倶楽部メモ(522)
平成21年 5月14日〜 5月18日



投稿者 雑魚
投稿日 2009年 5月14日(木)16時30分46秒
タイトル 区界峠
▼ED76 109様:
>「乗客が少なくなったら、熊でも乗せるつもりか」

原内閣時代の帝国議会を彷彿とさせますね(^^)この時、槍玉に挙げられた山田線の
盛岡〜宮古は、20数年前、特別快速「リアス」で消化しました。盛岡〜茂市の87kmが
無停車と、確かに「特別」な快速でしたが、速達目的と言うより、途中の乗降需要が
希薄なので通過していた様な印象でした。

走りも推して知るべし、特に最大難所の区界峠では、いつ停止しても不思議ではない
心細い状態でしたね。当時は現在の様な「軽快車両」ではなく、登坂側の事情もあり、
盛岡→区界と、盛岡市域を抜けるだけで、実に一時間を要していました。

区界峠は、盛岡と宮古の通学区境界でもあり(越境枠は10%?)希薄な列車本数にも
鑑みて、区間便が折返す上米内(元首相・米内光政ゆかりの地名とか)より東側では、
たとえ盛岡市域であっても、県都への通学需要は殆ど無いかも知れません。

この様な状況にあって、1970年に無煙化されていますが、全面的な気動車への置換は
いつ頃の事なのやら。約十年前「一号御料車」による御召列車が運転されていますが、
この時の牽引はDD51。これも、区界峠対策の産物かな?



投稿者 ED76109
投稿日 2009年 5月14日(木)22時57分28秒
タイトル Re.区界峠
 お邪魔致します。「ED76109」であります。

 雑魚様
 >最大難所の区界峠

 小生がこの区間を「制覇」したのは、平成12年の夏休みのことであります。
「東京」での研究会の後、新幹線で「仙台」へ。
そして、翌日の「トホホセ」の鈍行を「小牛田」で捨てて、「石巻線」〜「気仙沼線」〜「大船渡線」、
再び「花巻」から「釜石線」〜「山田線」のコースでございました。
ですから、件の区間は「宮古」からの最終であり、「区界峠」は全くの真闇。
8月の初旬であっても、吐く息は真っ白。
キハの車内は、「同業者」らしき方が小生を含めて2名といった状況でありました・・・。
本音を言えば、「仙台・八戸」を結ぶ「臨時快速(う〜ん、名前が出ない?)」に乗りたかったのですが、
諸事情で断念し、上記のような「乗り鉄」となったのであります。
しかし、太平洋が「日本海」とは一風変わった味わいに満ちた趣で、印象深い旅でありました。

 長々と失礼致しました。以上、地味に「岩泉線」に乗り損ねた「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2009年 5月16日(土)10時44分24秒
タイトル 銀河鉄道?
ED76109先生:
岩手の鉄道と言えば「釜石線」が軽便の時代宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」他の
賢治の作品に度々登場する線ですね。
宮沢賢治と松尾芭蕉が好きだった故野村董氏が「賢治の父親が岩手軽便の大株主
だったから,賢治が度々株主券で乗車したり,機関車にも乗せてもらっていた」と
作品に鉄道が度々出てくる原因を教えて呉れました。「二十六夜」の最後にも
---”そして汽車の音がまた聞こえて来ました。”
「新花巻」で新幹線に乗るときに、頼りなさそうな37kgレールの釜石線の連絡駅と
言っても無人で方ホーム---を見たときに、「矢張り軽便が似合いそうだな」?と
想いました。



投稿者 雑魚
投稿日 2009年 5月16日(土)11時36分9秒
タイトル リアス・シーライナー
▼ED76 109様:
>「仙台・八戸」を結ぶ「臨時快速 (う〜ん、名前が出ない?)」に乗りたかった

1997年以降「夏の定番」となった「リアス・シーライナー」ですね。所要時間は確か
10時間程度と記憶しますが(ちなみに、最速「はやて」の仙台〜八戸は所要90分未満)
あの「鈍足振り」は、三陸沿岸の鉄道網が、継ぎ接ぎ仕様で形成された歴史的経緯を、
如実に物語っている様に感じます。

また、地形上制約に伴う南気仙沼〜気仙沼〜盛〜三陸の「迂回振り」も、陸中門崎〜
千厩の「政治的迂回区間」と共に、高速化の大きな隘路ですね。こうして概観すると、
1984年の南北リアス線開業で三陸沿岸の縦貫線が漸く繋がった感慨や今何処?という
感すらあります。一方、並行する三陸道は数年以内に宮古に到達する様で、対仙台の
主要導線は、高速バスになりそうですね。

三陸と言えば、極端に旅客便が少ない為、止む無く近隣に投宿して、岩手開発鉄道を
探訪した事があります。機能美を徹底追及した感すらある キハ202や、夕張鉄道から
転入した キハ301が印象的でしたが、1992年の旅客営業廃止後は、十年ほど放置され、
結局、解体されたとの事。我が地元・湊線で余生を送って頂きたい程の存在でしたが、
残念でした。現役の青色DLについては、何か客車を牽いて欲しい処です。



投稿者 ED76109
投稿日 2009年 5月16日(土)22時09分10秒
タイトル 三陸「鉄」雑感
 おばんでございます。「ED76109」でございます。

 マロネロ38様
 >岩手の鉄道と言えば「釜石線」が(中略)賢治の作品に度々登場する線

   御意。「釜石線」の沿線は、文学的な香りが致します。
「宮沢賢治」もさることながら、小生は「遠野物語」で有名な民俗学者「柳田国男」氏が印象に残ります。
「柳田」氏は、兵庫県田原村の生まれであり、遠野に伝承されていた民話を集録したものが「遠野物語」。
「花巻より十余里の路には町場三カ所あり。
その他はただ青き山と原野なり」と記された「遠野」は、風情のある町であります。
小生の記憶違いでなければ、確か「C58」が活躍していたのではありませんでしょうか。


 雑魚様
 >「夏の定番」となった「リアス・シーライナー」

 ありがとうございます。・・・そうそう、「リアス・シーライナー」でありました。
当初は、「制覇」を予定したのですが、当地の「JTB」が「第3セクター」経由の復路の乗車券は発行できない(?!)
という話で、それなら「三陸のJR乗り鉄」にと路線変更した結果、「5路線制覇」ということになったのであります。
しかし、本当に8月初旬なのに「区界」は寒かった記憶が残ります。
列車交換で降りたホームは半袖のポロでは震え上がるほどの寒さ。
周囲に灯りは皆無で、月明かりが自然林の上に出ていましたねぇ。
雰囲気としては、廃止されてしまった「名寄本線の一の橋」のような哀愁漂う「峠駅」でありました。

 長々と失礼致しました。以上、「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 きむたお
投稿日 2009年 5月17日(日)07時42分37秒
タイトル 昨日の「日本海」編成
昨日朝、同列車の撮影に行ったのですが、あまりに編成が長すぎてチェック漏れがありましたので
夜、帰って行く編成をチェックしてまいりました。

'09/5/16(大阪発)、4001、下り「日本海」
EF81 48↑
カニ24 23(白/SUS))
オロネ24 5(白/SUS)
 オハネフ25 202(金/SUS)
 オハネ25 151(金/SUS)
 オハネ25 38(白/白)
 オハネ24 44(金/SUS)
 オハネ24 19(
/SUS)→後日「白帯」に訂正
 オハネ24 7(白/SUS)
 オハネ25 220(金/銀色ステッカ)
 オハネフ24 15(白/SUS)
 オハネ25 147(金/SUS)
 オハネ25 210(
?/?)→後日「金帯/SUS文字」に追加訂正
 オハネフ24 7(白/白)


*EF81の「↓」は抵抗器カバーのある向き。
*客車の(*/*)は(帯色/文字)を示します。

久々に見る長編成!やはり13連は迫力があります。
ちなみに、同日大阪着の4002はEF81 101が上記編成を牽引でした。



投稿者 ED76109
投稿日 2009年 5月17日(日)08時25分33秒
タイトル 長距離鈍行・中国四国編
 おはようございます。「ED76109」であります。

 今回は、「中国、四国」地区の長距離旧客鈍行を辿ってみます。
先達の皆様方の想い出が甦っていただければ眼福の限りであります。

 (山陰本線出雲市以西)
   「823レ 浜田・門司」「825レ 益田・下関」「525レ 出雲市・益田」
  「829レ 出雲市・下関」「831レ 豊岡・門司」「833レ 出雲市・長門市」
  「543レ 福知山・浜田」「835レ 京都・浜田」
  「524レ 536レ 浜田・米子」「726レ 浜田・大阪」
  「544レ 浜田・東舞鶴」「822レ 長門市・豊岡」「824レ 門司・福知山」
  「534レ 浜田・出雲市」「828レ 下関・米子」
   「830レ 834レ 下関・益田」

 (伯備線)
   「923レ 岡山・米子」 ※上りは「米子・新見」「新見・岡山」の運転

 (芸備線)
   「823レ 新見・広島」「822レ 広島・新見」「824レ 広島・備後落合」

 (呉線)
   「621レ 三原・広島」「622レ 広島・三原」 ※「広島・仁方」4往復運転

 (予讃本線)
   「121レ 多度津・松山」「126レ 128レ 松山・高松」

 (土讃本線)
   「221レ 223レ 225レ 高松・高知」
  「224レ 226レ 228レ 高知・高松」

 これら以外では、「津山線」「倉吉線」「大社線」「境線」「姫新線」「岩徳線」
そして「可部線」にも旧客鈍行が運転されており、なかなかの充実ぶりであります。
特に「呉線」は「EF58」牽引であり、電化前は「C62」「C59」牽引であったことは、
先達の皆様には「釈迦に説法」でありましょう。

 長々と失礼致しました。以上、「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 bell
投稿日 2009年 5月17日(日)13時29分16秒
タイトル 昨日の日本海
管理人様、ご無沙汰しております。
きむたお様が昨日の日本海の編成を記録されておりましたので、当方は山崎−島本間の記録を添付させていただきます。




投稿者 雑魚
投稿日 2009年 5月17日(日)14時50分37秒
タイトル 花釜線
▼ED76 109様:
>「宮沢賢治」もさることながら、

岩手出身の文学者といえば、旧制盛岡中学で卒業年次が比較的近い、宮沢賢治および
石川啄木を連想するのですが、両者の作風は、盛岡を境に地勢・気候が大きく変わる
東北線沿線の風土、更に言えば、釜石線と花輪線の雰囲気の違いらしきすら感じます。

> 花巻より十余里の路には町場三カ所あり。その他はただ青き山と原野なり

花巻近郊の知人が云う処の「花釜線」を消化したのは、前出「リアス」に乗り継いだ
急行「陸中」での事でした。現在の「はまゆり 4号」に継承されたこのスジは、唯一、
釜石〜宮古も急行の扱いで、宮古を数分遅れて発車する茂市経由「リアス」が盛岡に
一時間ほど早く到着する事を思えば、この急行扱いは、些か解せませんでした。

しかし、新花巻にて新幹線乗継客が多数下車した事で(これほど乗換需要が多いなら、
釜石線のホームを「場末」に隔絶せずとも良いのに、と感じました)宮古はともかく、
陸中山田・大槌・釜石からの遠距離需要に応えた「急行」扱いと納得。考えて見れば、
釜石線・山田線の名物循環急行「五葉」「そとやま」の名残りでもある訳ですね。

当然ながら、新花巻〜盛岡はガラガラで、現行快速は通過する石鳥谷・日詰にも停車。
新幹線開業以前の特急・急行停車パターンの名残りが窺えた一時でした。

同線の車窓風景では、ループ線に準じた陸中大橋の山峡が、やはり圧巻でした。この
仙人峠は、山田線の区界峠と比べ、東北線分岐点からの距離が遠い為、岩手軽便鉄道
時代を含め、全区間が一貫した国鉄線として整備されるまでには、かなり紆余曲折が
あった様です。峠の未開通区間は貨物に限り、国鉄唯一の索道でリレー。この手法は、
熊野街道(現国道42号線)矢ノ川峠(尾鷲市と熊野市の境界)でも、行われたとの事。

釜石線は、北上川支流域の足ヶ瀬と、釜石を河口とする甲子川沿いの陸中大橋の間で、
直接、分水界を越えるのではなく、途中の上有住で、陸前高田を河口とする気仙川の
上流部を一旦掠めています。これは、仙人峠以東で先行開業した釜石東線より以前に、
釜石に到達した山田線が(釜石〜宮古が、快速運転体系と異なり山田線に属するのは、
その為でしょうか)1948年の台風で壊滅的被害を受け、孤立した釜石の救済策として、
GHQより釜石線の早期全通が命じられ、工事を急ぐ必要上、岩手軽便鉄道時代来の
経路構想が急遽、迂回気味に変更された事情がある様です。



投稿者 雑魚
投稿日 2009年 5月17日(日)15時39分56秒
タイトル ナイトビュー 更級
先週末に引続き、今週末も夜間、長野〜姨捨で、旧客による「ナイトビュー更級」が
運転されていますね。今週末は生憎の雨ですが、全国的に好天に恵まれた先週末なら、
善光寺平(主に長野市街)の夜景に加え「田毎の月」が拝めた事と拝察します。

私は、学生時代、周遊券の関係上、木曽福島折り返しの12系「ちくま」連泊に際して、
姨捨駅で夜景を拝みましたが、厳寒期にあって、眺めは宜しくも、とにかく寒かった
印象です(^^)最近、仕事関係の旅行で戸倉・上山田温泉に投宿した際、宴会の後に
タクシーで姨捨駅に赴く筈が、気がつけばカラオケ・バーで、泥酔しつつもマイクを
放さない自分がいたのでした。嗚呼、情け無い………(^^)

長野と松本が、同じ信濃川支流・犀川の流域でありながら、スイッチ・バックを伴い、
聖山の裾野を掠めてまで聖高原を迂回しているのは、犀川が「山清路」に象徴される
屈曲著しい山峡に終始している為で、長野道が篠ノ井線に並行する経路を採ったのも、
この難所を敬遠した為かも知れませんね。

件の客レに命名された「更級」は、長野市や千曲市の一部が属していた郡の名前です。
列車名に「姨捨」を用いなかったのは「楢山節考」に通じる哀史への連想性に加えて、
信州蕎麦の代名詞「更科」の語源である事情が好感されたのかも知れません。

機回しの関係か、上記編成自体は冠着まで回送される様ですが、この一帯は東筑摩郡。
広域都市・長野の街を遠望する姨捨から隧道一つ隔てた位置関係ですが、ここは既に、
通勤・通学面において、松本都市圏の性格が強い地域だそうです。



投稿者 きむたお
投稿日 2009年 5月17日(日)17時35分35秒
タイトル 昨日の日本海(訂正と補足)
▼ bell様

お返事ありがとうございます!
お写真は私が水橋で見送った編成のその後ですね。
帯の色が気になり、メモを見直すとまたしても訂正が1箇所(汗

オハネ24 19は白帯が正当ですね。
#当方の走り書きの「G」の文字と「白」の文字が自分でも判読しづらかったことを反省・・・。
また、お写真のおかげで2号車、オハネ25 210が金帯/SUS文字であることも判明いたしました(^^)

ちなみに、機関車は敦賀で48号機に変わっているんですね。
「日本海」はかつての82号を富山→京都で乗っているだけで、ほとんど富山以東での乗車ですので
敦賀での機関車交換がリアルに想像できません(^^;)

↓'06/2/12の4004列車。



投稿者 ど素人
投稿日 2009年 5月17日(日)22時36分53秒
タイトル 盛岡中学
雑魚 さま、

>>旧制盛岡中学で卒業年次が比較的近い、宮沢賢治および
>>石川啄木を連想するのですが、


私は盛岡一高(旧制・盛岡中学)出身です。
生徒は、啄木派と賢治派に分かれる、などと言われた世代です。
雑魚さまの考察、とても興味深いですね!
ところで、啄木は盛中中退です。



投稿者 雑魚
投稿日 2009年 5月18日(月)07時59分31秒
タイトル 白堊の城の通学事情
▼ど素人様:
> 啄木は盛中中退です。

失礼しました。それでは「在学時期が比較的近い」と訂正を申し上げます。

盛岡一高と云えば、岩手は素より東北全域でも屈指の名門。学区制が比較的厳しい
岩手にあって、遠方からの越境通学者も少なくないと聞きます。甲子園を経験して
その後、最高学府から外務官僚に進み、その「文武両道」振りが新聞で報じられた
Y氏にしても、花巻の御出身ゆえ、日々、東北線の旧客列車で通学されたのか、と
想像しますが、上盛岡駅近所の立地にあって、区界峠以東から山田線での通学例が
あったのか否か、結構、気になっています(^^)

以上、バンカラ度は及びませんが、所在地の「鉄分」では多分勝っているであろう、
旧制中学系「一高」出身の雑魚でした。なお「番号制」の公立高校は、七〜八割が
わが茨城に集中し、寡占状態だとして問題視する向きもありますが(^^)岩手でも、
戦後の僅かな時期に限り、釜石・黒沢尻・遠野・花巻・宮古でも存在していますね。



投稿者 太田拓也
投稿日 2009年 5月18日(月)17時56分30秒
タイトル 展望車と1等寝台車
久しぶりになります太田拓也です。
掲示板のバックナンバーを読んでいて、昔の特急の展望車の展望室は
1等客なら誰でも使えるフリースペースだと理解しました。
戦前の「富士」ですとイネの客でも展望車を利用できたということになりますね。
あと戦前の展望車には喫茶カウンターがありましたが、
これも隣の寝台車から利用できたと思われます。
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