倶楽部メモ:客車倶楽部過去ログ集:客車列車の旅
倶楽部メモSP
寝台車を連結した普通列車について
寝台付き普通列車はいつから存在したのか・寝台車のランクについて




倶楽部メモ(25) 平成11年10月21日〜11月 3日



投稿者 大和路環状線
投稿日 10月30日(土)00時48分40秒
タイトル 寝台付き普通列車(質問)
本文 基本的な質問になりますが・・・
大昔においては、普通列車に2等車を連結するというのはかなり一般的だったと思いますが、
寝台車の連結はどうなのでしょうか?

私が知っているのは、有名な「からまつ」「はやたま」「山陰」「ながさき」ぐらいです。
これらは比較的遅くまで残存していたために、
愛称付きかつ希少価値があるという点で有名な存在となり得たわけですが、
もっと遡れば寝台付き鈍行はそう珍しくなかったのかな?と思ったりしたもので・・・。

・寝台付き鈍行はいつ頃からあったのか。
・例えばどんな(区間の)列車に連結されていたか。
・車両はどのようなものだったか。(&優等寝台車の連結は?)
・上に挙げた愛称付き鈍行は、いつから10系寝台車に改められたか。
・その他のエピソード等々

このような観点でどなたか教えて下さい。
断片情報でも全然構いませんので、よろしくお願いします。
(急行の末端格下げなどはナシとします。(^^;;)



投稿者 AK1219
投稿日 10月30日(土)23時55分09秒
タイトル 寝台付き普通列車
本文 大和路環状線さん。こんにちは。
最近出た時刻表復刻版で確認しましたが、寝台付き普通列車は
○31年11月号にはなし。
○33年11月号では小樽-釧路間(のちの「からまつ」)のみ
○39年9月号では門司港-長崎間(のちの「ながさき」)と日豊線経由門司港-西鹿児島間
となっており、42年9月号でも39年9月号と全く同じ状況です。
車種については不明です。
ちなみに、急行くずれも39年9月号で「大和」(関西線経由東京−湊町間)と分割併合する
和歌山線経由王寺-和歌山市間の列車がある程度のようです。
これらの列車にはいずれも愛称がありません。(43.10でもないのだからあたりまえか。)
のちの「はやたま」「山陰」に相当する列車には2(1)等車は連結されていますが、
寝台車は連結されていないようです。
(ざっと繰ってみただけですので見落としがあるかもしれません。)
昔はかなり夜行急行が走っていましたから、寝台付き列車としては、やはり、そちらの方が
一般的だったのではないでしょうか。



投稿者 車掌
投稿日 10月31日(日)21時47分50秒
タイトル 寝台付き普通列車
本文 寝台付き普通列車の件ですが、たいへんおもしろい話題ですね。
昭和40年代前後の状況については、AK1219さんの書き込みの通りですが
多少補足いたしますと、

昭和42年10月時点では門司港−長崎・門司港−西鹿児島間の2往復で
共にオハネ12を1両連結していたようです。

昭和43年10月改正(いわゆるヨンサントオ)で5往復に増えまして
函館・根室本線 423・ 424列車(後の「からまつ」)
関西・紀勢本線 921・ 926列車(後の「南紀」→「はやたま」)
山陰本線    829・ 826列車(後の「山陰」)
長崎・佐世保線 1421・1422列車(後の「ながさき」)
日豊本線    521・ 522列車(後の急行「日南」?)
以上の5往復で、昭和51年3月にB寝台のマルス組み込みのため愛称がつき、
すべて10系寝台車(オハネ12・オハネフ12・スハネ16)を連結していたようです。

それ以前の状況を調べると、
後に「ながさき」となる門司港−長崎間の列車に寝台車が連結されたのは昭和39年4月からで、
当時はスハネ30が連結されていたという話も聞いたことがあります。
さらに戦前までさかのぼりますと、ロネ(二等寝台車)はもちろんイネ(一等寝台車)まで
連結されていた時代もあったようです。
ただ、当時は急行列車等は特別な存在であって、各地に長距離夜行普通列車が多数
存在していたようなので、この話題での寝台付き鈍行といえるかは?です。

参考文献:鉄道ピクトリアル 昭和42年10月号
     鉄道ジャーナル  昭和51年 9月号



投稿者 大和路環状線
投稿日 11月01日(月)23時24分13秒
タイトル 寝台付き普通列車(お礼)
本文 221レさん、AK1219さん、車掌さん、こんばんは。
早速様々な情報を提供して頂き、大変に感謝しております。(^^)
またレスが長くなってしまいました。どうかお許しを・・・。

●221レさん
>今のドリームにちりんの前身はなんと夜行普通列車です。
ご指摘を通して、そういう列車があったことを思い出しました。(相当久々に)
どうも有り難うございます。危うくおぼろげな記憶が眠り続けるところでした。(笑)
かつての寝台付き鈍行の中では最も発展的に継承されていて、頼もしいですね。

>43.10のころは名もありませんが、宮崎電化のころは快速みやざきと名乗
>りたしか寝台がついていたと思いました。
221レさんのご投稿を受けて、私も少し調べてみました。
「みやざき」は昭和46年に急行格上げとなっており、昭和50年3月改正の際に、
その時廃止となった京都〜都城急行の愛称「日南」を引き継ぐ形で改称したようです。

で、普通列車時代の「みやざき」はスハネ30が連結されていた模様です。
しかし、ご指摘にあるように「快速」を名乗っていた点は驚きです。
定期の夜行普通列車が「快速」を名乗リ出したのは、
てっきり土讃線の221レ(50系)が最初だと思ってましたもんで。(^^;

>ながざきを急行にするには区間が短すぎたのでしょう。
その短い区間に8時間半以上もの時間をかけ、遅くまで寝台車が残されたのは
興味深いところですね。目的地の性格上、観光等の需要が結構あったのでしょうか・・・。

●AK1219さん
>33年11月号では小樽-釧路間(のちの「からまつ」)のみ
ご丁寧に復刻版を調べて頂き、有り難うございます。
なるほど。釧路夜行には結構早くから投入されていたわけですね。

>ちなみに、急行くずれも39年9月号で「大和」(関西線経由東京−湊町間)と
>分割併合する和歌山線経由王寺-和歌山市間の列車がある程度のようです。
地元民として「大和」は一度この目で見ておきたかったですぅ〜。
(年齢的に無理なんですが。^^;;)
特急「あすか」で有名な阪和貨物線を通らずに、和歌山線経由の普通列車として
和歌山入りしたノンビリ感がナイスな列車です。

>のちの「はやたま」「山陰」に相当する列車には2(1)等車は連結されて
>いますが、寝台車は連結されていないようです。
「はやたま」も「山陰」も、その昔は紀勢本線・山陰本線を全線走破する途轍もない鈍行でしたね。
ところでこれも後で見つけたのですが、種村直樹さんの『遥かなる汽車旅』(日本交通公社)によると、
昭和38年頃の山陰本線には京都〜門司の夜行鈍行(座席のみ)の他に、大阪〜浜田・大社間の
寝台車付き鈍行(ニ等級制の1等寝台車・スロネ30(<推定>とある)を含む)があったそうです。

>昔はかなり夜行急行が走っていましたから、寝台付き列車としては、やはり、
>そちらの方が一般的だったのではないでしょうか。
少なくとも戦後は、そう沢山の普通列車に連結されたわけではなさそうですね。

●車掌さん
>昭和42年10月時点では門司港−長崎・門司港−西鹿児島間の2往復で共に
>オハネ12を1両連結していたようです。
その当時から10系寝台車は普通列車にも充当されていたわけですか。
ただ、20系の車内設備との大きな格差を考えると、妥当な線かも知れません。

>昭和43年10月改正(いわゆるヨンサントオ)で5往復に増えまして
これで一応勢揃いという感じですか・・・。
皆さんの情報を総合すると、この中では「からまつ」が若干古くて、後は昭和40年前後に
大体足並みを揃えて(比較的遅くに)寝台車の連結を見るようになったと言えそうですね。

>それ以前の状況を調べると、後に「ながさき」となる門司港−長崎間の列車に
>寝台車が連結されたのは昭和39年4月からで、当時はスハネ30が連結され
>ていたという話も聞いたことがあります。
「みやざき」でも触れたスハネ30ですが、結構メジャーな存在ですね。
10系ハネとの設備的な違いは如何なるものだったのでしょうか・・・。
おそらく寝苦しい一夜ではないかと想像しますが。
(実体験された方って、いらっしゃいますでしょうか。(^^;)

>戦前までさかのぼりますと、ロネ(二等寝台車)はもちろんイネ(一等寝台車)
>まで連結されていた時代もあったようです。ただ、当時は急行列車等は特別な
>存在であって、各地に長距離夜行普通列車が多数存在していたようなので、
>この話題での寝台付き鈍行といえるかは?
「イネ」ですか・・・。
確かにそこまで行くと、比較的身近に感じる寝台付き鈍行の侘しいイメージから
だいぶ懸け離れてしまいますね。
ただ、戦前の大昔まで辿って「寝台付き普通列車はそれほどマイナーではなかった」
という事実に突き当たったとすれば、新鮮な発見となりそうです。
色々調べてみたいと思います。



投稿者 AK1219
投稿日 11月03日(水)14時20分04秒
タイトル 寝台付き客車列車(訂正・補足)
本文 先日の私の調査には見落としがありました。
大和路環状線さんの紹介された山陰線の列車がぬけてました。
これは31年11月号の時点で寝台車が連結されています。
運転区間は大阪−大社間ということでまさに今の「だいせん」の前身ですね。
39年9月号では大阪−浜田・大社間の列車となっており、
寝台車の連結区間は大阪−出雲市間となっています。
42年9月号の時点では、急行化され急行「おき」となっています。

この頃の寝台車の種別は複雑ですね。
車種を推測することは、私の乏しい知識ではとても不可能です。

以上訂正と補足でした。



投稿者 平松真一
投稿日 11月03日(水)23時32分05秒
タイトル 寝台付き普通列車
本文 はじめまして、平松といいます。
寝台付き普通列車の話題で盛りあがっているのを拝見してとても懐かしく思いました。
私は、「南紀」「からまつ」「山陰」にのりました。 SL撮影の方はよくお世話になったのでは。
残念ながらハネではありませんが。

参考までに、1983年4月1日「南紀」か「はやたま」の編成を。
ご存知でしたらごめんなさい。

寝台車は 天王寺ー新宮
             天王寺
  921レ        ↑  924レ            
  客車は天リウ    
  オハネフ122094     オハネフ122078 
  オハネフ122076     オハネフ122079 
  オハフ 332623     オハフ 332420
  オハ  472211     オハ  472420
  オハ  472149     オハ  46 380
  オハフ 332351     オハフ 332553
  スユニ 502060     スユニ50


 以上83年版 国鉄客車気動車 編制表  ジェーアールアール
「ながさき」「山陰」は眠くなりましたので別の機会にと思います。

南紀の画像は、いずれ私のホームページで掲載予定。
でも、寝台車切り離しのあとなのあまり参考にはならないかも。

では、これからもよろしく。
投稿者のホームページ



倶楽部メモ(26) 平成11年11月 4日〜11月10日



投稿者 大和路環状線
投稿日 11月05日(金)04時02分19秒
タイトル Re:寝台付き普通列車
本文 昨日、帰宅途中に天王寺駅に寄ったのですが、阪和線用9番線(降車専用)の
ホーム地面に目を凝らすと「23:00」という字の跡形がはっきりと読み取れました。
そうなんです。昭和61年まで活躍していた924レ(「はやたま」)の乗車位置です。
当時の竜華区(現・久宝寺駅前)からの回送が渡り線を用いて這い上がっていたことから、
南端の9番線という異様なホームが乗り場だったわけですが、まさにその時の名残。
これはさすがに感動しました〜。(^^)

●AK1219さん
>これは31年11月号の時点で寝台車が連結されています。運転区間は大阪−大社
>間ということでまさに今の「だいせん」の前身ですね。

補足を有り難うございます。ちゃんと時刻表に乗っていて、一安心。(^^)
調べてみると、このスジは夜行普通列車として戦前から続いているようです。
「だいせん」が客レの歴史に終止符を打ち、気動車短編成となった現在。
今後の動向が非常に気になってきますね。

>39年9月号では大阪−浜田・大社間の列車となっており、寝台車の連結区間は
>大阪−出雲市間となっています。42年9月号の時点では、急行化され急行「おき」
>となっています。

この時期の大阪〜山陰急行の愛称の推移は非常に複雑ですね。
詳細は伯備線経由の急行との対比が必要になるのですが、今回話題にしている
福知山線経由の夜行に限って整理しますと、
・昭和39年10月 普通列車から急行「しまね」に格上げ
・昭和40年10月 急行「おき」に改称
・昭和43年10月(昼行ともに)急行「だいせん」に改称
といった感じです。
AK1219さんが見つけて下さった39年のダイヤは、普通夜行としての最後の姿となるようですね。

●平松真一さん(はじめまして)
>参考までに、1983年4月1日「南紀」か「はやたま」の編成を。

資料提供、有り難うございます。ハネが2両も付いていたのは贅沢ですね。
私はこの頃小学生だったのですが、専ら「福フチ」にハマっていた為、
比較的近場ながら末期の天リウ・天カメはほとんど見てません。(残念)

が、座席車の方は「オハフ33が、43系ハ車を挟む(4両編成)」という例が
一般的だったようですね(間違っていたらごめんなさい)。
中には「オハフ33・4両フル編成」という凄まじいのもあったようで・・・。(^^;
編成表にありますが、切妻のオハフ33がそこそこ在籍していたのは(私的には)意外でした。



投稿者 AK1219
投稿日 11月07日(日)15時51分40秒
タイトル 昭和31年11月の寝台車連結列車
本文 昭和31年11月時刻表をせっかく引っ張り出したので、
同月現在の寝台車連結列車の状況を調べてみました。(定期に限る。)(※は列車名再掲)
○急行(33往復中24往復に連結)
2等寝台連結
 A2等  きりしま(東京−博多−鹿児島)の東京−博多間
      早鞆(東京−呉−博多)
      銀河(東京−神戸)
      彗星(東京−大阪)
      西海(東京−佐世保)の大阪−博多間 以上B2等と合造のマロネ40
      筑紫(東京−鹿児島)の東京−博多間 B2等と合造(車種不明マロネ40?)
      十和田(東京−平−青森)      A2等単独の車両
 B2等 ※きりしま(東京−博多−鹿児島)の東京−博多間
     ※西海(東京−佐世保)の大阪−博多間 以上A2等と合造のマロネ40のみ
     ※筑紫(東京−鹿児島)の東京−博多間 A2等と合造(車種不明マロネ40?)のみ
     ※銀河(東京−神戸)
     ※彗星(東京−大阪)         以上マロネ40とマロネ41
     ※早鞆(東京−呉−博多)  マロネ40とB2等単独車両(東京−大阪:車種不明マロネ41?)
      月光(東京−大阪)         マロネ41のみ

 C2等 ※きりしま(東京−博多−鹿児島)の東京−博多間 マロネ38
     ※早鞆(東京−呉−博多)       マロネ38とマロネ29
     ※銀河(東京−神戸)
     ※彗星(東京−大阪)         
     ※月光(東京−大阪)         マロネ39又はスロネ30
     ※西海(東京−佐世保)
     ※十和田(東京−平−青森)
      阿蘇(東京−直方−熊本)
      雲仙(東京−長崎)
      安芸(東京−呉−広島)
      北陸(上野−長岡−大阪)の上野−金沢間
      鳥海(上野−山形−秋田)
      きたかみ(上野−平−青森)
      北斗(上野−平−青森)
      まりも(函館−小樽−釧路)の函館−釧路間 以上マロネ29
     ※筑紫(東京−鹿児島)
      日本海(大阪−富山−青森)の大阪−富山間 以上車種不明(マロネロ??)
      たかちほ(東京−都城)
      大和(東京−湊町)
      伊勢(東京−鳥羽)の東京−名古屋間 以上車種不明(マロネ??)
3等寝台連結
      以上の列車(「たかちほ」「十和田」を除く。「早鞆」は東京−大阪間)のほか、
      げんかい(東京−博多)
      明星(東京−大阪)
      せと(東京−宇野)
      天草(京都−熊本)
○準急(38往復中7往復に連結)
2等寝台連結
 AC2等 信越線309・310レ(上野−長野−(普通)−新潟)の上野−直江津間 車種不明(AC合造)
 C2等  上越線709・710レ(上野−水上−新潟)          マロネ29
      東北・常磐線209・210レ(上野−平−青森)の上野−仙台間 車種不明
      函館・石北線505・506レ(小樽−(普通)札幌−北見−(普通)−網走)の札幌−旭川間
      及び旭川で分割併合する宗谷線普通列車305・306レ(旭川−稚内)
                                          車種不明(マロネロ??)
3等寝台連結
      ※信越線309・310レ(上野−長野−(普通)−新潟)の上野−直江津間 
      ※上越線709・710レ(上野−水上−新潟)          
      ※東北・常磐線209・210レ(上野−平−青森)の上野−盛岡間 
      ※函館・石北線505・506レ(小樽−(普通)札幌−北見−(普通)−網走)
       中央東線807・810レ(名古屋−長野)
       アルプス(新宿−松本−(普通)−長野)
       函館・石北線509・510レ(函館−小樽−北見−(普通)−網走) 以上車種不明
○普通(上掲の準急くずれの4往復を除き1往復)
       福知山・山陰線711・712レ(大阪−大社) 車種不明


以上32往復64本(厳密には宗谷線普通列車305・306レを別カウントすると66本?)
の列車に寝台車が連結されていたことになります。

現在の寝台車連結列車が40本弱、急行列車が60本強でうち寝台車連結のものが
6本であることを考えると隔世の感があります。



投稿者 AK1219
投稿日 11月07日(日)16時05分40秒
タイトル 昭和31年11月の寝台車連結列車(2)
本文 容量オーバーのため続きです。

当時の2等寝台はABCの3クラス制で料金も違っているのですが、
どういった基準で区分されていたのでしょうか。やはり寝台の幅でしょうか。
昭和42年ではAB2クラスと個室、私が現実に経験している昭和50年代は
クラス区分なし+個室という変遷を経て現在の個室の差別化を中心とした
百花繚乱の時代になっているようですが。
当時は2等車にもほとんどの急行には特別2等車というものが連結されており、
またローカル線の普通車にも2等車が連結されているものがあるなど、
今の普通車/グリーン車という感覚ではよく理解できないことが多いので
このあたりも含めて事情がよくおわかりの方に教えていただければ幸いなのですが。
(旧型客車ファンの方にはあたりまえの話なのかもしれませんが、
私は寝台車といえば10系と20系後期以降のものしか見たことがなく、
客車グリーン車も14系しか見たことがないので感覚的によくわからないのです。)



投稿者 大和路環状線
投稿日 11月07日(日)18時50分04秒
タイトル 寝台車のランク
本文 当時の1等寝台車がの料金が高すぎて利用率が低かったことが原因となっているようです。
昭和30年、マイネ40の2人用特別コンパートメント(1等)を「A2等」に、
マイネ40・41の1等寝台(開放式)を「B2等」に、
そして従来の2等寝台車が「C2等」といった形で再編されたそうです。
つまり、A2等とB2等は1等車のお下がりというわけです。

その後、国鉄では昭和35年に二等級制(2等→1等、3等→2等)を導入。
その時のランク付けを基準にどんな車両が対応するかですが、以下がその具体例です。

A1等……ナロネ20
AB1等……ナロネ22、マロネ40
B1等……ナロネ21、ナロネ10
C1等……マロネ29
C1等&2等……ナロハネ10
2等……ナハネ10

あと、普通列車用の2等車は4人掛けのボックスか、転クロです。
これに関しては、その当時の事情に詳しくありませんので、どなたかフォローをお願いします。

<参考文献>
種村直樹著『遥かなる汽車旅』(日本交通公社)



投稿者 AK1219
投稿日 11月08日(月)23時38分31秒
タイトル ABC2等寝台・特ロ・並ロ(御礼)
本文 こんにちは。
ABC2等寝台や特別2等の感じがだいたいわかってきました。ありがとうございます。
今風にいえば、
A2等がシングルDX・ツインDX
B2等が普通のA寝台
C2等はB2等の古いもの
特ロは(今でいえば)普通のグリーン車
並ロは新快速並の転換クロスシート
といったイメージでしょうか。
歴史風にいえば、さしずめ昔の貧富の差があった時代の名残の種別
→大衆化を反映した種別の簡素化
→バブルを経てその辺の若者でも乗れるようになったデラックス車両の出現
ということでしょうか。
大和路環状線さんのおっしゃるとおり、末期まで残った旧型客車は客車全盛期と比較すれば
バリエーションに乏しかったということでしょうね。



投稿者 ☆☆☆提督
投稿日 11月10日(水)16時43分49秒
タイトル 「ながさき」の編成
本文 ごぶさたしています、☆☆☆提督です。
先日は急行「かいもん」の解答、ありがとうございました。

今回は寝台付き客車列車「ながさき」の編成例を・・・

↑長崎
マニ36 62  (長崎〜門司港 門モシ)
オユ10 1002

オハネ12 29 (長崎〜門司港 門サキ)
ナハフ11 17
オハ46 670
オハ47 37
ナハフ10 2003

スハフ42 301(佐世保〜門司港 門モシ 佐世保〜早岐・逆順)
オハフ45 22
↓門司港

牽引機は
ED76 36(佐世保〜門司港)
DD51 736(長崎〜早岐)

寝台車はオハネフ12が連結されていたこともありました。

「ながさき」は私が小学生のときに廃止になったのですが(年がばれる・・・)
廃止直前に門司駅で撮影した時にはオハネフ12でした。



倶楽部メモ(27) 平成11年11月10日〜11月22日



投稿者 AK1219
投稿日 11月11日(木)00時56分22秒
タイトル 並ロ・寝台付き普通列車
本文 こんにちは。
先日来私がこの話題のてがかりとしている時刻表復刻版で39年から42年の間に
普通列車の2等車が激減した理由が水ミトさんの情報でわかりました。
前回の復刻版の発行時に、私の親が2等車が比較的遅くまで残っていた線区の沿線の
出身なので、そもそも普通列車の2等車とはどのようなものであったか尋ねたところ
「乗ったことないので知らん」の一言で片付けられたことも思い出しました。(笑)
このたび戦前版も再発行されたましたのでいろいろと調べていますが、
戦前は2等車が連結されているのがあたりまえという感じだったんですねえ。
今では信じがたい話ですが。

ところで寝台付き普通列車について

昭和25年10月ダイヤでは皆無です。
急行(定期は19往復)で1等寝台が7往復に、2等寝台が2往復に連結されている程度です。
その後の車両増はいったいどうやってまかなっていたのでしょう。(特にC2等)

昭和15年10月ダイヤでは(これは時刻表の巻末に特殊設備のある旅客列車一覧表というのが
あって大変わかりやすい)2・3等寝台付きが15往復、2等寝台付きが9往復のようです。
ちなみに、急行では1・2・3等寝台付きが1往復、1・2等寝台付きが1往復、
2等寝台付きが不定期だけですが4往復、2・3等寝台付きが不定期1往復も含め17往復、
特急では富士が1・2・3等寝台付き、櫻が2・3等寝台付きとなっています。



投稿者 AK1219
投稿日 11月19日(金)23時17分33秒
タイトル 驚きました。などなど 
本文

今日、時刻表の12月号を入手したのですが、久大線のダイヤが11月20日訂補になっており、
12本の客レが全てDC化されていました。
12/4の置き換えかと思っていたのですが驚きです。
なお、豊肥線の客レは予想通り無事でした。

それから、寝台付き客レのデータの追加ですが、
大正14年4月の(現)JTB時刻表の創刊号では、17往復に2等寝台が連結されています。
内訳は、東京−下関、東京−姫路、東京−糸崎、京都−下関3往復、
京都−宇野、神戸−金沢−青森、大阪−直江津、大阪−福知山−大社、
京都−綾部−大社、門司(現門司港)−熊本−鹿児島、門司−大村−長崎、
上野−会津若松−新潟、飯田町−長野、名古屋−長野、函館−野付牛(現北見)です。




投稿者 大和路環状線
投稿日 11月20日(土)01時55分13秒
タイトル 並ロ・「銀河」・大正時代 
本文

こんばんは、大和路環状線です。
最近、急激に寒くなりましたね。

●平松真一さん
>オロ35は定員が64名ですから、狭窓は16となります。

補足を有り難うございます。(^^)
狭窓の「並ロ」、大いに魅せられるものがあります。

●アーノルドカプラーさん
>帰省ラッシュでもないのに「銀河」が、寝台券が売り切れてしまったのかが、
>わかる方お教えください。

ご指摘の状況を大変興味深く思い、昨晩通りがてら大阪駅10番線に
停車中の上り「銀河」を観察してきました。
アーノルドカプラーさんがお乗りになった金曜日の夜ですが、昨日も非常に盛況でしたよ。
寝台はA・Bとも全て売切れです。

この列車はよく見かけるのですが、普段はあまり活気を感じないだけに、私も非常に驚きでした。
車内は平常に比べグループ旅行者の比率が高く、
やはり「週末」ということで一定の支持層があることが確認できました。
帰省シーズンではありませんが、さすがに「大阪〜東京夜行健在」の感一杯で、
心強い気持ちになったものです。
私も早く乗ってみたいです。

●麦太郎さん
>臨時急行「みやこ」

少し調べてみましたが、わかりませんでした。(^^;;
宮脇俊三氏は『線路のない時刻表』で、上野発宮古行・臨時客レ急行「うみねこ」(夜行)
という空想列車を設定されていますが。(笑)
情報提供じゃなくてすみません・・・。

●AK1219さん
>豊肥線の客レ

「筑豊本線」ですね。(^^;
これで、50系客車発祥の地であるとともに、終焉の地ともなるわけですか。
(海峡線を除いて)

>寝台付き客レのデータの追加ですが、大正14年4月の(現)JTB時刻表
>の創刊号では、17往復に2等寝台

いつも有り難うございます。ついに大正時代まで遡りましたね。
2等寝台車は大正中期に勢力を広めたそうですから、その姿を如実に反映してますね。
3等寝台車は昭和6年のスハネ30が最初なので、
大正期の寝台車は高嶺の花の極みだったのでしょう。

それでは、失礼いたします。
(# 今頃、東京行「銀河」は豊橋付近でしょうか・・・。(^^))



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