倶楽部メモ(516)
平成21年 4月26日〜 4月28日



投稿者 ED76109
投稿日 2009年 4月26日(日)08時23分33秒
タイトル 立派な学問ではありませんか
 黄金週間でありますのに、どこにも行けずフラストレーション一杯の「ED76109」でございます。

 「全検表示」を辿ることで、車両の「過去」を辿ることが可能となります。
その成果は「どの列車」に運用されていたのか、「どのような編成」であったのか、
そして「どのような改造」等がなされて「タネ車」は・・・。
当然、様々な過去の「鉄」事象が見えてまいります。その部分が小生の考える「学問的な見地」なのであります。
車両の「変遷」をつまびらかにするだけで、鬼籍入りした「列車」に辿れ、当時の「鉄道」の背景も見えてくる・・・。
小生には、先達の皆様のお話を伺うだけで「小生の乗車歴」を思い返すこともできるのでありますから。
赤マント様及びプルマン様の地道な努力に、心から敬意表します。ありがとうございます。

 プルマン様

 >競馬は驚きましたが

 「鉄」資金を確保するために・・・。
大学の4年間、「中山競馬場」で場内整理員(俗に言う「ガードマン」です)をしており、
その方面の「知識」が少々ございます。
実話ですが、平成2年の帰省に利用した「北斗星のロイヤル(往復)」は
「ジャパンカップのホーリックス及びオグリキャップ」のお陰ですし、
平成7年の「西日本乗り鉄」は「天皇賞のライスシャワー」のお陰で、帰路は「さくらのロネ」に・・・。
しかし、「トワイライト」に乗るはずだったのに、気付いたら「白鳥の自由席」(?!)になっていた
なんてこともございました(苦笑)。
件の「はやぶさ・富士」のお別れ乗車も、「有馬記念のアドマイヤモナーク」のお陰で「儚い夢」に・・・(あ〜あ)。
しかし、「鉄」親父に連れられて、今はなき「東京競馬場前」は想い出の駅でありますし、
「京王線」「JR武蔵野線」「京阪本線」及び「阪急宝塚線」の「競馬開催時ダイヤ」は興味深いものがございました。

 長々と失礼致しました。以上、下世話な話題で失礼極まりない「中年客車鉄ちゃん」でありました(失礼致しました)。



投稿者 赤まんと
投稿日 2009年 4月26日(日)22時33分11秒
タイトル 幡生は基本的に
プルマン様ご指摘の「つるぎ」の全検表記ですが、宮原車は基本的に鷹取(のち網干、一部下関)が担当、
幡生は広島、下関配置車を担当していましたから、よほど特殊な事情がない限りは、全て鷹取工だったと思います。
阪神大震災のときは非常事態でしたから、オハネフ25 136が松任工場で全検出場したことがあります。
が、このときはすでに「つるぎ」は臨時格下げでした。
また、2000年度から稼動した網干総合ですが、ブルトレで第一号の全検出場は京都配置のオロネ14 303で、12-4網干総、
続きオハネ15 352の12-5網干総、「日本海」4号車指定のオハネフ25 142の12-6網干総・・・といった具合のようです。
念のため記しておきますと、下関部表記は7-10からで、1995年10月からの下関地域鉄道部発足に際してのことです。
工場のキャパ不足のためか、詳しい本当の事情はわかりませんが、本来、網干で全検を受けるべき宮原のブルトレ車両が
2005年〜2006年にかけ、一部下関で全検を受けています。
こちらにつきましても大阪在住の友人の骨折りのおかげで記録がございます。
機会あれば披露したく思います。
「つるぎ」が半ば固定編成のように運用されていたのは当たっている面があります。
1992〜94年あたりは「日本海」にカニ24 104、106と、オハネフ25 40、42、43、46、47、136、142、143、
オハネ25 71〜79、81〜85、88、90、91といったあたりがよく充てられています。
オハネフ25 40、136、142、143は「つるぎ」にもよく入っています。
残りを「つるぎ」「銀河」で比較的バランスよく使っているように見受けられました。
2001年4月頃からは「日本海」「銀河」について、オハネの順列が変わることがあったものの、
工場入場時以外、本当に固定編成を組み、2006年頃まであまり変化がありませんでした。
また、1992年春頃から、品川金帯車でも同じようなことをしており、
オハネ、オハネ、オハネフの3両単位で全検時期を揃え、差し替えは基本的にその3両単位で行ったりしていました。
2006年3月の「出雲」廃止までほぼそのまま続けられており、
編成記録を注視すると、いつもその3両1ブロックそれぞれが、オハネの順列入れ換えこそあれ、同じことに気づきます。
こちらも別途紹介したいところです。
ED76109様のお褒めの言葉は大変心強いもので、まさに車両の過去を辿ることのできる楽しさが魅力で、
今日まで止められずに4000本近い編成記録を続けています。
20系に比べ個性が弱く、車両そのものの細かい差異に光が当たらなかった14、24系。
末期に私が暗い情熱でシコシコと記録したものが、どこかで役に立てば、こんなに嬉しいことはないのです。



投稿者 プルマン
投稿日 2009年 4月26日(日)22時41分31秒
タイトル 20系情報感謝します
>竹中@ノ−ブルジョ−カ様
連日、どう感謝してもしきれませんが、とりあえず感謝するしかありません。
本当にありがとうございます。
竹中@ノ−ブルジョ−カ様の情報も大切に保管させていただきます。
ありがとうございました。



投稿者 赤まんと
投稿日 2009年 4月26日(日)23時21分6秒
タイトル あくまで推測ですが・・・
竹中@ノーブルジョーカー様の20系全検記録は貴重ですね。
既に派動用だったことを考えると、おそらくここに記されているのが最終全検だったのではないでしょうか。
検査期限の兼ね合いで1997年末のさよなら運転、翌98年3月末日付の廃車につながったものと個人的に推測します。
しかし、にわかに編成記録や車番、全検表記にいたるまで、ここまで話題が盛り上がる日が来るとはただただ驚きです。
今後につながることを願いたいものです。
こちらとしましても、可能な限り情報提供をしていきたいと考えます。



投稿者 プルマン
投稿日 2009年 4月27日(月)01時15分7秒
タイトル 目的も交通手段も全部趣味
>ED76109様
多くの趣味があり、羨ましいです。
国鉄形が無くなれば私もこの趣味に留まれるかわかりません。
次の拠所が必要ですかね。
しかし競馬は無縁ではありません。
地元三条には今は閉鎖ですが三条競馬場(地方競馬は購入可能)今年は国体乗馬。
知り合いにはポピ−という馬の馬主の一人をやってます。
三条は競馬にパチンコ屋が連なるギャンブルの地であり、映画館やショッピングもできる娯楽の街です。
そして何より新幹線の駅、燕三条駅があり、東京・上野口のブルトレ撮影が手軽に可能。
他、在来3つの駅により、鉄道の街道でもあります。長岡より凄いと自負しています。
いつの間にか自慢話になりました。すみません。




投稿者 プルマン
投稿日 2009年 4月27日(月)02時25分24秒
タイトル 組換えのタイミング
>赤まんと様
つるぎ編成の分析は興味深く読ませて頂きました。
今回もありがとうございます。
編成の組換えはいつどのタイミングで行うのでしょうか。
私が上下線とも確認できた編成に前述の日本海1号A初投入編成がありますが、
その発車日の98年12.7着の日本海4号はEF81−105を筆頭にA初編成とほぼ同じ編成で、
ただオハネフとカニの間にオロネが入りオハネが1両抜けただけでした。
最後尾のオハネフ25−46の号車札も12号車のままでした。
この日の4号はカニを入れ11両、1号はカニ、ロネを入れ11両でした。
以前、2号車にオハネフが入るのは貴重とご指摘でしたが、
カニを外してオロネを入れただけの簡略作業だったのかもしれません。
それとも初めての車両のトラブルに対応して乗務員室を側に置いたのかもしれません。
また、08’3.13〜14・15の改正時でもJR東の編成は上下とも同編成でした。
青森に帰っても同編成で再び新日本海として運用されたのです。
週一で組換えるのか一月なのか不明ですが運用が解れば記録がさらに容易になりますね。




投稿者 赤まんと
投稿日 2009年 4月27日(月)17時33分32秒
タイトル 編成車両差し替えのタイミング
プルマン様のご質問ですが、これはもう現場サイドでないと分からないところがあります。
なかなか編成に大きな変化のない「あけぼの」「北陸」あたりも、
ある日急に2〜3両差し替えられることがありますし・・・。
走行距離または検査期限、不具合発生等で編成から抜き取られ、他の車両が代わる、としか答えられません。
「日本海」のように片道1000キロを超えてきますと、規定の距離に達する周期も短くなりますから、
差し替えの機会も増えるのでしょう。
上野口では「北斗星」が1000キロ超えですから、割り合いよく差し替えがあります。
ただし北海道持ちの車両は2〜5号車を固定しており、1、6号車を差し替え、という形で、
予備車のない2〜5号車については、2号車にオハネフ24 500を入れることで、検査に対応しています。
オハネフ24 500も前回全検から6年と日が経っており、検査に入ってなおかつ個室車も検査となれば、
オハネ24 500かオハネフ25が代わるのでしょう。
現状2号車からオハネ25 561〜563〜565〜551と、562〜564〜566〜552と、きれいに偶数番号に揃えています。
昨年春からこの組み合わせです。
以上、余談ながら参考までに。



投稿者 ED76109
投稿日 2009年 4月27日(月)21時51分34秒
タイトル 1日過ごしても飽きなかったでしょうね・・・
 おばんでございます。「ED76109」であります。

 プルマン様
 >在来3つの駅により、鉄道の街道

 小生、「東三条」や「三条」の辺りは、よく夜行で通過させていただいております。
件の上り「トワイライト」や「日本海」は言わずもがなでありますが、
昭和57年の秋に「新津」からの「833レ(青森行)」制覇のために利用した「12系臨時佐渡」。
早暁の空に広がる一面の田圃の風景が記憶に残っております。
また、プルマン様は未乗車でありましょうが、「上野」からの「長岡行115系鈍行」に乗ると、
朝一の「723M」であれば「長岡」で乗り継ぎで「新津」からの「旧客郡山行」に接続。
夜行便の「735M」であれば、「宮内」で「旧客米原行」に接続しておりました(懐かしいですねぇ〜)。
 それに、昭和40〜50年代にかけては、「日本海縦貫」及び「上越線経由の上野方面」の優等列車のメインルート。
「とき」・「いなほ(鳥海)」・「白鳥」・「北越」・「雷鳥」等の「EC特急」、「20系日本海」、
「佐渡」・「旧客天の川」・「旧客鳥海」・「PCきたぐに」等々・・・。
そして「70系ゲタ電」もございました。
おそらく、この頃「東三条」で「撮り鉄」をしたのであれば、フィルムが何本必要となるのでありましょうか。
「乗り鉄」の小生でもワクワクしてきます。
 プルマン様は「鉄」になるべく「鉄」になられたのでしょう・・・。

 長々と失礼致しました。以上、「EC鳥海」で眺めた「雪景色」が心に残る「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 プルマン
投稿日 2009年 4月28日(火)01時06分35秒
タイトル 差し替えに立会える場所
>赤まんと様
ご回答ありがとうございました。
差し替えを見るなら、尾久ですよね。
10年前、偶然北陸の差し替え作業を見ることができました。
以前よりも華やかさは無くなりましたが、尾久は特別な場所です。

1999’8.13尾久 この夜はこのスハネフを連結します。




投稿者 プルマン
投稿日 2009年 4月28日(火)01時45分36秒
タイトル 早く目覚めていたら・・・
>ED76109様
地元沿線はEF58、70系、旧客などの雄姿は、私が鉄に対して物心付いた頃には既に
伝説と化していました。
それでも特急や急行が充実していて、白鳥や新潟雷鳥が消滅するまでは見れたものでした。
しかし今、昼行は北越のみと寂しくまた、北陸新幹線開業時は北越も快速に格下げか消滅するかもしれません。
残る国鉄の覇者は上野・長岡鈍行の話題である115系のみです。
すでに新型のE127も投入されましたが、115系の脅威とはならないようです。
私が115系をよく利用したのは10才頃、鉄に目覚めた頃でしょうか。
その時はエアコンは無く扇風機が活躍してました。
そんな頃、生まれて無かった子供たちが今も通勤、通学で使い生まれて無かった人達がこの
115系に今は乗務している。
途中、落書きされたり、窓ガラスを割られたり、地震と色々ありましたが、
恐らく新潟県民それ以外もすべての人々が乗っていて、学生から社会人、そして退職まで
すべてを見ている。
途方も無く息の長い115系こそ最後の国鉄名車と言えるでしょう。




投稿者 赤まんと
投稿日 2009年 4月28日(火)08時45分5秒
タイトル そう言っていただけると光栄です
昨年初夏まで34年近く住んだ尾久の地は、私を編成記録マニアにするのにあまりに好都合なところで、
「特別な場所」と言っていただけるのは元、地元民として大変誇らしく感じます。
どこまで進んだのかはわかりませんが、田端の商工会では、
鉄道の街として盛り立てていこうという動きが数年前から見られます。
尾久の構内もずいぶん空きが目立ち、スペースが無駄に思われます。
いずれ、何らかの開発の手が入るかもしれません。
画像はちょうど10年前のものということですが、すでに黒Hゴム化された14系がいますね。
とくにスハフ14は懐かしく思います。
本日は休みですので、また「北陸」「あけぼの」を尾久出発収容線フェンス越しに見て編成記録を押さえる予定ですが、
差し替えがされたか、楽しみです。
昨日の「あけぼの」は久々にカニが差し替えられており、
「出雲」廃止後、奇跡の復活を果たした、機関更新車カニ24 112が入りました。
昨年11月、6年ぶりに全検を受け、ピカピカです。上り最終「出雲」のしんがりをつとめた車両で、
かつてはもちろん博多「あさかぜ」に使われたほか、「エルム」への使用実績もあります。
すでに雑誌でも紹介されたように、「あけぼの」はEF64 0番台がメイン担当で、昨夜は38号機が先頭でした。
全検から6年経過しており、次の全検が近そうです。



投稿者 雑魚
投稿日 2009年 4月28日(火)10時03分26秒
タイトル 新潟憧憬
▼プルマン様:
> 在来3つの駅により、鉄道の街道でもあります。長岡より凄いと自負しています。

三条界隈において鉄道網が最も充実していたのは、上越新幹線が開業した1982年から、
弥彦線の越後長沢側、新潟交通電車線の燕側、蒲原鉄道の加茂側、夫々が健在だった
1985年までの二年半ほどでしょう。その一方、越後交通の栃尾線や、旅客営業時代の
長岡線を実際に見ている立場としては、往時の長岡も、侮り難い存在です。

掲出画像は、2007年の中越沖地震の発生直前に訪れた、旧与板町中心部付近における
長岡線の廃線跡の様子です。以前、西長岡のヤードで青色の電機が屯している様子を
見物した事がありますが、残念ながら、客車を牽引した実績は無さそうですね。なお、
この画像を撮影した直後、弥彦山に登りましたが、日本海に浮かぶ佐渡島や、反対側
残雪の飯豊連峰は、実に絶景でした。

私が信越線長岡以北を初めて乗ったのは、弥彦線や蒲原鉄道の末端区間が廃止される
85年早春の事でした。全国的に急行が大幅淘汰されたダイヤ改正を控えて、名古屋→
長野→新潟の 165系急行「赤倉」を惜別乗車したのですが、まず妙高山麓のドカ雪に
圧倒された後、一面真っ白な新潟平野を快走する様子は、旅情満点でした。その翌日、
帰京に利用した「佐渡」編成が共通運用だった事も、嬉しいサプライズでした。

三条市といえば、名称上「三条駅」の従属的印象を伴う「東三条駅」が、特急停車の
要衝というのも、かつての「西鹿児島駅」よろしく、珍しいですね。また、三条市と
燕市(地図を見ると、合併後の市役所本庁舎は、越後線の吉田駅界隈の様ですね)の
関係において、新幹線駅と北陸道IC、各々の「バーター的」名称も興味深い処です。




投稿者 ED76109
投稿日 2009年 4月28日(火)23時11分11秒
タイトル 湘南電車やスカ色は想い出の1つです
 連休前半は、休みがない「ED76109」であります。

 プルマン様
  >途方も無く息の長い115系こそ最後の国鉄名車

 客車から完全に離れますが(いつもあることですが・・・)、「トカホセ」の「東京・静岡」・「東京・浜松」便や
「中央東線」の「新宿・長野」・「新宿・松本」便は小中学生の頃によく「乗り鉄」しました。
前述しましたが、「品川臨時ホーム発」の「325M(浜松行)」は「太平洋」、「丹那隧道」、そして「富士の眺め」。
4時間半の旅は、小学生の小生には贅沢な小旅行。
 さらに、「421レ」や「424レ」等無き後の「スカ線色115系」は、「小仏」や「笹子」等の峠越えの旅。
「初狩」、「笹子」の「スイッチバック跡」を眺めながら、山越えを楽しんでおりました。
 小生、「旧客鈍行」が一番だと思っていますが、「115系(113系)」仕立ての「EC鈍行」にも
多々想い出がございます。
プルマン様の生まれる以前、昭和48〜51年ごろの遠い昔のお話であります。
 「165系復活佐渡」の映像を目にした途端、「清水隧道のループ線」が淡い想い出として甦ってまいりました・・・。

 長々と失礼致しました。
以上、どうしても「湘南新宿ライン」に違和感を感じてしまう「中年客車鉄ちゃん」でありました。



 
 
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