倶楽部メモ(578)
平成22年 2月 9日〜 2月11日



投稿者 高速貨A
投稿日 2010年 2月 9日(火)20時13分8秒
タイトル 「だいせん」崩れほか
▼雑魚様:
>1978〜86年と比較的 短期間ながらも 20系が充当され・・・。
「そういえば、下りは米子〜出雲市〜大社 普通列車だったなぁ」と思い出して、
その当時の時刻表(昭和59年8月号)を調べてみました。
すると最終的に出雲市→大社135レなのですが、135レ到着後に136レとして大社→出雲市までの普通列車が設定されており
「ひょっとすると回送を兼ねていたのかな」と推測しています。(時刻表から推定しただけなので確証はありませんが)

似たような例として季節急行「おが」上野→秋田6401レ〜秋田→男鹿8131レ
(ただし秋田〜男鹿は普通列車、時刻表には寝台車の表示あり)運行日に、
男鹿→秋田8132レという臨時列車が設定されており「男鹿→秋田回送を兼ねているのでは」と推測しています。
いずれの列車とも全て20系であり「乗車券のみで特急車両(しかも寝台)に乗車できる」お得な列車ですね
(ただしA寝台やB寝台は客扱いせず、乗車可能なのはナハ21のみと思われますが、それでもナハ21は元々ナロネ21です)

 上記に関しては、当時の時刻表から推測しただけで確証はありません。
私も現役の20系客車を見たことはありますが乗車経験はありません。よって実際はどうなのか不明です。

 最後に寝台車付きの普通列車についてですが、「からまつ」「山陰」「はやたま」「ながさき」はよく知られており、
いずれも昭和61年11月ダイヤ改正で廃止されてしまいました。
しかしながら、途中駅から普通列車(急行列車)を含めると「だいせん」崩れと「日南」崩れが存続しており、
JR発足後から平成初期まで存続していたのは意外でした。

 以上、新得町新内の保存車両(ナロネ22ほか)が20系初乗車?である高速貨Aでした。



投稿者 クモイ103
投稿日 2010年 2月 9日(火)22時41分0秒
タイトル Re: 「だいせん」崩れほか
高速貨A様

20系「だいせん」の折り返しによる大社線内普通列車については、小生の撮影した写真を当HPに掲載頂いております。
【掲載場所】
トップページ
→特別企画「20系客車誕生50周年記念写真館」
 →「急行列車等(1)」

なお「1号車 サウンドコレクション」には、管理人様が録音された「だいせん」崩れの出雲市駅発車後のアナウンスと、
大社駅到着の模様が収録されています。併せてご参照下さい。



投稿者 すいせい
投稿日 2010年 2月10日(水)00時04分28秒
タイトル さくら 特殊編成
みなさん、ご無沙汰しております。
貴掲示板を見て気になっている記事がありましたので、質問したく
投稿させていただきました。
以下の記事はペーストしたものです。

「倶楽部メモ(298) 平成17年11月15日〜11月16日のうち
 投稿者   KC
 投稿日 11月15日(火)11時20分7秒
 タイトル さくら 特殊編成
 さくらに関する編成で特殊なものがありましたのでご紹介します。
 昭和37年1月7日さくら編成
 EF5892+ナハネ1066+ナハネ1094+ナハネ1098+オハネ1713
 +オハネ1719+スハネ3063+ナハフ204+ナハ201+ナハネ2053
 +ナハネ2064+ナシ2053+ナロ2054+ナロネ222+カニ222
 山陽線宇部駅での事故の影響で発生した、10系客車と20系客車の混結編成です。」

という内容ですが、10系客車のボディ色は全車両とも青だったのでしょうか?
いろいろと探してみましたが、見つかりませんでしたので、ご教示ねがいます。
よろしくおねがいします。



投稿者 ED76109
投稿日 2010年 2月10日(水)00時11分0秒
タイトル 四大夜行旧客などなど
 おばんでございます、「ED76109」でございます。

 「高速貨A様」や「雑魚様」より、様々な「お話」が御提示されておりますことから、
いつもの「昭和48年JTB版6月度時刻表」から「昔話」を・・・。


「だいせん」
  当時は「だいせん2号(705レ)」として運転されており、「ニ」が2両、「ロネ」が1両、
 「ロザ」1両、「ハネ」4両、「ハザ」3両の12両編成。
 「大阪発21:32→出雲市6:53→(大社7:18)」のダイヤで運転されております。
 なお、「大社」からの折り返し鈍行(126レ)は「普通Gのマーク」が付いており、 おそらく「ネ」は回送扱いだったのでしょう。
 ちなみに「上りだいせん」は「出雲市始発」であります。

 「からまつ」
  当時「からまつ」の愛称は、まだなく「423レ」の車番のみであります。「ハネ」が連結されており、
 地元の利用客の利便を図るために「停車駅」と「地域の旅行代理店」でしか「ハネの寝台券」は購入できませんでした。
 (この措置は、他の寝台付き夜行鈍行全てに)
 ダイヤは「下り 小樽21:31→釧路9:19・上り 釧路19:07→小樽6:52」。
 厳冬期には、「幾寅」や「落合」の「吹きだまりや猛吹雪」で「富良野」まで下りが引き返すことが
 多々あったとの逸話がございます。

 「山陰」
  駄弁は不要の「有名夜行鈍行」。愛称はなく、「京都22:04→出雲市9:31」のダイヤで運転されておりました。
 晩年は「ハザ」は「12系」化されて急行と遜色ない施設が充当されており、
 先達の皆様方には「御用達」だった方々も多いのではないでしょうか。
 「福知山」では「だいせん」と合わせて「夜食用の駅弁」を販売するリヤカーが登場したエピソードも。
 また「昭和47年3月改正」以前は「京都→下関」を直通する「長距離鈍行」として運転されておりました。

 「はやたま」
  この時期は愛称がなく、最初に付けられた愛称は「南紀」でありました。
 ダイヤは「天王寺22:40→新宮5:12(ハネ切り離し)→名古屋13:10」。
 利用客の中心は「釣り客」であり、「白浜」、「串本」等までの短距離利用も少なくありませんでした。
 また、この列車は「亀山」で逆編成になる特色があり、
 「新宮始発」に運転距離が短縮された際は「EF58」が「12系」を牽引する魅力的な編成。
 太平洋の海原ぞいの風景に「ゴハチ」が似合っておりました。

 「ながさき」
  愛称はなく、「ハネ」は長崎行に連結されており、「大村線経由」で運転。
 「佐世保行」も有効時間帯ぎりぎりのダイヤとしておりました。
 「門司港22:38→早岐4:10(長崎・佐世保編成を分割)→佐世保4:46、→長崎6:41」。
 ちなみに「上り」は「折尾」から「門司港」までが通勤時間帯での運転となることから、
 「ハザ」と「ハネ」との連結扉は施錠されていたとのことであります。

 「日南」は、この当時「みやざき」という愛称で「門司港→西鹿児島(日豊本線経由)」で運転されております。
「宮崎」から鈍行レへと姿を変え、「宮崎6:06→西鹿児島9:39」のダイヤで運転されておりました。

 長々と失礼致しました。
以上、「雪祭り」のボランティアで「甘酒」を飲み過ぎて、生徒たちに笑われてしまった「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 仙コリ(管理人)
投稿日 2010年 2月10日(水)00時16分25秒
タイトル Re2: 「だいせん」崩れほか
高速貨A様

「だいせん」末端区間の普通列車については、すでに先程クモイ103様からご紹介をいただきましたが、
私が昭和57年4月に米子→大社間で乗車した際に、大社線内で録音した車内音を当サイト内に掲載しております。
同ページにクモイ103様からいただいた写真や、昭和55年春当時の時刻表や編成表等も掲載していますので
当時を思い偲ぶ参考になりましたら幸いです。
なお、昭和55年春の時点では普通列車の区間は出雲市からとなっていましたが、昭和57年春の時点では米子から
となっており、この年に初めて発売された青春18きっぷ(当時は青春18のびのびきっぷ)を利用した旅行の際に
乗車したものでした。
また、上記「だいせん」末端普通列車のほかに「山陰」等の走行音等も、「サウンドコレクション」に掲載して
おりますので、当「客車倶楽部」に検索等で直接こられている方は、ぜひサイト本体である「客車列車の旅」へ
おいで下さい



投稿者 雑魚
投稿日 2010年 2月10日(水)13時26分50秒
タイトル 男鹿駅
▼高速貨A様:
> 季節急行「おが」運行日に、男鹿→秋田8132レという臨時列車が設定されており

そう言えば「おが」も80年代、20系が充当されましたね。十八番の保育社「国鉄の車両
奥羽・羽越線」で男鹿線の項を改めると、DD51が10両+電源車を牽引する、堂々たる
編成が掲載されていました。

1951年には既に重要港湾の指定を受けた船川港の臨港線が接続する関係で、広い構内を
擁していた男鹿駅(1968年までは「船川駅」が正式名称)は、20系の発着にふさわしい
風格が感じられ、ある意味で大社駅に通じるものがありました。臨港線自体は2002年に
廃止されましたが、その後も男鹿駅の先「複線区間」が暫く続いているそうで、改めて
訪ねて見たい駅の一つです。

なお、1993年末に発行された、RJ誌別冊「客車列車・大追跡」によると、男鹿線では
輸送力確保の為か、一日二往復、50系の客レが設定されていました。上り便は朝に二本、
下り便は朝夕一本ずつという内容で、一編成が男鹿駅で滞泊していたのですね。

現在は全て、キハ40系で統一されていますが、キハ80系ないし 181系辺りを連想させる
前面の塗り分けパターン(五能線も同様ですね)には、大いに旅情を感じます。



投稿者 雑魚
投稿日 2010年 2月10日(水)15時37分22秒
タイトル 境港駅
▼高速貨A様:
> 135レ到着後に 136レとして大社→出雲市までの普通列車が設定されており

これまた十八番の保育社「国鉄の車両/山陰線」で、大社線を改めると、出雲高松〜
荒茅の曲線を行く、最後尾に荷物車を三両従えたDD51牽引の 136レと思しき20系が
写っていますね。

1985年発行の同書で紹介されている地上駅時代の出雲市駅では、24系25型「出雲」が
側線に留置されています。伯備線と共に、山陰線の伯耆大山〜知井宮(現西出雲)が
電化された1982年には、出雲運転区も設置された筈ですが、98年に高架化される迄は、
客車は一律、この様に例外的に扱われたのでしょうか。

また「出雲」の奥には一畑電鉄の旧型電車が写っています。頭端式構造にも拘わらず、
山陰線と共に高架化されたのは意外でしたが、約 1kmに及ぶ並行区間の途中、複数の
幹線道路との交差箇所が存在する事から、これを考慮した措置と思われます。

並行区間のすぐ先の大津町で電鉄線を下車、徒歩で撮影に赴いたのが、以前言及した
山陰線の斐伊川橋梁でした。上記書「山陰線」では、DD51+10系寝台+12系客車の
夜行普通列車「山陰」が通過する様子も紹介され、10系を度外視するなら、最晩年の
急行「だいせん」の印象、そのものでした。そう言えば「だいせん」が、1986年以来、
倉吉以西を快速化したのは「山陰」廃止に対する救済措置の意味合いがありましたね。

撮影を終え出雲市駅に戻る途中、大和紡前駅(現出雲科学館パーク・タウン前駅)に
立ち寄りましたが、ここは文字通り、眼前に大和紡績の出雲工場が位置し、構内には、
資材運搬用と思しき軽便規格の軌道があり、門扉越しに線路を視認した時は、思わず
ガッツ・ポーズでしたね(^^)

上記「出雲運転区」は一昨年の改組で「後藤総合車両所」出雲支所扱いとなりました。
後藤と云えば、車両回送の都合で境線を部分電化した車両工場の印象が強いのですが、
米子駅構内の車両基地も、これに含まれるそうです。

境線の終点・境港駅は簡便な頭端式構造ですが、以前は稚内「利礼ドーム」よろしく、
急曲線を介して、すぐ先の岸壁まで線路が伸びており、隠岐発着と思しきフェリーに
接続する仮設駅まで臨時列車が運転されるなど「ボート・トレイン」に通じる趣向も
あったのですね。

港湾の規模からすると、前出の男鹿線船川港駅でも、類例がありそうにも感じますが、
こちらは、マリーナを除けば、石油関連を中心とした貨物港という位置づけの様です。



投稿者 仙コリ(管理人)
投稿日 2010年 2月10日(水)21時11分49秒
タイトル Re:さくら 特殊編成
すいせい様

この事故による10系客車と20系客車の混結編成についてですが、私も写真等を見たことが無いので
あくまでも原則的なお話になってしまいますが、客車の車体色として青色(青15号)が登場したのは
昭和33年ですが、しばらくは20系客車と特急「はつかり」用の専用色であり、一般の客車が青15号化
され始めたのは昭和39年10月からとなっています。(団体専用等の一部車両を除く)
よって該当する列車の運転日は、それ以前の昭和37年の事ですので、10系客車の色はぶどう色2号で
あったと考えるのが妥当であると考えます。
あくまでも原則論ですので、詳しい方がいらっしゃいましたらフォローお願いいたします。



投稿者 クモイ103
投稿日 2010年 2月10日(水)23時30分25秒
タイトル Re2:さくら 特殊編成
 特急用および観光団体専用列車用は除き、一般客車の一部に青15号の塗色が規定されたのは、
昭和39年9月26日に「車両塗色及び標記方式規程」が改定されたことによります。
 では実車はどうだったのかと言いますと、鉄道ピクトリアル第167号(1965(S.40)年2月号)「関東だより」に
下記の記述があります。

> 国鉄客車に早くも新塗装車 長年のぶどう色からブルー色に塗り替えられる軽量車のトップを切って
オハネ17がブルーに衣替えして上野駅で展示された

 番号は不明ですがTR-23を履いたオハネ17の写真が添えられ、日付が「39-12-3」となっていますので、
実際の塗色変更は規程の改訂後に始まった様ですね。
 従って、くだんの「さくら」に使用された一般客車は、全てぶどう色だったと思われます。

 なお余談ですが、個人的伝聞によると、まだ一般客車の青色化が始まる前、
大船工場から出場してきたマロネ41 20番台車が青色になっているのを大船駅で見た、という目撃情報があります。
 マロネ41 20番台車は、0番台車からの近代化改造で昭和38〜39年に6両が誕生していますが、
そのうち大船工場改造のものは25・26が該当します。
改造された時期は昭和39年5月と塗色規程の改定よりも前ですから、
この2両が規程の改定を待たずフライングして青色になっていた可能性が濃厚です。
 ただそれにしても「さくら」の特殊編成の時期よりは後ですから、本題とは関係ありませんね。



投稿者 竹中@ノーブルジョーカー
投稿日 2010年 2月11日(木)00時06分22秒
タイトル Re3:さくら 特殊編成
20系と10系の混結編成の写真は書籍で何度か目にした記憶はあるのですが、探すと見つからないものですね。
とりあえず1枚見つけましたので報告まで。
鉄道ファン165号(1975-1)の22ページに浜名湖を渡る鉄橋上の写真があります。
白黒写真なので判然としないのですが、特急色のEF58と次のナハネ10とは違う色のように見えます。
投稿者のホームページ



投稿者 ED76109
投稿日 2010年 2月11日(木)00時11分2秒
タイトル 「うばざくら」のことですね
 いつもお邪魔しております。「ED76109」であります。

 小生、古い写真で「混結編成」を見たことはありますが、「モノクロ」でしたので・・・。
しかし、国鉄が「年末年始の帰省輸送」を一手に引き受けていた時代の話でありますので、
手持ち資料等を確認・精査させていただいたことを述べさせていただきます。

 昭和36年12月29日、山陽本線「西宇部(宇部)・小野田」を運転中の「下りさくら」に、
大雪の停電のために3時間遅れで運転中の「DC準急あきよし」が追突しました(重軽傷者約50名)。
ところが、「さくら」用20系客車の「14両編成中の12両」が破損。
基本編成である8両は、予備車が確保できたものの、「付属編成8両」が不足する事態となりました。
 当時の「20系客車」は、他のブルートレインの運用等も含め、フル稼働している状況であり、
年末年始の多客期であったことから、予備車までもが「臨時レ」で活用されておりました。
そのため、代替車の捻出が不可能であったことから、事故車の復旧が完了するまでの暫定的な対応処置として、
「10系ハネ」や「旧客(スハネ30)」で編成した付属編成を代替として「さくら」に併結したのでありました。
この際、「旧客」を用いたことから、マスコミは、この混結編成を「うばざくら」と揶揄したのであります。
 当時の「2等寝台(現B寝台)」の基本設備の比較において、
「10系ハネ」の設備は「20系客車」に大きな差はありませんでしたが、次のような点で異なっておりました。

 1 「貫通幌」が異なっており、互換性が無かった
  (なお、貫通幌自体は14系・24系では、「旧客」と同様の幌に変更されている)。

 2 「集中電源方式」による電気暖房の20系に対して、
  「旧客」の暖房は「暖房用蒸気」を蒸気管によって機関車から供給する構造になっていた。
  そのため、「旧客」を機関車側に連結する必要があったことから、下りでは「カニ」の前位、
  つまり長崎側に連結せざるをえず、上下とも基本編成と付属編成との間の相互通行が不可能となり、
  付属編成の乗客が「ナシ」を利用できない等の問題が発生した。
  このため国鉄では、「旧客」の乗客の特急料金を「100円」払い戻す措置を行った。

 資料 「RJ6月号別冊 列車追跡リバイバル ブルートレイン」(平成10年6月)等

 現在では、単純に「ウヤ」で終わらせてしまうところでありましょう。
ある種、「ブルトレ黄金時代」のお話でありました。以上、「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 くらやみのまろ
投稿日 2010年 2月11日(木)02時27分28秒
タイトル 北斗星の牽引機について
少しだけ失礼させていただきます。

雑魚様
> ちなみに「星カマ」「カシオペア機」のどちらが運用に就くかは、事前に判るものでしょうか?

下り「北斗星」を牽引したEF81については、グーグル等で『EF81 運用』と検索すれば容易にわかるかと思います。
(まれに誤記等が見られることもありますが)
また、事故等が無い限り、そのEF81は2日後に上り「北斗星」を牽引してくることになりますので、
上り「北斗星」牽引機については、事前に、塗色はもちろん番号もわかるということになります。
…なので、当方は基本的にヒサシ付のEF81 133を重点的に狙い、カシオペア機は回避して撮影を行っています(笑)

写真は、当方のブログに掲載済のもので恐縮ですが、2月5日、栗橋〜東鷲宮にて撮影の「北斗星」です。

投稿者のホームページ



投稿者 雑魚
投稿日 2010年 2月11日(木)08時08分20秒
タイトル 埼玉県下での 「北斗星」
▼くらやみのまろ様:
> グーグル等で『EF81 運用』と検索すれば容易にわかるかと思います。

御教示、有難うございます。なるほど「田端運転所EF81運用状況」という表形式の
データがありますね。そこにある「A1・A2」が「北斗星」の運用でしょうか。

> 2月5日、栗橋〜東鷲宮にて撮影の「北斗星」です。

この辺りで東北線を撮影した経験は皆無でして、その意味で、これだけ開けた構図が
確保出来るとは、意外に感じました。以前、さいたま出張の翌朝、御手軽事例として、
東鷲宮駅の上り高架で撮影しようか、などと考えた事もありましたが(結局、曇天で
見送りました)絵にはならないものでしょうか(^^)

貴ブログも拝見しました。一両ごとの側面撮り、御見事ですね。



投稿者 雑魚
投稿日 2010年 2月11日(木)09時03分58秒
タイトル 小樽駅
▼ED76 109様:
> ダイヤは「下り 小樽 21:31 → 釧路 9:19・上り 釧路 19:07 → 小樽 6:52」。

道央側の起終点が、札幌でなく小樽なのが特徴的ですね。破綻した拓銀の道内事業を
継承した北洋銀行の創業地であると共に、2002年までは日銀支店も置かれ、函館線も
ここまでは複線電化されるなど、重要な港湾都市としての、拠点性の高さを反映した
旅客導線が存在した、という事でしょうか。

一昨年の都道時には、JR快速で久々に小樽を訪れましたが、手稲区が西区から分離
独立する頃より以前は、桑園、琴似、手稲しか駅が設置されていなかった札幌市域の
変容振りには、感慨を覚えました。

良く判らないのは、地形的に札幌への帰属性が強いと感じる銭函駅界隈が、小樽市に
属する事ですが、事業所が目立つ様子に、ほしみ以西の札幌市域と自治体を異にする
必然性が窺えます。石狩市域との絡みにも鑑みると(同市新港地区に隣接する、銭函
四・五丁目は、元々は旧石狩町域)小樽市は、自身の存在意義を示す為、札幌市域の
日本海岸進出を、ギリギリ阻んでいる様な印象すら受けます(^^)

この時は家族同伴の観光だった為「鉄」踏査は割愛しましたが、小樽駅より塩谷側は、
電化された側線が、非電化の本線に暫く並行する構図だったと記憶します。今は亡き
道央地区配置の、ED76の機回しにでも使われたのでしょうか。学生時代、札幌から
帰途に就く際に「山線」経由なら小樽「海線」経由なら東室蘭と、電化区間を外れた
ところで、妙に寂しさを覚えるのでした。

以上「からまつ」と聞くと「シェ〜!!」を連想する 60年代生まれの雑魚でした(^^)




 
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