倶楽部メモ(507)
平成21年 4月 3日〜 4月 5日



投稿者 雑魚
投稿日 2009年 4月 3日(金)16時07分18秒
タイトル だいせん
竹中@ノーブルジョーカー様、管理人様、ヒゲ無し雷鳥様、更に御教示を頂きまして、
有難うございました。今では一大要衝となった尼崎駅の拠点性が、改めて窺えますね。

その一方、初めて在来線で畿内を訪れた1980年代「大垣夜行」から乗継いだ 113系の
網干行は京都〜三ノ宮が快速運転で、途中停車駅は確か、高槻・茨木・新大阪・大阪・
芦屋・六甲道だったと記憶しており、福知山線を分かつ尼崎の通過を、意外に感じた
記憶があります。

上記「快速区間」が、列車の振り分けで融通が効く「方向別複々線」との事情もあり、
速達列車の停車パターンも少しずつ変わりつつありますね。1970年に 153系「ブルー・
ライナー」仕様で新快速が新規設定された当時、京都〜西明石の途中停車駅は、大阪・
三ノ宮・明石のみで、後年追加された姫路発着便は西明石も通過という、子供心にも
印象深い陣容でした。

特別料金を必要としない意味における「普通列車」昼行便としては、当時の新快速の
京都〜大阪(42.8km)が、無停車の最長記録かと思いきや、よく考えたら、1986年に
私自身が利用した、山田線の特別快速「リアス」盛岡〜茂市(87.0km)という事例が
ありました。この程度の出力で区界峠が越えられるのか、ガラガラの車内も相まって、
不安になる様な、長閑な走りが、実に印象的でした(^^)

尼崎停車の有無は失念しましたが(多分、通過?)20系時代に何度か御世話になった
急行「だいせん」は、1986年の宝塚〜福知山〜城崎電化の際、14系寝台+12系座席に
置換されるも、相変わらず、大阪から一貫してDL牽引でしたね。旅客需要が大きく
切り替る訳でも無い倉吉から以西が普通列車扱いと云うのは、妙な話と思いましたが、
聞けば「山陰」廃止に伴う代替救済の意味もあったとか。



投稿者 bell
投稿日 2009年 4月 4日(土)02時38分58秒
タイトル 迂回運転
管理人様、こんばんは。
このところ話題となっている迂回運転につきまして書き込ませていただきます。

先月廃止となりました『富士』・『はやぶさ』ですが、平日の2レは北方貨物線(宮原)を経由し
吹田操で運転士の交代を行なっていたようです。
私は1月15日と3月11日に乗車しましたが、いずれも北方貨物線経由でした。
通過時刻は午前3時頃ですが、3月乗車時には途中の踏切にファンの姿を確認することができました。
ちなみに、京阪神の複々線区間では外側線を走行するのが本来ですが、
線路保守の関係でしょうか、かなりの頻度で内側線を走行しておりました。

また、宮城野貨物線についてですが、雑魚様・ED76 109様がご指摘の通り、
仙台駅の東北新幹線の工事に伴い昭和48年頃から5年間ほど夜行列車が迂回しておりました。
これとは別に、平成4年2月29日上野発の『八甲田』が迂回運転を行なっております。
当日のみの措置だったのかどうかは失念しましたが、時刻表に掲載されたことから、
普段と違う経路ということで卒業旅行の日程に組み入れた記憶があります。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2009年 4月 4日(土)09時33分5秒
タイトル 尼崎停車
DC時代の「さんべ」?だったかと想いますが、上り列車だけ尼崎に停車の時代が
ありました。(列車名は確かではない)
尼崎は鹿児島県人が多いので、「しろやま」を上下停車させたら如何か?と何度か
大鉄局に提案した事がありましたが、そのうちに「しろやま」が廃止されたので---



投稿者 仙コリ(管理人)
投稿日 2009年 4月 4日(土)09時34分17秒
タイトル Re:迂回運転
bell様
大阪駅の迂回運転についてご教示ありがとうございます。
2レの晩年は日常的に北方貨物線経由だったのですね。
もっとも北方貨物線は大阪駅を通らずに通過する貨物列車用のバイパス路線ですから、大阪駅通過扱い
(実際にはほとんどの列車が運転停車)の夜行列車においても、迂回路というよりも短絡路線として
使用する事も出来たのですよね。
(「あさかぜ」設定時に深夜の通過に反対した関西に対して、国鉄本社側が北方貨物線経由でも運転する
という話も出たのは有名な話ですよね)



投稿者 尼港線
投稿日 2009年 4月 4日(土)12時14分3秒
タイトル 旧型客車時代の国鉄尼崎駅
> マロネロ38様
古い時代は私の年代的に存じませんが、昭和50年前後でしたら確か急行「丹波」が数本、
尼崎に停車していたように記憶します。
篠山や豊岡方面の兵庫県下の中小都市と、県庁所在地の神戸市との間の交通の便を考えた措置でありましょうか。
快速も通過する駅なのに…と子供心に不思議に思っていたものです。

旧型客車が最後の活躍をしていた頃の国鉄尼崎駅は、周囲が工業地帯で、日中は閑散とした実に淋しい駅でした
(尼崎の中心地は江戸時代から阪神尼崎駅周辺です)。快速通過も当然だったでしょう。
今や一大ジャンクションに成長し、駅周辺も再開発で面目を一新した姿を見るにつけ、
福知山線の客レが到着しても誰一人乗り降りしなかった昔を思い出し、隔世の感にひたっております。

なお、ご無沙汰している間に、私のHNにも関係する「尼港線」が話題に上っていたようですが、
「金楽寺線」という俗称も、ごく限られた範囲ではありましょうが、確かに存在しておりました。
私も尼崎市在住の友人から耳にしたことがあります。
尼崎港駅が工場従業員専用に近かったのに対し、金楽寺駅は住宅街の中でしたので、まだ日常的な利用があったのでしょう。
駅周辺では「金楽寺線」という呼ぶ向きがあったようです。



投稿者 ED76109
投稿日 2009年 4月 4日(土)14時25分52秒
タイトル 有珠山噴火もありました
 失礼致します。昨日の職場歓迎会のアルコールがやっと抜け落ちた「ED76109」であります。

 話題は、「大阪駅周辺の迂回運転」で賑わっているようでありますが、
当地では平成12年の4月〜5月にかけての「有珠山噴火」に係る「山線迂回運転」が印象的でした。
小生、実はあの日に「はまなす→白鳥→あかつき」というコースで九州への「乗り鉄」へ出発する計画をしており、
21時すぎの「札幌」で途方に暮れた苦い記憶が・・・。
 それでは、今回は「鉄」親父が経験した「迂回運転」を主に「戯言」を述べさせていただきます。
前述しましたが、何しろ「なは・日向」で「伯備・芸備線迂回」を経験するなど、強運(?!)の持ち主のようです・・・。

 1 平成10年の初秋に全国的な集中豪雨禍の中、東北本線の栃木・福島県境付近の道床が流失して、
約1ヶ月間不通となりました。
「鉄」親父たちはちょうどこの時、9月の連休を使って小生の「自宅」を訪れることにしていたのですが、
「北斗星3・4号」が「常磐線経由」で運転されるとのことで予定通り渡道。
阿寒湖など道東を楽しんで帰京する折、「札幌」で見送る小生に、
「久しぶりの『広野原』と太平洋がたのしみだなぁ。」と一言。
翌日の夜の「鉄」親父からの電話では、「久しぶりの常磐線の客レは最高だったぁ!」。
小生が切歯扼腕して受話器を置いたのは、言うまでもありません。

 2 北海道では、小学校の運動会は「5月〜6月」の爽やかな風の中で開催されます。
平成12年の5月中旬、子供らの運動会が開催されて孫たちの姿をビデオに収めようと「鉄」親父たちがやってきました。
ちょうどこの時期は、件の有珠山噴火で「カシオペア」は「山線経由」で運転されており、
再生中の愚息の徒競走のビデオを肴に「明日は快晴のようだから、『羊蹄山』が見えればなぁ。」と一言。
1ヶ月後、自宅宛に「運動会ビデオ」が送られましたが、
「カシオペア」の車窓からの「張碓」や「羊蹄山」の「山線風景」が付録編として描かれておりました。

 3 先達の皆様方にはご承知のこととは存じますが、件の「有珠山噴火」の「山線迂回」の折は
「貨物」も迂回運転する羽目となり、撤去した交換施設を「目名」で復活させるなど大わらわ。
そんな中、「札幌」のみどりの窓口で目にしたポスターには、「今後の運転予定」が盛り込まれておりました。
そこには「7月以降の予定欄」に上下「エルム号のダイヤ」が掲載されていました。
そのダイヤは、下りが「倶知安12時30分→小樽13時40分→札幌14時50分頃」。
上りが「小樽20時10分頃→倶知安21時20分頃→長万部0時頃・・・→上野14時30分頃」。
実際には、6月初旬に平常ダイヤに戻りましたので「山線経由のエルム号」は幻となってしまいました。

 長々と失礼致しました。以上、「中年客車鉄ちゃん」でございました。



投稿者 仙コリ(管理人)
投稿日 2009年 4月 4日(土)20時18分49秒
タイトル 方向転換のページ追加
先日公開しました「特急列車の方向転換のページ」に「かもめ」「はつかり」を追加しました。
そこで皆様にお伺いしたいのですが、手持ちの資料では「はつかり」の上野駅、及び青森駅での
方向転換に関する機関車の連結方法(連結向き・推進運転の有無)がわかりませんでしたので、
当時の状況をお知りの方がいらっしゃいましたら、ご教示いただけると助かります。
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投稿者 _汽車ぽっぽ
投稿日 2009年 4月 4日(土)21時18分19秒
タイトル 寝台特急富士・はやぶさ号の編成番号の件
寝台特急富士・はやぶさ号の編成番号の件。
いつも回覧しています。
突然ですがちょっと質問があります。
2月25日に東京駅に行った方で
その編成番号の全体がわかる方いらっしゃいますか?
私がメモした番号では
富士号側の編成です。
スハネフ14−6+オハネ15−1102+オハネ15−6+オハネ15−2004+オロネ15−3001
+スハネフ15−2(大分駅側)EF66 53/EF81411/ED76 90
でした。
残りのはやぶさ号についてはスハネフ14−101しか記憶がありません。
知っている方いらっしゃるでしょうか?
ではでは
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投稿者 クモイ103
投稿日 2009年 4月 4日(土)22時22分53秒
タイトル 「はつかり」の方向転換
仙コリ(管理人)様
 「はつかり」の方向転換に関する記述を見つけましたのでご報告します。
 イカロス出版「jtrain」vol.6(2002年6月20日発行)「上野駅ものがたり」(文/梅原淳)に、
下記の記述がありました。

〜引用〜
上野に到着した「はつかり」は推進回送で尾久客車区に回送され、ここで一夜を過ごす。
翌日、尾久区から田端操車場に渡り線を通って入線。
ここで蒸気機関車をバック運転させて常磐貨物線に入り、隅田川貨物駅に行く。
ここで機回しを行い、今度は上野方を先頭に出発する。
上野に到着すると、機関車と客車とは切り離され、牽引機であるC62が尾久から回送されてくる。
このC62も当然、バック運転だ。
〜引用終わり〜

 これによると、下り列車の上野駅据え付けは、1レ牽引機でなく入れ換え機が担当していたようですね。
そういえばおぼろげな記憶ですが、どこかの本で、隅田川貨物駅に入線した「はつかり」編成の上野方先頭に
C57が立っている写真を見たような覚えがあります。
(実はその写真を探していて見つからず、代わりに上記の文章を発見した次第…(^^;)

 赤まんと様のテリトリーかと思いますが、尾久客車区と田端操車場は公道1本を挟んで隣接しており、
その道を横切る渡り線で結ばれています。
ただ、たしか昔は左右両方向の渡り線があったような気がするのですが、
今では片方だけになっているようですね…?(記憶あやふやm(_ _)m)。



投稿者 仙コリ(管理人)
投稿日 2009年 4月 4日(土)23時00分7秒
タイトル Re:「はつかり」の方向転換
クモイ103様
早速のご教示ありがとうございました。
てっきり「はつかり」の上野駅への入線は、推進運転による回送だと思っていたのですが、
思っていた以上に複雑な回送方法だったようですね。
早速解説ページを訂正させていただきました。
本当にありがとうございました。

引き続き、青森駅での回送方法の詳細をお知りの方の書き込みを期待しております。
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投稿者 クモイ103
投稿日 2009年 4月 5日(日)08時56分42秒
タイトル 西日暮里駅
仙コリ(管理人)様
 早速の反映ありがとうございます。
 ところで細かいことですが、図中にある西日暮里駅は昭和46(1971)年の開設で、
客車「はつかり」運転当時は存在しませんでした。その旨注記されると良いように思います。

 余談ですが、西日暮里駅は営団地下鉄(現・東京メトロ)千代田線との接続のために設けられたもので、
日暮里駅からわずか500mという距離が、御徒町−上野間の550mよりも短い山手線・京浜東北線の最短区間ということで
当時話題となりました。
 開業日の昭和46年4月20日は、京浜東北線から73系電車が撤退し新性能化が完了したダイヤ改正時でした。
工事もほぼ完成した開業前の西日暮里駅を、引退間近の73系が通過するシーンを、
やはりどこかの本で見たことがあるのですが、それもちょっと探したけれど見つかりません(自爆)。



投稿者 仙コリ(管理人)
投稿日 2009年 4月 5日(日)10時12分6秒
タイトル Re:西日暮里駅
クモイ103様
西日暮里駅についてのご指摘、ありがとうございました。
現在の地図をベースに昔の航空写真等を参考に作成したもので、当時存在しなかった駅などの
誤掲載が生じてしまいました。
こういった資料の作成時には時代考証をしっかりしないといけませんね…反省
他にも間違い等が存在するかもしれません…
間違いがありましたらご指摘いただければ幸いです。
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投稿者 マロネロ38
投稿日 2009年 4月 5日(日)10時19分6秒
タイトル 尼崎停車の急行
尼港線様:
「丹波」でしたか--もう時刻表も無いですし記憶が曖昧で−−ご教示有難う御座います。
「金楽寺線」は不幸にも聞いた事がありません。私は北部の住人なのでその辺疎
かったのです。
「金楽寺」は片ホームで駅員無配置駅でした。戦後は通称「尼港線」が旧型客車
それも「雑型」の宝庫でした。(加古川線も同様)一度スハフ29500→28800系の
客車(「桜」用のスハ33と同じ一方向き2人掛けシート)の木造車に尼崎→塚口間
乗車の経験があります。(昭和23-24年頃でした)。話に聞いていた、「2人掛け一
方向シート」とはこの事か?と知った次第です。混合列車はC11、貨物列車は8620
牽引でした。東海道本線との連絡は川辺馬車鉄道や摂津鉄道時代の「長洲」の位置に
阪鶴鉄道時代に築堤が造られた上の「尼崎昇降場」(後年)で、元が「神崎」だった
からか、国鉄部内では「ドテカン」(土手上の神崎駅)と呼ばれていました。
尼港線様にお尋ねしますが、地元の私よりも相当年配の歴史家の人が、「尼港
線にジハが運転されていた」と言い張って居られますが、私は見ていませんので
本当だったのかご存知でなら教えて下されば幸いです。



投稿者 雑魚
投稿日 2009年 4月 5日(日)15時58分39秒
タイトル 「北斗星」 の常磐線迂回
▼尼港線様:
>「金楽寺線」という俗称も(中略)確かに存在しておりました。

マロネロ38様の御指摘に、若しかして塚口の知人に担がれたかと案じておりましたが、
安堵致しました(^^)東海道線と直接の接点を持たない線形は、南武線浜川崎支線を
連想しますが(尤も、東京貨物ターミナルに至る東海道貨物線は、浜川崎経由ですね)
ここを往来した貨物列車は、専ら、宝塚や福知山方面の発着だったのでしょうか。

貨物列車の設定区間によっては、1956年の塚口電化が、特急編成の引上げ目的以外の
必然性を伴った可能性が捨て切れないと感じております。その一方、件の部分電化が、
旅客運用外の便宜上の理由に拠る以上、施設態様も、例えば大糸線の信濃大町以北で
見られた「バタヤ電化」よろしく、御手軽な仕様では無かったのか、とも勘繰ります。

一連の御話から、尼崎の街との位置関係を見れば、主要地区はあくまで阪神駅界隈で、
国鉄駅は、全くの「街外れ」だった様ですね。この種の「国私関係」は、畿内ですと、
今や政令指定都市となった大阪府堺市も該当するでしょうか。

▼ED76 109様:
> 平成10年の初秋に全国的な集中豪雨禍の中(中略)約 1ヶ月間不通となりました。

普段は実に大人しい余笹川が、まさかの大氾濫を起こした前日の夕方、私はたまたま
大子方面に赴いたのですが、那須方向を見ると、稲妻が幾重にも落ちるという、恰も
映画の場面を思わせる様な、不気味な空模様だった事を、今でも明瞭に覚えています。

>「久しぶりの常磐線の客レは最高だったぁ!」

海がそこそこ見える分、車窓風景におけるアドバンテージがあったでしょうね。一方、
臨海県民の分際で「白砂青松」以上に「山紫水明」を好む私としては、仙台方面から
常磐線で帰る際、駅を出て暫く並走区間が続くなど「勿体を付ける」岩沼の分岐点を
通過する度、去り行く東北線を見つつ「あっちに乗りてぇなぁ」と嘆息するのでした。

件の「北斗星」迂回が行われた当時、デジカメ導入前だった事もあり、写真撮影には
無頓着でして、今頃になって、映像記録を残して置かなかった事が歯痒いばかりです。
そんな思いを込めて(^^)一昨年、常磐線で撮影した「夢空間」の写真をひとつ。

以上、子供が与する学校行事の父兄参加を女房に押付け、客レ団臨の撮影に奔走した
前科を持つ(^^)雑魚でした。




 
 
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