倶楽部メモ(564)
平成21年11月13日〜11月20日



投稿者 ユーラシア鉄道
投稿日 2009年11月13日(金)02時25分21秒
タイトル 想い出のフォトアルバム11
 こんばんは。しばしご無沙汰しておりました。

 想い出のフォトアルバムとして続投させて頂きます。
 20年以上前の写真につき見にくさはご容赦願います。

<福知山線電化直前12系普通列車・下滝駅> < 同 電化直後出雲市行スジ引継ぎの城崎行113系>
< 同 不評だった大阪からの113系2連・城崎電留線>
 
 113系2連は大船工場でモハをクモハ化して全列車の3分の1
 くらいの運用で、客車8連が当たり前だった乗客からはかなりの
 不評でした。

 大阪駅3番ホーム(環状線の隣)に「2連」で、ぽつんと停車し
 てる光景は、滑稽そのものでした。



投稿者 雑魚
投稿日 2009年11月13日(金)09時24分17秒
タイトル デルタ線
▼コスモス様:
> 水戸方と小山方と両方向につながる、いわゆるデルタ線の跡の一部のようです。

動力分散編成に比べ、組成や方向転換に手間取る客レが主流の時代にあって、友部で
折り返す水戸線列車の設定があったのは、少し意外ですね。現在でも半数近くの便が
友部で折返しており、乗務員の配置や車両運用面で合理化を求めた結果と思いますが、
乗り換えの手間隙(特に跨線橋での昇降を介する場合)や着席機会に基く利用動機を
考えると、やはり「水戸線」を名乗る以上、水戸に直通して頂きたいものです。

その意味では、烏山線も何とかならないかと感じますが、こちらはワンマン運転ゆえ、
東北線に直通すると、乗務員の遣り繰りが繁雑になるのかも知れません。して見ると、
2006・07年の夏に運転された「山上げ祭り」12系臨時列車の運転の際は、臨時要員が
正に「寄って集った」状態だったのでしょう。昨年と今年は運転されず終いでしたが、
こうした臨時便は、もはや期待出来ないのでしょうか。

友部駅の事例と些か趣旨が異なりますが、デルタ線と聞くと、道路地図上で見掛けた
事例として、秩父鉄道秩父駅や東北線小湊駅を連想します。前者は、セメント工場の
関連ですね。後者は終戦間も無い頃、小湊桟橋への接続に供されたもので、どの様な
事情かと思えば、GHQの軍艦を充てて、青函連絡船を補助していたそうです(驚)








投稿者 マロネロ38
投稿日 2009年11月13日(金)10時06分0秒
タイトル 小湊
青函連絡船が爆撃で全滅したので、戦後は稚泊からの生き残り「宗谷丸」や関釜の
「徳壽丸」や「景福丸」等の貨客船が就航したので、貨物輸送の為にLSTを借りてきて
就航させたと聞いております。
LSTは前部がパカンと開く構造でしたが、貨車を載せたのか(船内に線路を敷いて)?
その辺り詳しいお方がご解説くださいませんか?



投稿者 くらやみのまろ
投稿日 2009年11月14日(土)01時54分43秒
タイトル 臨時急行「霧島」
ED76109様
こちらこそ初めまして。
ED76109様の、鉄道にまつわる体験記やお話には毎回大いに楽しませていただいております。
また、『幼い頃から「はやぶさ」や「霧島(桜島)」に親しむことができた』とのことで、うらやましく思います。
自分は在来形客車の現役時代には全く縁が無かったばかりか、中学の頃まで鉄道そのものとあまり縁がなかったので、
なおさらそう思ってしまいます(笑)
ただ、そうしたことの無念さもあって、客車列車や寝台車、古い車両への憧れや思い入れが非常に強くなり、
列車が乗ることが目的の旅行にもたびたび出かけるようになってしまいました。

「霧島」の名が挙がりましたので、当方が乗車した際に熊本で撮影した臨時急行「霧島」の写真を載せておきます。

投稿者のホームページ



投稿者 クモイ103
投稿日 2009年11月14日(土)08時42分22秒
タイトル Re: 小湊
マロネロ38様
 青函航路に就航した米軍のLST(上陸用舟艇)については、「鉄道連絡船100年の航跡」に記述があります。
 それによると、昭和20(1945)年12月まず米軍側から国鉄に対して、
LST12隻を貸与するから1カ月以内にその改造と航送設備の準備をするようにとの命令が下されたという事です。
国鉄では直ちに、当時建設中だった有川第3岸壁(後の函館第5岸壁)と戦災で破損した青森第3岸壁に
コンクリートで橋台を作って、船の到着を待ちました。
ところが肝心の船がなかなか決まらず、翌年3月になってようやくたった2隻のLSTがやって来て、
同月31日から各船1日1往復の運航を開始しました。
 一方、青森のサブターミナルとして建設中で工事が途絶えていた小湊桟橋の傍らに、
コンクリートケーソン2基を設置して、7月にLST専用航送場が完成したので、
青森第3岸壁に代わって本州側はここが拠点になりました。
 2隻のLSTは甲板に3線のレール(入り口は1線)を敷設し、
ト又はトム型の小型無蓋車を20両搭載することができました。
ただ、浅喫水のため風浪の影響を受けやすく操船が大変で他の船からはハレ物扱い、
昭和22年1月には座礁事故を起こす、加えて修理用の部品がない、
燃料の補給はなんと横須賀まで往復8日間かけて回航しなければならないなど、問題山積で輸送の能率は悪かった様です。
 そうこうするうちに、洞爺丸型車載客船、渡島丸型車両渡船が次々と就航して航路本来の輸送力が復旧するに及び、
LSTによる貨車航送は中止され、それが事実上の小湊航路廃止となったという事です。昭和23(1948)年2月の事でした。

 なお、小湊桟橋に関する今から10年ちょっと前の現状リポートが、
「トワイライトマニュアル7」に「悲運の航路」として掲載されています。



投稿者 クモイ103
投稿日 2009年11月14日(土)10時26分18秒
タイトル 【訂正と余談】Re: 小湊
 「渡島丸形車両渡船」と書きましたが、「北見丸型車両渡船」の誤りでした。訂正いたします。

【以下余談です。連絡船に興味のない方はスルーの方向で…】
 「○○丸形」とか「○○丸級(クラス)」といった呼称は、そのグループの第1船の名称を用いるのが普通です。
前書き込みで触れたグループは「北見丸」「十勝丸(初代)」「渡島丸(初代)」「日高丸(初代)」の4隻があり、
総称して「北見丸形」と呼ばれます。
 フラッグシップの北見丸は昭和29年の洞爺丸台風で沈没・廃船となりましたが、
十勝と日高は沈没したものの引き上げ・修理の上再就航し、被災を免れた渡島丸と共に活躍を続けます。
昭和40年に渡島丸が老朽化のため引退したのを皮切りに、日高丸・十勝丸もそれぞれ44年・45年に引退して、
青函航路最後のタービン船となったこのグループは消滅しました。
 これと入れ替わりに、昭和39年以降に登場した津軽丸形で培った最新技術を駆使し、
新しい車両渡船グループが建造されます。
44年に就航したその第1船は2代目渡島丸を名乗り、
続いて就航した第2船・翌45年就航の第3船にはそれぞれ日高丸・十勝丸の名が引き継がれたのでした。
「渡島丸形」と言ってしまうと、この新型グループを指すことになってしまいます。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2009年11月14日(土)10時41分7秒
タイトル 小湊‐函館航路
クモイ103様
詳しいご解説有難う御座いました。2年間ぐらいの運航だったのですね。
LSTに関しては「柳原良平編集。船の雑誌」1号にアンクルトリスの良平船長(大の船舶
ファン)のお兄さんが機関長だったので、当時の経験を書いておられます。
なんと前後進はクラッチ切り替えの自動車式だったそうです。軍艦ですから勿論2個
機関(デイ-ゼル)。
柳原機関長も「カー.フェリーの元祖」と書いておられます。



投稿者 ED76109
投稿日 2009年11月14日(土)11時26分49秒
タイトル 往年の「はやぶさ」ですね・・・
 おはようございます。「ED76109」でございます。

 くらやみのまろ様
 >当方が乗車した際に熊本で撮影した臨時急行「霧島」

  往年の「はやぶさ」のようですね・・・。往年の「はやぶさ」は小生にとっては思ひ出のレトロトレイン。
「出水」の伯母宅訪問の折、いつも「目黒」や「五反田」の「みどりの窓口」で徹夜で並んでも、
ほとんど「はやぶさの寝台券」は手に入らなかったものです。
ですから、時刻表の巻末の編成表を眺めては「長崎行の付属編成」が「熊本行」になってくれればと
子供心にいつも思っていたものでした。
しかし、お陰様で「霧島(桜島)のロザ」や「583系きりしま」、「DCなは」などにも乗車できましたので、
その時点で小生の「鉄」の方向性(!)は決まっていたのかもしれません。
「くらやみのまろ」様の「鉄」話もぜひお伺いしたいものであります。
ED76牽引の20系ブルトレの雄姿をありがとうございました。

 以上、「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 高速貨A
投稿日 2009年11月18日(水)12時47分27秒
タイトル Re:修学旅行雑感
ED76 109様
私が札幌市内の道立高校に通っていた約30年前、道立高校の修学旅行は、往復とも国鉄(連絡船含む)でした。
その当時でも東京〜札幌は航空機が主役でしたが、東北新幹線開業前でしたので、
上野〜青森の寝台特急は「ゆうづる」7往復、「はくつる」1往復、「あけぼの」2往復でした。
 私の修学旅行において上野〜青森は往復ともに「ゆうづる」乗車でした。
7往復中、24系25形2往復、24系24形および14系14形(いずれも三段寝台)が各1往復、
583系寝台電車が3往復の構成で、往路が24系24形、復路が24系25形でしたので、
三段寝台と二段寝台の居住性の差を体感できました。
 また、往路の連絡船で他校と一緒でしたが、青森〜京都を「日本海」で直通と聞いて、
ちょっと羨ましく思ったりもしました。(東京経由とはいえ、往路・復路ともに東京素通り)
 今や、道立高校といえども「航空機利用」との事。時代の流れを感じますが、今となっては、とても貴重な思い出でした
(北斗星やカシオペア、トワイライトでの修学旅行は費用・人数などを考慮すると無理と思われるので)



投稿者 雑魚
投稿日 2009年11月18日(水)16時51分40秒
タイトル 12系集約臨
▼高速貨A様
> 青森〜京都を「日本海」で直通と聞いて、ちょっと羨ましく思ったりもしました。

うろ覚えですが、札幌北高を20年近く前に卒業した知人によると「日本海」もしくは、
札幌から直通する集約臨で京都に赴いた、と聞きました。日本海側でのかかる運用は、
確か甲子園出場校の応援団の輸送にも供されたかと記憶しますが、勝ち進むか否かで
運用が大きく異なる手前、現場の管理も相当の御苦労があったかと拝察します。

当事、上野〜札幌では、初夏や秋を中心に、ほぼ毎日「エルム」のスジで、集約臨が
運転されていました。宇都宮着が、11時過ぎで、十八番の蒲須坂前後で構えていると、
繁忙期には丁度、今は亡き「レインボー」「サロン東京」などによる下り臨時急行が
通過する頃でもあり、更に数年遡ると定期運転の上り「あいづ」が通過した直後でも
あったのですね。今や「エルム」どころか臨時「北斗星」も運転されなくなりました。

戦前の先輩方の御活躍の御蔭で(^^)高校時代に、かかる経験が無かった私にとって、
修学旅行の思い出と言えば、中学の時、水戸→上野で利用した12系による集約臨です。
やはり、級友同士の団結を育む基本は「ボックス・シート」でせう(^^)

………とか何とか言いつつ、その後乗り継いだ一般乗合の近鉄特急では、指定車両を
一人逸脱して、先頭車両で「カブリつき」していましたが(^^)




投稿者 ED76109
投稿日 2009年11月19日(木)12時30分3秒
タイトル 再びの修学旅行雑感
 失礼致します。「ED76109」でございます。

 また、昨年同様の件の「修学旅行ネタ」の話ですが、今日は愚妻の想ひ出話を・・・。

 小生の愚妻は「十勝管内のH高校OG」であります。(詳細を書きますと今後の小生の運命が・・・)
ところが、彼女の「修学旅行」で以下のようなことが。

 昭和49年11月○日(×)、愚妻を含む「北海道H高校ご一行様」は「京都」から「東京」へ「こだま」で移動中、
「新横浜」でカレチ氏から「列車故障のため、しばらく当駅にて停車致します」と告げられたそうであります。
 「H高校の添乗員」氏は「長時間の不通」と判断して「横浜線と京浜東北線」で「目的地の本郷の旅館」に向うことを宣言。
生徒、教員全員に「横浜線(当然愚妻たちは知る由もない)」への乗り換えを指示し、
訳も分らずに不安感一杯でホームへ降ろされたとのこと。
その後、「大混雑の汚い茶色い汽車(「73系」でしょう)」に乗せられて、「終点らしき駅(「東神奈川」でしょうね)」から
「青い汽車(「103系」ですね)」で一路「上野」まで「運ばれた」経験をしたのだとか・・・
(おかげで、愚妻は当時大学生の義兄と東京見物ができなかったとぼやくことしきり)。
 確かに、昭和49年頃は「東海道新幹線の故障」が相次ぎ、翌年の「運休点検」に繋がったことを小生記憶しており、
運休日に運転された「臨時東海(大垣発東京行)」に乗りたかった思ひ出がございます。
しかし、その余波を受けた「経験者」と十数年後に結婚することになるとは・・。
いやいや、さすがは「中年客車鉄ちゃん」の妻であると言っては手前味噌でありましょうか。
 なお、参考までに愚妻の話を聴くと次のような行程だったようであります。

  1日目
   帯広(DCおおぞら)函館(青函連絡船カーペット席)青森(20系日本海)

    2日目〜4日目
   京都滞在

  5日目
   京都(0系こだま)東京  ※新横浜(73系横浜線)東神奈川(103系京浜東北)上野

  6日目
   上野(20系ゆうづる)青森(青函連絡船カーペット席)函館(DCおおぞら)帯広

    帯広・H町間は途中に「幸福駅」のある○○線に乗車

   高速貨A様
   >青森〜京都を「日本海」で直通と聞いて、ちょっと羨ましく思ったりもしました

    ご無沙汰しております。しかし、生徒たちと一緒の「ハネ」は正直勘弁してというところが本音であります。
   ですから、一時期「日本海」に廃止になった「瀬戸・下関あさかぜ」から「
   ロビーカー(オハ24でしたっけ?)を連結してはという先達の皆様のお話に、
   「生徒指導上絶対反対(!?)」の立場を「鉄」でありながら貫いておりました。

   >北斗星(中略)での修学旅行は費用・人数などを考慮すると無理と思われるので

        ところが、初任校の小生が担任した1つ下の学年は、閉課(定時制でした)の記念として
   「北斗星5号」に生徒8人と引率の教員2人で乗車。
   札幌車掌区のカレチさんとの「ロビーカー」での記念写真を撮ったとの逸話が・・・。
   小生は前年に引率したため、学校で「留守番」でした(嘆息)。


   雑魚様
   >「エルム」どころか臨時「北斗星」も運転されなくなりました

   御意。いつもの戯言ですが、このままあと何年「ED79」牽引のブルトレを
  視ることができるのでありましょうか・・・(再び嘆息)。

  長々と失礼致しました。以上、愛妻家もどきの「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2009年11月19日(木)13時46分59秒
タイトル 終点でしょう?
ED76109先生
奥様のご出身高終点でしょう?すぐ解りましたよ-----先生も隅に置けないですな?
幸福駅ブーム華やかなりし頃ですね。
アノ頃ファンの間に流行った皮肉?=「幸福を買って銭函,中札内(札無い)」3駅名
が入った「国鉄運賃が高い」の皮肉が傑作でした。
それにしても新横浜でブチマケとは乱暴でしたね。いっそ小田原なら東海道本線の153系に
東京まで乗れたのに。



投稿者 雑魚
投稿日 2009年11月19日(木)17時08分25秒
タイトル H高校
▼ED76 109様:

奥様の思い出話から推すに、ラブ・ロマンスを育まれたのは、狩勝峠麓に勤務された
時期でしょうか(^^)H高校地元の道路地図を開くと、分割民営化直前に廃止された
国鉄線の跡が、住居表示の地区境界線として容易に判別できますね。こうした事例は、
同じ十勝支庁内なら音更町、他の道内なら稚内市や美幌町でも顕著と見受けられます。

稚内市の場合、市街や周辺の住宅地は、丘陵や原野と思しき「稚内村」「声問村」に
包囲された格好で、地図上からも、最果ての街という情緒らしきが感じられる様です。
そんな稚内市の人口は現在、四万人弱。列車本数が大きく一段落する名寄より以北の
約180kmの区間において、名寄市と稚内市を覗く沿線自治体の人口総計は 15千人程度。
高速道路料金を巡る現政権の公約の趨勢と、道央道の今後の延伸予定との兼ね合いが、
何とも気になる処です。

以上「H高校」と聞くと、奇しくも同年創立で、都内の「憧れの女子大」に近接する
都立高校を連想する雑魚でした(^^)当事、帯広市内の有力校は、広尾線や士幌線の
沿線域において、どの程度の範囲で生徒を集めていたのでしょうね?



投稿者 ED76109
投稿日 2009年11月20日(金)10時34分14秒
タイトル 恥ずかしき話で失礼しました
 インフルエンザに係る「学年閉鎖」で本日開店休業中の「ED76109」であります。

 愚妻の話で盛り上がりましたが、正直恥ずかしいものです・・・。

 マロネロ38様
 >小田原なら東海道本線の153系に東京まで乗れたのに。

 小生は、奇しくもそのような場面に遭遇はしていませんが、「修学旅行中の新幹線車中」で知り合いの添乗員氏に
件の話をご披露したところ、「先生がいれば、『三島』以東だったら在来線での移動で大丈夫と思っていますよ。」と真顔で返答。
確かに「丹那隧道」と「熱海・小田原間の海岸線」は、「鉄」教師として「北の大地の高校生」には一見させたい風景であります。
しかし、時刻表を見ると「沼津始発の東京行」が・・・。
いつもの戯言ですが、「昭和」の欠片すら残っていないんですねぇ・・・(嘆息)。

 雑魚様
 >廃止された国鉄線の跡が、住居表示の地区境界線として容易に判別できますね

 現在でも「国道」沿いに雑草で覆われた「旧広尾線」の跡が残っており、
「旧広尾駅」は記念館として沿線の様々な資料が保存されております。また、「大樹」には「9600」が静態保存。
そして、「旧幸福駅」も健在しており、近くには有名な「花畑牧場」や太平洋の絶景広がる「温泉」も・・。
  一度、ご家族連れの「レンタカー」で探訪されんことをお勧め致します。

 >列車本数が大きく一段落する名寄より以北の約180kmの区間

 「JR北海道」としてはどうなのでしょうか。
今夏、「スーパー宗谷」で往復した状況を鑑みれば、現状維持かなぁ・・と言ったところでしょう。
しかし、前述したように本音は「札幌・稚内間の都市間バス運行」に一刻も早く切り替えたいのが本音でしょうね。

 >帯広市内の有力校は、広尾線や士幌線の沿線域において、どの程度の範囲で生徒を集めていたのでしょうね

 「新得」勤務時代でも、「帯広」から10人程度の生徒が1時間かけて通学していましたから
「帯広柏葉高校(「中島みゆき」さん、「ドリカムの吉田美和」さんの母校)」や
「帯広三条高校(俳優「小野寺昭」さん、「平淑恵」さんの母校)」辺りは「雑魚様」の推測どおりだと思います。
小生の愚妻(もうここまで来れば恥の上塗り!!)も高校生の時、「広尾線」で帯広での「松山千春」さんのコンサートに行き、
「アンコール」ももどかしく「広尾線の終列車」に間に合うため、友人たちと「大通」を疾走したことがあるとのことでした。

 長々と失礼致しました。
以上、「中島みゆき」さんの「ヘッドライト・テールライト」を聞きながら、
再び「トワイライト」に乗る夢を持つ「中年客車鉄ちゃん」でありました。


 
 
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