倶楽部メモ(487)
平成21年 1月24日〜 1月29日



投稿者 雑魚
投稿日 2009年 1月24日(土)13時12分44秒
タイトル ダイヤ大改正号之弐?
こちらの時刻表、付録は何にしましょうか(^^)なお画像の列車が、前記「ゲレンデ
蔵王」の回送便です。




投稿者 ED76109
投稿日 2009年 1月25日(日)09時32分12秒
タイトル 夢の「日英共同きっぷ」?!
  お寒うございます。今朝のの最低気温が「−10.8℃」の「ED76109」であります。

 雑魚様及びマロネロ38様

 現在でも、「満州里」では台車交換を実施しております。
「中国国鉄」は「標準軌(1,435o)」であるのに対し、「シベリア鉄道」は「広軌(1,524o)」。
「中ソ紛争」の頃は、直接的な軍事行動の「足かせ」でしたが、現在では両国の鉄道関係者の「懸案事項」のようであります。
(終日、大量の貨物の台車交換で大わらわなのだそうです)
 そこで上記に係り、「大陸連絡」のことを「釈迦に説法」(!?)させていただきます。
戦前の「昭和10年代」は以下のようなルートで「東欧・西欧」へのルートが開設されていました。

 (1日目) 東京 15時    (「富士・1レ」)
  (2日目) 下関  9時30分/10時30分(関釜航路)
           釜山 18時   /19時20分(「ひかり」)
  (3日目) 新京 21時 〜
 (12日目)モスクワ 17時 〜
 (14日目)ベルリン 9時23分 〜
 (15日目)パリ 6時43分 〜  ローマ  9時
               〜 ロンドン 16時55分

 東京・ロンドン間(13,645q)の運賃は、「1等 795円」「2等 560円」「3等 390円」。
当時の銀行員の初任給が「70円」だそうですので、「3等」であっても現在のレートでは・・・。
「永井荷風」ではありませんが、「ロンドンは余りに遠し」だった訳であります。
ところで、現在販売されている「日韓共同きっぷ」は、当地「JR北海道」では発売しておりませんが、
販売当時は「北斗のハザ・日本海のハネ・ひかりのハザ」で「博多」までのルートが設定されておりました。
世界平和の構築の暁には、「日英共同きっぷ」で「ロンドン」まで「鉄」したいものであります。
蛇足ですが、試算すると「東京・ロンドン間(片道普通)」は「70日間有効?・約12万円程度?」でしょうか。

 参考資料 「JTBキャンブック 昭和を走った列車物語 第2話「国際連絡列車」」

 523レ様
 >青森ではつかり、みちのく、白鳥と13連の特急が3本も並んでいたのは壮観でした
  御意。前述しましたが、昭和48年の春に小生も初めて、この光景を目の当たりにして筆舌に尽くしがたい感動を憶えました。
 「鉄道の黄金時代」の象徴の一つであると考えます。先達の方々も同様の思いがお有りになると小生は想像いたしますが・・・。
 ちなみに「はつかり1号」は「2M」、「みちのく」は「12M」、「白鳥」は「4002M」であります。

 長々と失礼致しました。以上、温故知新の「中年客車鉄ちゃん」でした。



投稿者 仙コリ(管理人)
投稿日 2009年 1月25日(日)12時05分46秒
タイトル 列車番号変遷一覧を作成しました
少し前に話題になっていました列車番号の変遷についての一覧表を作成し「客車資料館」に掲載しました。
皆様の話題の参考になれば幸いです。
とりあえず東京駅始発・上野駅始発の列車と青函連絡船一桁便の連絡列車を掲載しましたが、今後掲載駅等を
増やす予定でいます。
また、変遷とはいいながら手持ちの時刻表が数冊しかないため、掲載年月についてはその時点でのデータであり、
その年月に変更があったわけではないという一覧表となってしまったこと、ご了承ください。



投稿者 クモイ103
投稿日 2009年 1月25日(日)19時47分37秒
タイトル Re:列車番号変遷一覧を作成しました
仙コリ(管理人)様

 面白い企画ですね。これまでこういう視点の変遷表は見たことがありません。
列番マニア(笑)としては目からウロコです。ありがとうございました。

 さて、ちょっとの間に話が進んでしまい、出遅れ感バリバリですが(^^;、
とりあえず連絡船がらみの列番について一言だけ。
 鉄道連絡航路は「線路の延長」、船便は「列車の延長」ですから、
便番号が接続列車の番号を継承するのは、きわめて自然なことと理解できます。
末期の青函航路では夜行便以外21〜の独自体系になってしまったと記憶していますが、
時代を遡れば、確実に接続する優等列車の列番になっていました。
 1M〜1便〜1Dは有名でしたが、青森で2001D「白鳥」が合流することにも、私は注目していました。
当時は併結列車から分割された付属編成側に2000番台の列車番号が付されていましたから
(例:1レ「さくら」から肥前山口で分割された佐世保行きは2001レ)、
この「白鳥」はあたかも「上野発釧路行き1列車に青森から併結される大阪発の付属編成」のようだと思っていました。
実際、のちに分割列車の付属編成が4000番台をとるように改正された時、
同時に「白鳥」も4001Dとなりましたので、ますますその思いを強くしたものです。
 今では遠く思いを馳せるばかりとなった船車接続の連絡便、
私にとってその極めつけは、函館発稚内桟橋行き急行1レ〜稚泊航路1便ですね。



投稿者 ED76109
投稿日 2009年 1月27日(火)00時09分53秒
タイトル 悲劇の航路、そして鉄路・・・
 失礼致します。「ED76109」でございます。

 道立図書館での「鉄資料」の読み漁りから、「樺太の鉄路」について興味を抱いたことがありました。
「クモイ103様」の書き込みに刺激されまして、「戯言」調で少し述べさせて頂きます。
(先達の皆様方には、いつものように「釈迦に説法」でありましょうが・・・)

  「稚泊航路」は、大正12年5月に開設され、昭和13年10月「稚内桟橋駅」開業(稚内港駅構内の仮乗降場扱い)、
そして昭和20年8月24日に約4500名の引き揚げ者が命からがら「稚内桟橋」へ帰還したのを最後に、
約23年間の運行を終えました。
通年、毎日「亜庭丸・宗谷丸」の2船が一往復ずつ、約8時間で稚内・大泊両都市を結んでおり、
春の「鯡漁、開拓」、秋の「林業」時期が繁忙期だったようです。
しかし、自然の厳しさは「青函航路」の比ではなく、厳冬期の「流氷」には悩まされることが多々あり、
連絡船には常時3週間分の食糧が備蓄され、「天候悪化により4時間以上の遅延」の場合は無償食が乗客全員に配付されました。
(約6日間の立ち往生や上り便が「小樽」、「留萌」の港へ迂回した例も)

 「樺太の鉄路」は、明治以降、日本陸軍が開発に携わり、昭和19年度の段階で「樺太鉄道管理局」の下、
「樺太東線」及び「樺太西線」の2線(狭軌1,067o)を中心に「約650q前後の鉄路」が南北を中心にに延びておりました。
(「宝台ループ線」で有名な「豊真線」も含みます)
特に、「樺太東線」は「大泊港」から旧ソ連との国境の「古屯(ことん)」まで、全長414.7qの長大線。
途中の「敷香(軍事的理由によりスイッチバック駅)」や「上敷香」まで330q以上に及ぶ
「長距離普通列車(1〜4レ・『大泊港・敷香』には夜行列車も)」が設定され、約12〜13時間で結んでいたのであります。

 参考資料 「稚泊連絡船史(青函鉄道管理局編)」
      「北海道の鉄道(田中和夫編)」

  しかし「樺太の航路・鉄路」は、ご存じのように昭和20年8月の「旧ソ連軍」の侵攻で、甚大な被害を被ることとなり、
略奪や暴行などで多くの日本人が命を落とすなど、
終戦後にも拘わらず樺太各地で最悪の悲劇が展開されてしまったわけであります。
詳細は「故三浦綾子」さんの「天北原野」等でも紹介されており、思わず襟を正される思いに駆られます。
改めて、全ての犠牲者の方々に心から哀悼の意を表するものであります。

 長々と失礼致しました。以上、「中年客車鉄ちゃん」でした。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2009年 1月27日(火)10時44分48秒
タイトル 稚内急行
最初201-202レで長万部から室蘭本線経由で岩見沢から函館本線に戻るルート
で(長万部解結の札幌行併結)、昭和12年6月1日から1-2レで小樽経由に
ルート変更ではなかったでしょうか?
普通305-306レが室蘭本線経由でロネ(多分マロネロ37)連結。
201-202レ時代は「夏ダイヤ冬ダイヤ」で上りが204レになって、稚内6.30−函館23.37
(4月17日から運転で202レは4月15日でウヤ)→昭和11年4月号「汽車汽船旅行案内」より。
「亜庭丸」は青函連絡船が爆撃で全滅した後青函へ応援に来て、これもまた撃沈され
たので残ったのは「宗谷丸」だけでした。戦後「洞爺丸」型が出来てからも「宗谷丸」
は急行連絡ではない便に使われていた様でした(一時石炭運搬船に使用)。



投稿者 雑魚
投稿日 2009年 1月27日(火)14時50分37秒
タイトル 週末の痛恨
稚泊航路については、以前、本掲示板で紹介申し上げ、クモイ 103様からも御好評を
頂きました「天翔艦隊」なる頁の「文書資料室」に「最果ての海に」と題して、実に
詳細な特集記事があり、私も、これを読んで襟を正しました。改めて、御参考までに。

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かれこれ一年半振りに、栃木県内にて「北斗星」を撮影しました。意外に纏めにくい
日光連山を絡めての「苦肉の」構図も、概ね妥協できるもので、間合運用元の「ML
えちご」の不定期化で、趨勢が些か案じられる「フェアーウェイ」も「こだま色」で
しっかり撮影。満足して水戸に戻った直後に、その日「こがね」を用いた、超レアな
臨時便が、水郡線で運転された事を知り、頭の中が真っ白け………

その晩は、赤提灯で自棄酒を五合ほど呷りました(^^)




投稿者 クモイ103
投稿日 2009年 1月27日(火)22時20分50秒
タイトル 稚泊航路のこと
〜引用〜
 稚泊航路の運航を特徴づけるものは2隻の船による1日1往復であり,夏期運航と冬期運航とに区分されていたことである。
1船休航の場合は最大の輸送体制をとったにしても,残る1隻の船による1日1往復が限度であり,
それは荷役時間に費やされたためである。
冬期・夏期の区分は流氷・結氷という国鉄航路の中でもまったく異質な自然条件の制約下におかれたためである。
しかも,なお細見すれば,冬季の砕氷航海のため昼間運航せざるを得なかった一面も,運航増をはばむ一因をなしていた。
壱岐丸1隻の夏期の隔日運航から始まった稚泊航路は,亜庭丸・宗谷丸という新鋭砕氷船に切り替えられてから,
逐次運航形態を変え,樺太島民の強い要望もその形を変えた。
また戦争の落とし子,浮遊機雷・潜水艦が運航の形態をゆがめたこともあった。
大正12年に始まり昭和20年に終った当航路は,こうした自然と社会的要望および戦争という環境の中で,
その時代の様相,船腹の推移によって運航の形態を適応させてきた。
〜引用終わり〜

 …以上は、ED76109様が挙げられ、また雑魚様がご紹介下さったサイト「天翔艦隊」でも
参考文献の筆頭に挙げられている「稚泊連絡船史」の記述です(長くてすみません)。

 当航路の片道所要時間は、夏期8時間・冬期9時間(のち冬期も8時間)でした。
1隻が1日1往復する場合は荷役時間の制約から貨物積載量を制限したとの記述もある事から、
2船が一往復ずつという事は無かったと思われます。
それどころか、冬期は2隻合わせての隔日運航すら、氷に阻まれておぼつかない事もあったようです。

 短期間の応援的なものを除き、当航路の本格的な就航船と言えるのは、
初期が元関釜連絡船の壱岐丸・対馬丸(共に初代)、のち亜庭丸・宗谷丸でした。
 前2者は、転属に伴い船首を砕氷構造に改造したとはいえ「中古」でしたが、
後2者は、はじめから当航路用に建造された新鋭砕氷船でした。
新旧交代の過渡期、例年にない大寒波に見舞われた昭和6年冬、
氷に閉じ込められ身動きがとれなくなった壱岐丸の乗客を、新鋭・亜庭丸が救出する場面もあったようです。
 現在、大宮の鉄道博物館に、鉄道記念物「壱岐丸の号鐘」と、亜庭丸の模型が展示されています。

 なお、結果的に当航路の最終便となった昭和20年8月23日大泊発の宗谷丸の運航に関し、
サイト「天翔艦隊」では
「この日ソ連軍からは海上航行禁止令が出ており、危険を承知での航海であった」と述べられていますが、
「稚泊連絡船史」の記述ではちょっとニュアンスが違います。
 宗谷丸の福井船長が武官府に赴いて出港の可否をたずねたところ
『ソ連側では8月24日18時までは定期船の航行は認めるが,定期船以外で物資を取りにくる船は認めないと言っているんです』
との返答があり、またその直前の大泊入港時に宗谷丸の通過後別の貨物船が襲撃されたが宗谷丸は攻撃されなかったことから、
ソ連側が宗谷丸を定期船と認めて攻撃しなかったのだろうと信用して、
正規の定期コースを電灯をこうこうとつけて走ってきた…とのことです。
これは福井船長自身による回想談話として記述されています。

>マロネロ38様
 戦前のダイヤのことは殆ど資料を持っておらず、勉強になります。

 写真は昭和62(1987)年5月2日撮影、稚内駅から稚内桟橋駅へと続いていた線路の踏切跡です。
さすがに今はもう無いと思いますが…




投稿者 マロネロ38
投稿日 2009年 1月28日(水)11時51分37秒
タイトル 壱岐丸、對馬丸
稚泊航路の「對馬丸」は遭難して解体?されたと聴きましたが(流氷被害)本当で
すか?
それからスハ32の樺太型式スハ2652(円屋根)が実際に樺太へ行った事がピクとリア
ルのスハ32型特集(1)に出ています。恐らくは樺太東線の長距離に使われたと想い
ます。
客車については内地からどれだけ樺太へ行ったのか?余り資料が無いみたいですが、
スロネ37みたいな廃車体を写してきた人が居ます。(W屋根)仙コリさん樺太へ行った
客車についてお解りならご教示ください。



投稿者 雑魚
投稿日 2009年 1月28日(水)15時59分13秒
タイトル 利礼 ドーム
▼クモイ 103様:
> 稚内駅から稚内桟橋駅へと続いていた線路の踏切跡です。

いわゆる「利礼ドーム」ですね。産業考古学上は貴重な遺構なので「汽車みち」こと
横浜の高島貨物線跡と同様、盤木を敷き詰めた遊歩道に改めるなどの方法で、線路を
残して欲しかった様に思います。

稚内駅は現在、機回し不可の構造と見受けられます。これは「宗谷」「天北」に少し
遅れ「利尻」が気動車化された91年以降、構内配線が縮小されたという事でしょうか。

画像は「汽車みち」を「ランドマーク・タワー」から俯瞰した様子です。線路自体は、
桜木町駅近くから 赤レンガ倉庫手前まで、僅かな距離ですが(その他「横浜税関前」
および「山下橋」それぞれの交差点付近で、断片的に残存)大岡川河口付近の築堤は、
なかなか好ましい雰囲気。かつてここを「ボート・トレイン」が行き交ったと思うと、
感慨を覚えますね。なお「ウィキペディア」によると、59年の記録として、鶴見での
運転停車中に、電機・蒸機の付け替えが行われたそうです。

それにしても、線路の敷設部位がかなり偏った印象です。元々、こうした仕様なのか、
あるいは、複線区間の名残りなのか、ちょっとした謎です。

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残念ながら、私の「先取り感覚」が表紙には反映されなかった時刻表(^^)最新号の
優等列車に関する改正速報欄を見ると「MLえちご」と、間合「フェアーウェイ」の
運転日に食い違いが見られます。もしや、後者は、貴重な「こだま色」である「新潟
K編成」の運用ではなくなるのかと、いさか案じております。

件の時刻表の表紙写真は、小田原手前で遠くに富士山を絡め、ブルトレを狙うと云う、
初めて見る構図でした。これに肖って、今週末辺り、三脚組が多数出没しそうですね。




投稿者 スイロフ
投稿日 2009年 1月28日(水)21時26分54秒
タイトル Re: 利礼ドーム
皆様今晩は。
前にどこかに出したかもしれないのですが、1978年8月の夕方に訪れた時の写真です。
C55の両端に車がかぶっていたのが惜しい...




投稿者 ED76109
投稿日 2009年 1月28日(水)22時49分9秒
タイトル 201レ→?便→1レ→1便
  おばんでございます。「ED76109」でございます。

 マロネロ38様及びクモイ103様
 件の「1レ」についてでありますが、宮脇俊三氏の「時刻表昭和史(角川書店編)」の「第8章」に
「昭和17年8月」時点での乗車記録が記されております。
その中では、始発駅の「函館」で「二等車」も「二等寝台車」もほぼも満席状態であったがために、
二等寝台車に併設された「ロビー室」を占拠していた陸軍将校たちに、
宮脇氏の父上殿が一喝して座席に腰を下ろすといったエピソードや
「食堂車」で食べた「鮭フライ定食」の美味さなどが紹介されています。
 なお、同書には、JTB版「鉄道省編纂時間表(昭和17年9月号)」の「函館本線下り」の一部が抄録されており、
「上野19時発常磐線回り青森行(201レ)」に接続する「青函連絡船」の時刻が省略されて掲載。(実際は8時15分発)
また、「クモイ103様」には「釈迦に説法」でしょうが、
「上野19時発の201レ」〜「青森8時15分発の青函便」〜「函館13時25分発の1レ」のルートにより、
「大泊着」は「上野発の翌々日16時50分着」。
「上野〜北海道・樺太最短ルート」が確立されていたわけであります。
 また、当時の「201レ」は、「上野・青森」を12時間45分(表定速度58.8q)で結んでいた花形急行であり、
寝台券等の購入は至難の業。
一方、「1レ」も「札幌19時55分着」と時間帯が恵まれており、まさしく「黄金ルート」の一角を形成しておりました。
時代的には、戦火が拡大していた頃合いでありましょうが、
また一方では戦前における鉄路の充実期だったわけでもあります。

 長々と失礼致しました。
以上、学生時代は「国文科」ではなく、「地理学科」へ進みたかった「中年客車鉄ちゃん」でした。



投稿者 クモイ103
投稿日 2009年 1月28日(水)23時47分4秒
タイトル Re: 壱岐丸、對馬丸
>マロネロ38様
> 稚泊航路の「對馬丸」は遭難して解体?されたと聴きましたが(流氷被害)本当ですか?

…流氷ではなく、吹雪での視界不良による座礁だったようです。
 大正14(1925)年12月17日、対馬丸は上り便として9:50に大泊を出港し稚内に向かいました。
しかし行程半ばを過ぎ宗谷海峡にさしかかる頃から、吹雪に視界を奪われてしまいました。
当時は今のような航海計器が発達しておらず、対馬丸は自分の位置を見失い、結果的に西への潮流に流されて、
17:15、野寒(のさっぷ)岬灯台北西1.3km沖の暗礁に乗り揚げてしまったのです。
 乗客188人と乗組員は全員無事に救出されましたが、
これは鉄道無線が人命救助の手配に活躍した最初の事例だったとのことです。
 一方、対馬丸は、天候不良で船体救助作業に着手できないでいる間に、
中央部から折れて海面下に没してしまい、放棄するのやむなきに至りました。
北緯45度26.8分、東経141度38.4分、厳寒の海中に、対馬丸は今も眠っているのですね。
(参考文献:「鉄道連絡船100年の航跡」、「稚泊連絡船史」、「北海道鉄道百年史(中)」)

>スイロフ様
 私も一応撮っていますが(↓)、こちらも航路記念碑にクルマが…(泣)

>ED76109様
 上野から48時間以内に大泊へ到着できたわけですね。
 青函トンネルが無かった頃、東京から北海道内各地への距離感覚は実感としてつかめず、
頭の中の「物差し」は、津軽海峡でぶっつり切れていました。
「北斗星」が「あさかぜ」とほぼ同じ距離を同じ所要時間で結ぶのを見て、
初めて博多と札幌が東京から同じ距離なんだなと実感できたものです。
 そういうわけで、さらにもう一つ海峡を隔てた樺太となると、もう手に負えません。
東京からの距離感覚としては、まあ沖縄くらい?なのでしょうけれど…




投稿者 マロネロ38
投稿日 2009年 1月29日(木)10時08分32秒
タイトル 對馬丸の遭難
クモイ103様
ご教示有難う御座います。座礁委付でしたか?(鉄道省なら保険が掛から無かったか
ら放棄)ですね。無線が装置されて居たのが幸いで、(...−−−...)の連続発信で。
明治36年のNYK青函航路「東海丸」の悲劇見たいなのが起こらずせめてもの幸いだったでしょう。
また8620型が昭和18-19年に合計23両も宗谷海峡を渡っているのですね。C56103、C56152も19年。
客車については前述のスハ32(円屋根)1両と
戦後サハリンを訪れた方の3軸(TR71?)付きのW屋根2等寝台車と想われる廃車体写真しか解りません。


 
 
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