倶楽部メモ(674)
平成23年 8月25日〜 8月30日


投稿者 旧狩勝線を楽しむ会
投稿日 2011年 8月25日(木)00時06分34秒
タイトル 20系客車の側灯について その後
こんばんは。

竹中@ノーブルジョーカー 様
仙コリ 様

貴重な写真をありがとうございます。
ますますナゾが深まりますね。
車掌室を追加する改造のときではないのですね。なんかいろいろな改造がされているようですね。

なにかヒントになるものはと思い、毎日気にして車内を見ていますが
今のところ気がついたのが、ナロネ21の車掌室には
火災報知機の電源スイッチやリセットボタンのついているボックスがありません。
なぜかナロネ22の車掌室だけにありました。
火災を知らせるランプはどちらの車掌室にもあります。

今のところこんなことしかわからずで申しわけありません。
調査など引き続き行っていきたいと思います。
また新たな発見等があればこちらへ書き込みいたします。
ありがとうございました。



投稿者 クモイ103
投稿日 2011年 8月25日(木)00時12分9秒
タイトル Re3: 博多回転車
EF6113様

お役に立てた様で何よりです。

一次情報は大切ですからね。
ここはネット上の掲示板ですから、ともすればネット上の情報源ばかりに頼った議論になりがちです。
しかし客車を中心とした何十年も前の事柄を調べようとすると、ネット上にあるのは
誰か個人が編集した二次以下の情報が多く、それだけでは結局情報の堂々巡りをしているに過ぎません。
マロネロ38様など大先輩の貴重な体験談や、往時に撮影された写真などは一次情報と呼べるかもしれませんが、
そういう情報は量的に限られていますから、基本的には出回っている情報の源流を探る態度が必要だと思います。
私がこの場所で他の方のご質問に答える時、元文献を示す様にしているのは、
読んでいる他の皆様にもそういう情報源が世の中にはありますよという事をお知らせし、
それじゃ元文献にあたってみようという人が一人でも増えるのを期待するからです。

その文献の宝庫である鉄博ライブラリーですが、
かつて賑わっていた神田の交通博物館の図書室よりずっと広いのに、いつも閑古鳥が鳴いています。
公開日も交博が日曜日だけだったのに対して土・日やっていますので、行ける人はどんどん行って活用してあげて下さいね。


> あまり過剰に模型に番号や標記にこだわることがいいことだと必ずしも思いませんが、

過剰かどうか、いいことかどうか、その答えは、趣味の世界ですから各個人の気持ちの中にだけあるのではないでしょうか。
EF6113様と譲渡相手様とのやりとりの中身は存じませんが、一般論からいえば、
EF6113様が「霧島」の参考情報を示される → 譲渡相手様はその中から、ご自分の趣味のこだわりに照らして
有用な情報を選択して活用される ということで良いような気がしますけど。
(もしもEF6113様が譲渡に伴い情報の活用についても何らかの条件をつけておられるなら、
それを否定するものではありません。個人間の自由な契約の問題ですから。)

私もいつの間にか車番にこだわる様になってしまいましたが、
自分の情報収集能力と相談して適度に折り合いをつけています(^^;。

それにしても「つばめ」や「かもめ」を製作してこられた方による「霧島」編成、完成が楽しみですね。



投稿者 仙コリ(管理人)
投稿日 2011年 8月25日(木)01時02分2秒
タイトル 20系客車の側灯について
竹中@ノーブルジョーカー様

フォローありがとうございました。
私も主に参考にしたのは鉄道ピクトリアル763号だったのですが、写真をもっとしっかりと
検証すれば、いろいろと見えてくる可能性もありますね。

旧狩勝線を楽しむ会様

その後もいろいろと考えていたのですが、火災報知機についてよくよく考えてみると、
根本的な問題として火災感知器が装備されていたのは、電源車だけだった(食堂車も?)
のではないかと思います。
そう考えると、電源車の隣になる車両の車掌室にだけ、旧狩勝線を楽しむ会様がご覧に
なった「火災報知機の電源スイッチやリセットボタンのついているボックス」が装備
されていたのではないかと推測できます。

そちらにあるナロネの使用歴を推測すると、ナロネ21(551)は一次車(元51)
ですので、もっぱら「あさかぜ」に使用されていたと思われ、電源車側にはナロネ20
がいたため、火災報知機がらみの装備はナロネ20に装備されていたのだと思われます。

ナロネ22(153)は「はやぶさ」用の増備車で、主に「さくら」「はやぶさ」にて
使用されていたと思われ、当然隣が電源車となるため火災報知機がらみの装備がされて
いたのだと思われます。

側灯が装備されていった順番は、より多くの写真などを精査しないとわかりませんが、
火災報知機がらみの装備があった車両が最優先であったのは間違いないと思います。

そう考えればそちらの3両のうちナロネ22が真っ先に側灯が装備され、他の2両には
装備される前に廃車となってしまったと考えるのが妥当かと思われます。

もっとも品川のナロネ21は「みずほ」「富士」で運用の際は電源車の隣となるので、
「あさかぜ」専用として使用されない限り上記の推測が成り立たなくなってしまうので
そのような運用がされていたのかどうかが鍵ですが…



投稿者 困っている人
投稿日 2011年 8月25日(木)18時47分36秒
タイトル 50系客車
回答ありがとうございます。
時代ですが今から26年前くらいです。八戸線小中野駅に当時3,4両だったと思います。
もう一度お答えいただけると幸いです。



投稿者 旧狩勝線を楽しむ会
投稿日 2011年 8月26日(金)01時00分44秒
タイトル ナロネ22の火災報知機
本日ナロネ22の車掌室内にある火災報知機の電源ボックス(リセットボタンがある箱)の
側面に銘板のようなものがあるのを見つけました。

51−5と刻印されていました。昭和51年5月ですかね。

 仙コリ 様
> 他の2両には装備される前に廃車となってしまったと考えるのが妥当かと思われます。
そうですね。そんな気がします。
ナロネ22の上記ボックスも天井と壁に穴があいており、
そこからボックスへの配線が束になって設置されています。
とてもきれいな仕事とはいえないような感じです。

いろいろと情報ありがとうございます。まだまだ引き続き調べていきたいと思います。



投稿者 仙コリ(管理人)
投稿日 2011年 8月26日(金)09時11分39秒
タイトル 八戸線の客車列車
困っている人様

今から26年前くらいという事は1985年前後ということですよね。
そのものずばりの資料は見つけ出せなかったのですが、先日書き込ませていただいた編成は
1983年4月のものですので、2年後であればほぼ同じであると思われます。
また、鉄道ジャーナル別冊No.27「JR・民鉄 客車列車大追跡」に1993年9月乗車の記事が
掲載されており、その中に八戸線430レ(鮫8:34→9:09八戸)の編成表がありまして、

DE10 オハフ50 オハ50 オハフ50 オハフ50 オハ50 オハフ50

といった1983年時点の6両編成と同じですので、1985年頃も同じであったと思われます。



投稿者 困っている人
投稿日 2011年 8月26日(金)19時48分15秒
仙コリ様はすごい知識をお持ちで感心しました。
また解らないことがあったら質問させていただきます。
ありがとうございました。



投稿者 EF6113
投稿日 2011年 8月27日(土)15時17分42秒
タイトル 一次資料
クモイ103様

クモイさまのおっしゃるとおりです。最近、大手出版社発行の本やテレビで
とても評価の高い人物がいます。その人物の足跡を当時の国会の議事録など
で調べている方のサイトがありますが、それによると「実像」は大手出版社発行の
本やテレビとはかなり違っていたといわざるを得ません。
この人物の詳細を語るのはこのサイトの趣旨に反しますので控えさせていただきます。
一次資料を丹念に辿ることの大切の例として、引き合いに出させていただきました。

模型に対してどの程度史実にこだわるかは難しい問題ですね、あまりこだわりすぎても
神経衰弱になりますし、かといってせっかく調べたことが反映されないのも面白く
ありません。個人個人によって違う「史実に対するこだわり」がもとで人間関係が
きまづくならないよう気をつけたいものです。



投稿者 ED76109
投稿日 2011年 8月28日(日)07時30分11秒
タイトル 「岩見沢」の想い出はございませんか
 おはようございます。「ED76109」であります。

 ご無沙汰しておりました。
さて、小生ひょんなことから、9月に「岩見沢駅」で開催されます「岩見沢市主催・いわみざわ駅まる」
というイベントに協力させていただくこととなり、その準備をさせていただいております。
様々な催しが計画されているのですが、「鉄」的な取組みと致しまして、
「鉄道EXPO2011」と称した企画がございます。
そこで、もし先達の皆様方のご記憶に「岩見沢」に係るエピソードがございましたら、
是非お伺い致したく、記させて頂いた限りであります。
本掲示板では、「マロネロ38様」が「準急」で「網走」からの汽車旅の最中に、
「岩見沢」で「おこわの駅弁」を購入されたお話を伺いました。
また、「宮脇俊三」氏は「『名寄』と『岩見沢』に宿を取ると、道内を回るのに便利なことこの上なし。」
と記述されたことを記憶しております。
小生も以下のように「戯言」でまとめてみました。


 1 昭和48年の春休み、「鉄」親父と初めて道内を訪れたことは幾度か記させて頂いておりますが、
「旭川」から「稚内」への旧客鈍行レ(321レ)制覇の後、
「利尻」の「オロハネ10」で早暁の「岩見沢」に降り立ったことがございました。
「室蘭本線」の「C57」牽引の「室蘭行(222レ)」制覇のためであります。
「ハネの中段」で寝ていたところをたたき起こされ、意識が朦朧とする中、夜明け間近のフォームに・・・。
しかし、冷気に当たった途端に目が覚めた記憶があり、
「寒い、寒い。」と早々に「隣のフォーム」に止まっていた「室蘭行の狭窓のスハフ32」にもぐり込んだのでした。
しかし、車内は薄暗くてスチームに蒸気が送られ始めたばかりだったのか、
大音響はすれど肌寒いといった様子にがっかりした記憶がございます。


 2 1の後、「室蘭」から「DCちとせ」と「DC鈍行」に乗り継ぎ、
「旭川」まで。翌日、今度は「旭川」からの山線鈍行レ「函館行(122レ)」を制覇いたしました。
「ED76」に牽かれ、約2時間半で「岩見沢」到着。
すると、小生らの乗っていた「最後尾のスハフ」のデッキが賑やかに。
見ると、黄色いヘルメット姿の職員の方が旗を持ち、増結作業を開始せんとするところ。
「どれどれ」と「鉄」親父とフォームに降りて「儀式見学」となりました。
しかし、増結された「札イワ」の客車は、「旭川」から乗り通してきた「函ハコ」の客車よりも新しく、
室内灯も「蛍光灯」で車内は明るかった記憶が・・・。
「折角、『函館』まで乗ってくださるのに、すいませんね」と、笑いながらカレチさんに謝られた記憶がございます。
しかし、この「122レの14時間旅」が、小生の「乗り鉄」としての方向性を定めたのでありました。


 3 かつて「室蘭本線」で活躍した「C57135」は、「岩見沢第一機関区」に所属しておりました。
小生が小学6年生の時、「NHK」が最後の時が迫っていたSLの姿を伝えんと、
旧客レに漫画家の「加藤芳郎」さん、アイドル「山口百恵」さんを乗せた汽車旅を番組として放送したことがございました。
沿線は「C57」撮影の「撮り鉄」の先達の皆様方で賑わったのですが、
「苫小牧」と「岩見沢」では、アイドルに一目会おうとする男性ファンも入り交じっての大騒動。
「岩見沢」では、約2万5千人の人波に溢れかえったのでありました。
その後、「C57」や「D51」を淘汰して、
「岩見沢」の主となったのは「DD51」と「ED76500番台」だったのですが、
今では「岩見沢第一機関区」は機関庫の跡すら見えず、ただ芒洋とした草地が拡がるばかり・・・。
正しく、「強者どもが夢の跡」といった感じであります。

 様々な旅を彩った「岩見沢」のフォームに、これからも新たな旅の足跡が刻まれていくのでありましょうか。
先達の皆様方の想い出を伺いたいものであります。

 長々と失礼致しました。以上、「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 クモイ103
投稿日 2011年 8月28日(日)11時09分15秒
タイトル Re: 一次資料 (模型論)
本掲示板の趣旨に沿うか? 
片足を大きく踏み外している感がありますが、長引かせるつもりはありませんのでどうかご容赦のほどを。

EF6113様

> 模型に対してどの程度史実にこだわるか

「精神衛生によくない」「神経衰弱になる」までこだわりをお持ちとは、恐れ入りました。
私も自分で調べた史実を自分の模型世界に反映させることにやりがいを感じる性分なので、
その意味ではEF6113様とご同類かもしれません。
しかし調べていく過程で、自分の中で自然と「模型で再現するのはここまで、それ以上は省略」
という線引きが生まれてきます。
再現する点、しない点、或いはしたくても出来ない点を見極めるシミュレーション作業もまた楽しいもので、
私は苦痛に思ったことなどありません。(むしろ最近では模型工作に費やす時間の捻出が苦痛だったり…(爆))

なお誤解されぬよう付け足しますと、
おそらく私よりずっと強いと思われるEF6113様のこだわりを、決して否定するものではありません。
これについては、以前に懐古知新様(=ms99さん)のブログ「国鉄京都駅をNゲージで再現する、途方もなくあふぉな日記」
でコメントしたものをそのまま転記させていただきます。
懐古知新様、ごめんなさい…

【以下転記】
掲示板でこの手の話題が出ると、時々「所詮模型なのだからそこまでこだわるのはおかしい」
といった物言いをする人が現れます。
しかし、個人のこだわりというのは人それぞれ違うわけですから、
それは「自分以外の個人」を全否定する暴論と言わざるを得ません。
私の意見としては、その人がこだわるならたとえミクロン単位でも徹底的にこだわれば良し、
それを他人がとやかく言うのは趣味人としての礼節を欠いた無礼な振る舞いです。
自分が気にしていない点に他人がこだわっているのを見て、
それを自分のレベルまで引き下げようと足を引っ張る態度は、実に見苦しいですね。
「へえ、そりゃすごいね」と受け流す大人の節度を、鉄道趣味に限らずあらゆる善良な趣味に対して持ちたいものです。
そして同時に、「自分はこの点は譲れないのだ」と胸を張って言える
「自分だけのこだわり」を持ち続けたいと思っています。

そうそう、逆もありますね。
「この点は正しくはこうで、おまえのはおかしいからこうしなさい」という、どうしようもないヲタが… 
私はよく「この点は正しくはこうだ」という発言をしますが、「おまえのはおかしい」なんて口が裂けても言えません。
あくまで「もしこだわるなら、参考にして下さい」という意味で言っているわけです。
【転記終わり】

最後に、

> 個人個人によって違う「史実に対するこだわり」がもとで人間関係が
> きまづくならないよう気をつけたいものです。

その通りですね。
相手がどの様なこだわりを持っているか、自分とどう違うのか、常に配慮して一定の距離を保つよう心がけたいと思います。

模型論はここの本来の趣旨ではないでしょうから、これ位で打ち止めにします。
暴言多謝。m(_ _)m



投稿者 EF6113
投稿日 2011年 8月28日(日)19時53分16秒
タイトル Re.Re.一次資料
クモイ103様

コメントありがとうございます。
まったくおっしゃるとおりです。

自分の意見をしっかり持つこと、他人と自分の意見の違いに配慮すること、
肝に銘じるつもりです。

これからもよろしくお願いします。今回は誠にありがとうございました。



投稿者 クモイ103
投稿日 2011年 8月29日(月)00時20分51秒
タイトル Re: 「岩見沢」の想い出はございませんか
ED76109様

岩見沢で思い出すのは、実は列車に関する事でなく、「盆踊り」です。
1992年8月19日18時過ぎ、夏休みの旅行の途中でふらりと降り立った岩見沢。
1時間弱の間合いがあるので駅前に出てみると、盆踊り大会と大書きされたやぐらが組まれています。
まだ明るさの残る中、曲が流れて何人かの人が踊り始め、暗くなると共に踊る人も増えていきました。
その時流れていたのは私の知らない曲でしたが、メロディーの一部だけ、20年近く経った今でも脳内再生が可能です。
あれは何という曲だったのか判るといいのですが。

あ、鉄道の話が無いですね(^^;。
当時の写真を見返すと、函館本線を行き交う列車は、特急が781系「ライラック」、
785系「スーパーホワイトアロー」に混じって「フラノエクスプレス」の姿もありました。
急行も健在でキハ400・480「サロベツ」や「利尻」が丸い大きなHMを付けて爆走、
快速「ミッドナイト」共々、夏休みということで一般急行形の増結車をつけていました。
夜行列車が次々に発車する札幌駅のホームはたいへんな賑わいでしたよ。



投稿者 ED76109
投稿日 2011年 8月29日(月)07時24分13秒
タイトル 多謝返礼であります
 おはようございます。「ED76109」であります。

 クモイ103様

 早速のエピソードありがとうございます。まず、「鉄」話の前に「盆踊り」の疑問(笑)を解決いたします。


 >その時流れていたのは私の知らない曲でしたが

 北海道の盆踊りは、比較的早い時間の「子供の盆踊り」と、その後の「大人中心の北海盆踊り」の
二部で構成されることが多かったのだそうであります。
その「子供の盆踊り」で流されていたのが、「子供盆おどり唄」という曲であります。
そして、「大人の部」では「北海盆唄」が流されるのが一般的でございます。
「子供盆踊り歌」は、道教委の要請でわざわざ制作されました。
「北海盆唄の歌詞」の一部が卑猥であったなどの理由から、
子供が大人の盆踊りに参加するのは好ましくないと、当地では考えられていたようでした。
後は、生粋の道産子「雪だるま」様にレスいただければ・・・。お願い致します。


 >キハ400・480「サロベツ」や「利尻」が丸い大きなHMを付けて爆走

 「14系PC」での運転が「昭和63年11月」で終了となり、
「札ナホ所属のDC」へと編成が変更されたことは、「釈迦に説法」でありましょう。
ちなみに、「天北線」の廃止によって「キハ400仕立ての天北」は、わずか5ヶ月で運転終了となったのでありました。


 >夏休みということで一般急行形の増結車をつけていました

 「キハ56」には、小生お世話になりました。前述しておりますが、
「遠軽高校勤務時」に卓球部の全道大会引率の折には、
「旭川」で「特別快速きたみ」から「DC宗谷の増結DC」に乗車して、
「よろしいですか」と声をかけて生徒たちを座らせてもらいました。
また「キハ56」は非冷房でしたので、夏季は窓が開く最後尾の同車をわざわざ選んで
「稚内から札幌」まで乗り鉄したものであります。
ただ、平成元〜4年ころは、夏季の混雑が著しい時期であり、
「PCまりも」には自由席として「DC」が増結されていたという「伝説」がございます。
ちなみに、「ミッドナイト」の最後尾の増結車は「キハ40」。
「ロングシート」での一夜は如何だったのでありましょうか。


 >夜行列車が次々に発車する札幌駅のホームはたいへんな賑わいでしたよ

 平成4年の夏であれば、「利尻」と「オホーツク(『PC大雪』は同年3月に廃止)」
及び「ミッドナイト」は「DC夜行レ」。
「まりも」と「はまなす」は「14系PC夜行レ」でありました。
しかし、今年の道内夜行レは・・・。一抹の寂しさを禁じえないところであります。


 長々と失礼致しました。
重ねてお礼申し上げます。以上、連敗続きで元気が出ない「道民球団応援団」の「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 クモイ103
投稿日 2011年 8月30日(火)00時14分21秒
タイトル 19年前の旅行の記録
ED76109様

ご教示に従い早速「子供盆おどり唄」で検索したところ、まさにこれです。長年の疑問が晴れました。ありがとうございます。

あの日は早朝苫小牧の宿を出て、まず夕張へ向かいました。
ホテルレースイの前で線路が切られてしまった3代目夕張駅がまだ新しかった頃で、
その先夕張市役所前にあった2代目駅の跡を通り、
かつて石炭の積み出し基地として広大なヤードに黒い貨車がひしめいていた初代駅跡まで、廃線を辿って歩いたのでした。

初代駅跡までやって来ると、石炭歴史村の看板が目につきます。
実はその存在を知らずに行ったのですが、後の予定を変更して見学することに。
村内を走る軽便鉄道の線路は、かつて駅から炭鉱へと延びていた引き込み線をそのまま使っていると見受けましたが真偽の程は?
また、SL館近くの無料休憩所として2両の貨車(ワフ29756+ワフ29900)が使われていましたが、
これは2代目夕張駅舎からの再転用ですね。
それにしても、バブルの余韻がまだ残る当時ですら、
こんな立派な施設を作って果たして運営が続くんだろうかと感じたものです。結果は…

再び現夕張駅まで歩いて戻り、札幌へ向かいます。駅周辺を1時間余り散策した後、急行「サロベツ」で岩見沢へ。
すぐに711系の普通列車に乗り継いで次駅の峰延まで行き、広く間隔の開いた対向式ホームでしばし通過列車の撮影です。
そしてやはり711系の上り普通で戻った岩見沢で、くだんの盆踊り大会に遭遇しました。

その後は「スーパーホワイトアロー」で札幌へ戻り、地下鉄東豊線の乗り潰しをちょっと。
そして5連に増結された夜行快速「ミッドナイト」で函館へ向かい、一日が終わったのでした。

H.4(1992).8.19(水)3980D快速「ミッドナイト」編成
↑函館
1 キハ27 552
2 キハ27 554
3 キハ27 502
4 キハ27 204
5 キハ56 140
(所属は全車[函ハコ])

この時の旅行は、三陸博覧会の観覧から始まって東北から道南を巡る足かけ7日間の行程でした。
もうあんな旅行をする元気も時間もありません…



               
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