倶楽部メモ(673)
平成23年 8月22日〜 8月24日

八戸線の客車列車 ・ 霧島の博多回転車


投稿者 困っている人
投稿日 2011年 8月22日(月)21時01分57秒
タイトル 八戸線
子供のころ小中野駅にてディーゼルカーが赤い客車をひっぱてるのをかすかに記憶しております。
そこでディーゼルカーの種類、客車の種類、編成など教えてください。
調べたのですが詳しくのってないもので



投稿者 きむたお
投稿日 2011年 8月22日(月)23時30分25秒
タイトル 承徳で見たローカル客車列車
みなさまこんばんは。

先週末は会社の社員旅行で河北省・承徳に行ってまいりました。
2日目の日程の午後はフリーとなりましたが、宿泊するホテルの前に鉄路がありましたのでカメラを持って出かけました。
すると、まもなくやってきたのがご紹介する列車です。
時刻表で調べるも該当する列車が出てきませんが、承徳を17:30頃に発車で、行き先サボは「承徳−隆化」となっていました。

編成は以下の通り。
?次
↑DF42253
隆YZ22 337944(1)
化YZ22 339043(2)
 YZ22 336510(3)
 YZ22B341412(4)

オレンジ色のDF4は初めて見ました。
また、客車はどれも同じに見えましたが最後尾のみ22「B」となっており、
これのみ車体裾がストレートになっているのに気づきました。(他の車は丸まっている)
また、(1)と(2)は1段上昇サッシなのに対し、(3)と(4)は2段窓になっています。

当日は美しい夕日があたり、足回りもくっきり見えています。
日本のオハ35やスハ43と似たようなシンプルな機器が並ぶ床下やTR53に似た台車がよく見えます。

写真は、



1.DF4を先頭に承徳を発車する同列車



2.1両目のYZ22



3.YZ22Bを最後尾に走り去る同列車。
いずれも、2011/8/20、承徳−隆化にて。
*なお、撮影した足場は同線から分岐した線路のデッキガーダー転用した歩道橋です。


▼ ミキスト様
某小学校の校歌ではなく「児童歌」ですね、懐かしいです!思わず口ずさんでしまいました!!
今でも1題目、2題目ともに歌詞を覚えています。今歌ってみてもとてもよい曲だと思います。(^^)
80系「ひだ」も懐かしいですね。北陸線を下って来るのと高山線を上って行くのとで続けて2回見られたのが嬉しかったです。
私も小学生の頃から神通川の堤防へよく列車を見に行きました。
日の長い夏には朝5時頃から「能登」、「日本海4号」、「北陸」と眺めて、先述の「ひだ」を見送ったら家に帰ったものです。
私も家の窓から列車が見えました。
中学生時代、夜の1時過ぎに来る「日本海81号」が20系客車であることを知り狂喜乱舞したのもつい最近のように覚えています。
その後、「富山北大橋」ができてからは列車の裾の部分しか見えなくなり、
2000年代に入ると、近所の田んぼが宅地になってしまい、まったく列車が見えなくなってしまいましたが・・・。



投稿者 EF6113
投稿日 2011年 8月22日(月)23時57分35秒
タイトル Re.つばめ天ぷら客車
客車様

スロ54出るといいですね。なんとかオシ17も出てほしいです。



投稿者 仙コリ(管理人)
投稿日 2011年 8月23日(火)00時31分55秒
タイトル 八戸線の客車列車
困っている人様

過去の列車の使用車両や編成を調べようとした場合、特急列車などの優等列車であれば
比較的調べやすいのですが、普通列車となると本当に苦労するものです。

八戸線の客車列車との事ですが、ご覧になっていた年代と時間を書いていただけないと
特定が難しいのですが、赤い客車との事ですので50系客車時代のようですね。

旧型客車から50系客車に変わったのが昭和56年頃、50系客車列車から気動車列車に
完全移行したのが平成5年のようですので年代によって多少変化があるとは思いますが、
手持ちの1983年版の国鉄気動車客車編成表によると6両と10両の編成があり

6両編成の場合は

 オハフ50 オハ50 オハフ50 オハフ50 オハ50 オハフ50

10両編成の場合は

 オハフ50 オハ50 オハフ50 オハフ50 オハ50 オハフ50 オハフ50 オハ50 オハ50 オハフ50
 (鮫駅側)                             (八戸駅側)

客車はすべて盛ハヘ(八戸客貨車区)配置車で、牽引機関車は八戸機関区のDE10だったようです。



投稿者 EF6113
投稿日 2011年 8月23日(火)13時52分22秒
タイトル 博多回転車
クモイ103様

例の新幹線開業前の霧島の博多回転車の件で質問です。

博多回転車のオハネ、ナハネの所属は門タケでしょうか、東シナでしょうか?

文献によっては南シナとされていますが、38年度末寝台車使用状況からは
門タケであるような気がします。

稚拙な質問で申し訳ありませんがよろしくお願いします。



投稿者 クモイ103
投稿日 2011年 8月23日(火)21時05分11秒
タイトル Re: 博多回転車
EF6113様

「霧島」の博多回転車の受け持ちは、36-10改正以前は東シナ、以後は門タケと変わっています。

「主要客車列車編成順序表」によると、
・昭和35年6月版:1号車マロネ38+2号車ナハネ11…「東附10」
・昭和36年10月版:1号車マロネ29+2号車ナハネ11…「門附1」

36-10改正直前の時刻表1961年9月号では、「霧島」の1号車はマロネ38となっています。
マロネ38は昭和30年に全7両が東シナに集結して以来39年3月一斉に廃車されるまで東シナを離れませんでしたから、
1号車がマロネ29に代わった36-10改正時が、門タケへの移管時点であったことは確実と考えられます。



投稿者 竹中@ノーブルジョーカー
投稿日 2011年 8月23日(火)21時19分7秒
タイトル RE4:20系客車の側灯について
旧狩勝線を楽しむ会様
仙コリ(管理人)様

残念ながら回答を持っている訳ではありませんが、鉄道ピクトリアル763号(2005-7)20系固定編成客車特集
の写真を見ると、昭和50年以降に撮影された車輌に側灯が見受けられます。
P41 ナロネ21 133 1990-6
P42 ナハネ20 359 1992-8
P43 ナハネ20 501 不明
P43 ナハネ20 701 1995-10
P44 ナハネフ22 701 1995-10
P47 ナシ20 19 不明
P49 オニ23 1 1988-12
P49 カヤ21 123 1994-5
と、形式にかかわらず設置されています。
ナロネ22 153は、私が撮影した時点では側灯がありませんので、廃車までの1年余りの間に設置されたこと
になり謎は深まります。

昭和51年2月20日  ナロネ22 153 10レ 東京駅


投稿者のホームページ



投稿者 EF6113
投稿日 2011年 8月23日(火)21時47分31秒
タイトル Re: Re:博多回転車
クモイ103様

お手数をおかけして誠にすみません。これでいろいろ参考資料を添えてモデラーの方に
お譲りできそうです。

自分の調査の甘さがなさけないこと。詰めが甘かったなあ。

あまり過剰に模型に番号や標記にこだわることがいいことだと必ずしも思いませんが、
(精神衛生によくない)が、参考情報を添えて譲渡したほうが良いと思いまして
今回お聞きしました。

それにしてもクモイ103様の一次資料に基づいた的確な回答にはいつもながら脱帽です。

譲渡予定のモデラーの方は、これまでも全線電化前つばめ、青大将、戦後客車かもめを
16番でこさえた方です。

きっと、青大将の客車を引き継いだ全盛時の霧島もしっかりこさえてくれるに違いありません。



投稿者 きむたお
投稿日 2011年 8月23日(火)22時17分50秒
タイトル 承徳の客車列車(その2)
先の投稿に続き、翌朝、朝食前に線路際へ出かけて1本チェックしました。
(前日に散歩していた同僚が「7時過ぎに汽車走ってったぞ〜」と教えてくれました。)

2011/8/21
4473/4472次、承特発 北京北行き
↑DF42253
北YZ22 337371(2)
京YZ22 336341(3)
北YZ22B338505(4)
 YZ24B343772(5)
 YZ22B337601(6)
 YZ22 337952(7)
 YZ22 338795(8)

機関車は前日夕方に見たのと同じ番号です。
客車は22形、22B形、24B形の3系列混成ですが、この22は1段窓、22Bは2段窓とわかりやすい区別ができます。
(ちなみに裾形状はすべて同じ・・・)

写真は、



1.YZ22B338505



2.YZ24B343772



3.YZ22338795を最後尾に走り去る同列車
となります。機関車の排煙がものすごいです・・・。
いずれも、承徳−隆化にて。



投稿者 仙コリ(管理人)
投稿日 2011年 8月23日(火)22時36分6秒
タイトル 準急「ひだ」の写真−1
マロネロ38様から先日話題になりました準急時代の「ひだ」と後身の「しろがね1号」の写真を
送っていただきましたので掲載させていただきます。



準急「ひだ」富山行 ヘッドサイン付き キハ5531
3両目はキロハ18
昭和33年3月23日 鵜沼にて撮影



(上り)名古屋行「ひだ」
2両目のキロハ18は原色
当時は高山で上下「ひだ」が交換
昭和33年8月3日 高山にて撮影



投稿者 仙コリ(管理人)
投稿日 2011年 8月23日(火)22時37分38秒
タイトル 準急「ひだ」の写真−2
続いて



庄川鉄橋を渡る高岡行「ひだ」
越中大門−高岡間
曇天で立山連峰が写らず
昭和34年1月3日撮影



庄川鉄橋を渡る高岡行「ひだ」
キロハ18の狭幅・背の低さが判る凸凹編成
昭和34年1月3日撮影



下り 中部循環準急「しろがね1号」905D
3両目のキロハ25は2次車
昭和35年8月 西富山にて撮影

撮影はすべてマロネロ38様



投稿者 雑魚
投稿日 2011年 8月24日(水)13時44分22秒
タイトル 鵜沼
マロネロ38様が、鵜沼にて撮影された「ひだ」の画像では、傍らに名鉄の電化線路が
見えますね。この線路「北アルプス」短絡専用の印象が強いのですが、実はここから
高山線に直通する名鉄列車の歴史は1930年代にまで遡り、柳橋(現・名鉄名古屋駅の
事実上の前身?)〜下呂で、半室を畳敷改造した「御座敷列車」の嚆矢となる電車が、
高山線内は蒸機での牽引を以て、週末便として運行されています。短絡線も当時から
電化線として存在していた事になりますね。

また新鵜沼界隈では、当該短絡線に犬山線、各務原線を加え、名鉄だけでデルタ線が
形成されており「北アルプス」廃止後も、数年前まで車両留置に供されていた様子で、
ここにも、短絡線電化の必然性が窺えます。

一連の「準急色」は、常磐線でも、少なからず運用されていた模様ですが、1960年代
生まれの私自身は殆ど印象が無く、ここ数年来、湊線の塗装復活(上段画像参照)で
漸く馴染みつつある状況です。

なお「ウィキペディア」によると、戦後「たかやま」改め「北アルプス」の愛称にて
当該直通運転が復活したのは、従前、名鉄築港線で行われていた貨物輸送が、名古屋
臨海鉄道に移行した事への補償の意味合いもあった様ですが、その「北アルプス」用
キハ8500系(下段画像参照)が、留置先の新川検車区から会津鉄道に回送された際は、
鵜沼でも豊橋でも無く、東名古屋港を経由したそうで、巡り合わせすら感じます。

個人的には、面構えをキハ80系に似せつつも、側窓の連接構造に、名鉄らしい作風が
色濃く表れていた、キハ8000系の方にこそ愛着があり、それが、道路併用の犬山橋を
ゆっくり通過する様子には、独特の風情がありました。この犬山橋、併用仕様ゆえに
上下線間の間隔が狭く、車両限界の制約上、橋梁区間では擦れ違いが禁じられるなど、
ダイヤ編成上、少なからず隘路になっていた様ですね。

こうした「複線区間における事実上の単線区間」は、名鉄の場合、1978年に名古屋城
堀端区間の地下化で消滅した、瀬戸線の「ガントレット」も挙げられますが、先述の
豊橋駅や名古屋駅と同様、限られた空間を有効利用する名鉄の作風が、多々窺えます。

キハ8000系が、1985〜89年に限って、特急としては唯一の富山直通運用にあったのは
キハ85系が導入される以前の「ひだ」の運用において、老朽化したキハ80系が、順次、
運用を離脱していた事情がある様ですね。

もっとも、中京〜北陸の主たる都市間連絡導線が、米原経由で確立されて久しい事を
思えば、実際に富山乗降で高山線特急を試した際の経験にも鑑みて、高山・飛騨古川
以北での特急需要は、小さいものだったと感じます。




 
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