倶楽部メモ(576)
平成22年 1月29日〜 2月 1日



投稿者 ユーラシア鉄道
投稿日 2010年 1月29日(金)23時41分26秒
タイトル エストニアの鉄道
 ユーラシアの西端・エストニアの鉄道についてご紹介

 行き止まりホームの話題から、少しばかりエストニア鉄道公社
について知りえる情報をご案内申し上げます。

 モロトフ・リッペンドロップ協定以前の独立時代1435mm
の鉄道開業するも、ソ連併合後1532mmに改軌。

 ソ連離脱後、首都タリン近郊の電化区間のER2型(ラトビア
RVR電車工場製)は大幅に北欧風に内装リフォームし釣り掛け
音との不釣合いが、滑稽です。
 また急速な自家用車の普及による鉄道離れは深刻で、乗客数は
ソ連時代の40%以下に落ちこみ、ペテルブルグータリン間には
かつて各駅停車を含み12往復も設定されたダイヤも、同区間は
ユーロラインバスにおされ、旅客輸送は全廃となり、モスクワ行
の「エストニア号」が残るのみです。
 またかなりのローカル線、ナロー軌道が廃線となりました。

 よってタリン近郊通勤電車区間以外の電化計画はなく、よって
電気機関車は1両も所持しておらず、国際列車(旅客・貨物共)
はすべてロシア製電気式ディーゼル機の仕事で、最近アメリカ製
のディーゼル機も輸入されはじめ、ロシア機は淘汰の運命にさら
されております。

 ラトビア共和国との間も、2路線のうち1路線は廃線となり、
沿バルト急行(タリンーリガービリニュスーカリーニングラード)
は近年廃止されましたが、ただ隣国ドイツにも日本と同じく「鉄」
マニアが多く、ベルリンーカリーニングラード(旧ケーニヒスブ
ルグ)からタリンまでの寝台列車復活計画を練っています。

しかるに鉄道公社の収入源は、タリン港荷揚の貨物のロシア方面
への運輸・通過手数料に頼るところ大だそうです。

 エストニア鉄道・写真です。

1.TEP70型・電気式ディーゼル機関車
  側線の客車に注目・伝統の濃緑色からチョコレート色に塗替
  れば、オハ35????
2.ロシア製プルマン客車・内装更新車(エストニア鉄道絵葉書)
  スロ62???を彷彿
  木製もサッシ窓枠がGOOD。



投稿者 ED76109
投稿日 2010年 1月30日(土)01時04分23秒
タイトル 「鉄」雑感あれこれ
 おばんでございます。「ED76109」でございます。

 雑魚様
 >しかし何と言っても、往時の名残りを求めるなら、隣の初狩駅でしょうね。

 御意。小生、昭和58年の6月に「旧西局主催」の「スイッチバック復活の旅(?)」に参加して、
確か「EF64」牽引の「12系」客車の臨時列車で「新宿・甲府」間を往復した記憶が・・・。
久しぶりに「中央東線」に「客レ」が走るということで、「鉄」親父と参加して
「初狩のスイッチバック」を堪能したのですが、カメラ片手の「鉄」小僧(失礼!?)の団体に閉口しておりました。
この時は、東京が「梅雨空」の空模様だったのが、「笹子隧道」を抜けて「勝沼」から「甲府盆地」に入った途端に
「快晴の夏空」であったことが強く印象に残っております。
小生が、もう五年早く生まれていたら「東線のスイッチバックを走る旧客」に乗れたのにと、残念至極に思っていました。

 >乗換可能駅の設置が求められる最も切実な事例としては、千歳線の平和

 並行している「函館本線」の利用客の一人としては、正直「いしかりライナー」が「白石」に停車することに「複雑」な思い
(札幌ドームへのシャトルバス乗り換えには大変便利なクセに・・・)があり、さらに「平和」に「停車」となると・・・。
札幌市内とは言っても、白昼の利用客は予想外に少ないことから、現状維持を支持致します。
大部分の乗客は「札幌方面」へ。
しかも、この程度の距離関係であれば、意外と「マイカー利用」の比率が高いようであります。

マロネロ38様
>広尾線最終831D:帯広20.47→広尾22.43
 ご令室が最終列車に乗る為に駅までマラソンされたのはこの列車ですか?

 「家族ネタ」のレスに係り、心からお礼申し上げます。
愚妻の話では、「帯広市民会館から、走れば駅まで15分程度だったので、
千春(小生は「銀の雨」が贔屓です)のアンコールを抜け出して走れば何とか間に合った」とのこと。
「彼氏も含めた、10人ぐらいで大通を疾走するのは、こわかったもね(北海道方言です)。」と一言。
小生、後段の一言に年甲斐もなく嫉妬しました(また、からかわれてしまいますね・・・)。

>広尾線の9600牽引の貨物が根室本線に長い事併行してついて来た

  現在、「帯広」は高架駅と化しており、「マロネロ38様」が「まりも」で走られた当時の鉄路の雰囲気は、
欠片すらございません。
「大樹町役場前」に「9600」が「静態保存」されております。
ひょっとしたら、「マロネロ38様」がお乗りになった「ロ」と併走した「SL」かもしれませぬ・・・。

   長々と失礼いたしました。
以上、「鉄道林」から聞こえる「712系の汽笛」に「ED76」のホイッスルがダブってならない
「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 雑魚
投稿日 2010年 1月30日(土)10時44分15秒
タイトル アルプス
▼ED76 109様:
> 確か「EF64」牽引の「12系」客車の臨時列車で「新宿・甲府」間を往復

この編成、確か80年代後半の臨時「アルプス」でも使用された記憶があります。当時
都民だった私は、中央線方面の旅行といえば「アルプス広場」で友人と待ち合わせて、
165系の夜行「アルプス」9・11号に乗り込むのが定番でしたね。確か 9号がみどり湖、
11号が辰野経由で、両者とも大糸線直通。11号は松本から「格落ち」でしたが 9号は
信濃大町でも白馬でもない、信濃森上で「格落ち」という必然性が、現在なお謎です。

それにしても、中央線特急の大糸線直通枠は、いつの間にやら、寂しくなりましたね。
大町からですと、バスで長野に出て新幹線に繋いだ方が便利なのでしょうか。

>「笹子隧道」を抜けて「勝沼」から「甲府盆地」に入った途端に「快晴の夏空」

高尾から延々と続く相模川水系の山間を抜け、ようやく甲府盆地が広がると、遠くに
来た事を実感するのですが、この様に、首都圏とは地形的に一線を画する甲府盆地を
主要域とする山梨県が、天気予報区分や国税局の管轄上、関東扱いとなっているのは、
大月以東が東京の通勤圏になっている事を考慮してなお、少しだけ違和感を覚えます。

> もう五年早く生まれていたら「東線のスイッチバックを走る旧客」に乗れたのに

スイッチ・バック絡みという事なら、篠ノ井線や信越線で昭和50年代まで旧客列車が
残っていた様に記憶します。後者の場合、新潟→長岡→直江津→長野→高崎→上野と、
列車番号を度々変えつつ、事実上、一本の列車として運転されたのが大技でした。

> 札幌市内とは言っても、白昼の利用客は予想外に少ないことから、現状維持を支持

然様でしたか。江別方面から千歳空港への移動効率を巡り、現地出身の知人が色々と
意見していたものですから。新札幌駅に函館線を集約できれば判り易いのですけどね。
確か新札幌と厚別は、特例措置で、定期券でも相互に乗降の融通が効く扱いだったと
記憶しますが、現在は如何でしょうか。



投稿者 高速貨A
投稿日 2010年 1月30日(土)19時15分12秒
タイトル 急行はまなす
おばんでございます。
「急行はまなす」は今や唯一の定期客車急行であり、私が思いついただけでも下記の特徴があります。
1.B寝台、ドリームカー、カーペットカー、普通車とバラエティに富んでいる。
2.函館駅での機関車付替および方向転換
3.通常は7両編成だが多客期には増結される(11両か12両編成)
4.増結された場合の指定席車両に当たり外れ?がある(ドリームカーと通常の14系座席車)
5.北海道東日本パスで自由席車両に乗車可能
6.深夜だが青函トンネルを通過する
7.下り列車の場合、新札幌駅下車→(徒歩)→厚別駅により、旭川行普通列車に乗車出来る(北海道東日本パス利用時に便利)
8.上りの場合だと、東室蘭方面の最終列車として乗車出来る。(当然下りは始発ですが、時間帯を考えると不便かと考えます)
  しかしながら、北海道新幹線開業などを考えると先行きは暗いかも知れません。

私の推測ですが
1.車両の耐用年数を考慮して延命措置を施し、だましだまし使用(釧路に留置されているキサロハ182を転用という話は、
  その後どうなったのでしょうか?)
2.東北新幹線・新青森開業後も存続
3.北海道新幹線・新函館駅開業時に廃止

なお、私の乗車実績は
函館勤務時の帰省(ちなみに私の地元は旭川です)に乗車(主にカーペットカー)
本州勤務時の帰省(冬期間は本州勤務で春先に地元に戻ります)として、北海道東日本パスにて自由席乗車
(航空機直行が主流ですが、旅行を兼ねて鉄路。ただし予算の都合により新幹線や北斗星には乗車せず)
といった感じで、なじみ深い列車です。
個人的には、北海道新幹線・新函館開業後も存続してほしいのですが、
函館〜札幌の「快速ミッドナイト」も廃止されたままなので、存続は無理でしょうね。



投稿者 きむたお
投稿日 2010年 1月30日(土)19時51分23秒
タイトル Tomix Nゲージ、ユーロライナー・ユーロピア発売記念
みなさまこんにちは。
表題の製品がついにリニューアル発売されましたね!

明日には手許にあるはずです(^^)
そこで、私が今までに記録した3件の編成記録を紹介しておきます。
私は結局「ユーロライナー」は高山線や信越線、北陸線での撮影は何度かしたものの、
乗車は一度もすることが出来ませんでした。
ところで、「ユーロピア」製品の4両セットはいささか中途半端に思うのは私だけでしょうか・・・。


'93/5/2 妙高高原にて 8811レ 「ユーロ妙高・志賀」
EF64 35↑
スロフ12 702
オハ14 703↑
オハ14 704↑
スハフ14 4

'97/3/22 直江津にて 9811レ 「シュプールユーロ赤倉・志賀」
EF64 66↓
スロフ12 702
オロ12 705↑
オロ12 704↓
 オロ12 703↑
 オロ12 702↓
 オロ12 701↓
 オハ14 702↓
 オハ14 704↑
 オハ14 701↓
 スハフ14 701


'01/10/28 木曽福島→名古屋 9892レ 「さわやかウォーキング」
EF64 35↑
スハフ14 5
オハ14 701↑
オハ14 702↑
 オハ14 703↓
 オハ14 704↓
 オハフ15 701
(乗)
 スハフ14 1

*客車の「↑」は洗面所/WCのある向き。
*EF64の「↑」は屋上排風口のある向き。
*スハフ14 1とスハフ14 4は青20号塗装。


写真は'97/3/22のシュプール編成(直江津付近)と'02/6/23の高山線団臨(打保→杉原)です。








投稿者 ED76109
投稿日 2010年 1月30日(土)23時55分47秒
タイトル 信濃の国の旧客列車
 おばんでございます。「ED76109」であります。

 雑魚様
 >高尾から延々と続く相模川水系の山間を抜け、ようやく甲府盆地が広がると

 この辺りは、小学生だった小生が夢中になっていたルートであります。
「高尾」の駅を出て「京王帝都高尾線の高架線」を左に見送ると、山岳コースに入って上り勾配が始まります。
そして、「大月」を出て「笹子」を登ってしばらくすると、「笹子隧道」の入り口が・・・。
そして、「勝沼」から車窓左に一面に広がる「甲府盆地の眺め」。
「中央東線の車窓」はつまらないという話がどうして起きるのか、子供心に不思議でなりませんでした。
前置きが長くなりましたが、今日は「信濃の国の旧客」に係る「戯言」を述べさせていただきます。

1 昭和45年の春に、「鉄」親父と「名古屋」から「長野」まで「中央西線の旧客鈍行」を楽しみました。
 「木曽の山並」に響く「D51の汽笛」とともに小学2年生だった小生の印象に残るのは、「篠ノ井線のスイッチバック」。
 「塩尻」で「逆編成」となった「旧客レ」は、「DD51」に牽かれて峠を越え、小雪舞う「姨捨」に到着しました。
 側線のホームで待機していると、麓から「DD51」牽引の「名古屋行」の「旧客レ」が登ってくる姿が・・・。
 電化前の一コマであり、記憶の底にある「ホイッスル」を響かせて勾配を登ってきた勇姿は、
 小生の「鉄」自慢の一つであります。

2 昭和49年の黄金週間、「信越本線の田中」の診療所に入院していた「父方の伯母」の見舞いの帰路、
 「田中」から「小諸」まで「直江津始発の上野行旧客レ」にお世話になりました。
 車内は休日の最終日ということで、「最後尾のデッキ」にもぐり込むほどに混雑していたと記憶しております。
 そして、「小海線」に乗り換えるためにホームを移動。
 すると、「EF64」に牽引された「旧客レ」は「ホイッスル」の音も誇らしく、
 連結器の音を立てて「平原」に向けての勾配を上りながら、遠ざかっていきました・・・。
 (「マロネロ38様」や「雑魚」様の仰るように、しばらく「小海線」が並行しております。
 「東小諸」の駅は「信越本線」に並設されている感じであります。)

3 昭和57年の春、「大学のゼミ合宿」が「奈良井の民宿」で開催され、
 渉外担当として、先輩達と「旧客レ」にお世話になりました。
 「塩尻」で「ECアルプス」を捨てて、直ぐに接続する「115系鈍行」は無視。
 「塩尻のホーム」に滑り込んできた「中津川行の旧客レ(荷物レは「名古屋」まで)」に乗り込みました。
 「逆編成」になるために、件の旧客レは長時間停車。
 そして、「EF64」は機回しで「オハフ」に連結するシーンを先輩達に「解説」する羽目に。
 「愛媛」や「秋田」出身の先輩達は「懐かしい」と感動し、
 その日の夜は女子学生の先輩達の「汽車通」話で異様な盛り上がりを見せたのでありました。

 長々と失礼致しました。
以上、高校時代は「東急東横線」と「京王井の頭線」で「○芸大学」から「久○山」まで「電車通」していた
「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 雑魚
投稿日 2010年 1月31日(日)11時31分3秒
タイトル 急行 「赤倉」
▼きむたお様:
> 結局「ユーロライナー」は(中略)乗車は一度もすることが出来ませんでした。

団体枠や「カートレイン」「シュプール」に拠らない利用手段としては、特急「金星」
急行「赤倉」の臨時運用があった程度と聞きます。JR東海所属なので、我々の様な
北関東勢にとっては縁の遠い存在でしたが、シックな外観に、少なからず憧憬を覚え、
十年以上前、珍しく東北線を往来した際、子供を連れて、上り便を見物に行きました。

現在は、防護柵の設置により、撮影地としては不適となった氏家〜蒲須坂で撮った後、
氏家で運転停車があった為、宝積寺〜氏家に先回りしましたが、当時は、定番の撮影
足場である広域農道の陸橋も、それに接続する国道四号線のバイパスも未開通なので、
大した足場も確保できず、臍を噛み、捲土重来を期すも、果たせぬ夢と終わりました。

余談ですが、急行「赤倉」は、全国的に急行が一大淘汰された1985年の改正の直前に、
名古屋→新潟の全区間で、定期便を名残り乗車した事があります。翌日、同じ趣旨で
乗車した「佐渡」新潟→上野と共通運用(新カヌ 165系)だった事には驚きましたね。
妙高山麓一帯の豪雪振り(掲出画像は、後日再訪した、信越線の車窓風景で、関山〜
二本木の様子です)は、今でも強烈な思い出です。

ちなみに「赤倉」はその後、初代「ムーンライト」編成と共通運用を組んだりしつつ、
長野県内〜新潟のローカル急行として(最晩年は、新潟県域のみ急行扱い)十年ほど
運転され、その後、特急「みのり」そして快速「くびき野」へと、継承されています。




投稿者 雑魚
投稿日 2010年 1月31日(日)12時01分40秒
タイトル 大手私鉄電車の地方巡業
▼ED76 109様:
>「中央東線の車窓」はつまらないという話がどうして起きるのか、

この様な事を云うと、敷設に御苦労をされた先人各位より、御叱りを受けそうですが、
強いて言えば、高尾〜塩山では、断続的ながらも、隧道が多過ぎる印象はありますね。
その分、甲府盆地が眼下に広がった時の感慨は一入なのですが。

私がそれ以上に好感する車窓風景は、八ヶ岳を仰ぎながら「右往左往」する、韮崎〜
富士見です。同区間は、南アルプスから流れる釜無川と、八ヶ岳から流れる須玉川に
挟まれた尾根を行く為、車窓風景に注意すると、進行方向の両側に谷間が見えまして、
私の様な地理好きには、何とも堪えられません。前述の長坂のスイッチ・バック跡や、
信濃境〜富士見の立場川橋梁跡も、格好の「おかず」ですね(^^)

> 電化前の一コマであり、

改めて調べると、篠ノ井線の電化完了は1973年と、山岳路線の割に意外に後発ですね。
中央線の実質的な延長区間である松本以南が、1965年と先行しているのは判るとして、
南松本〜松本に限り1964年というのは、大糸線列車を南松本に直通させる、何らかの
必要性があったのでしょうか。

姨捨駅は、私も何度か下車しましたが、やはり冬季の夜間、善光寺平(長野盆地)の
夜景は圧巻ですね………但し異様に寒いですけど(^^)今となっては、特急の運転も
無くなりましたが、眼下に遠望される旧信越線も、望遠を使えば、構図上、絵になる
印象を受けました。

> 高校時代は「東急東横線」と「京王井の頭線」で「○芸大学」から「久○山」まで

野球の強豪としても有名な、進学校ですね。私も、定期券の利用者ではありませんが、
東横線や井の頭線は、度々利用しました。東急「青蛙」の印象が強かった、大手私鉄
車両の「地方巡業」は、今や井の頭線にも及び、伊予鉄道でしたか、京王帝都時代は
軌間差があった車両が仲良く活躍している様子に、感慨を覚えます。




投稿者 マロネロ38
投稿日 2010年 1月31日(日)14時06分19秒
タイトル 久我山
ED76109先生
高校解っちゃいましたね?
久我山と言えば故吉川文夫さんが日大生時代に「久我山鉄道同好会」を主催されていて、
私も会員でした。ガリ版の会報”Pantograph”が茶色に変色してファイルに残っています。
会員には後に鉄道友の会の幹部になった人たちが多く、大変勉強させてもらいました。

中川浩一、青木栄一、大那庸之助、吉村光夫(TBSアナ)、野村董、柴田重利、高山礼蔵、
益井茂夫、田部井康修,三宅恒雄,吉田明夫(省線電車の研究で有名),奥野利夫,
長谷川明、佐々木貞太郎,禅素英、沖山和夫,鈴木靖人,湯口徹,鈴木正,酒井喜房,
鹿島雅美,増田一三、等々の著名人ぞろいで(何人かはもう鬼籍に入って居られますが),
私など「ゴミ会員」でした。

昭和30年2月号には「定山渓鉄道」301号の当時では珍しいゼロックスコピー写真が貼ってあります。



投稿者 蜂屋
投稿日 2010年 1月31日(日)22時03分12秒
タイトル 中津川行き旧客レ
今晩は。
ED76109先生のお話にありました「中津川行き旧客レ」です。
EF6446号機に続く編成は荷物車が半分以上で客車は3Bでした。
最後尾のオハフ33-2559と車窓から。昭和55年夏。




投稿者 ED76109
投稿日 2010年 1月31日(日)23時31分54秒
タイトル 我が高校時代は・・・
 ルーティンワーク的にお邪魔しております。「ED76109」であります。

 雑魚様及びマロネロ38様

 小生の出身高校がバレてしまいましたが(笑)、先輩である先達の方の有名人は伺ったことがございますし、
「鉄」雑誌にも「本校の鉄研」が幾度か掲載されたことがございました。
小生の高校時代は、「模型派(N派とHO派で抗争?)」・「撮り鉄派」・「乗り鉄派」に分かれ、当然小生は「乗り鉄派」。
「学園祭」の折は、現在「N大付属の某高校」の同業者である「友人」と「研発」に取り組み、
「昭和53〜54年」の2年間を費やして取材した「鹿島臨海鉄道」のルポが、
「研究発表部門の第5位」に輝いたことが想ひ出でありましょうか。
(最終年度の3年時に発表した「国鉄改革試案(!?)」は、完全に「ハズして」しまいましたが・・・)
しかし、「マロネロ38様」のお話には、正直「ビックリ」しております。

 高速貨A様
 >指定席車両に当たり外れ?がある(ドリームカーと通常の14系座席車)

  小生、「BT富士制覇の旅立ち」や「三陸乗り鉄の帰路」の折など、4度お世話になりました。
 しかし、指定席は一度も取れず仕舞。
 「札幌」・「青森」のどちらからも利用したのは「最後尾のスハフ14」でありました。
 件の「バタン」は改善されていましたが、一夜を明かすには正直・・・。
 「カーベットカー」と「普通座席」で同じ「指定席料金」を払うのでは、小生は絶対に納得できるものではありません。
 不運でかたづけるには、少々酷な話であります。

 >新札幌駅下車→(徒歩)→厚別駅により、旭川行普通列車に乗車出来る

  「はまなす」の「新札幌到着」が「5:55」。そして、「旭川行921D」の「厚別発車」が「6:14」。
 「札幌東商業高校」前から左に折れていけば、確かに乗車可能なタイムラグであります。
 「十津川警部」や「鬼面警部」が活躍する推理小説で登場させてみたいですね。
 「厚別→新札幌、15分の壁 住宅街に消えた美女の秘密」といった題名(?)で。
 但し、先日の「大雪」のような天気では「列車」が遅れる以前に、
 「新札幌」から「厚別」までたどり着けないように思われます。

 >北海道新幹線・新函館開業後も存続してほしいのですが

  御意。以前、雑魚様に申し上げたとおり、「新函館延伸の際の江差線」の取扱いが全てでありましょう。
「第3軌条方式」でも「存続」されることが大前提。
全国の「鉄」の皆様方の協力で、何とかなりませんでしょうか・・・。

 長々と失礼致しました。
以上、「雑魚」様のお写真に「浜田山・西永福」間を走る「5000系」の姿を回想した
「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 ED76109
投稿日 2010年 1月31日(日)23時45分26秒
タイトル 懐かしき想ひ出
 連投失礼致します。「ED76109」であります。

 蜂屋様

 懐かしいお写真ありがとうございます。正しく、「篠ノ井線・中央西線」を走り抜いていた「旧客レ」であります。
小生、「奈良井」までの道中、「堀江」から「松山」、「和田」から「秋田」へと汽車通した先輩女子学生の
「高校時代の想い出」を拝聴しておりました。
 蜂屋様の「旧客レ」の想ひ出は如何でございましょうか。

 以上、あの頃から「年上の女(?)」に縁がある「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 雪だるま
投稿日 2010年 2月 1日(月)00時10分21秒
タイトル 厚別〜新札幌
ご無沙汰しております。
ED76109様
新札幌から厚別駅へ行くには厚別署前の交差点から千歳線の高架下を歩くと厚別駅から伸びる道路に当たります。
ここから右折して雪がない季節で徒歩20分です。少し走って15分くらいでしょうか。

先日の大雪の時は厚別駅から新札幌駅まで25分かかりました。
先日江別駅で721系電車がドアが凍って閉まらず10分くらい停車した為遅れた後続列車が到着するものですから
構内の踏切が20分くらい開かずの踏切になり朝の車通勤の人は迷惑でしたでしょう。
はまなすは自由席しか乗ったことのない私でした。



投稿者 雑魚
投稿日 2010年 2月 1日(月)07時37分4秒
タイトル 旧客通学
▼ED76 109様:
>「堀江」から「松山」、「和田」から「秋田」へと汽車通した先輩女子学生

全国的に、学区制やら総合選抜方式やら、細かな制約が多かった当時から、地元県立
高校は「越境」する場合、敷居が高くなるものの、自宅から通学可能な範囲であれば、
自由に進学先が選べた事情があり(現在は完全自由化)県内随一の鉄道の要衝である
水戸は、広域から生徒を集め易く、私の在学時代は、牛久・結城・大津港・常陸太田・
常陸大子のそれぞれから、旧客で通学する事例がありました。

県境に接する地域では特例により、他県立への越境も可能でしたから、もし新幹線が
宇都宮でなく、水戸を経由していたら、あるいは「フレックス・パル」の先進地域と
なっていた可能性があります(^^)

公立高校の新幹線通学例として、進学モデル校を新設するに当たり、広域から生徒を
集める前提で、浦佐駅の近所に設置した新潟県立校が有名ですが、自由化傾向にある
長距離通学導線は、昨今の不況の恒常化で、どの様にな事になっているのでしょうか。
一方、私の実家の周囲では、軒並み定員割れで、統合が相次いでおります。

以上、客レ通学時代は「車内持込容器」20円ナリの納豆ソバに親しんだ、雑魚でした。



 
 
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