倶楽部メモ(598)
平成22年 5月14日〜 5月18日



投稿者 竹中@ノーブルジョーカー
投稿日 2010年 5月14日(金)21時08分33秒
タイトル 品川近況
旧品川客車区や旧東京機関区部分の多くが更地になってしまいましたが、残る洗浄線にも変化がありました。
レールと架線が切られ、引き上げ線が撤去されています。ただ、切られた架線を受ける架線柱が新たに
設置されましたので、サンライズは引き続きここで休むようです。
また、臨時ホームの10番線のレールが剥がされていました(画面左下のレールです)。

投稿者のホームページ



投稿者 雑魚
投稿日 2010年 5月15日(土)13時26分33秒
タイトル 品川の 「トワイライト・ゾ〜ン」
▼竹中@ノーブルジョーカー様:

少し御無沙汰している間に、品川〜田町もかなり変わってしまいましたね。引き続き
ここを塒とする「サンライズ」が、何とも浮いた存在に見えてしまいます。今月末に
都内出張があるので、私も検分する事と致しましょう。

僅か、1〜2年前の様子ですが、品川界隈の「古き佳き時代」を掲出します。下段画像
奥に見える「こだま色」は、この時期、日光発着の修学旅行集約臨に充てられている
183・189系と思われますが、2013年以降、東北縦貫線を介して田町の一部基地機能が
尾久に移転すると、こうした波動運用編成の処遇は、どうなるのでしょうね。








投稿者 ED76109
投稿日 2010年 5月15日(土)23時19分55秒
タイトル 古きものへの憧憬
 おばんでごさいます。「ED76109」であります。

 先達の皆様方の話を伺っておりますと、何とも言えない思いが溢れて参ります。
本当にこのままの状態が続けば、どうなるのでしょうか・・・。
「客車レ」どころか「在来線」もズタズタにされてしまい、「ユーラシア鉄道」様のように
「中国」や「ロシア」に「客車のロマン」を求めていくことになるのでありましょうか・・・。
「昔は〜」という話は、年老いた証拠ではありますが、今日はそんな「戯言」を述べさせていただきます。

 1 「ミキスト」はローカル色豊かな「旧客レ」でありました。
牽引機が「SL」であれ、「DL」であれ、今となっては乗ることのできないレトロトレインであります。
小生は、記憶にないものも含めれば、「昭和42年の花輪線」・「昭和46年、同53年の肥薩線」
そして「昭和57年の根室本線及び釧網本線」でお世話になりました。
特に、「昭和46年の肥薩線」は「D51の後補機」が有名な「人吉・吉松」間の「混合列車」。
「鉄」親父に連れられてでしたが、30両以上の「雑多な貨車」と「狭窓のスハフ1両」を従えて
「撮り鉄」や「乗り鉄」の先達の方々で満員状態。
南九州の厳夏の日差しは刺すがごとくの快晴の1日であり、
「石炭の匂い」を嗅ぎながら「霧島連山」をバックにした「大畑のスイッチバックとループ線」、
「真幸のスイッチバック」と5分程度の停車のたびに、
カメラを抱えて汗まみれになっていた「撮り鉄」の方々が印象に残ります。
しかし、その方々も今では60歳前後の「鉄」の先達であります。
その方々は最近の「鉄」情勢をどのように考えていらっしゃるのでありましょうか。

 2 夏が近づくと、小生「房総の海」を思い出します。
と申しますのは、家族でよく海水浴に出かけたからであり、様々な「臨時レ」にお世話になりました。
昭和45年の夏は「新宿始発の101系の臨時快速館山行」。
同47年は「東京地下駅始発の113系の臨時快速『青い海』」。
大抵、超満員であり、「101系の上り快速」は「青堀」で積み残しが出た記憶が残っております。
現在の「EC特急さざなみ・わかしお」は「京葉線経由」ということで、時代を感じてしまいます。
しかし、当時小生がうらやましく、かつ印象深く感じていたのは、
昭和45年頃の「RP」で眺めていた「天橋立行の海水浴臨時レ」。
確か、夜行の「PC音戸」か「PCつくし」の昼間の停留時間を活用した「ハネ」仕立て。
小生、客レで海に行けることに、大いなる憧憬を感じたものでありました。

 3 「トカホセ」と「スカ線」が分離運転されてから、早30年が経過したはずであります。
小生が物心ついた時には、すでに「70系」や「80系」は傍系的な存在であり、
「111系」や「113系」が活躍しておりました。
しかし、小生が「湘南電車」で最も印象に残っているのは「大船の大クロス」。
「鉄」親父に連れられて「トカホセ」を下る際の「最初の楽しみ」でありました。
確か、「トカホセの下り線」と「スカ線の上り線」が平面交差する「トカホセの要衝」。
「ガタガタガタ」と独特の振動を立てながら、西下していく時は「東京」から離れる感傷的な思いと、
次なる楽しみである「丹那隧道」への憧憬が心の中に広がっていくのでありました・・・。

 長々と失礼致しました。以上、今年「年男」である「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 ユーラシア鉄道
投稿日 2010年 5月16日(日)04時04分2秒
タイトル 国鉄分割は禍根を次世代に渡すもの
 こんばんは。

 小生も、既述の福知山線事故の件で、申し上げましたが全国網羅企業として、様々な地域出身者による、喧々諤々
の会議での意見集約の重要性を、自身の会社でも感じており、地区会議で出なかった先駆的意見は、必ず全社会議で
様々な意見が提議されるなーと感じております。

 NTT・高速道路・郵政なども地域分割化が主流のようですが、ホールディング会社があるのがJRとの違いかと
思います。

 JRもJR総研あたりを「JR・ホールディングス」として、各社のせめて課長以上はJR各社を跨いで全国転勤
をさせるべきと考えます。

 例えば特急「しなの」の場合、大阪から長野まで3社にまたがり、運転手も会社ごとに交代(要注意乗客情報など
うまく引き継げるのか?)していたり、以前大糸線に入線したJR西日本のキハ65型・エーデル気動車やDE15
牽引客車が、糸魚川より南下し、JR東日本域の信濃大町の電留線待機はしぶしぶ受け入れるも、燃料軽油供給拒否
により、わざわざ糸魚川へ引き返さざるを得ない事態に、遭遇したりと、各社のエゴより、利用者優先を考えてほし
いものです。

 指定券がJR各社の窓口で共通で買えるのがまだうれしいですが・・・

 JRを完全なるホールディング化するには、国労・動労の一部反社会的組合員問題もありましょうが、当事者も、
もう高齢化しておることで問題ないでしょう。

 また車両の開発も共同で行い、同じ車両で各社バラバラな発注ではなく「まとめ買い」すれば安価になり、各社の
カラーを出したければ「湘南色」「スカ色」などのようにすれば良いのでは?

 新車両も、例えば新性能気動車であろうと「キハ181」の設計図面で、ドアのみ車椅子対応で新製すれば、お偉い
設計デザイナーの先生に払う高価な「設計デザイン料」も節減できそうなのですが・・・・暴論でしょうか?

 小職の「キハ181」新型特急気動車製作(案:妄想)

 電化・非電化区域ごとの、エネルギー利用効率を重点に置くコンセプト

1.両端先頭車の機関室は、高性能ディーゼル・水素発電機を設置する。
2.中間車はモハ電動車として、パンタグラフを装備する。
3.非電化区間は、先頭機関室で発電する「電気式気動車」で、電化区間は、モハでの電車として走行する。

  旧型客車の次に、気動車大好き人間の、妄想でした。

    長々と失礼いたしました。

  ユジノサハリンスクからロンドンまで、鉄道で行きたい「ユーラシア鉄道」でした。



投稿者 雑魚
投稿日 2010年 5月16日(日)10時05分42秒
タイトル 平面分岐
▼ED76 109様:
> 同47年は「東京地下駅始発の 113系の臨時快速『青い海』

総武線系統に 113系が導入されたのは、1972年の「東京隧道」区間が開業して以降の
事なのですね。現在、特急が設定されている房総系統各線も、1974年までに、電化が
完成していますが、その過渡的時期において、両国駅「列車線ホーム」は、どの様に
機能していたのか、興味深いですね。

> 客レで海に行けることに、大いなる憧憬を感じたものでありました。

そちらの地元でも、50系による夏季快速「らんしま」が運転されたではありませんか。

>「トカホセの下り線」と「スカ線の上り線」が平面交差する「トカホセの要衝」

大船の分岐点は、平面交差だったのですね。当時、輸送量が限界スレスレと思われた
東海道線において、横須賀線とのこうした「相互干渉状態」は、ダイヤ編成上の一大
隘路だった事と拝察します。

こうした複線区間同士の平面分岐は、湘南新宿ラインの旧蛇窪信号所や、埼京線との
仕分けを行う池袋駅南側など、後発的に旅客営業を設定した区間で、散見される様に
感じます。私鉄では、京王の調布や京阪の浜大津の印象が強いのですが、ダイヤ上の
隘路になる事情は何処も同じの様で(近鉄と京阪が、丹波橋における相互直通運転を
解消したのも、かかる事情のゆえだそうです)少しずつ、解消の方向にある様ですね。



投稿者 ユーラシア鉄道
投稿日 2010年 5月16日(日)22時55分27秒
タイトル 夏季臨時客レの想い出
 こんばんは

<ED76109様>
 ご丁寧に、お気遣いありがとうございます。

 さて仰せの「夏季臨客レ」で海水用・・・・最高のシチュエーション
ですね・・・
 :::我は海の子・白波の〜:::の小学唱歌が、日本の原風景とと
もに、脳裏をよぎります。

 小生も、山陰本線・竹野、同・浜坂、紀勢本線・勝浦、小浜線・若狭
高浜など、すべて旧型客車にゆられて訪ねた想い出は、今も鮮明な記憶
にございます。

 山陰方面は、例の出雲市行721レが定番で、夏季休暇中は、意外と
満席状態で(里帰り客含む)、和田山で姫路からの旧客列車より多数の
乗客が乗り込んできた(殆どが大学生の海水浴集団)ため、和田山から
竹野まで、通勤列車状態でした。
 当時は、高規格道路もなくマイカー所有も少ないゆえだったと、推察
いたします。

 南紀勝浦(那智)へは夜行快速「はやたま」が定番で、和歌山での
DF50に交代シーン(天王寺からのEF58が退避した後DF50
は和歌山市発でナハ10を1両のみ牽引で和歌山まで来て「はやたま」
に前位より増結・・・が楽しみでした。
 那智には早朝5:00位に着きますが、駅で一休みして行動開始でし
た。・・・今はもうこんな体力はありません(悲)

 小浜線は、宮津線(北近畿タンゴ鉄道)とともに北近畿では、客レの
ない路線で、キハ17系・キハ20系気動車の天国でした。

 キハ20もバス窓が多く、ガラスグローブ白熱灯照明車が主体で、あ
の優しい光の温もりが、今も忘れられません。
(JR北海道の旧客も「白熱灯グローブ照明」に戻して素敵ですね・)

 最近では「DE10牽引・きのくにシーサイド」号で、白浜までの、
日帰り海水浴を何度か楽しみました。
 これは天王寺よりDE10が全線電化区間を走破し、かつ帰路は白浜
での機回し省略でPUSH−PULL運転で、阪和線までをも走行する
という珍しい運行形態でしたが、2年ほど前に、DE10ともに廃車と
なりました。
 ちなみに客車は12系改造の3両とオハネ25改造のラウンジカーの
4両編成でした。
 DE10の最高速度が95km・hのため、阪和線内は関空快速や、
区間快速に3度ほど道を譲るダイヤでした。

 旧型客車で行く「夏休みの旅」の醍醐味は???
 小生の感性で申し上げますと、
 1.停車時間の静寂(気動車ではエンジン音で無理)の中に、開けた
   窓から聞こえる「夏の虫たちの演奏」が・・風情を引き立てる。
 2.電気機関車以外の牽引の場合、トンネル内で機関車の息吹を肌で
   感じ取れる。
   DD51のかなりの黒煙煤煙が、客車内に充満する長大トンネル
   の連続する山陰本線は圧巻でした。

 以前にも一度投稿した写真ですが「夏季海水浴臨急レ」のDD54の
 牽引「但馬ビーチ」号を再掲載させて頂きます。

 客車と電車の区別が付かない世代に交代しつつある「鉄」世界にても
我々は、想い出に青春時代を重ね合わせ、頭脳のリフレッシュ(若返り)
を図ろうではありませんか?????

 長々と失礼いたしました。




投稿者 ユーラシア鉄道
投稿日 2010年 5月16日(日)23時57分50秒
タイトル 中国国鉄・客車
 再投稿で失礼致します。

<ど素人様>

 中国鉄道「軟座車」のお話、有難うございます。

 杭州から上海でご乗車とのことですが、1987年当時は、中国側受け入れ旅行社が、国営「中国国際旅行社」のみであり
(現在は民営旅行社が乱立)外貨(西側通貨)の旅行者には、「基本的に」一般中国人と同席はさせず、もし「軟座車」での
中国人との同席であらば、「春節(旧暦正月)」の時期に重なり「硬座車」からあふれた乗客が、チップで車掌を買収した小
金持ちでは??と推察いたします。

 「軟座車」と記されておりますように「軟」はグリーン車で「硬」がハ座です。

 当時は既述の通り「軟座車」は西側観光客(アメリカ・西独の団体観光客と同席経験あります)及び公務出張の高級軍幹部
又は高級共産党官僚のみ(軍人との同席経験あるも、中国側のガイドが「絶対に軍人にカメラを向けないでください」と牽制
された記憶あり)が乗車を許されておりました。

 ど素人様には大変なご無礼を承知で申し上げますと「軟座車」はほぼすべてが東独製24系で、もしや「硬座車」でなかった
でしょうか???

 貿易等で中国滞在者の場合、「軟座車・東独製24系」客車のない列車には、22系硬座車の切符を割り当てられることも
あったと、聞いております。

 古い写真ですが 手前が東独製24系(ストライプが、シルに1本のみと、22系(ストライプがシル・ヘッダーとも2本)
の違いが、東独製(24系)か中国製(22系)かの違いです。

 22系もソ連国鉄客車の設計図からのコピー生産品である為なかなか区別は難しいですね。???





投稿者 Uzu
投稿日 2010年 5月17日(月)17時07分57秒
タイトル 「宗谷」「天北」幻のグリーン席
こんにちわ。ここ数日、随分と暑くなってまいりましたが、皆様いかがお過ごしでしょうか。
今回は「宗谷」「天北」幻のグリーン席について質問させて下さい。
85年3月からオハネ14の二区画にソファーを設けグリーン席として急行「宗谷」「天北」で利用されましたが、
86年には利用率の悪さから原型に戻されたとのことです。
また夜行使用時は二段寝台として使用できたそうですが、
これは「まりも」「大雪」「利尻」いずれかの限定運用だったのでしょうか?
なにせ、グリーン席改造車は三両しかありませんでしたので…
さらに、全席が二段化された後もグリーン席は残っていたのか、
それとも他区画の二段化改造と同時にグリーン席の原型復帰もなされたのかも疑問です。
ご教示いただければ幸いです。



投稿者 クモイ103
投稿日 2010年 5月17日(月)19時18分32秒
タイトル Re:「宗谷」「天北」幻のグリーン席
Uzu様

当時の宗谷本線で寝台車付き14系客車の運用は、下り「天北」→上り「利尻」、下り「利尻」→上り「宗谷」でした。
従って、この2往復に改造車は限定運用されたものと思われます。使用2両+予備車1両でちょうど辻褄が合います。
私は下り「天北」の「ヒルネ車」に乗車しましたが、昼間何時間もずっと寝そべっているのは、
それはそれで疲れましたね(笑)。

その後の原形復帰についてはわかりません。どなたかフォローをm(_ _)m



投稿者 ED76109
投稿日 2010年 5月17日(月)21時57分12秒
タイトル 「鉄」の想ひ出あれこれ
 おばんでございます。「ED76109」であります。

 雑魚様
 >両国駅「列車線ホーム」は、どの様に機能していたのか

  小生、得意の「昭和48年6月度JTB時刻表」を確認致しますと・・・、

  内房線
   「EC急行なぎさ」2本(循環急行新宿行・館山〜勝浦普通レ、勝浦から急行)
    外房線
   「EC急行みさき」2本(循環急行新宿行・勝浦〜館山普通レ、館山から急行)
  総武本線
   「DC急行犬吠」4往復(銚子行・銚子発)
     ※内2往復は「犬吠」を「佐倉」まで併結
  成田線・鹿島線
   「DC急行水郷」3往復
    (銚子行1往復・佐原から普通レ、鹿島神宮行2往復・佐原から普通レ)

  といったところで、「房総への要衝」としての地位が保たれていたようであります。
 因みに、「千葉始発の旧客レ」が5往復ほど「銚子行」として運転されておりました。
 昭和50年の春に、小生「みさき3号」で「新宿〜新宿」を制覇しております。
 久しぶりに「房総半島」に出かけてみたいものであります。

  ユーラシア鉄道様
  >停車時間の静寂(中略)の中に、開けた窓から聞こえる「夏の虫たちの演奏」

  御意。正直、想い出に涙する思いであります。
 「羽越本線の越後寒川」や「常磐線の末続」、「山陰本線の下府」そして「鹿児島本線の上田浦(現薩摩おれんじ鉄道)」。
 全て波の音が聞こえるとともに、蝉時雨や蜩の鳴き声が聞こえましたねぇ・・・。
 「シーンとした車内」に聞こえる「旅の素晴らしきハーモニー」。
 そして、「DD51」や「交流機」の奏でる「ビィー」という甲高いフォイッスルが聞こえて、
 ゆっくりとフォームを離れていく・・・。
 本当にこの味わいは、もう「中国」や「ロシア」でしか堪能できないのでございましょうか・・・(嘆息そして滂沱)。

  長々と失礼致しました。以上、「旧客レ」万歳!!と叫びたい「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 ED76109
投稿日 2010年 5月17日(月)22時37分47秒
タイトル Re:「宗谷」「天北」幻のグリーン席3
 連投失礼申し上げます。「ED76109」でございます。

 完全に「クモイ103」様の後追いでありますが、「鉄道ジャーナル5月号別冊・列車追跡リバイバル(平成12年刊)」に
「昭和60年4月」の「PC天北」が取り上げられております。
その「客車運用表」を確認致しますと、「下り天北→上り利尻・下り利尻→上り宗谷」に
当該の「G室」が組み込まれた「オハネ14」が連結されております。
当然「利尻」では「2段寝台として使用していた」とのカレチさんのお話も
(「ハネ」はその段階で既に二段寝台だったはずであります)。
なお、参考までに「下り宗谷→上り天北」は「ニセコ」と共通運用となっており、
「大雪」・「まりも」とは別編成として運転されていたようでありました。
件の「G室」は、「後部車端の15・16番席」。
「臙脂のシート」と「シート中央のニス塗りのテーブル」が「応接間」の如くに設えられておりました。
1室「36,800円」也で「道北地区選出の道議会議員」のリクエストによって設定された噂がございました。
事実、「道内時刻表」には掲載されず、「札幌・旭川・南稚内及び稚内」での「窓口売りのみ
(マルスにはデータ入力せず)」では、利用率の悪さは当たり前でございましょうか。
牽引機は「DD51(築)」と「DE10(旭)(天北)」で「ED76」が牽っぱってくれればの想ひも・・・。
小生は、昭和61年の早春に「下り天北」と「上り宗谷」で就職1周年の祝いを兼ねて、
大学時代の友人たちと「道北観光」に出かけましたが、
「天北線内の線路状況の悪さ」から「友人の彼女」が購入した車版のコーヒーが、
「スハネフ14のテーブル」からひっくり返されるという「惨劇」を味わいました。

 長々と失礼致しました。以上、「戯言」情報でございました。



投稿者 雑魚
投稿日 2010年 5月18日(火)14時57分48秒
タイトル 宗谷線の昼寝
▼ED76 109様:
>「EC急行なぎさ」2本(循環急行新宿行・館山〜勝浦普通レ、勝浦から急行)
>「EC急行みさき」2本(循環急行新宿行・勝浦〜館山普通レ、館山から急行)

始発は両国、終着は新宿という事でしょうか。そうなると、新宿→両国の回送次第が
どの様に行われたのか、新宿行は両国の緩行線ホームに停車したのか、館山〜勝浦の
普通列車区間を挟んで急行料金の通算は効いたのか、などなど、謎が謎を呼びますね。

>「ハネ」はその段階で既に二段寝台だったはずであります

私も、1985年に渡道した際の印象を、その様に記憶しております。曖昧な記憶ながら、
当時は全国的に、居住性向上の趣旨から、三段式寝台が二段式寝台に移行しつつあり、
それゆえ、下り「天北」上り「宗谷」完全昼寝運用に供し得たのでしょう。ちなみに、
1988年に利用した函館〜札幌の臨時夜行急行「すずらん」の14系寝台は三段式でした。
仲間との旅行でしたが、当然、カップ酒片手に着席できる構造ではありませんでした。

1985年の全国大改正における「宗谷」「天北」の14系化は、速達性を犠牲にしてでも
居住性を重視した措置と仄聞しますが、件の「G室」は、従前の気動車時代における
G車の受け皿にしては、時刻表非記載など、中途半端な印象で、議員云々の御指摘に
見られる様に、一般庶民との相席を良しとしない、旧一等車感覚の移動空間を求めた
ごく一部の意向を踏まえた産物なのでしょうね。



投稿者 Uzu
投稿日 2010年 5月18日(火)16時19分47秒
タイトル 「宗谷」「天北」G席
>クモイ103様、ED76109様、雑魚様
編成情報ありがとうございます。やはり「利尻」専用の運用でしたか。
座席モケット色情報もありがとうございます。白黒写真しか見たことがなかったので…
しかし、政治家の要望で設置とは想定外です!
88年に三段寝台が残存していましたか!ということは当時、波動専用のハネがあったのでしょうか。
道内夜行の二段化の時期詳細をどなたかご存じありませんか?


 
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