倶楽部メモ(624)
平成22年 9月26日〜10月 5日

タイの日本製蒸気機関車 ・ 運転抑止北斗星乗車記


投稿者 XD1 at Phuket
投稿日 2010年 9月26日(日)13時28分29秒
タイトル 日本製蒸気機関車
 駅から徒歩20分程度の場所ですが、この蒸気機関車の展示もあります。
これはタイにしては保存状態が良い方だと思います。

 後ほど銘版等の画像も出しますが、日本の福島の KYOSAN KOGYO の製造だそうです。検索しましたが、

福島県福島市の協三工業 写真入り沿革
http://www.kyosankogyo.co.jp/html/nenpyo1.html

に類似の機関車の写真もあります。
直接この会社に確認したわけではありませんが、やはりここではないでしょうか。

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マロネロ38まさ

 そうですね。恥ずかしながらその辺りについて自分は知識不足なのですが、
改めて検索し、この会社が非常に多くの製品を造っていたことを知りました。




投稿者 ED76109
投稿日 2010年 9月27日(月)00時59分0秒
タイトル 憧憬の北国急行「ニセコ」
 おばんでございます。「ED76109」であります。

 前回の「桜島」の「戯言」は小生の勘違いもございましたが、
自分の「鉄旅」を回顧できるなど、小生自身が楽しんでおりました。
今回は「ニセコ」を「戯言」させていただきます。
しかし、何度も記しておりますが、「山線」の衰退ぶりは言葉を失うばかりであります・・・。

1 小生が最初に渡道した昭和48年の3月、「鉄」親父に連れられて、初めて「PCニセコ」に乗車いたしました。
既に「C62」は引退してしまっておりましたが、「DD51」が逞しい轟音を立てながら「スハフ44」以下の
長編成を牽引するとあって、当時小学4年生のガキ(小生)には眩しい限りでありました。
「森〜八雲」辺りの噴火湾から、対岸に見えた「伊達」や「室蘭」が夕陽に輝く風景は、今でも強く小生の脳裏に浮かびます。
そして、夕闇迫る「長万部」から「タブレット交換」の「山線」の隘路を越え、
残雪深き「倶知安」を経てフォームがカチカチに凍り付いた「小樽」へ・・・。
北海道には「電化区間」は無き物と思い込んでいた小生には、氷雪で覆われた「ED76500番代」への交換は意外であり、
「交流EL」の甲高いホイッスルへの憧憬は、この時から始まったように記憶しております。

2 昭和60年の1月、厳冬期に乗車した「ニセコ」は、
北海道の冬の厳しさをいやというほど痛感させられる旅でありました。
まず、「ニセコ」が入線した「札幌の1番フォーム」は快晴とはいうものの「-13℃」。
コートの襟を立てても全く温みは感じられず、「EL」に牽かれた「14系」は氷雪に覆われておりました。
しかも、車内は暖房が効きつつも、自動ドアが凍り付いたのか、発車時刻になっても「ニセコ」は全く動く気配もなく、
駅員がハンマーでしばれをたたき割って5分遅れで発車・・・。
快晴であったがため、「張碓の断崖」や「羊蹄」、そして「ニセコアンヌプリ」を雄姿を見せてくれましたが、
窓ガラスには薄く氷が張りつめて少々ピンぼけ気味。
そして、圧巻は「長万部」で購入した「かにめし」。売り子さんの「すこししばれて(凍って)いるから。」と言われ、
包み紙を開けても箸も立たぬ始末。
何とか、ヒーターの上で「解凍」して、小生何とか「函館」までにはお腹に収めましたが、
シャーベット状の「かにの切り身」は後にも先にも唯一の経験でありました。

3 昭和61年の9月の連休、廃止直前の最後の「ニセコ」に乗車しました。
この時は、「ニセコ」の最期に相応しく、快晴の1日。
しかし、車内は閑散としており、小生を含めて最後尾の「スハフ14」は閑古鳥が鳴く状況でありました。
しかし、「札幌車掌区」のカレチ氏が「沿線案内の放送」で数少ない乗客を楽しませて下さり、
清秋の「山線」を十二分に堪能。
さらに「鉄」である小生に、「『まりも』の頃、急病の夫婦を『倶知安』で病院に入院させるために、
『比羅夫』で通信筒を放り投げて駅員に連絡した」想い出話をご披露くださり、
昔の「山線」の一端に触れることが出来た愉しい旅でありました。

 「函館・札幌」の6時間弱、「DD51」と「ED76」とともに越えた「ニセコ」の旅。
是非とも「想い出のニセコ号」を復活させてほしいものであります。
長々と失礼致しました。以上、「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 XD1 at Phuket
投稿日 2010年 9月27日(月)08時06分15秒
タイトル 日本製蒸気機関車 2
 運転席には金網が取り付けられており、入ることができません。
鎖は無かったので、炭水車との間の連結部から運転席の写真を撮ることが出来ました。

 銘版等の塗装は、最近タイで施されたものと思われます。
銘版の銀色もラフですが、タイにしてはまあ良くやっている方かも。KYOSAN 1949 JAPAN などが読み取れます。

 現役当時は運転用のレバー、計器類もあったのかもしれませんが、見当たりませんでした。




投稿者 初北斗星
投稿日 2010年 9月28日(火)00時12分47秒
タイトル 念願の北斗星の旅が・・・
はじめまして。
9月22日東京発北斗星に乗車し、インタビューを受けた家族の1人であります。
検索で、偶然にもこのページを拝見したので、投稿させていただきました。

22日19時半、念願の北斗星に乗って北海道へ!
天気で期待は出来ないものの、北海道の大地の日の出を見ようと思って早目に就寝。
23時過ぎ頃、強い雨の音で目が覚め、うつらうつらしている所にブレーキの音、その後、
「お休みのところ失礼します。この先大雨の為にしばらく停車します。また、状況がわかり次第お知らせします。・・・・」
と放送が。
外を見ると福島駅でした。
それから、4時頃に目が覚めても、まだ福島、
6時近くになって、福島発の在来線の運休を知らせるホームの放送が遠くに聞こえて目が覚めました。
6時半にグランシャリオの朝食の準備が出来たことと、荷物の積み込みが出来なかったため、
車内販売の朝食のサンドイッチ等はありませんと放送されていました。
その後、まだ出発の見込みがないことと、
新幹線に乗り換えたい人や旅行中止にしたい人は、5号車にいらしてくださいとの放送が。
その後、乗客には、おにぎり1個とお茶1本が配られました。
袋とおにぎりのパッケージからして、セブンイレブンで調達したようです。
6時半のグランシャリオのOPENよりも遅く食堂車に向かったら、5組の順番待ち。
その間、ツアーで参加していた人達は、添乗員から指示され、荷物をまとめて下車していました。
30分以上待って、ようやく案内され、朝食を。
ゆっくり食べてから、客室に戻ると、
その途中の半分以上の部屋が下車したようで、ドアが開けっ放しで乗客のいない部屋ばかりでした。
車掌室の前を通ったので、車掌さんに状況を聞くと、この列車は仙台で打ち切りに決定しましたと・・・。
え〜っ!そんな放送は、全くなかったのですが、だから、みんないないのを納得。
それを傍で聞いてた他の乗客は怒っておりました。
そうなると、我々はどうしたら良いものかと聞くと、みどりの窓口に行って相談して下さいとのことだったので、
速やかに荷物をまとめて福島駅のみどりの窓口に。
新幹線乗り換え先発隊はすでに、福島を発ったようで、その時改札に居た、乗り換え希望の乗客は我々1組だけでした。
福島すら初めての我々は、いったいどうしたら良いものか全くわからず、
JRの方で代替輸送を手配してくれるとのことなので、言われるがままに。
とにかく、札幌までものすごい時間がかかるようなので、自由席ではなく、指定席で、且つ、4名近くの席でリクエスト。
結局、12時12分福島発のやまびこから始まって、はやて、白鳥、北斗と乗り換えて
21時半に札幌に到着する手配をしてもらいました。
出発まで2時間もあるので、また北斗星に戻って、部屋で寝かせてもらうおうと
(降りる前にも車掌さんに、その旨伝えておりました)北斗星に戻ったら、
これから最終地仙台に向けて発車します、ご乗車の方はお戻り下さいとの放送が。
発車しても何時に仙台に着くかわからないので、この先の列車を予約した乗客は乗らないほうが良い
と車掌さんからアドバイスを受けたり、何故こんなに停まっているかの話などを聞いているところに、
福島放送の方が来てインタビューを受けることに。
その後、代替輸送を手配してくれた福島駅の駅員さんには、北斗星に戻ることを伝えてあったので、
発車が決まって、我々が北斗星に乗ってしまってはマズイと心配して、ホームまで息を切らして呼び戻しに来てくれました。
発車の放送が入っても、全然発車の気配はなく・・・、なんたって車掌さんもホームでゆっくりお話してるくらいですしね。
ホームで北斗星を見送ろうと待っていましたが、痺れをきらして、待合室に戻ってしまったので、
北斗星がいつ発車したかは不明ですが、12時12分のやまびこに乗ろうと待合室を出た時には、ホームにいませんでした。
それから、我々は予想もしていなかったルートで、札幌に向かうことに。
乗り換えはスムーズでも、札幌に着いたのは、21時半。
予定より10時間遅れの到着でした。
上手く書くことが出来なかったので、十分にお伝え出来ませんでしたが、
これが初乗車で、途中下車する羽目になった我々の状況であります。
また、乗れるかな?



投稿者 XD1 at Phuket
投稿日 2010年 9月28日(火)08時46分2秒
タイトル 日本製蒸気機関車 3
 石碑です。日本製であることが明示されています。


 タイの鉄道について、もう少しネタがあるのですが、まだ準備が出来ていません。もし出来ましたら、その時に。




投稿者 雑魚
投稿日 2010年 9月28日(火)13時36分41秒
タイトル 札幌への代替輸送手段
▼初北斗星様:

茨城県で水揚げされた雑魚と申します。折角の「北斗星デビュー」が台無しでしたね。
新幹線が直通する福岡方面とは異なり、津軽線や江差線に単線区間が残るなど、少し
脆弱な導線事情や、上野〜福島の距離が全行程の1/4に過ぎない事を思えば、空路に
異変が無ければ、そちらへの代替誘導も併せて提示されて然るべきと思われます。

例えば御指摘の「やまびこ49号」なら、仙台発が14時台の日航便、または全日空便に
間に合いそうですし、そのまま「北斗星」に乗車しても、名取にて臨時停車の措置を
講じれば、遅くとも16時台発の便には間に合ったものと思われます。

また、早朝時点で運転打ち切りが判れば、極端な話、新幹線で東京に戻り、羽田から
空路利用とする事で、運が良ければ、千歳には正午前後の到着が可能で「北斗星」の
南千歳への所定到着時刻が 10:41である事を思えば、札幌到着後の予定に、然したる
影響を及ぼさずに済みそうです。

JRにとっては一旦確保した運賃収入を失う事になり、車掌さんが空路代替の案内を
行う事は、筋違いかも知れませんが、津軽線や江差線の状況にも鑑みて、少なくとも
新幹線の新函館延伸までは、想定して然るべきではないでしょうか。

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私の棲息地は水戸近郊なので、本来「北斗星」にはあまり縁がありませんが、一昨年、
家族で渡道した際、往路は福島空港に車を置いて空路を使うも、帰途は「北斗星」を
郡山まで利用、須賀川から空港までタクシーという要領でした。個室寝台や食堂車は、
子供達に大受けでしたが、それが「ブルトレ標準」と感じたらしく、後日、東京駅で
見物した「富士・はやぶさ」の開放寝台主体の編成には、少し期待外れの様子でした。

丁度「岩手県沿岸北部地震」が発生して間も無い頃なので、道内は定時に運行するも、
東北内線で徐行・停止が相次ぎ、郡山到着時点では想定通り三時間程度の遅れとなり、
特急料金も払い戻し。乗車そのものを楽しむ立場としては、地震を発端とする事情を
考えれば、不謹慎かも知れませんが、少しだけトクした感覚でした。



投稿者 初北斗星
投稿日 2010年 9月28日(火)22時24分0秒
タイトル なるほど〜
雑魚様

ありがとうございます!

北斗星が停まってしまうこと、更には打ち切りで降ろされることなど想像もしていなかったのと、
そんな経験も初めてなので、とにかく、札幌に着ければ・・・の思いだけで、言われるがままでしたが、
もっと早くて楽な手段がいろいろあったんですね〜。
携帯で怒りながら電話をしている人の話をチラッと拝聴したところ、
JRでの輸送が不可能でない限りは、飛行機への代替の手配はしてくれなかったので、
大量の重い荷物を持って、何度も乗り換えて札幌まで行かないといけないのか・・・みたいな話をしておりました。
今、よくよく考えると、滅多にこんなことはなくて、ホント運が悪かったんだな〜と思います。
福島は行程の1/4と聞くと、余計にショックが大きいです・・・。
北斗星に乗れた暁には、次はサンライズと考えておりましたが、やっぱり、まずは、もう1度北斗星ですかね。
次回は、何事もなく無事に到着することを願うばかりです。
寝台料金は戻ってくるのだろうか?と思い、びゅうを通して予約したので、びゅうに問い合わせたところ、
調べてから連絡が来るとのことでした。
どうなることか??



投稿者 雑魚
投稿日 2010年10月 2日(土)14時07分35秒
タイトル 空港での鉄道連携性
▼初北斗星様:
> JRでの輸送が不可能でない限りは、飛行機への代替の手配はしてくれな(い)

それが原則かと思いますが、前述の様に、東京−札幌の昼行移動は、空路に比べると
鉄路があまりに脆弱なので、日照時間帯は、足止めを食った時点で「即断」しないと、
徒に時間を浪費する事になります。元々「北斗星」の利用動機は、ビジネス利用とは
一線を画する場合が大半かと思われ、必ずしも先を急ぐ訳ではないかも知れませんが、
折角の北海道旅行で、初日の午後が台無しになるのは、勿体無いですしね。

今回の話を契機に、あれこれ考えるに、新幹線と航空便の競合性から、空港における
鉄道の連絡性は、日本ではまだまだと感じますが、新設鉄道路線が、既存空港に直接
乗り入れる仙台・宮崎空港のほか、用地拡張に伴う線路の付け替えで、最寄りの駅が
空港駅として移設・整備された米子空港など、少しずつ、改善されてはいる様ですね。

拠点空港を、ある程度、絞り込んで、鉄道やバスとの有機的な連携性を確保するのが
理想的な交通体系と感じる手前、乱立気味との指摘が多い地方空港については、先の
隣国との問題で、日本への観光客の誘致が少々不透明になった点を含め、生き残りを
巡って、今後、廃港を含め、より大きな紆余曲折があるものと予想しています。

わが地元にも、何かと話題になった茨城空港があります。せっかく地元に設置された
空港なので、機会あらば利用したいのですが、立場上、渡航頻度も高が知れています。
仁川での乗り継ぎに活路を求めるべき、との意見もある様ですが、羽田や成田のハブ
強化政策と相対する事となり、あちら立てれば………ですね。



投稿者 理左衛門
投稿日 2010年10月 2日(土)20時41分54秒
タイトル 北斗星・はまなす
ご無沙汰しておりました。
去る8月27日に北斗星、周遊券で道北をめぐり、9月1日にはまなすで戻りました。
客車って本当にいいものですね





投稿者 ED76109
投稿日 2010年10月 3日(日)02時06分45秒
タイトル 伝統の臨時レ「銀河51号」
 おばんでこざいます。「ED76109」でございます。

 先達の皆様方、「北の客レ」はいかがでございましょう。
「北斗星」も「はまなす」も「客レファン」である先達の皆様のお心を揺さぶる旅であります。
小生、僭越ながら「北の大地」から無事故運転を祈念いたします。
さて、今回は地味でも贔屓であった「銀河51号に係る戯言」を述べさせていただきます。

 1 小生が始めて「臨レ銀河51号」にお世話になったのは、昭和45年の春休み。
前述しましたが、「鉄」親父と「中央西線のD51鈍行」の乗り鉄のために「東京」から「名古屋」までの乗車。
当時は全車自由席の旧客仕立て。
この日は午後から土砂降りで、先頭の「EF58」は雨滴に濡れて、「東京の9番フォーム」に雄姿を見せてくれました。
ところが、車内はオーバーコートを羽織っても自然と体が震えるほどの寒さ。
「ハイケンス」が流れた「東京車掌区」のカレチさんの放送では、
「暖房の調子が悪く、20分ほど辛抱してほしい」旨が伝えられ、
満員の車内は「ガタン」と大きな音を立て始めたスチームに期待が・・・。
確かに「横浜停車」の辺りで、車内は暖かくなり一同ほっとしましたが、
次第に温度が上昇を始めて、「熱海」では完全に蒸し風呂状態。
外は豪雨で、窓を開けることもままならず、「丹那隧道」通過に合わせて、「スハフの窓」を全開にして事なきを得ました。
しかし、当時はのんびりしたものなのか、「臨時レだから仕方ない」とクレームを付ける乗客は皆無でありました。

 2 「山陰旧客鈍行乗り鉄」に合わせて、昭和50年代は2年に一度のペースで
「14系」仕立ての「銀河51号」にお世話になりました。
不思議なことに、「春休みの時期」はほぼ満員でありましたが、夏休みは「昭和57年」を除けば「ガラガラ」状態。
当然、「熱海」以降から乗る客はまずいないだろうと、
「熱海」以西は座席を転換して「ボックス」にしてから横になるのが定番でありました。
しかし、「14系」は当初リクライニングシートのストッパーが殆ど効果なく、
座席の位置がズレると「ガタン」という大きな音を立てて自然と目が覚めてしまうという代物。
「ゆっくり寝るなら、『14系の銀河』にしな」というメッセージのように、小生には聞こえて仕方ありませんでした。

 3 2のように、あまりゆっくりと寝てられないのか、大抵は「大阪」や「京都」に着く前に
目が覚めてしまうことも定番であり、翌日は睡眠不足から、必ず道中の車中でウトウトすることが殆どでありました。
また、「目覚める地点」もほぼ一定しており、「新垂井の迂回線」か「伊吹山が見える近江長岡」の辺りばかり。
薄暗い減光された車内で疲れた頭で車窓を眺めておりました。
そういえば、「新垂井」が廃止されてはや幾星霜(?)でありますね。
また、よくよく考えてみれば、下りの「銀河51号」には5・6回はお世話になったのに、
上りの「銀河51(52)号」は一度を乗車しておりません・・・。
しかし、独特の味わいのあった「臨時銀河」は、
多くの先達方の夢を運んだ「燻し銀」の名列車だった印象が小生にはございます。

 長々と失礼致しました。
以上、5年ぶりに「寂しい秋」を迎えることとなった、「道民球団応援団」である「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2010年10月 4日(月)16時13分32秒
タイトル ゆのくに
ED76109先生:
先生ほどでは無いですが私は大阪−金沢間の「ゆのくに」が忘れられません。
最初が臨時快速時代の昭和25年11月に親父が経営していた会社の旅行に便乗でオハ35で大阪-大聖寺間往復。
相当速いなあと感じましたが当時まだ本格的な鉄じゃなかったので---
オハ35,スハ32がゴチャゴチャでしたが幸いにも往復オハ35でした。

昭和27年夏休みに親父の出張にくっついて金沢,能登見物の時は準急でしたが
オロ36(車内写真あり)中ヒロ、30年正月にはC59127(ご存知の重油専用)とスロ33.
この時山崎で阪急のP6急行を追い抜きましたが、矢張り蒸気の上がりが良かったみたいです。

何しろ当時は京都−米原で3505レが「はと」より1分遅いだけ(大津通過)でした。

31−11改正で大阪1040になりましたが、503レ「立山」より10数分遅いだけ出,専ら「ゆのくに」愛用。
不思議なことに下りのみで上りは時間の関係で利用しませんでした。
「立山」等3回乗車しただけです。



投稿者 ED76109
投稿日 2010年10月 4日(月)23時18分40秒
タイトル Re:ゆのくに
 おばんでございます。「ED76109」であります。

 マロネロ38様
 >「ゆのくに」が忘れられません

  小生は「ゆのくに」と言われば、「EC475系の急行」というイメージであります。
ただ、確か1往復は「DC仕立て」で「大阪・新潟の急行越後」に増結されていたのではと記憶しております。
「DCゆのくに」は「能登線の蛸島行か宇出津行」ではなかったでしょうか?
さすがに、「PCゆのくに」のことは存じませんでしたが、「オハ35」ということで、
小生が「乗り鉄」した「旧客鈍行レ」で世話になった親近感が湧きました。
しかし、今ではJRが「和倉温泉」までであり、「のと鉄道」も「穴水」止まり・・・。
いつものように「昭和は遠くなりにけり」であります。

 失礼致しました。
以上、「北陸本線」と言えば、昭和57年制覇した「長岡発米原行旧客レのオハフ46」が懐かしい、
「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2010年10月 5日(火)10時35分44秒
タイトル DCゆのくに
ED76109先生:
確かにありました社内旅行で宇奈月温泉へ行くのに、「越後」に魚津迄乗車しました。
「ゆのくに」は宇出津行だったと想います?
DCは臨時の「ゆのくに52号」にも金沢→大阪間乗車しましたが、もう急行になって
いました。

PC時代出張は専ら「ゆのくに」で金沢まで、金沢途中下車するか、高岡まで長岡行後
に糸魚川行に乗り継ぎでした。準急料金@¥100-時代は便利な列車でした。

シーズンには「ゆのくに」補完で「加賀」、「ゆのはな」が運転されましたがこれは指定
席でもスハ32とか,何に乗せられるか解らない列車でした。臨時準急「ゆのくに」に大
ミハのスハ44が組み込まれて居たのを大阪駅で見ていますが、満員の乗客が大阪から
後ろ向きだったので気の毒でした。「つばめ」の予備車なら,当然上り前向きなので
すがどうした事やら---。
兎に角臨時列車は何処からどんな車両を調達してくるか?興味深かったです。
オロ40の車端座席2人分取り外して、お茶のタンクを積んだのやら(前の2人は迷惑
至極),とんでもない車輌が飛び出したものでした。



投稿者 雑魚
投稿日 2010年10月 5日(火)10時50分6秒
タイトル のと鉄道
▼ED76 109様:
> 2年に一度のペースで「14系」仕立ての「銀河51号」にお世話になりました。

私も、都民だった80年代に、14系ハザによる臨時「銀河」を、何度か利用しましたが、
総じて空いていました。当時、寝台を利用すると、貧乏仲間から「人民の敵」と云う
烙印を押され、厳しく糾弾された事から(^^)繁忙期の座席夜行便は、重宝しました。

当時は、昼行の臨時急行でも、12・14系の充当便は珍しくありませんでした。知人が
信州旅行の帰途、12系による臨時「アルプス」を利用した際、松本発車時点で乗客は
知人のグループのみという閑散振りで、開き直った車掌は、各停車駅での接続案内を、
立川からの青梅線や南武線を含めて 懇切丁寧かつ異様に詳しく行ったそうです(^^)

> 今ではJRが「和倉温泉」までであり「のと鉄道」も「穴水」止まり

分岐駅以遠の双方の路線が廃止される構図は、黒野駅における名鉄揖斐・谷汲両線を
彷彿とさせます。黒野以東で残った揖斐線も、区間廃止の数年後に、岐阜市内線共々
全廃されており、同路線に比べて、沿線人口が遥かに少ない、のと鉄道の現存区間も
あれこれ勘繰ってしまいます。

この区間が残っているのは「ウィキペディア」によると、北陸新幹線の金沢延伸時に
経営分離される可能性がある七尾線への対策として、県レベルでの鉄道経営の手法を
温存するという側面があるのだとか。一方、和倉温泉を境に、電化の有無から、車両
運用事情も大きく異なる為、並行する能登有料道路も穴水が終点という事情にも鑑み、
人口一万弱の穴水町に達する路線が存続する必然性や、これ如何に………と云うのが
個人的な所感ですが、さて、どの様な事になりますやら。

旧能登線が蛸島まで全通したのは1964年ですが、それ以前に、金沢〜珠洲市界隈では
夜行バスが運行されたと聞いた事があります。隔世の感も一入ですが、金沢〜蛸島が
鉄道基準で 160km離れており、当時、必ずしも路面が整備されていなかったであろう、
一般道の経由であれば、夜行便を仕立てるに足る必然性は、あったのかも知れません。

以上、七尾線電化後、下り一便のみ存在したと記憶する 415系遜色急行「能登路」と、
気動車「能登路」一往復に連結された「ビデオ急行」が妙に懐かしい雑魚でした。



 
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