倶楽部メモ(556)
平成21年 9月27日〜 9月29日



投稿者 コスモス
投稿日 2009年 9月27日(日)09時02分52秒
タイトル 夏の思い出(客車の融通性)
みなさん、こんにちは。

昭和39年の夏休みに、中学生でしたが部活仲間と常磐線で海へ行きました。
帰りの夕方に常磐線水戸駅から上野行の客車列車を待っていました。
たくさんの乗客がホームで待っていました。
列車が到着しました。後部の2両を水戸で切り離ししました。
乗りきれない状況で、ホーム上の乗客たちが駅員に切り離した客車を戻せとつめよりました。
私は、そんなことはできないだろうから無駄な抗議だと思いました。
この騒ぎが収まらず、発車ができない状況が続きました。
最終的に、切り離された2両をまた本編成に戻して、なんとか遅れながらも発車できました。
客車編成の融通性はありながら、運用変更にともなう処理手配など国鉄側はよく決断でき
たものだと思いだします。



投稿者 ED76109
投稿日 2009年 9月27日(日)09時21分53秒
タイトル 懐かしきPCニセコ
 おはようございます。「ED76109」でございます。

 マロネロ38様
 >函館‐小樽‐札幌の急行「ニセコ」を復活。14系使用,長万部‐南小樽間はC62

 素晴らしきお言葉に感涙が・・・(興奮)。
「ED76」から「DD51」へ交換する「小樽駅1番フォーム」の光景は今も脳裏に焼き付いております。
「旧客仕立て」から「14系」に変わっても、さらに「C62」から「DD51」に牽引機が変わっても
「山線の隘路」を地道に走っていた姿は感動的でありました。
先達の皆様の中には先代の「まりも」、「ていね」の名前に懐かしさを覚えられる方もいらっしゃるのでは。
小生は何と言っても「122レ」や「42レ」等、「狭窓のスハフ」を復活していただければと考えます。
昭和59年3月に廃止された山間の小駅「上目名」とともに、小生のセビア色の想い出であります。

 長々と失礼致しました。
以上、「トワイライトEXP」の「経由変更」で、「山線復活」を夢見る「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 ED76109
投稿日 2009年 9月27日(日)10時44分14秒
タイトル 道内「鉄」想ひ出あれこれ
 連投失礼申し上げます。「ED76109」であります。

 雑魚様
 >わざわざ 100km以上離れた旭川であれば「スタルヒンの母校」があるだろうに

  小生、雑魚様の考えで「相違なし」と考えます。
特に「室蘭」近辺のケースでは、「白老」から「苫小牧」まで「自家用車の送迎(!!)」付き。
「ここまでやるかぁ」という感じであります。
「スタルヒン氏の母校」は、当地では「医学系進学のメッカ」的位置付け。伝統と格式ある名門校であります。
そういえば、学校に出入りしている業者氏から「修学旅行の計画で旭川の某高校は、
空路東京入りして1泊後に『銀河』で関西入りというプランを立てた先生がいましたよ。」と伺ったことがございます。
きっと小生のような「鉄」教諭なのでありましょう。

 >南高に限っていえば、当該通学者は、路面電車のファン

  「幌平橋」辺りを走る「札幌市電」は、街にマッチした様子です。
「藻岩」の山並みを眺めながら、観光客の方々も見物がてら「全区間制覇」されるとのこと。
雑魚様も再度ご来道の折は、当地唯一の「直流EC」(但し、地下鉄は除く!!)をご堪能ください。

  >急行時代は美唄・砂川には停車しましたっけ?

  確か、「キハ56仕立て」の頃は「停車」しておりました。
「PC化」されて、両駅とも通過になったと記憶しておりますが・・・。
先達の皆様からの御教示をお願い致します。

  >一本の長編成に需要を集約しがちな客レの場合、フリークェンシーの最たるは、一体
どの程度の間隔だったのでしょうね

 「昭和48年JTB時刻表6月号」によれば、「下り函館本線普通」は「17時9分発追分行835レ」、
「17時33分発滝川行837レ(桑園始発)」、「18時10分夕張行快速3545D」、
「18時40分滝川行879M」、「19時15分発旭川行881M(小樽始発)」、
「19時55分発深川行147D(小樽始発)」といったところであります。
「30〜40分」待ちは如何なものでしょう。
まあ、旧客で通勤通学ですから、贅沢は申せませんでしょうが・・・。
ちなみに最終は「22時25分発釧路行(小樽始発・後に「からまつ」)」。
小生の道教委時代の同僚に「酔って乗ったのが『スーパーホワイトアロー』。
気付いたら旭川だった」旨の話を聴いたことがありますが、
件の「釧路行」で気が付いたら「幾寅の山中」だったらと思うと、可笑しいやら気の毒やらといった感であります。

 長々と失礼致しました。
以上、「マジック7」で栄光近しの予感大である「道民球団応援団」の「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 黒磯運転所
投稿日 2009年 9月27日(日)13時29分8秒
タイトル 北斗星編成記録
81号機が北斗星運用に入ったとの情報を得て、撮影も兼ねて編成記録をしました。
EF81‐81
荷 カニ24‐506
11 オハネフ25‐12
10 オロハネ24‐553
9 オロハネ25‐501
8 オロネ24‐501
7 スシ24‐506
6 スハネ25‐503
5 オハネ25‐552
4 オハネ25‐566
3 オハネ25‐564
2 オハネ25‐?
1 オハネフ25‐?

1・2号車は記録できませんでした。



投稿者 ユーラシア鉄道
投稿日 2009年 9月27日(日)15時59分10秒
タイトル 客車列車復活ダイヤ
<ED76109様>
 久しぶりに失礼致します。
 ニセコ復活?のお気持ちの上での、ご興奮の心情を察し致します。
 また、コスモス様のご投稿のとおり、客車列車は季節波動要因に柔軟に
対応でき、国際公約CO2削減にも、環境会計面でも貢献できうると信じ
ます。

 *客車列車復活&運用について(案)*

1.JR貨物との協業で、多客期の機関車の融通をする。
2.客車は旧型客車をリクライニングシート、空調付、自動ドアで新規に
  製造。
3、従来の12系・14系運用と同じく多客(臨)レでよい。
4、全車指定、急行または快速のみの運用で、動力分散列車ダイヤに迷惑
  を掛けないようにする。
5、以前のシュプール号のように「1000円高速」に対向できうる往復
  セット価格の設定も必要。
6、通勤ライナー特別快速も全車指定券方式で客車列車を用いる。
  3大都市圏では、現行の特急車両の通勤ライナーに充当もしくは増発
  できうる。

 客車列車は、電化・非電化関係なく機関車さえ整っておればこんなにも
機動性・柔軟性に富んだものはありません。

 夢のような話ですが、「特急まつかぜ」を城崎までEF65(入線実績
は篠山口までしかないですが)あとDD51で復活すれば・・・・・・?

 いずれも鉄道マニアの関心を引く車両であるばかりでなく「列車で里帰
りしたほうが楽しい」と思わせることです。

 鉄道復権でCO2削減意識で、鉄道ルネッサンス時代は近未来???

 臨時急行「臨時急行きのくに」のDF50の英姿を添付いたします。
 ユーラシア鉄道の一環としてモスクワ地下鉄写真もご覧下さい。

<臨時急行きのくに・DF50+12系>
<モスクワ地下鉄・宮殿のような駅> <車内はいまだ白熱灯が主流・キハ17みたい>



投稿者 雑魚
投稿日 2009年 9月28日(月)15時19分7秒
タイトル 急行 「奥久慈」
▼コスモス様:
> 列車が到着しました。後部の 2両を水戸で切り離ししました。

上り便で切り離しというのは珍しいですね。1980年代の水郡線では、夕方に運転する
下り客レ 2本を翌朝の上り一本で纏めて回送する運用があり、類似の措置でしょうか。
それにしては、二両とは中途半端な陣容ですね。

1964年当時、水戸駅乗降で海水浴というと、翌々年に廃止された茨城交通の水浜線で
大洗に行かれたのでしょうか。この路線、水戸駅付近は、現在の国道51号線の経路と
概ね一致しますが、水郡線と交差した直後、コスモス様にとって「にっくき」校名が
冠された(^^)停留所の辺りでは、水郡線に並行する那珂川貨物線から枝分かれした
貨物側線(現在は駐車場に化けています)との間に連絡線を設け、貨車の遣り取りを
していたそうです。水浜線内では、電車が貨車を牽引していたのでしょうね。

水浜線の開業や、同じ茨城交通に属した茨城線の部分電化は、元々は東京に所在した
地磁気観測所が、磁気擾乱対策で現在地に移転した後の事ですが、観測所から直線で
30kmと離れていない水戸での 600V・直流電化は、問題にならなかったのでしょうか。

> 運用変更にともなう処理手配など国鉄側はよく決断できたものだと思いだします。

異変発生時のダイヤにおけるアドリブ対応を、コンピューターを介さずに乗り切った
時代を象徴している様ですね。水戸駅での異変といえば、14時頃に水戸を発つ上野行
気動車急行「ときわ」が、遅延していた併結相手の水郡線急行「奥久慈」を見捨てて
発車した事がありましたね。折り返し、上野を16時に発車する平行「ときわ」併結の
磐城石川行「奥久慈」利用者には、水戸で待機中の編成に「乗り換えて貰う」措置が
採られた事と想像しますが、元々、水戸までの自由席の需要もかなり多い列車なので、
車内は結構、混乱したのではないかと想像します。

この列車、水郡線内も急行扱いだった頃は、上野駅では「H電」と同じ高架ホームに
発着していた記憶があります。上野発着の気動車便が無くなった現在、これはかなり
貴重な光景でしたね。

画像は、那珂川河口の「海門橋」を、大洗側から眺めた様子です。1938年に、洪水で
流失した先代橋梁は、水浜線との共用でしたが、渡河直後の湊公園の丘が隘路になり、
湊線の那珂湊駅界隈には到達出来なかったとか。




投稿者 赤まんと
投稿日 2009年 9月28日(月)20時10分36秒
タイトル 覚えておくと良いでしょう。
黒磯運転所様の編成記録2日前、9/25に、上りを蓮田で押さえています。

Lot No.4106 9/25 2レ「北斗星」

  EF81 82(18-12秋田総合車セ)
 ↑カニ24 506(20-10大宮総合車セ)
11↓オハネフ25 12(19-1大宮総合車セ)
10 オロハネ24 553(21-1大宮総合車セ)
9 オロハネ24 501(17-5大宮総合車セ)
8 オロネ24 501(20-8大宮総合車セ)
7 スシ24 506(21-2大宮総合車セ)
6 スハネ25 503(20-11苗穂工)
5 オハネ25 552(21-7**)
4 オハネ25 566(20-6苗穂工)
3 オハネ25 564(21-3**)
2 オハネ25 562(20-2五稜郭車所)
1↓オハネフ25 15(20-7苗穂工)

オハネ25 552と564は、検査時期はわかるものの、工場名まで確認していません。
ソロとデュエットは苗穂、五稜郭が担当し、どちらか調べていません。
いい加減調査を実行にうつさねば、と思ってはいるのですが・・・。
また、9号車はオロハネ24、25ともに501の車番がありますから、調査の際注意が必要です。
さらに、これは重要ですが、「北斗星」2〜5号車は編成される車番が固定化されており、
現状562、564、566、552の順、これと対になる編成は561、563、565、551の順になります。
個室車検査の際は2号車にオハネフ24 500があてがわれることがほとんどで、
偶数番号の編成に502が、奇数番号の編成に501が入ります。
ただし、どちらも2003年全検のため、全検の時期が近いように思えます。
この2両が検査に入り、かつ2〜5号車のうち1両も検査であれば、
オハネフ25 3、7、216か、オハネ25 11、15あたりのいずれかがが入ることでしょう。
もちろん、オハネ24 501、502、503の可能性もあるわけですが。
2号車が11月5日札幌発、6日上野発から外れることが、時刻表でも告知されました。
間違いなく全検です。北海道のB個室はほぼ1年半程度でその周期が巡ってきます。
来年の春ころには、4号車オハネ25 563、564が全検になるでしょう。
ながなが書きましたが、参考になれば幸いです。



投稿者 ED76109
投稿日 2009年 9月28日(月)21時03分6秒
タイトル 「ニセコ」号の想ひ出
 氷雨が冷たい1日となりました。「ED76109」であります。

 ユーラシア鉄道様
 >ニセコ復活?のお気持ちの上での、ご興奮の心情を察し致します

 小生もお久しぶりでございます。「山線」は「山陰本線」と双璧である小生の「セピア色の鉄路」であります。
それでは「ニセコ」について、「釈迦に説法」させていただきます。

 「ニセコ」は、もともと「DC急行」であったものが、昭和53年10月改正で「PC」のみが残った形になります。
昭和26年に道内で初めて愛称がつけられた「まりも(3レ・4レ)」が祖に当たります。
当時の「まりも」は「札幌」までが昼行であり、「根室(釧路までが急行)」以東が夜行でありました。
 その後、「特ロ」や「ハネ」が連結され、道内を代表する「花形急行」に出世してまいります。
昭和40年10月改正で「まりも(札幌・釧路)」と「ていね(札幌・函館)」に分割され、
軒並み「DC急行化」された昼行急行の中では希有な「PC急行」となったのでありました。
 前後しますが、昭和31年から「トカホセ」を追われた「C62」が転入してからは多弁を労すまでもなく、
全国からファンが集まり人気を博していくことになりましたのは、先達の皆様の周知のところでありましょう。
 この「ニセコ」の伝説として有名な話は、昭和46年9月の「3重連運転」。
「山線」沿線は「ファン」で溢れ、「DC急行らいでん」を「倶知安峠」に臨時停車させる措置を
「国鉄北海道総局」が取ったほどでした。
 昭和56年2月7日からは「14系」化がなされ、昭和61年11月に廃止されるまで
「DC特急北海」とともに、「山線」を走り抜きました。
小生は、「上目名」辺りに加えて「ED76500番台」が牽引する「ニセコ」に、強い魅力を感じるものであります。
 しかし、現在の「山線」はご承知のような「長大ローカル(幹)線」であり、
単行若しくは2両編成の「DC」が寂しく隘路を辿るのみ・・・。
「室蘭本線の迂回路」としての存在は認められるものの、先行きは不透明であります(う〜ん、涙)。

 長々と失礼致しました。以上、「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 STARFLYER
投稿日 2009年 9月28日(月)23時23分26秒
タイトル オハネ25の検査工場
皆さま、ごんばんは。

>赤まんと様

オハネ25 552と564の検査工場の件ですが、9月に調査した際、
控えておりましたので、書かせていただきます。


 ・オハネフ25 552 (21-7 五稜郭)
 ・オハネフ25 564 (21-3 五稜郭)


以上、ご参考までに。



投稿者 ユーラシア鉄道
投稿日 2009年 9月29日(火)00時47分41秒
タイトル 想い出のフォトアルバム1
<ED76109様>
 こんばんは。ニセコに関するご教示ありがとうございます。

 小生も5連休に古い写真を整理し、皆様にご覧いただきたく、何度かに
亘り想い出のフォトアルバムとして投稿させていただきます。

 いかんせん、素人写真と古い画像での見にくさをお許しください。

 またED76109様の仰せの通り、客車列車の牙城はユーラシア鉄道
と中国になりますので、この写真もどしどし投稿させていただきます。

   &&いにしえの福知山線・川西池田駅&&

<急行丹波と旧客大阪行きの交換風景・国電ホーム化後>
 今や223系と321系の交換風景です。
<オハフ332028・大阪行きサボ>
<DD51単機回送と旧客大阪行き>
 背景は雲雀丘花屋敷の高級住宅郡



投稿者 ユーラシア鉄道
投稿日 2009年 9月29日(火)00時54分20秒
タイトル 想い出のフォトアルバム2
 続投・失礼致します。

 想い出のフォトアルバム2

  &&福知山線・中山寺駅(電化前)&&

<朝の通勤列車・篠山口発大阪行きキハ58X8連> <10:48中山寺発・大阪行きキハ26他9連>
<臨時急行但馬ビーチ・DD54+12系>



投稿者 赤まんと
投稿日 2009年 9月29日(火)10時15分2秒
タイトル 助かりました。
STARFLYER様、全検施行工場名ご教示ありがとうございます。
オハネ25 551と563が苗穂なのか、五稜郭なのか、近日中に調査したいところです。
今日の上り「北斗星」は遅れたようで、待てどもやってきませんでした。



投稿者 雑魚
投稿日 2009年 9月29日(火)16時11分48秒
タイトル 川西池田
▼ユーラシア鉄道様:
> 皆様にご覧いただきたく、何度かに亘り想い出のフォトアルバムとして投稿

これはこれは、DD54+12系という、ちょっと意外な組み合わせや、キハ26と「国鉄
標準色」による「正しい国鉄混色編成のあり方」が、電化前の福知山線を、少しだけ
味わった事がある立場としては、実に泣かせますね(^^)

画像にある「川西池田駅」は、兵庫県川西市の立地ですが、猪名川を隔てて連接する
大阪府の市名まで冠するとは(並行する阪急に、当該地独自の駅があるのですけどね)
その先の「篠山口」同様、広域路線網を擁した国鉄ならではの命名感覚かと感じます。
また尼崎の「市外局番06」よろしく、境界線を挟んでなお、大阪府と兵庫県の密接な
関係を象徴する様でもありますね。

福知山線の電化完了後、畿内で、優位気味の大手私鉄に並行する非電化路線の構図は、
片町線 vs 近鉄京都線が最後かと思われますが、相変わらず、片町線の奈良直通便は
少ないですね。今時「京阪奈」感覚からすれば、京都・奈良の府県境は利用動機には
あまり影響しないと感じますが、神戸や宝塚への直通性を考慮してもなお、片町線の
経路は、迂回気味という事でしょうか。

かかる直通便で、四年前に発生した大事故における「事故調報告書」の取扱いを巡り、
ここ数日来、色々な報道がありますが、客レの時代に比べれば、管理施設が飛躍的に
電子化された環境でも、人的ミスが大事故を招来する事は十分にある、という教訓を
改めて思い知らされた印象です。



投稿者 コスモス
投稿日 2009年 9月29日(火)20時16分15秒
タイトル 常磐線様々
▼雑魚 様:

>上り便で切り離しというのは珍しいですね。

おっしゃるとおりですね。
推測するに,平日ならば日立あたりからの夕方の帰宅ラッシュ対応で平ー水戸間だけ
増結されたと考えられます。体験当日の曜日は記憶の彼方ですが,このころは常磐線で
は平日休日のダイヤ区分けは実施されていなかったかもしれません。

茨城交通水浜線と水戸駅構内の貨物側線が「あこがれ」の高校最寄り停留所付近でつな
がっていたそうですね。ネコ出版のRMライブラリー63「茨城交通水浜線」(中川浩一著)」に
その写真が載っていたように覚えています。高低差もあり模型のような状態だったように感じまし
た。

地磁気観測所が八郷町(現石岡市)に移転してこなければ,常磐線の直流区間は,制約
の無かった高崎線や東北本線並に,平(現いわき)まで直流で交直切替が平以北に設け
られたかもしれないという妄想にかられます。

気動車「ときわ・奥久慈」は水郡線沿線の利用者には上野へ直通できる便利な列車でしたね。
一方が遅れた場合の運行パターンも事前想定されていて,ときに「奥久慈」を見捨てる
こともあったのですね


 
 
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