は
>どの時代にもいました)「普通の庶民」もいるだろう。

ここで認識に差が出てくるようです。現代はフツーのOLが数ヶ月の倹約の結果としてルイ・
ヴィトンのバッグを手にすることが普通のことです。しかし、この感覚は「一億総中流」と言
われるようになった昭和40年あたりから以降のことなんですね。
江戸時代の士農工商という厳然とした身分制度から100年の歳月を経て「一億総中流」に至った
訳で、この100年間を現代の感覚で語ってしまうと大きな間違いを犯してしまう可能性がありま
すね。
1等寝台が廃止された昭和30年より前は、「切り詰める余裕すらない庶民」が多数存在していま
した。
また、「道楽に命をかける人」は余裕がある層であり、「庶民」という範疇に入るかどうか微妙
かと思います。
おそらく、らん丸様はマロネ29、オロネ10やナロネ21の現役時代をご存知ない世代なのかと推測
しております。
このような昭和40年以前の社会情勢を知っている世代としては、『「上流階級の乗り物」という
「空想的」な事 』とは思いませんし、『こういった「事実」』が書かれていなくとも違和感は
ありません。

客車の話題から離れてしまって申し訳ありません。
ちょっと違和感がありましたので書き込みさせていただきました。



投稿者 EF6113
投稿日 2008年 9月26日(金)19時50分9秒
タイトル 百けんは偉い人
マロネ29様のおっしゃるとおり「イネ・ロネは上流階級しか乗れなかった」という記載は
「お金を持っていても社会的地位が高くなければ乗ることができなかった」ということではなく、
「イネ・ロネに乗ることができる、乗ることを考えるほど余裕のある経済力を持ってる人、
会社、職場からイネ・ロネを使用した運賃を出してもらえる人はとても少なかった」ということでしょう。

新幹線開業前にクロ151に乗ったことがある人を探したことがありますが、
今のところたった1人だけしか見つかりません。
その方のお爺さんが旅館業で財をなし、乗り物好きということでその方が小学生時代、
家族旅行の際に区分室に乗ったことがあるそうです。もちろんお爺さんが旅費を出したとのこと。

内田百けんは戦前は陸軍士官学校教授、法政大学教授、海軍機関学校の非常勤講師をしていました。
とても「偉い人」だったわけです。
教員をやめたあとも日本郵船の非常勤をしていましたが、郵船の本社で個室を与えれるぐらいかなり優遇されています。
少なくとも2等を利用した出張費が出るポジションにはいたと考えられます。
戦後の「阿房列車」についても、一緒に行動した平山三郎氏は国鉄勤務であることから、
「阿房列車」の執筆は国鉄のPR目的だったと思いますので、国鉄が百けんから実際お金を取ったか大いに疑問です。
そうでなくても出版社が立替えていたと思います。

名もない庶民の「旅」は映画「張り込み」に出てくる「三等の座席車に新聞紙引いて」というのが
実際だったのではないでしょうか?



投稿者 雪だるま
投稿日 2008年 9月26日(金)21時59分38秒
タイトル まりもが終って
まりもの運転が終り余剰になったキハ183系が苗穂工場に入ってますが、
一週間ほど前からスハネフ14も1両(グレー色)入っています。
もう復活しないのか?と毎日車内から見ています。



投稿者 ど素人
投稿日 2008年 9月26日(金)23時23分24秒
タイトル オロネ10のモケットの色
1等寝台車特集のピクトリアルが話題になってますが、
p22の「寝台室内は濃紺のモケットの..」を読み疑問が生じました。
私の記憶では、オロネ10のモケットはエンジだったような...



投稿者 竹中@ノーブルジョーカー
投稿日 2008年 9月27日(土)09時32分48秒
タイトル RE:オロネ10のモケットの色
>ど素人さま
鉄道ピクトリアル667号の<特集>国鉄型(10系)軽量客車・寝台車編に守門村のオロネ10のカラー写真が
掲載されています。車内の写真もあり、モケットの色は濃紺です。
現役中にモケットの張替えがあって色が変わってしまった可能性が大ですね。
車内の色については記録が少なく、模型化の時に困ることが多くて・・・
投稿者のホームページ



投稿者 マロネロ38
投稿日 2008年 9月27日(土)11時05分29秒
タイトル モヶットの色
特にロネはオカシナ色に張替えがありました。
大ミハのマロネロ38(急行501-502レ富山回転車、大社行夜行用)には「灰色」のが
あったのを見ています。「ロザ」の方は濃紺でしたが、ロネが灰色。



投稿者 下総守こみやさん(^^)
投稿日 2008年 9月27日(土)12時04分54秒
タイトル Re:実は一般庶民でも乗れた「イネ」「ロネ」
いろいろな文献を見るとお金さえ出せば乗れたと思います。その料金が払えるかどうかの問題ですよね。
但し、富士のマイネ38の特別室は皇族方の為に一般の人にはご遠慮願っていたみたいです。



投稿者 赤まんと
投稿日 2008年 9月27日(土)20時10分38秒
タイトル 昭和最後に登場した、庶民のための豪華列車
みなさまこんばんは。
なにやらイネ、ロネの話題で盛り上がっている様子で、興味深く拝見しております。
件の「ピクトリアル」は私も買って、暇を見つけては少しずつ楽しんでおります。
さて、イネ、ロネは一般庶民にも乗れたかどうか、ですが、私は「あさかぜ」からナロネ20が引退する直前に生まれたため、
当然当時のことは資料でしか知りえません。
それとなく両親に訊いてみると、とてもではないが1等寝台など無理、というか、大半の一般庶民には、よほど旅慣れた人、
旅や鉄道そのものが好きな人以外、1等寝台、1等車に乗るなどというふうには、考えもつかなかったといいます。
昭和30年代は高度成長が始まったとはいえ、まだまだ日本全体が貧しく、生活することで精一杯。
レジャーという言葉が生まれても、その恩恵に与れるのはよほど恵まれた人たちであり、ごくごく少ない割合だったと話します。
現在はたとえ学生であっても、アルバイトで貯めたお金で、「カシオペア」なり「トワイライト」なりに乗れはします。
が、少なくとも国鉄黄金期は、何と表現したら良いか、適切な言葉が浮かびませんが、まだまだみな自らの「分」みたいなものを
わきまえており、仮に1等車に乗れるようなお金がたまたま手に入ったとしても、そんな贅沢はしなかったというのです。
1等車や特急列車というものはまさに特別な存在であったというのは、別に鉄道に興味を持たない両親の話からも伺い知れます。
尾久は特に都内でも下町であり、どちらかといえば、やはり貧しく、日々生活するのに懸命な住民の町だったのです。
したがって、中には幸運にもイネ、ロネや、その後の1等車に精一杯贅沢して乗ることができても、
そういう人でさえ、一般の人から見れば、充分恵まれた人、ということのようです。
私は、既にいろいろな特集記事にあるように、庶民には高嶺の花であり、とても手が届くようなものではない、特別な存在だった、
と捉えるほうが、より一層、1等車の価値、輝き、ロマンといったものが高まると感じています。

話はガラリと変わりますが、昨日、都内某所へ、トミー「さよなら銀河」セットを買いに、
蓮田9時06分発逗子ゆき湘南新宿ラインに乗りました。
その4分前、定時に「北斗星」が通過してゆきました。
3795本目の編成記録はバッチリで、意気揚々、E231系に乗り込みました。
列車は滑らかに走り、川口を過ぎ、いよいよ荒川橋梁にさしかかり、都内に入ろうかというところ。
60キロ程度でのんびり走る「北斗星」を難なく抜き去りました。
このダイヤにはびっくりしました。
こちらが赤羽に停車中に抜き返されましたが・・・。
昭和末期に登場した、庶民のための豪華列車(スミマセン、ピクトリアル誌から表現を借りました)は、
後続の通勤列車に抜かれてしまうダイヤなのでした。
蓮田〜上野は35キロほど。各駅停車は35分前後で走ります。
「北斗星」は大宮にしか停まらないのに、上り39分、下り35分所要です。
ゆったり走るのはいいのですが、通勤列車に抜かれるとなると、複雑です。

長々脱線した内容、失礼いたしました。
留意したつもりですが、不適切な表現がございましたら、お詫びいたします。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2008年 9月27日(土)20時14分50秒
タイトル マイネ38
皇族用車でしたが皇族が利用されない時は陸海軍の将官や代議士が利用したの
では?
「大本営が震えた日」(吉村 昭著)に開戦直前に会議を終えた山本五十六
が徳山まで行くのに「富士」にイネを増結して、怪しまれない為に他の海軍
士官もそのイネに乗車させた---との記述があります。徳山は海軍燃料廠があった
所ですが----



投稿者 クモイ103
投稿日 2008年 9月27日(土)20時35分35秒
タイトル Re:実は一般庶民でも乗れた「イネ」「ロネ」
 くだんのピク誌を本日入手しました。これでやっと話題に参加できます(笑)。

> 何故、こういった「事実」を書かずに「上流階級の乗り物」という「空想的」な事しか書かないのだろうか?
…という疑問をお持ちになったらん丸様は、何かご自分で答えを見つけるための努力をなさったのでしょうか…
という点も気になりますが、まあそれは置いといて…

 今回のピク誌の文章では「上流階級」でなく「特定の身分」という文言が使われていますから、その表現に従いますね。

********

 いま大宮の鉄道博物館に保存展示されている1号機関車が、文明開化の牽引車として華々しくデビューしたのは
明治5(1872)年。
当時の運賃は「下等」でさえ37銭5厘(米一升が5銭)と、とうてい庶民が気軽に利用出来るものではありませんでした。
しかし、それでも多くの江戸っ子、ハマっ子が利用したようです(当時ハマっ子という概念は無かったか(^^;)。
 開業式典と記念列車には天子様もお出でになったという「陸蒸気」ですから、多くの庶民にとっては、
それに乗ること自体が特別な「ハレ」の行為だったと解釈して間違いないでしょう。

 「ハレ」とは、正月をはじめ儀礼や祭りなどの(良い)「非日常」のことです。
それに対して、生活時間の大部分を占める「日常」は「ケ」と呼ばれ、この2つは対をなします。
「ハレの日」には庶民も特別な正装をして、特別な食べ物を頂き、
普段接することの叶わない「特定の身分」の人とも同席したり、場合によっては親しく会話できたりもします。
 …なんて話は、実はせいぜい数十年という短い間に、私たちが急速に忘れてしまっただけで、
もともとは日本の風土に古来根付いてきた常識…というか「自然な感覚」だったんですね。

 鉄道が普及し、「下等」(のち「三等」と改称)は庶民が普通に利用するものになっていきましたが、
「上等」(→「一等」)は、やはり「特定の身分」の人のものでした。
 なお、「中等」(→「二等」)は、庶民が「ちょっとした贅沢」で乗れる感覚だった様です。
それをうかがえるのが夏目漱石の名作「坊っちゃん」で、
松山に赴任した主人公が仲間と連れだって道後温泉に出かける際、
「青切符」(=二等)を奮発するというくだりがあります。

 坊っちゃんはその後「湯舟で泳ぐべからず」との「規定」?をつきつけられますが(笑)、
「庶民は一等車に乗るべからず」なんて「規定」はありません。
従って、実際に小遣いをはたいて乗った人がいても別に不思議はないのですが、
それでもやっぱり優等車両は「特定の身分」の人のものだったんです。何故でしょうか?

 もうお分かりと思いますが、庶民が優等車に乗る事は「ハレ」の行為なんです。
それなりの覚悟をして、「特定の身分」の人と同席しても良いような身なりを整え、
場合によっては物腰や言葉遣いすらも改まって乗るのですから、
それはもはや「庶民」の行動とは一線を画したものになります。
 温泉行きの二等車ならまだしも、特別急行「富士」のマイネ37130に
下駄履き・着流しで足を踏み入れるような「たわけ」は、常識的に居なかったと考えられます。

 「ハレ」と「ケ」、つまり非日常と日常の区別が薄れ、
かつては「ハレの日」でなければ得られなかったモノやシチュエーションを、
日常の気まぐれ次第、金次第で手に出来るようになったのは、ほんのここ数十年のことです。
昭和63(1988)年に「北斗星」が登場した頃、
上野駅では毎日「ロイヤル」で出発する客に駅長が直接挨拶したそうですが、
その客が子供であることが時々あるというのが話題になりました。
 子供の小遣いで「ロイヤル」に乗れる、というより「親が乗ることを許す」というのは、
少なくとも「イネ」が活躍した時代には考えられない破廉恥なことでした。
禁止されていたわけではないけれど、常識的に誰もやらなかったのです。

 そう、「特定の身分」がなければ乗れなかった…というのは、「規定」などではなく「一般常識」だったのです。

********

 今回のピク誌の記述をはじめ、心ある著述者が折に触れて同様のことに言及するのは、
そうした当時の一般常識を、それを忘れてしまった現代の読者にきちんと伝えなければ、
鉄道の辿ってきた歴史が背景を失い、どこか遠くの国の夢物語に成り下がってしまうと懸念するからに相違ありません。

 鉄道のこと、ましてや本掲示板の主旨である客車のことを話題にすれば、
数十年、或いはそれ以上にわたる歴史の流れが舞台となることが自然と多くなります。
 昔のことを語るには、当時の人々がどういう常識に基づいて行動していたのか? 
現代の常識はその時代に通用するのか? 
ということを考えないと、本質を外した議論に陥ってしまう恐れが多分にあります。
常に気にかけていたいものです。


 マロネ29様のご発言には略同意いたします。
また、本書き込みを下書きしている間に、赤まんと様からも私と同趣旨のご発言があり、意を強くした次第です。
 長文失礼しました。m(_ _)m



投稿者 赤まんと
投稿日 2008年 9月27日(土)21時45分23秒
タイトル キーワードがありますネ
たびたびの投稿、失礼いたします。
こんかいの「ピクトリアル」の中村光司さんの記述の結びに、絶好のキーワードがありますね。
「是非今の視点ではなく、当時の視点で考えて頂きたい」
昭和49年生まれの私にとって、昭和30年代は小学生高学年の時分から、心惹かれる、じつに興味深い時代でした。
今でも書店でいいものを見つけると、財布と相談し、当時の世相について書かれた本や
、町並みを写した写真集を買っています。
また、乗用車もかなり好きなので、やはりそれについての本は増えています。
これらと当時の客車全盛時代とを重ね合わせていくと、また深く面白く感じることができます。
ほんとうは、資料だけではなく、実際に当時を生きた方と交流し、いろいろな生の体験談を聞いてみたいものですが。

らん丸様
当時を知らない私がこう書いてしまうのも生意気ではあるのですが、あれこれ記述や、
当時を生きた身内の話などから判断し、どうも1等車というのは、ほんとうに特別な存在で、
庶民には高嶺の花の、オーラを放つ存在だったようです。
だからこそ、半世紀を経てもこうして語り継がれる存在なのだ、と捉えれば、さらなる興味もわくのではないでしょうか。
イネ、ロネについてはまだまだ未知の部分が相当あるように思います。
今後、趣味誌で従来、明かされることのなかった内部写真や経歴などが公表される可能性があると期待しています。



 
 
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