倶楽部メモ(426)
平成20年 5月26日〜 5月31日



投稿者 らん丸
投稿日 2008年 5月26日(月)20時48分14秒
タイトル 長距離急行列車の列車番号について
特急列車は一桁もしくは二桁(の単独もしくは頭に1000番が付く)、急行列車は三桁という形になっている列車番号ですが、
古い資料を読んでいると、同じ東京発の急行でも「高千穂」「霧島」「安芸」「出雲」「瀬戸」などは30番台の二桁、
それに対して「銀河」「紀伊」「東海」は三桁数字という風に別れていました。

「霧島」などと「東海」「紀伊」は同じ急行でも何か「ランク分け」されていたのでしょうか?



投稿者 クモイ103
投稿日 2008年 5月26日(月)23時07分41秒
タイトル Re:大社急行
マロネロ38様
 食堂車も丸屋根ということは、全室食堂車になっていたわけですね。
 ピク誌の「国鉄急行列車愛称変遷史」では、S.10.3.15新設、S.18.2.15廃止で、
 マロシ37900が連結されたとだけ記されています。
 当時本州では珍しかった半室食堂車が使用された点について「ローカル急行的性格を物語っている」と評されていますが、
 末期においては立派な幹線急行に成長していたのでしょうね。貴重なご証言、ありがとうございます。

 現代の感覚からはつい忘れがちな事ですが、昔は格式の高い神社への参拝客が、
 鉄道の大きな需要を形成していたようですね。
 江戸時代の「お伊勢参り」の流れを汲む参拝行脚の需要は、現代の「初詣臨」とは違って、年間を通して安定しており、
 定期列車の運行に値するものであったと察せられます。
 実際、伊勢神宮のお膝元伊勢市へ向け、東京から急行「伊勢」が、近畿圏からは所謂「鳥羽快速」、
 のち急行「志摩」が長らく運行されていたことは、「参拝需要」がかなりあった為ではないかと愚考します。
 そう考えると、くだんの大社急行401-402レは「出雲大社への参拝列車」ということになり、
 特急並の停車駅や、当時としては豪華版と言えるオール丸屋根の客車編成も、
 この列車の性格から来る「格式」を表していた様にも思えてきます。

 …なんて話は、考えすぎでしょうか?



投稿者 クモイ103
投稿日 2008年 5月26日(月)23時36分28秒
タイトル Re:長距離急行列車の列車番号について
らん丸様

 東京発の東海道長距離急行が、長らく2桁の列車番号を名乗っていたのは、
 かつて急行が数少ないエリート列車だった頃の名残ではないかと思います。
 全国津津浦々に急行が走ると2桁ではおさまらなくなったものの、
 エリート中のエリートである東海道の長距離急行だけは一段高い地位を与えられ、
 ご指摘のように「ランク分け」されていたのでしょうね。
 その最後の1往復31-32レ「霧島・高千穂」も、「桜島・高千穂」と名を変えて
 1年半後の昭和47年3月改正で、ついに1101-1102レとなり、
 一気に100番台の「銀河」よりも「格下」になってしまいました。
 もっとも、昭和40年10月改正以前は「銀河」など東京−関西間急行の列番は10番台で、
 30番台の九州急行より「格上」でしたから、元に戻ったとも言えますが。

 興味深いのは、元々3桁の列番だった上野−仙台・盛岡・青森間の急行列車が、
 昭和36年10月改正から2桁の列番となった事です。
 4年後の昭和40年10月改正でまた3桁に戻りましたが、
 なぜこのような変更が行われたのかわからず、ちょっと興味があります。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2008年 5月27日(火)10時20分3秒
タイトル 特急の列車番号
戦前は戦後と大分違った分類でした
1011-1012レ=臨時「燕」東京−大阪(テールサインに赤線が斜めに入っていた)
=「臨つば」とか「子燕」と呼ばれていた。1031-1032レ「鴎」、それに「燕」が
11-121レとか二桁でした。
1-2レ「富士」、3-4レ「桜」で5-6レはもう急行下関行でした。
それから本HPにあるマロネフ38(マイネロフ37)は「臨時燕」に連結されたり、
「鴎」に連結されたりで、昭和15年8月に両親と東京見物に神戸から「鴎」1032レ
に乗った時は「増8」でした。食堂車が確かに「冷房車」だったのでマシ38だった
のか、それともスシ37に一部「闇冷房車」があったと聞いた事もあるので、それだっ
たのか?(特急のサービスを平均化するための員数外改造?)未だに解りません。
(型式は16年改番を使用)
姫路−鳥羽快速はオロ35が連結されて居た列車も。戦後復活してたしか「ロ」の客
が減少したので最後はスロハ32使用でした。戦前は本数も多く801-802レ宇野−鳥羽
(ロネつきで多分マロネロ37?)とか当時の「お伊勢さん」の御威光全盛時代が解
ります。
大社急行は「出雲大社参詣」と「沿線温泉客」が対象だったのが確かです。



投稿者 雑魚
投稿日 2008年 5月27日(火)13時31分47秒
タイトル 新八ッ山橋にて
▼クモイ103様:
>「あさかぜ」が物議を醸した昭和31年当時(中略)何も問題はなかった

その様な事情があったのですか。そうした歴史的な背景に鑑みても、山陰線の区分は、
京都ではなく大阪(尼崎)を起点とした方が、判り易い印象ですね。

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画像は先日、東京出張の序でに、品川駅南側の新八ッ山橋で撮ったものです。前後に、
国鉄特急色 183系による日光行の修学旅行集約臨も通過。只でさえ通過列車の種類が
豊富な処にあって(EF65+ホッパー車二両もありました)充実した陣容でした。

近所にある京急北品川駅は「品川宿の北側」更に北側に位置する品川駅は「品川宿の
玄関口という意味に基いた命名という事は、以前申し上げたと記憶しますが「茨城県
北相馬郡&福島県南相馬市」と同様、かかる「南北逆転状態」を解消いできないかと、
余計な心配をする雑魚でした。




投稿者 雑魚
投稿日 2008年 5月27日(火)14時10分11秒
タイトル 品川駅にて
▼廣瀬正幸様:
> 観光シーズン中、人気の動物の前は長蛇の列であり、2時間待ちもざらです。

貴重な渡道の機会を「行列待ち」で潰すのは、私の妙なプライドが許しません(^^)

> なお、札幌・旭川間に臨時特急「旭山動物園号」が運転されます。

北大鉄研サイトのトップで、大きく紹介されていますね。丁度「ハウステンボス」を
連想させる塗装です。札幌〜旭川の便に気動車を当てたのは、他線区での「巡業」を
考慮した結果でしょうか。この写真、桑園か琴似での撮影と思えば、旭川四条との事。
そうか、旭川運転所の移転で、宗谷線が「部分電化」されたのですね。

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八ッ山橋に続き、仕事が一段落した午後、寝台車の留置編成を期待しつつ、品川駅の
臨時便用 9・10番線ホーム北端に赴くも、見事に裏切られました(中央奥に少しだけ
見えます)数年後に再開発を控え、このアングルから青い客車の雄姿を目にする事は、
もはや無いのでしょうか(寂)




投稿者 EF5841
投稿日 2008年 5月28日(水)23時59分6秒
タイトル 東海道本線 30列車
東京機関区「3A仕業」すなわち、特急「はと」の運用の戻りは、米原ー東京間30列車でした。
この30列車、優等列車ではなく、普通列車です。



投稿者 下総守こみやさん(^^)
投稿日 2008年 5月30日(金)00時18分47秒
タイトル 30列車
EF5841様
優等車や食堂車はどんな扱いだったのでしょうか?興味津々(^^)
オールフリーなら当然展望車にダッシュ!

電車急行が健在だった頃帰りの通勤時間帯に普通列車として運用されていましたね。
当然グリーン車から席は埋っていきました。



投稿者 「ED76109」(廣瀬正幸)
投稿日 2008年 5月30日(金)00時47分26秒
タイトル 思ひ出すことなど・・・
 また、懲りずに投稿いたします。「30列車」が普通列車の列車番号であったとは・・。
それだけ、当時の「トカホセ」の長距離普通列車の位置付けが重要であったということなのでしょうか。
一つ賢くなった気がします。
 さて、「鉄」親父と辿った鈍行紀行の思い出を綴らせて頂きます。
先達の皆様の何かの話題の一つにして頂ければ幸いです。

 1 昭和45年の春休み、中央西線の「D51」牽引の旧客鈍行紀行の際、
「EF58」牽引の全車自由席「銀河51号」に東京から名古屋まで乗車しました。
しかし、スハフ42(?)の暖房が不調で、東京発車直後の車内は「冷蔵庫」状態。
大阪車掌区のカレチさんが、放送で「すんまへん」を繰り返し、大慌てで「最大」の状況で暖房を効かせてくれたのですが、
今度は暖房が止まらなくなってしまい、丹那トンネルを通過する辺りで何と車内温度は「30℃」。
大雨のため窓も開けられず、深夜停車した「沼津」で乗客全員が錆び付いた窓を全開にして一息ついた思い出があります。
(でも乗客一同、「臨時列車なんだから、仕方ないよ」と誰一人カレチさんに文句を言いませんでしたねぇ。
のんびりした時代でした。)

 2 昭和46年の盛夏、鹿児島県出水の親類宅に一週間お世話になり、
肥薩線の大畑ループ線の「D51」の混合列車紀行の帰路、八代から出水まで「ED76」牽引の旧客鈍行に乗車しました。
途中の「上田浦」で列車交換のため暫く停車しましたが、暮れなずむ有明海からの潮風と波音が心地よく、
周辺から聞こえる蜩の声に子どもながらに旅情を感じたものでした。
そして、潮風が運んだ甲高いフォイッスルとともに姿を現したのは東京行の急行「桜島」・・・。
スハフ33の最後尾から夕闇の海岸線沿いに消えていく「桜島」を見送りました。
本当に心が洗われるようなシーンでした・・・。

 3 昭和48年の春休みに初めて北海道に渡り、帰路に選んだのは旭川発函館行の「122」レ。
小樽から「DD51」に牽引され、とある山間の峠駅に止まりました。
「山線」の要衝駅「上目名」でした。遅れていた急行「ニセコ」をやり過ごし、
山間に汽笛をこだまさせて、列車は静かに動き出しました。
粉雪舞い散るホームで見送ってくれたのは、助役さん唯一人・・。
スハフ32の最後尾で直立不動の助役さんの姿を眺めながら、「鉄」親父が一言、
「俺たちが旅を楽しめるのは、ああいう人ががんばっているからだ・・。」子ども心に
「かっこいいなぁ。」と感動した記憶があります。

 今となっては夢物語ですが、先達の皆様方の「夢物語」も是非お聞きしたいものであります。
以上、「鉄」が元気だった頃の思い出話でした。



投稿者 雑魚
投稿日 2008年 5月30日(金)12時57分27秒
タイトル 思ひ出 「ボロボロ」
▼廣瀬正幸様:
> 深夜停車した「沼津」で乗客全員が錆び付いた窓を全開にして一息ついた思い出

似た様な経験としては、1970年代の前半、七夕に関連した仙台旅行で、往路水戸から
利用した旧客仕様の臨時昼行「十和田」が挙げられます。終始、混雑と猛暑に苛まれ、
昼過ぎようやく仙台に到着した時は、卒倒寸前の状態でした。

帰途は、親父が仕事の序でに宇都宮に来ていた為、これまた昼行臨時の「八甲田」を
利用しましたが、冷房が良く効いた12系は旧客とは雲泥の差で、子供心に、東北線と
常磐線の格の違いを思い知らされました。ちなみに、茨城県では「無敵」の常磐線も、
四ツ倉以北の大半が単線区間である事を、この時初めて知りました。

> 暮れなずむ有明海からの潮風と波音が心地よく、

上田浦駅というと、天草の島影をアクセントに「海に沈む夕陽」が楽しめそうですね。
私は、学生時代の80年代半ば、貧乏学生の強い味方「ワイド周遊券」で、九州各地を
悪友数名と渡り歩いた際、肥後二見〜上田浦を徒歩移動しながら「はやぶさ」を含む、
鹿児島線の各列車を撮った事があります。

夏の有明海は、資○堂の「サマー・ナ○ト乳液」よろしく、実にまったりした印象で、
持参した「ウォーク・マン」で聴いた、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」の
印象そのものでした。通過列車も然る事ながら、沿線のみかん畑の斜面に設けられた、
モノレール式の特殊軌道にも、大いに「萌え」ましたね(^^)

この区間は後年「ハイパー・サルーン」G車の先頭展望席を奮発、改めて乗りました。
電化路線で、ここまで海岸線が肉迫するのは、他には函館線の張碓の前後くらいかと
思える程に素晴らしい車窓風景でしたが、新幹線開通の代替措置で、普通列車のみの
閑散路線となったのは、情緒面に限って言えば、寂しい限りですね。

> 俺たちが旅を楽しめるのは、ああいう人ががんばっているからだ

首都圏の大学に在籍した当時、加悦鉄道を訪ねる為だけの理由で丹後地方を旅行した
筋金入り「鉄」の親父も、同様の事を申しておりました(^^)その際、鉄道員を指し、
良く「ぽっぽ屋」と表現していました。茨城の方言かと思いきや、例の映画の公開で、
実は、全国区の言い回しだった事が判明しました。

なお先日、教養課程を過ごした神奈川県の日吉に赴いた親父は、東横線の運転系統の
激変振り(日比谷線開業前の上り電車は全て渋谷行と思われます)に「浦和美園行?
元町・中華街行? グリーン・ライン? 何、それ?」と「浦島太郎パニック状態」で、
帰宅後「俺の『鉄勘』も鈍ったもんだべな」と溜息(^^)

かく言う私も、元東京都民のくせに、都営大江戸線は勝手が判らず、利用した験しが
全くございません(^^)



投稿者 バンブー
投稿日 2008年 5月30日(金)14時24分7秒
タイトル 30列車?
>EF5841様

東京機関区「3A仕業」というのは牽引機関車(EF56orEF57?)の運用ですよね?

また、米原−東京間30列車(普通列車)の件ですが、いつ頃存在したのでしょうか?
あいにく昭和30年代以降の資料(時刻表等)しか持っていなく、30年代前半には30列車は
存在せず、2桁列車番号はすべて急行列車ですので、昭和20年代のお話かとは思うのですが、
詳しいお話をお聞かせいただけると嬉しいです。



投稿者 ヒゲ無し雷鳥
投稿日 2008年 5月31日(土)00時04分35秒
タイトル 30レ
はとと共通運用ということはS25.5以降ですね。



投稿者 himeikanai
投稿日 2008年 5月31日(土)11時44分36秒
タイトル 客車の外板
 1年振りの投稿で失礼いたします。(以前「昭和型」客車を提案した者であります)

 昨夜、国策(中央政府の組織でないので「国営」と言難いか)衛星放送で蒸気機関車映像を見、大いに感激しました。
 さて、そこでの疑問は、外板の剥れた客車が殆ど出てこなかった事実であります。
 最近の寝台列車の一部や、国鉄末期の大垣夜行電車などでは、外板の塗装が剥れた車両が多く、
 「終わっているな」とつくづく感じました。
 一方、映像の中の昭和30〜40年代の客車は殆ど鏡の如くピカピカで、整備の質の高さを痛感します。
 一体いつごろから日本国鉄の車輛整備状態が落ちたのか。甚だ残念であります。

廣瀬正幸様
 「桜島」といえば、家族旅行で浜名湖へ行った際、後に貴重映像になるとは全く気づかず、
 停車中のオロ11の前で記念写真をとりました。
 当時住んでた横浜から「こだま」で行った筈で、今思えば、廃止直前だし、横浜から「桜島・高千穂」に通しで行けば、
 ガラガラで気分よく、大変貴重な体験で、なにより旅費が安かったろうにと、残念であります。
 また、中央西線は、昭和50年8月、既に煙の出ない機関車時代に塩尻→上松に乗りました。
 まだ子供で、撮影どころか、編成記録をとる発想がなく、やはり残念乍、記憶だけしかありません。

雑魚様
 上記の当時、東横線は銀一色の車輛が横浜で国鉄の上を悠々と横断し、子供にとって大変魅力ある光景でありました。
 その数年後、153・155系時代の日光集約臨の乗客となり、いまはなき(いづれ復活する)東京上野回送線を通過しました。
 当時、この線がいづれ廃線になる計画を知ってたため、意識して車窓を見た記憶があります。

EF5841様
 昭和50年代、40台は荷物列車、30台は急行荷物列車だった記憶があり、後の41レ「あかつき」など、
 ”番号はまるで荷物列車”と思っておりました。

そういえば、昭和30年代の映画で、他の場面には全く興味なかったにもかかわらず、
羽田空港の場面で、当時の東京の空の広さに大変感激しました



投稿者 マロネロ38
投稿日 2008年 5月31日(土)15時28分21秒
タイトル 30レ
勘違いされている方も居られるみたいですが「機関車の運用」で米原から上り30レ
を牽引したと云う事でしょう。
ということは昭和31年11月19日以前ですね。その頃の時刻表阪神淡路大震災の
被害で無くなってしまって−−−−25年10月のには30レ無いですよね。
EF56なら米原午後の上りを引いていたのを見ていますが「はと」の帰りなら夜行で
しょうけれども----



 
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