倶楽部メモ(332)
平成18年 7月31日〜 8月 4日


投稿者 若松
投稿日 7月31日(月)15時52分3秒
タイトル 尼港線の電化
>1956年に尼崎−塚口の一駅間のみ電化

これは「つばめ」「はと」の方向転換のための電化ですね。



投稿者 雑魚
投稿日 7月31日(月)17時48分56秒
タイトル SLホテル
> これは「つばめ」「はと」の方向転換のための電化ですね(若松様)

御教示、有難うございます。北方貨物線絡みの方転において、線路要領に余裕のある
福知山線、ないし塚口駅を引上線に充てた、という感覚でしょうか。

さて、小岩井牧場では御覧の様なSLホテルもありました。各種案内を拝見しますに、
20系寝台車を個室に改装したものだそうで、何やら学生時代の低予算旅行で重宝した
ユース・ホステルを連想しますね。北海道の「三大○○○○」ユース制覇を競うなど、
周囲のバイタリティーに触発された学生時代が懐かしい処です(^^)



投稿者 EF5841
投稿日 7月31日(月)18時58分49秒
タイトル 東京口
> これは「つばめ」「はと」の方向転換のための電化ですね

東京口では、品鶴貨物線の品川ー蛇の口及び蛇の口ー大崎が該当します。


投稿者 尼港線
投稿日 7月31日(月)19時23分56秒
タイトル 塚口駅&尼港線
> 北方貨物線絡みの方転において、線路要領に余裕のある福知山線、
ないし塚口駅を引上線に充てた、という感覚でしょうか。
ご想像の通りです。
塚口駅は工場地帯の真ん中にあって側線も多く、機回しも容易だったので選ばれたと聞いたことがあります。
回送経路は大阪→塚口→宮原(泊)→大阪とのこと。
一等展望車と、のちに投入されたスハ44、スハニ35のための方向転換ですから、
電化以前の、戦後の特急復活時から行われていた回送だったのでしょう。
1956年に東海道本線が全線電化されたので、EF58牽引のまま回送できるよう、尼崎〜塚口も電化されたのですね。

「尼崎港線」は私が福知山線の客レに親しんだ昭和40年代後半〜昭和50年代には、もう1日2往復で、
DD13がスハフ42×2を牽引していました。
「暖房が効かない」との苦情が多かったそうですが、暖房のしようがなかったのですね(笑)
最晩年には塚口〜尼崎港の運転でしたが、確か「53.10」までは川西池田〜尼崎港の運転でした。
小学生の頃、朝の1往復を終えて川西池田に戻ってきた2両の客車のうち、1両だけを切り離して
入ってきた大阪行きの客レの最後尾に連結し、もう1両は側線に留め置かれたのを見て、
「何でそんなことをするのだろう?」と不思議に思った記憶がありますが、
それが「運用」というものだったのですね(笑)

家族で梅田へ買い物へ行った時、阪急で帰ればいいものを、よく「福知山線で帰ろう」とせがんだような小学生でした。

投稿者 雑魚
投稿日 8月 1日(火)15時41分21秒
タイトル 尼崎港駅
> 塚口駅は工場地帯の真ん中にあって側線も多く、機回しも容易だったので選ばれた

尼崎駅では元々、こうした車両の遣り繰りには対応が出来なかった、という訳ですね。
一方、EF5841様より御教示を頂いた東京の事例では、エンド交換を本線上で行った
事になるのでしょうか(驚)

> 昭和40年代後半〜昭和50年代には、もう 1日2往復で、

市外局番が大阪市と同じ「06」という大都市にあって日中線以下の陣容とは …(^^)
尼崎港駅は、尼崎城址公園の少し南側、神戸税関尼崎支所の辺りにあった模様ですね。
税関支所の存在にも鑑みるに、以南の一帯は埋立地で、元々は同駅一帯が船舶接岸に
対応していたのか、などと想像しています。

> 阪急で帰ればいいものを、よく「福知山線で帰ろう」とせがんだような小学生

1981年(塚口−宝塚の電化開業日に、尼崎港支線が旅客営業を廃止)以前の福知山線
沿線では、生瀬以遠への直通需要を除けば、圧倒的に阪急優位だったでしょうからね。
三田市が大阪の衛星都市としての性格を強めた北摂ニュータウンの誕生はその翌年で、
それまでは、神戸電鉄を介した神戸志向が、相対的に強かったのかと想像しています。

宝塚と三田を隔てる武庫川渓谷は、並行道路が無い急峻な地形で、旧線活用の有無を
除けば、1989年に新線に移行した、山陰線の保津峡区間と酷似していますね。未だに
道路事情が極端に悪い武田尾温泉の利用客は、今でも大半が、JR利用なのですかね。



投稿者 壁線
投稿日 8月 2日(水)14時59分1秒
タイトル はつかりの方転
はじめまして。
「つばめ」「はと」「かもめ」の方転は知っていたのですが「はつかり」の方転の方法が分かりません。
何線を使っていたのか教えて下さい。



投稿者 尼港線
投稿日 8月 2日(水)17時41分22秒
タイトル Re: はつかりの方向転換
・青森側=青森〜滝内(信)〜青森操車場〜青森
今、「北斗星」が通過している短絡線を利用していました

・東京側=上野(推進回送)〜尾久〜田端操車場〜隅田川〜上野

「鉄道ピクトリアル」2002年7月号(No.719)のp.52、53に、客車特急の方向転換についてまとめた記事があります。


投稿者 尼港線
投稿日 8月 2日(水)18時03分38秒
タイトル Re: 尼崎港駅
尼崎駅をはじめ、東海道本線神戸方面の各駅は戦前から複々線化されていますから、
外線から外線への折返しは難しいのです。
だから、塚口なのだったのでしょうね。

尼崎港は、福知山線の前身の「阪鶴鉄道」のさらに前身の「川辺馬車鉄道」が、
明治24年に最初に開業した時の起点「尼崎」駅でした。
古くからの尼崎の城下町(現・阪神尼崎駅付近)に近く、海運との連絡を考えた起点の選定だったと思われます。
尼崎港線自体は、旅客の動きと線形があっていませんでした。
福知山線の列車が大阪直通中心になり、阪神も開業すると、
「貨物線も同然」の姿になり、臨海工業地帯への通勤客がお客のほぼ全て、ということになったようです。

なお、武田尾温泉は数年前に行ったことがありますが、
旅館のご主人に尋ねると、お客のほとんどがゴルフ帰り(近隣に多い)の自家用車客だそうです。
道路事情はいいとは言えませんが、武田尾駅前からのバス路線もあるぐらいですから、
マイカー族にはどうということはないのでしょう。
武田尾駅は、今も昔も閑散としたものです。


投稿者 雑魚
投稿日 8月 2日(水)19時00分37秒
タイトル 武田尾
> 外線から外線への折返しは難しいのです。

そうか、京阪神地区の方向別複々線区間では、区間便の転線に伴う本線との干渉など
考慮して、外側が「快速線」だったのですね。かかる配慮が、新快速の高頻度運転を
容易ならしめたのかも知れませんね。

> 城下町(現・阪神尼崎駅付近)に近く、海運との連絡を考えた起点の選定

大阪市に隣接しつつも、藩政時代から独自性を維持してきた尼崎の地勢が窺えますね。
現尼崎−塚口の分岐点における曲線振りなど、正に後発的に敷設した区間である事を
如実に物語っている様です。その曲線が、昨年春の事故を招来した訳ですが。

> 尼崎港線自体は、旅客の動きと線形があっていませんでした。

阪鶴鉄道では、1897年に 1,067mm改軌、翌年に神崎(現尼崎)乗り入れを行っており、
当時既に、大阪発着の旅客需要を考慮する必要があったのでしょうね。それにしても、
旅客上の要衝を度外視していた尼崎港支線の経路は、南武線の浜川崎支線に相通じる
雰囲気を感じます。

> お客のほとんどがゴルフ帰り(近隣に多い)の自家用車客だそうです。

もしや、南側の読売C.C.や読売P.C.とは徒歩連絡が可能だったりして(^^)武田尾に
車で移動する場合、宝塚からですと、大峰山の北側を大きく迂回する事になりますが、
三田からは、更に面倒な感じですね。なお「マピオン」によると武庫川沿いの小道を
川下川堰堤付近で数百m延伸すれば、何とか道場方面に抜けられそうで、もどかしく
感じています(^^)

ちなみに武田尾駅は、武庫川の堰堤建設に備え高所気味に設置されているそうですね。
堰堤湖が出現した暁には、大井川鉄道井川線よろしく格好の景勝地となるのでしょう。


投稿者 岩崎安房守義将
投稿日 8月 2日(水)22時01分7秒
タイトル 方向転換雑記
皆様、暑中お見舞い申し上げます
 レールフェステ流山の関係で全く覗けもしませんでした電網ですが・・・
 方向転換の番外として、上野〜東大宮操車場〜我孫子〜上野や、
私共手配の団臨では本来、新鶴見〜日暮里〜上野となる予定が新鶴見〜田端〜上野となったり、
大宮〜新座〜南越ヶ谷〜大宮と回したりと随分お手間をお願いしたものです。
 運休となったものの、キハ82系4B道内一周企画の際は「出発前」に、札幌〜千歳〜追分〜苫小牧〜札幌と回転させて、
函館〜釧路〜網走〜新旭川〜稚内〜小樽〜函館の運用に備えて頂くものとなっておりました。
 過日も武蔵野線北小金線(南流山〜北小金)や馬橋線(馬橋〜南流山)で北斗星編成をひっくり返しておりました・・・
 さて、レールフェステも中盤でまたまたこれから徹夜です!それでは失礼致します!
投稿者のホームページ


投稿者 EF5841
投稿日 8月 3日(木)00時16分39秒
タイトル Re:方向転換
東京口の場合、大崎へ引き上げ、推進で蛇の口へ、そして牽引により東トウ(戦前)、東シナへという経路でした。

デルタ線ができる以前は、ターンテーブルにより行っていました。
下関口では、デルタ線がなかったので、長崎延伸までの間、最後までターンテーブルにより転換していました。


投稿者 雑魚
投稿日 8月 3日(木)15時51分18秒
タイトル 方向転換
> デルタ線ができる以前は、ターンテーブルにより行っていました。

これも、かなり面倒そうな措置ですね。一編成丸ごと回転可能な巨大転車台があれば
良いのでしょうけれど(^^)茂木駅における「SLもおか」の入替作業を見ていると、
機関車の機回しおよび方向転換と客車の転線から、結構、煩わしい事になっています。

> 長崎延伸までの間、最後までターン・テーブルにより転換していました。

関門隧道が開業した1942年より後であれば、小倉−黒崎−直方−伊田−城野−小倉と
一周させる方法も、考えられますね(^^)………冗談はさておき、当時の筑豊地区の
路線網は、筑豊地区各所から苅田港へのスルー進入を担う田川線など、エンド交換の
融通が効かない貨車編成に配慮した側面が小さくなかった様ですね。

画像は、立山砂防軌道の機回し線です。


投稿者 若松
投稿日 8月 4日(金)13時35分33秒
タイトル 蛇窪
蛇の口と書かれていますが、蛇窪(信)です。
おそらくかつては信号所で後に大崎(蛇窪)となったものと思います。
1980年頃までは上下線間に渡り線があり蛇窪折返しがあったと記憶していますが、
55−10改正で横須賀線が経由するようになったため撤去され、新鶴見以遠折返しになったのでしょうか。
最後までクロ157の方転に使われていたようです。
当時は恵比寿・蛇窪で折返しをする運用でしたっけ。


投稿者 雑魚
投稿日 8月 4日(金)18時13分54秒
タイトル 品鶴線
蛇窪………かつては窪地に蛇がウヨウヨいる様な物騒な地だったのでしょうか(実は
我が家の近所が同様の状態だったりして)一時期、東急大井町線沿線に住んでいた為、
下神明駅から俯瞰する蛇窪信号所は御馴染みの存在で、後年、西大井駅の設置決定を
聞いた時は、下神明駅に集約すれば便利だったろうにと、新川崎駅設置の時と同様の
違和感を覚えたものでした。

品鶴線と山手貨物線が平面分岐する蛇窪では、東京方面行の横須賀線と横浜方面行の
湘南新宿ラインが干渉する為、後者の相対的伸長を阻む隘路振りが顕在化していると
聞きます。これを解消する為、横須賀線から対向線を横切らず大崎に抜ける連絡線の
整備計画があるらしいのですが、西品川三丁目の辺りに短絡線でも設けるのですかね。

ちなみに「富士」「はやぶさ」の上り便は、一度遅延が発生すると、牽引機の性能を
以てしても、東海道線の首都圏区間でのダイヤ確保が困難となる為、横浜羽沢および
品鶴線を経由した上、品川駅にて運転を打ち切る措置が想定されており、実際これが
常態化している様ですね(最も不利益を被るのは横浜で下車予定の旅客でしょうか)

その品鶴線でも、湘南新宿ラインの増発に応じた整備が求められつつあり、唯でさえ
車両老朽問題を抱える寝台特急は「サンライズ」の交直流両用型を新規導入する様な
画期的な措置が講じられない限り、意外に近い将来、一大異変があるのではないかと
勘繰ってしまう次第です。


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