倶楽部メモ(669)
平成23年 8月 2日〜 8月 9日


投稿者 南国しおさい
投稿日 2011年 8月 2日(火)20時34分44秒
タイトル 昔の山陰本線の客車
私が幼い頃(40年位前)祖父母に連れられて門司からよく山陰本線の客車列車によく乗っていました。
走行中も開いたままの乗降口、車掌さんが肩からぶら下げた無線で運転手に○○○列車発車というと
ディーゼル機関車から聞こえる汽笛の音。今でも鮮明に思い出します。
よくわかりませんが、あの頃は門司発福知山行とか長距離列車がたくさん走っていたんですね。
今は電車に乗っていてもなにか世知辛く思う気がするのは私だけでしょうyか?
またあの頃の客車列車に乗ってみたいです。



投稿者 ED76109
投稿日 2011年 8月 3日(水)06時49分18秒
タイトル 旧客鈍行が一番ですよ
 おはようございます。「ED76109」であります。

 「SG1A」様

 >客車列車と言っても京都駅近くで生まれ育ったので山陰線の旧客の思い出しかありません

 「南国しおさい」様

 >祖父母に連れられて門司からよく山陰本線の客車列車によく乗っていました

 小生が高校生〜大学生だった昭和50年代の中後半、幾度と無く「山陰本線」の旧客に惹かれて足繁く通ったものでございます。
特に、「250q」以上の運転区間を持つ「猛者」が数多く走っておりましたので、時刻表と首っ引きで「制覇」。
「京都」からの朝一の「浜田行(833レ)」や「出雲市行(835レ)」、
「大阪」からの朝一の「出雲市行(721レ)」の最後尾の「ハフのボックス」に陣取って、
「福知山」や「豊岡」、「米子」等で付属編成が切り離される度に、バッグ片手にウロウロしておりました。
「豊岡」からの「門司行(831レ)」、有名どころだった「門司」からの「福知山行(824レ)」も
ほぼ1日かけて「乗りつぶし」ましたですね・・・。
昭和59年の改正で「旧客」から「レッドトレイン」に置換されるとともに、何本かの「猛者」が鬼籍入りしてしまって・・・(滂沱)。
締めは「出雲市」からの「下関行(827レ)」。
そして、「関門海峡」を眺めながら「下関」や「門司」から「さくら」や「はやぶさ」で帰京というのが、小生の想い出であります。
四季折々の日本海、遠くに中国山地を望む甍の並ぶ町並み、そして穏やかな物腰の心優しき人々。もう30年経つのですねぇ・・・。
先達の皆様方の仰るように、もう一度「旧客レ」に揺られてみたいものです。

 長々と失礼致しました。以上、最近の時刻表を眺める度に「回顧主義」に浸ってしまう「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 南国しおさい
投稿日 2011年 8月 3日(水)13時33分22秒
タイトル 臨時運転
こんにちは ED76109様 早速の御返事ありがとうございます。
九州では、平成13年まで筑豊本線(50系)と九大本線(12系)が走ってました。
今でもたまに地元の汽車倶楽部の企画で直方〜鳥栖(冷水トンネル経由)をDD51と50系客車で臨時運転されています。
一度乗りたいと思っています。もし企画の日時がわかれば、連絡いたします。



投稿者 雑魚
投稿日 2011年 8月 3日(水)17時35分58秒
タイトル 西日本の 50系
▼南国しおさい様:
> 九州では、平成13年まで筑豊本線(50系)と九大本線(12系)が走ってました。

2000年に、廃止惜別記念として西鉄北九州線(熊西〜折尾)を訪れた際、筑豊電軌も
併せて消化し、その後、小倉への移動に、50系列車を利用しました。丁度、朝の通勤・
通学客が最も集中する時間帯で、折尾を出る頃には凄まじい混雑となり、情緒も何も
あったものではなかった為、黒崎で下車、後続の特急で御茶を濁す一幕がありました。

山陰線の50系便は、萩の前後で利用した事があります。ボックス・シートが満席の為、
せっかくの日本海の眺めも「遠足児童座り」仕様となり、何となく、落ち着かず終い。

50系のロング・シートが「最大効果」を発揮したのは、1980年代後半、高松〜高知の
夜行快速でしょう(^^)元々は、急行「あしずり」間合運用として、中村に直通する
気動車便で、急行運用時に指定席に供されるG格下車も開放され、そちらの方が寧ろ、
有難い存在でした。その後は、瀬戸大橋の開業を受けて設定された「ムーン・ライト
高知」に集約されましたが、過渡的措置として、バス便の時期もあったと記憶します。

▼XD1様:

政権交代やら、カンボジアとの国境紛争やら、何かと話題の多いタイですが、先日の
中国高速鉄道の大事故を受けて、ある報道番組で、同国からの技術導入の是非を巡り、
タイ鉄道当局者へのインタビューがありました。

タイと中国の間では、昆明〜ラオス〜バンコク〜バダンベサールのルートで高速鉄道
建設の基本合意が形成されており「スカイ・トレイン」でも中国製車両が導入済の中、
今回の事故の影響は、タイにとっても切実の様ですね。

先週末放映の人気TV番組「世界の果までイッテQ」では、ジャボタベックにおける
ラッシュ時間帯に、電車内で新聞が読めるか、というトライアル企画がありましたが、
頭上の架線にも臆せずに、電車の屋根上まで乗客が溢れる状況は、相変わらずでした。
技術移転の関係上、日本の作風が強い中での、この状況は、何とも奇異な印象ですね。
同じアセアンでも、タイやマレーシアでは、ここまで凄まじくはない様にも思います。



投稿者 南国しおさい
投稿日 2011年 8月 3日(水)21時05分54秒
タイトル 西日本の旧客
雑魚 様
確か朝が飯塚発門司港行夕方が門司港発飯塚行でした。DD51に牽引された6両編成だったと思います。
昭和60年頃まではその先の遠賀川から室木までの路線の室木線があって
いつもDE10連結された旧客がホームにとまってました。
いつか乗りたいと思いながら廃止されてしまいました。
去年大井川鐵道の千頭で旧客を見ました。とても懐かしかったです。
今西日本で旧客に乗れる所はあるのでしょうか?



投稿者 雑魚
投稿日 2011年 8月 4日(木)10時07分21秒
タイトル 室木線
▼南国しおさい様:

室木線と云えば、紹介写真などから、旧客列車主体で運行された印象が強いのですが、
末期の車両事情は、どの様な状況だったのでしょうか。

新幹線と九州道に挟まれ、独特の雰囲気があった終着・室木駅は、日中線熱塩と同様、
機回し線を擁する一面一線と、客レ路線ならではの仕様が感じられました。もっとも、
近所を通過する新幹線の隧道建設工事に際し、現場まで資材搬入用貨物線が延伸され、
室木駅自体も、側線が拡充された時期があったのですね。

室木線も御多聞に漏れず、そもそもの敷設動機は運炭目的でしたが、廃止された頃の
道路地図を改めると、筑豊線鞍手駅(室木線廃止を受け、鞍手町への救済措置として
設置されたもので、室木線にも同名駅が存在)付近から、室木線とは別に運炭鉄道が
分岐していた様で、改めて、筑豊地区における全盛期の路線網の複雑さが偲ばれます。
一方、かかる路線網にも、石炭積出拠点だった苅田港(日豊線の小波瀬西工大前から
貨物線が分岐)へのスルー運行を意図する「秩序」もあった様で、奥の深い世界です。

余談ですが「鞍手」を名乗る県立高校は、鞍手町ではなく隣の直方市に所在し(但し、
本校と異なり、なぜか、町立の分校が鞍手町に所在)これは戦前の創立当時の地勢を
反映してか、旧鞍手郡全体を代表した意味合いがある様ですね。こうした命名事例は
行橋、飯塚、大牟田など、福岡県では間々、見受けられ、独特の地勢感覚が窺えます。

> 今西日本で旧客に乗れる所はあるのでしょうか?

JR四国やJR九州では、経営合理化の為か「ジョイフル・トレイン」を含む波動的
編成の運用が、廃止または抑制傾向にある様に見受けられ、いつの間にか、宮原から
旧客が消えたJR西日本も、同様の傾向かと想像します。かの「SLやまぐち」とて、
牽引車両は12系の改造ですし、西日本域で旧客の稼動事例を問われると、そう言えば
思い当たるフシがありませんね。



投稿者 XD1 at Phuket
投稿日 2011年 8月 4日(木)13時34分38秒
タイトル 雑魚さま
 今回タイでは政権交代がありまして、新与党はかーーなり親中国派らしんです。
と言いますかタクシンが、、、。あっ、この板でその方面に深入りするのは避けませう。
でもとにかく、タイ新政権側から中国の鉄道事業を後退させる可能性は低いように思います。
タイよりも、今回ンも高速鉄道事故による中国の内部事情の影響が大きいように思います。

 ジャボタベックはインドネシアですね。
 マレーの高架電車の混雑ピーク時の状況はちょっと分かりません。まだ外が紫色の時間に一区間乗っただけですから。

 タイでは、日本に比べればはるかに緩いです。走行区間が短くて、郊外住宅街を充分ぬカバーしていません。
通勤にはバス、自家用車が多いようで、渋滞の方が問題ですね。

 米のNYには日本製新型電車が走っているそうですが(見たことありませんが)、
東南アジアでは日本製車輌は中古品ばっかのようです。
バンコクの空港線とか、物としては日本製の方が良いように思うのですが、円高で割高になってしまうのかなぁ。
ちょっと残念です。



投稿者 南国しおさい
投稿日 2011年 8月 4日(木)23時09分27秒
タイトル 室木線
雑魚様
御返事ありがとうございます。まさに雑魚様の言う通りです。
かなり詳しくて私もわからないことがたくさんあります。まだまだ勉強不足です。
本題の室木線ですが、最後まで旧客だったような気がしますが、もしかしたらディーゼルカーに変わっていたかもしれません
(勉強不足で申し訳ございません)
雑魚様の言うとおり筑豊にはあらゆるところに線路が敷かれていて、今でもその遺構が結構残っています。
残念ながら室木線跡はすべて県道に変わっていてほとんど遺構は残っていませんが。
西日本では旧客は無理みたいですね。また今度大井川鐵道に行こうと思います。



投稿者 雑魚
投稿日 2011年 8月 5日(金)16時19分6秒
タイトル 終着駅での機回し
室木線の話題に関連して、廃止路線を含む行止の終点で、機回しに対応していた駅や、
その中で、現在は棒線化された駅が、どの程度あるものか、ふと気になりました。

終着駅の制約事情から、客レは設定されたものの、途中駅で折り返した事例としては、
倉吉線(関金)樽見鉄道(本巣)片上鉄道(吉ヶ原)辺りが、先ずは連想されますね。
片上鉄道は、元々が貨物主体なので、柵原も構造上、機回しには対応できた筈ですが、
ホームを擁する線路は、そうではなかったのか、などと想像しています。

樽見線の場合、14系が転入したのは、三セク転換後の事。大垣あるいは、東海道線に
乗り継いだ先の岐阜・名古屋を志向する需要を捌く為の、輸送力増強措置と思いきや、
意外や、北方真桑に所在する、岐阜一高への通学需要に対応した設定だったのですね。
ゆえに「一高列車」と称され、似た様な名称の学校の出身者としては、羨ましい限り。

定時性確保の隘路になりがちな、路面区間を擁するとは云え、県都直通の利点がある
名鉄揖斐・谷汲・美濃町線が、相次いで廃止される中、長良川鉄道と共に、樽見線が
存続した事、永年の悲願とは云え、盲腸区間の山間域(神海以遠)延伸が、転換後に
行われた事など、樽見鉄道の在り様には、特に感慨を覚えます。

それもこれも転換時の出資構成内容から窺える様に、本巣のセメント工場に関連した
貨物輸送の導線確保が一大命題だった為と推察しますが、その貨物列車も、五年前に
廃止され、路線の存在意義に少なからぬ影響があった事と存じます。

旅客車両の分散動力化と、貨物列車の淘汰に伴い、終着駅が、構えを小さく、そして
簡便化されつつある傾向の下、わざわざ、PP方式を用いて、客レによる記念運転を
実施した、先日の水郡線・常陸太田支線での事例は、特筆に価すべきものと考えます。



投稿者 クモイ103
投稿日 2011年 8月 5日(金)23時05分42秒
タイトル 室木線1983(その1)
室木線のお話しが出ましたが、旧客時代の末期に訪れていますのでちょっとレポートします。

昭和58(1983)年12月29日、室木線と共に健在だった宮田線の終点・筑前宮田駅から5キロの山道を室木まで歩きました。



【写真上】サミットを越えて下りに差し掛かると、丘陵地帯が開けて、山陽新幹線の高架が横切っています。



【写真中】構図を変えてもう1ショット。



【写真下】それをくぐると程なく室木駅です。16:08発遠賀川行き436レが発車待ち。編成は
 DE10 73[直]+スハフ42 13+オハ35 1201+オハ46 56+スハフ42 117
客車の所属は全て[門ワカ]です。後方に遠く見えるのは新幹線の高架。



投稿者 クモイ103
投稿日 2011年 8月 5日(金)23時09分42秒
タイトル 室木線1983(その2)


【写真上】オハ35だけ形式写真を撮っていました。



【写真中】後方を新幹線列車が駆け抜けていきます。程なくこちらも発車。



【写真下】所要22分で終点遠賀川に着くと、すぐに機回しして下り列車に変身。
向こうの側線には、1ヶ月後の59−2ダイヤ改正でデビューする新鋭?715系電車が控えています。

その59−2改正で室木線の列車は気動車に置き換えられましたが、それもつかの間、
わずか1年余り後の昭和60年3月末をもって廃線されました。

できればハチロク時代に訪れたかったですね。



投稿者 ED76109
投稿日 2011年 8月 7日(日)06時24分49秒
タイトル 昭和48年ころの室木線
 おはようございます。昨日はお休みになられましたでしょうか。「ED76109」であります。


 雑魚様

 >旧客列車主体で運行された印象が強いのですが、末期の車両事情は、どの様な状況だったのでしょうか

 クモイ103様

 >できればハチロク時代に訪れたかったですね


 小生の手持ち資料(「昭和48年6月度JTB時刻表」及び「感動の所在地(ネオ・パブリッシング社刊)」)によりますと、
1日に「6往復」のPCが設定されております。
また、当時筑豊地区で「8600」が配置されていたのは、「若松機関区」の5両のみであります。
まさしく全て「門ワカ」による編成でありました。
昭和40年代に入り、エネルギー革命のあおりを受けて、筑豊の炭田は斜陽化に拍車がかかってしまいました。
その影響を「室木線」はいち早く受けており、沿線の炭鉱が閉山してからは
「8600が2両のPCを牽く」のみとなってしまったようであります。
なお、「感動の所在地」には、「室木駅」でのスナップ写真(モノクロ)が掲載されております。
改札口からフォームに停車中の「オハ35424」の傍らを、「胴乱」を片手にした「カレチ」氏が歩いている・・・といったもの。
そして、駅待合室の傍らには「ディスカバージャパン」のポスターが掲示されており、
小生が小学生当時の「汽車旅」が、思わず思い出されたのでありました。


 長々と失礼いたしました。
以上、「PC天草」や「佐世保編成のDCかもめ」が走っていた頃の「筑豊本線」を「制覇」したかった
「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 ハチキク
投稿日 2011年 8月 7日(日)20時28分19秒
タイトル テンダ機でバック運転の客レ
はじめまして。
室木線の8620客レは機芸出版社の「シーナリィ・ガイド」で見ました。
カマは転向せず、片道はバックで牽引していたように記憶しています。
呉線でもC59やC62がバックで客レを牽引していたでしょうか。
北国でやったなら、テンダにスノープロー付けていたりして?(聞いたことないですけれど。)



投稿者 クモイ103
投稿日 2011年 8月 9日(火)07時24分50秒
タイトル Re: テンダ機でバック運転の客レ
ハチキク様

室木線では両端の遠賀川・室木ともに転車台が無かった様ですね。
テンダ機による逆行牽引は、筑豊地区の9600による石炭列車など
蒸機現役時代はさほど珍しいものではなかった印象がありますが、
客レとなると確かにやや限られる感じもします。
逆行が発生するのは短区間運転や筑豊のような複雑な路線網の中が主で、
本線の長距離運転で逆行するケースはまず無かったでしょうから、
自然と貨物列車のケースが多くなる訳ですね。

話が逸れますが、機関車でなく「客車編成の逆行」の例もあります。
昭和33年9月、台風22号の影響で鶴見川が氾濫し、27日東海道本線の全列車が横浜止め。
翌28日の下り「つばめ」は東京発となったもののデルタ線廻しが出来ず、
機次位に展望車、最後尾にスハニという姿で大阪まで走ったそうです。
(鉄道ピクトリアル第514号(1989-7)<特集>列車編成の記録 より)
もっとも、過去本掲示板で何度か話題に上っている仙セン配置のスハニ35は常時片道は「逆行」していたわけですが。


 
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