倶楽部メモ:客車倶楽部過去ログ集:客車列車の旅
倶楽部メモSP
南紀2号の謎
何故片方向のみの定期準急客車列車が存在したのか?



倶楽部メモ(256) 平成16年12月 2日〜12月13日

投稿者 紀州
投稿日 12月12日(日)23時44分28秒
タイトル 紀勢線の客車準急下り「南紀2号」
初めて投稿させていただきます。
突然違った話題を挟んでしまい大変申し訳ありません。
昭和30年代には、ほぼDC化を終えた紀勢線の優等列車ですが
不思議なことに、下り天王寺行の「南紀2号」のみ定期でありながら
SLが重連で牽引する客車列車でありました。
私の疑問は何故、片方向のみの定期準急客車列車が存在したのか?
この「南紀2号」は一時DC化されたものの、またわざわざ何故SL牽引で
客車列車として復活したのか?
そして、東和歌山ではED60の牽引力の関係で列車は二分割され先発と後発に分かれて
天王寺へと向かったらしいが何故ED60を重連にて牽引できなかったのか?
子供の頃からの長年の疑問です。
どなたかお分かりの方がおられましたら是非ご教示くださいませんでしょうか。
よろしくお願い申し上げます。

投稿者 クモイ103
投稿日 12月13日(月)22時53分55秒
タイトル Re:紀勢線の客車準急下り「南紀2号」
 紀州 様、はじめまして。
 手元の時刻表をひっくり返して見ました。
◆昭和34年7月号…
 紀勢本線全通時のダイヤでは、客車・気動車の上下のバランスはとれていました。
◆昭和36年9月号(※注)、昭和39年9月号、昭和39年10月号…
 準急「南紀」3往復のうち、下り2号(現在は「上り」となっている新宮→天王寺方向)だけが客車で、
 他の2.5往復は気動車です。
 さて、この時代の紀勢本線和歌山口のページをよーく観察すると、思わずニヤリとしてしまいます。
 なんと、名古屋−天王時間を走る普通客車列車(新宮−天王寺間夜行、のちの「南紀」→「はやたま」)が、
 下りのみ新宮で打ち切られ、そこから天王寺までの夜行区間は気動車普通列車が接続しているではありませんか。
 つまり、準急「南紀」のうち上下各1本は、普通列車とペア運用を組み、
 その片方が客車運用だったというのが、種明かしということになりますね。
 そこで、なぜこのような運用が組まれたのか、と考えますと、
 もしかして、南海直通客車の関係だったのではないかと思い当たります。
 下り新宮発天王寺行き準急「南紀2号」と、上り天王寺発名古屋行き夜行普通列車には、
 いずれも難波−新宮間の南海直通車が併結されており、
 これがうまく1日で往復する運用が可能なダイヤになっていたのです。
 これが、かの有名なサハ4800の運用だったのですね。
 (※注)昭和36年9月号では、下り「南紀2号」にも他の南紀号と同じく気動車マークが付いています。
 しかし、表定速度が他の2本より格段に遅い点、また、南海電鉄のページには気動車マークが無い点、
 そして南海直通列車の客車・気動車のバランスの点から、気動車マークは誤植で、客車だったのではないかと思われます。
 ちなみに、列車番号の末尾にM(電車)、D(気動車)をつけて区別するようになったのは、
 その翌月の36−10白紙改正の時からでした。
◆昭和42年9月号…
 天王寺口の定期優等列車から客車の運用はなくなり、
 名古屋−天王時間の夜行普通列車は、往復とも全区間客車の通し運転が復活しています。
 なお、南海直通客車は、上り(新宮行き)が従前通り名古屋行き夜行に併結ですが、
 下り(難波行き)は新宮を朝方に出る上り昼行普通列車に併結で、
 ねぐらの住之江検車区に戻る運用となっているようです。

 なお、阪和線内で2分割されたというお話、時刻表からは読みとれませんでした。
 ご指摘のおかげで、今まで気が付かなかったことに気付かせて頂きました。
 いや〜、時刻表って、ホントに面白いですねー。

倶楽部メモ(257) 平成16年12月15日〜12月19日

投稿者 紀州
投稿日 12月15日(水)08時36分9秒
タイトル 南紀2号の謎、よくわかりました!
クモイ103様、初めまして。
実に明確な回答をいただきまして、誠にありがとうございます。
PC南紀2号の折り返し運用は新宮夜行(名古屋行き)の前身だったわけですね。
そう言えば、たしか新宮夜行にハネが連結される前は1等車連結のマークがありました。
その後のダイヤ改正でこの新宮夜行に加えてDC急行夜行新宮行きが設定されたように思います。
これは私の推測ですが、DC夜行設定と同時に新宮夜行は1等座席車→2等寝台
下りPC南紀2号→DC化、南海サハ4801の運用…下りPC南紀2号→普通列車
このように改正されたのではないでしょうか?
PC南紀2号が一時的にDC化されたと言うのは時刻表の誤植でしょうか?
しかし、紀勢線急行群の愛称が「きのくに〇号」に統一されてからかなりの年月が経ったのち
指定券発売の電算化で普通列車指定席も愛称付きとなりました。
新宮夜行に「南紀」の愛称が復活したのは、それ以前のPC南紀2号の折り返し運用であった
ことに由来する…とは思えませんが、何かの「縁」があったように思えますね。
それと、クモイ103様の文面から推察すると南海サハ4801は唯一無二の
クルマであったわけですね。
PC南紀2号がDC化されなかったのは案外「南海電鉄」の意向もあった訳でしょうか?
私事ですが、PC南紀2号に乗車したのは6歳、普通列車の南海サハに乗車したのが
10歳のときのことです。かすかな記憶ですが蘇ってまいりました。
すみません、あと一つ疑問があります。それは牽引機がC57の重連であったように記憶
していますが、白浜以南にはC57は入線出来なかったように思いますがC58重連の
見間違いであったのでしょうか?
C58からC57へ牽引機を付け替えるなら紀伊田辺であろうかと思われますが…
ご存知の方おられましたらよろしくお願いいたします。
それと東和歌山で2分割は鉄道ピクトリアル2000年3月号に写真も出ていますが
何分ぐらいの続行運転であったのでしょうか?
クモイ103様、ありがとうございました。

投稿者 クモイ103
投稿日 12月15日(水)23時23分55秒
タイトル Re:南紀2号の謎
>紀州様
 お役に立ててなによりです。(サハ4801でしたね…(恥))
 牽引機の件と続行運転の件はわかりません。どなたかフォローをお願いします。m(_ _)m

投稿者 EF6480
投稿日 12月17日(金)01時35分21秒
タイトル 「南紀」の牽引機
 紀州さん、クモイ103さんこん**は。

 南紀の牽引機ですが紀勢本線全通後は新宮ー多気(だったと記憶)は旅客貨物共にDL(DF50ズルザー)
 の運転が前提でしたので新宮以東はSLは入線しておりません。(とは言っても「南紀」は白浜までの運転でしたが。)
 全通当時、紀勢本線には和歌山、田辺、新宮に機関区がありましてC57は和歌山に数両いたのみで
 手元の資料でC57ですが東和歌山ー白浜間で運転。
 あとは田辺、新宮に多く配属されていたC58の天下だったようですね。
 しかしながらかつて紀勢本線を走った旧客の準急はC57の牽引が目立ち
 「南紀」をはじめ全通時に全線を走破した「くまの」も東和歌山ー紀伊田辺間はC57が牽いています。

参考資料:主要客車列車編成順序表(S35,7)
投稿者のホームページ

投稿者 EF6480
投稿日 12月17日(金)02時11分32秒
タイトル 補足
 旧客「南紀」ですが昭和36年10月時点ではC58が牽いており牽引定数はC57に劣りますが編成が短いので定数以下であり、
C57での速度種別でも運転出来たものと思われます。

参考資料:主要客車列車編成順序表(S36,10)

投稿者 紀州
投稿日 12月17日(金)08時13分19秒
タイトル C58単機牽引でしたか!
EF6480様、はじめまして。解答ありがとうございます。
常にSLの重連であったというのは私の思い込みのようでした。
私が乗車したときは重連であり、鉄道ピクトリアル2000年3月号の記事にもSLの重連で…
と書かれていましたのでてっきり常時重連かと勘違いしておりました。
考えてみれば波動の特に大きい紀勢線のことですから、閑散期は減車すればいいことですよね。
長年の疑問が解決してきました。
EF6480様ありがとうございました。

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