倶楽部メモ(484)
平成21年 1月13日〜 1月17日



投稿者 マロネロ38
投稿日 2009年 1月13日(火)11時46分28秒
タイトル 函館‐網走、505/506レ
ED76109先生
私が乗ったのは506レでした。
網走:19.40
遠軽:22.58/23.06
旭川発:3.35
札幌発:7.03
函館着:17.35
(25年10月改正で27年もそう変っていなかったと想います)。網走発が19.40は
記憶して居ます。それと網走ホームの蕎麦が「美味しく無かった」事。
オロ31のシート背摺りの詰物がなく、「ビロード」みたいな布張りだった事(青ハコ)。
車番を手帖(鉄道日記?)に書いて居たのですが見つかりませんので惜しい事です。



投稿者 ED76109
投稿日 2009年 1月13日(火)13時04分16秒
タイトル 後年、「マロネロ38」が連結されています!!
 しつこく失礼しております。「ED76109」でございます。

 マロネロ38様
 >私が乗ったのは506レでした

  本当に「釈迦に説法」なのですが、自分の「鉄」勉強のため述べさせていただきます(笑)。
 「マロネロ38様」が乗車された「506レ」は、当時「旭川」から「稚内からの『ハ』3両(内2両は「小樽」まで)」が
 増結されておりました。
 昭和31年11月改正で「ナハネ(小樽・網走)」を連結。
 同33年10月改正で「石北」と命名され、「マロネロ38(!!)」が新たに「小樽・網走」に連結されました。
 そして、同42年10月改正の段階で「ナハネフ10」、「オロハネ10」、「スロ54」等による
 「大雪」の前身的な「姿」となり、翌43年10月改正で「大雪」に統合されて「札幌・網走」の運転となりました。
 小生が、以前記した「ダイヤ」は「42年10月改正」の頃のようです。
 「オロ31のシート背摺りの詰物」については、昨年8月に小生の拙文にあるとおりではないかと思われます。
 しかし、函館直通時代の「宗谷」と「おおとり」に、完乗できなかった小生としては、
 「マロネロ38様」のお話に強い「憧憬と羨望」を抱くものであります。

 長々と失礼しました。以上、授業開始の16日まで「開店休業中」の「中年客車鉄ちゃん」でした。



投稿者 赤まんと
投稿日 2009年 1月13日(火)18時49分30秒
タイトル それはお気の毒です・・・
秋アキ様初めまして。
末期のブルトレ編成記録がライフワークの、赤まんとです。
運休となった列車に乗っていらしたとは、本当にお気の毒です。
さて、運休事由ですが、こちらでは「大雪のため」とテロップが流れていたため、そのように書いて投稿しました。
実際は「風」だったのですね。どちらも厄介ではあります。
さて、書き込んでいただいた編成記録ですが、その後差し替えを生じ、
2号車オハネ25 213が抜け、オハネ24 3が入りました。
最終全検査2008年6月と、ピカピカです。
なお、2号車オハネ24 3、3号車オハネ25 32ともに、「北斗星」のお下がりで、引き戸改造されています。
11日は田端の流れ星94号機が引きました。運休があったため、
この編成は本来今月偶数日上野発になるはずのもので、ズレが生じています。
12日の編成は青森の137号機が担当しました。

さて、そんな私は昨日から今日にかけ「はやぶさ」上り列車にお名残乗車してきました。
開放B寝台の乗車率は「はやぶさ」67.2%、「富士」49.6%と、案外奮いませんでした。
ほとんどはお名残乗車組で、みなせわしく車内を動き回り、あちこちでシャッター音が聞こえ、という状況でした。
九州内は白いものが舞う天気で、門司、下関は霙が強風とともに吹き付ける状況。
「北陸」ではよく見かける14系の床下雪化粧ですが、九州ブルトレで見るのは珍しく、何やら新鮮でした。
瀬戸内海に沿って快走する頃には月が見えたので、おおかた途中で溶けてしまったと思います。
ほんのうっすら程度でしたし。
当たった車両はオハネ15 1122で、生粋の14系ではなかったのがやや残念でしたが、
9月に検査を上がったばかりのきれいな外観だったのと、定時運転だったのが何よりでした。
もう一回連休が取れれば、「富士」にも、と思っていますが、はたして実現するか、微妙です。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2009年 1月14日(水)13時06分30秒
タイトル 石北
ED76109先生
マロネロ38は--385、389、3810だった筈です。内385、3810は蛍光灯照明に改造
されていた記録があります。オロハネ10は10501-10504ですね。



投稿者 ED76109
投稿日 2009年 1月14日(水)20時51分14秒
タイトル 「マロネロ38」の晩年は「利尻」です!
 旅に出られない「ストレス」を書き込みではらしている「ED76109」でございます。

 マロネロ38様
 またまた、「釈迦に説法」ですが・・・(笑)。
「マロネロ38」は、昭和11〜14年に製造された「2等寝台・2等座席合造車」の「マロネロ37」の改番車。
「トカホセ」の急行等に運用の後、同28年に「マロネロ38」となり、
同33年に「石北」の前身である準急に運用が開始されております。
その後、同35〜36年に「マロネロ38様」のお話にあるように蛍光灯照明に改造され、
同41年「準急利尻」を最後に廃車となっております。
 また、「オロハネ10」は昭和32〜33年に製造された「ナロハネ10」の改番車。
冷房化改造が施されて「オロハネ10」となり、501〜504が寒冷地改造により、
「マロネロ38」の後継車両として「利尻」「大雪」に運用されたわけであります。
小生、昭和48年に「鉄」親父と「上り利尻」の「B寝台」にお世話になり、
梯子で上段にやっと潜り込んだ記憶があります。
出入口が車両中央に設置されておりました。
 一方「マロネロ38」は、昭和30年代に「鉄」親父が叔父たちと「出水」の叔母宅に遠出した折、
車内に2泊した「さつま」に運用されていたことがあるようで、叔父達はきっと「ハザ」から羨望の眼差しで
「マロネロ38」を眺めていたことだろうと推察しています。
 いずれにしても、「旧客夜行列車全盛期」のお話。
今では味わうことが不可能な旅であり、ある意味「贅沢な汽車旅」ではないでしょうか。

 長々と失礼致しました。以上、「中年客車鉄ちゃん」でした。



投稿者 雑魚
投稿日 2009年 1月15日(木)00時55分11秒
タイトル ニアミス!!!
▼赤まんと様:
> 昨日から今日にかけ「はやぶさ」上り列車にお名残乗車してきました。

多摩川橋梁で、生温かい目で見守っていた私の視線に 気付かれたでしょうか(^^)
この場面が見られるのも、残り60日を切りましたね。廃止までに橋脚付近の工事が
終了して、クリアーな状態で撮れる事を期待しますが、その頃には、三脚組が多数
押し掛けるのでしょうねぇ。




投稿者 マロネロ38
投稿日 2009年 1月15日(木)11時03分48秒
タイトル マロネロ38(37)
ED76109先生
マロネロ37は開戦前に両親と東京見物の帰りに北陸経由で帰り、直江津から508レ?
のマロネロ37の「ロ」に金沢まで乗車と、戦後502レで高岡‐大阪「ロネ」乗車でした。
ナロハネ10は準急「上高地」で初乗車、「ロネ」はオルビットファン天井3ケ所と寝台
の頭の部分に風が当たる「開閉式通風孔」がありました。オロハネ10になってから
「木曾」にロネ、ハネ合計3-4回乗車して居ます。
「銀河」が運転始めて間もなくでしたが、三ノ宮で宮原への回送列車を見たときに
マロネロ37が連結されていましたが、何か運用上の都合か?増結か?だった様です。



投稿者 クモイ103
投稿日 2009年 1月15日(木)22時13分23秒
タイトル 青塗りマロネロ38?
横レス失礼しますm(_ _)m。
マロネロ38様、マロネロ38形式について(ややこしい…笑)ご存知であればお教えいただきたい事があります。
過去にこの掲示板で、昭和41年初頭まで準急「利尻」に使用されていた最後の3両が、青塗りになっていた
との情報がありました。
(「倶楽部メモSP 主な話題」→「特定形式の話題(寝台車・食堂車)」→「青塗り蛍光灯化されていたマロネロ38」)
確かに鉄道ファン第58号(1966年4月号)P.63には、
「このマロネロ38は,当初予定されていなかったが,内部近代化改造および外部ブルー塗装が施されていた」
とあるのですが、この件で、より詳しいことはご存知ありませんか?



投稿者 ED76109
投稿日 2009年 1月15日(木)22時28分18秒
タイトル 「オロハネ10」が「新宿」で見られたのですか・・・
  毎度様でございます。「ED76109」でごさいます。

マロネロ38様
>ナロハネ10は準急「上高地」で初乗車
 毎度の「釈迦に説法」話でございます。(恐縮です。)
「上高地」は、昭和26年4月登場の「準急穂高(新宿・松本、405レ・406レ)」が前身です。
そして、同35年6月に「ナロハネ10」が連結され、同39年10月に冷房改造で「オロハネ10」化されました。
その後、同40年10月に「急行上高地(411レ・412レ)」となり、「松本」から「長野」へと延長され、
同43年10月に「アルプス」に統合されて「EC」へ。
牽引機は「EF13(新宿・松本)」と「DD51(松本・長野)」、客車担当区は「長ナノ」であります。
ひょっとして、冬季は「暖房車」が連結されていたのでしょうか?
 小生の母が、昭和30年代に職場の「月末登山会」で八ヶ岳や立科に行く際の「定番列車」であったようであります。
母は思い出話で、「新宿駅名物のコンコース行列から、
『女性だから』といつも最優先で『ハザ』に座らせてもらっていたよ」と自慢にしておりました。
小生、「鉄」親父と「山」女の息子ですので「鉄ちゃん」になるのは必然であったのかも知れません・・・。
しかし、恥ずかしながら「新宿」に「オロハネ10」が入線していたことを初めて知り、また「鉄」勉強になりました。

 長々と失礼致しました。以上、明日から「後期の授業」が始まる「中年客車鉄ちゃん」でした。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2009年 1月16日(金)10時43分2秒
タイトル 青塗り車
クモイ103様
蛍光灯化(2両)は国鉄発行の「客車型式図」にありますが、「青塗り」は残念
ながら現車を確認して居ませんので、何ともお答えできませんので悪しからずです。
ED76109先生
新宿‐松本間乗車したのは「夏」でしたので、EF13(EF58の車体を貰って乗せ替えた)
の暖房車は昭和40年10月頃新宿最終列車(「山屋列車)のスロハ32に立川から乗車の時に
スヌ?が付いていたのを見ています。オロハネ化後の名古屋‐松本、長野も「夏」でした。
(何しろ大糸線、小海線と戸隠が好きでしたので)



投稿者 マロネロ38
投稿日 2009年 1月16日(金)10時54分51秒
タイトル 準急上高地
連続済みません:
ED76109先生
準急「穂高」ですが、昭和31年夏に新宿から茅野まで乗車したのが「穂高」でした。
オロ40x2が超満員で1時間程まえから並んでいました。新宿発が8.10でした。夜行
は「アルプス」409レ松本‐長野間普通619レに化けた列車では?(ナハネ10連結)



投稿者 雑魚
投稿日 2009年 1月16日(金)16時01分47秒
タイトル スイッチ・バック駅
▼ED76 109様:
> 四国・山陰鈍行紀行の際に「出雲坂根」のスイッチバックを体験。

並行国道のループ橋から、前後の高低差は相当ある様ですね。広島と山陰各地を結び、
最盛期は夜行便も存在した急行「ちどり」の全盛時代に比べると、普通列車が一日に
三往復のみ発着する現在は、あまりに寂しい印象です。

> 山越えではなかったことから「鉄ちゃん」丸出しで周囲をきょろきょろ…。

山越えという程ではないのですが、北宇智駅北方のカーブは、紀ノ川と、奈良盆地を
形成する大和川との分水界となる為、スイッチ・バック構造には、必然性があります。
ATSを巡るトラブルから、一昨年、棒線駅に移行しましたが、旧駅の現況は、一体
どうなっているのやら?

なお、大和川・淀川水系の分水嶺には、関西線の平城山駅や近鉄の高の原駅が位置し、
前者では、奈良電車区に「スイッチ・バック駅」の趣が感じられます。後者界隈では、
県境でもある「稜線」には御構い無しに新興住宅地が広がり「京阪奈」の開発思想が
如実に反映された印象ですね。

>「加太越え」の「中在家信号所のスイッチバック」が小生の記憶にあります。

現在は側線の使用が停止され、事実上の廃止状態ですが、閉塞境界の信号は、なぜか
機能しているそうです。

> 昭和46年の盛夏に訪れて以来、二度再訪しているのが「肥薩線の人吉・吉松」

この区間は急行「えびの」で何度か通過しましたが、超閑散区間の救済措置か、急行
扱いのまま、人吉〜吉松で各駅停車したのが、印象的でしたね。果たして、石勝線の
新夕張〜新得における、特急料金特例措置の類が存在したかどうかは、存じませんが。
それにしても、特急「おおよど」も経由した事績に鑑みるなら、真幸駅はともかくも、
大畑駅のスルー化は、写真を見る限り、容易そうに感じたのですけどねぇ。

画像は、隣接事業所の貨物列車取扱ゆえに、今なお、スイッチ・バック施設が健在な
信越線の二本木です。貨物も出入りするこの種の駅としては、かつての奥羽線板谷も
同様でしたね。




投稿者 ED76109
投稿日 2009年 1月16日(金)23時16分41秒
タイトル 夜行列車のお話です
毎度毎度の「ED76109」でございます。

マロネロ38様
>夜行は「アルプス」409レ松本‐長野間普通619レに化けた列車では?
 マロネロ38様が「穂高」の乗車された当時(昭和31年夏)は、以下のような列車ダイヤ状況だったようです。

 「穂高」・・・夜行準急(新宿・松本)として運行。
 昭和35年4月に「3往復化(内1往復が夜行)」され、同37年昼行便が「アルプス」に改称。
 同40年10月に「EC急行化(新宿・信濃森上)」される。

   「アルプス」・・・夜行準急(新宿・長野)として運行。
 昭和31年4月に「ナハネ10」が連結され、同33年10月「ナロハネ10」へ変更(松本・長野間619及び620レ)。
 そして、同35年4月に「穂高」に改称される。

 「上高地」・・・設定されておらず、昭和36年10月に「DC準急(新宿・松本)」として運転開始。
 その後、同40年10月に「夜行準急(新宿・長野411〜523レ、2422〜412レ)」として客車化される。
 同43年10月「EC急行化(アルプス)」される。

 参考資料「JTBキャンブック 昭和を走った列車物語 第15話「アルプス定期便」」
     「イカロス出版 名列車列伝シリーズ あさま」等

  昭和30〜40年代の週末や連休・夏休み期間は、「南・中央アルプス、八ヶ岳、立科」等の登山客で
 「新宿駅のコンコース(アルプスの広場)」は黒山の人集りでありました。
 列車ごとに「看板」が設置され、2〜3時間行列を作ることが当たり前。
 小生も「母」の影響から、中学時代は「ワンゲル部」に在籍し、「115系仕立の長野行」には何度か世話になりました。
 (「鉄」から離れますが、「赤岳」が小生のお気に入りの山であります)

雑魚様
>急行「ちどり」の全盛時代
 昭和48年6月の「JTB時刻表」では、3往復が設定されております。
 内、1往復は「雑魚様」のお話にあるように、下りが「岩国・鳥取」、上りが「米子・広島」と個性的なDC急行。
 さらに当時「ちどり」は、急行料金が「100円」とリーズナブルであり、
 「乗り鉄」してみたかった「鬼籍入りの急行」であります。

>紀ノ川と、奈良盆地を形成する大和川との分水界
 なるほど、そうだったのですね・・・。
 そういえば、「北宇智」から多少南西に位置しますが、「高野山麓」を走る「南海高野線の紀伊細川付近」には、
 「50‰の勾配」が存在するという話を「数年前の鉄雑誌?」で読んだ記憶があるのですが・・・。
 近畿圏は、元関東人から見ると、「鉄」の魅力に溢れるエリアであります。

長々と失礼しました。以上、「中年客車鉄ちゃん」でした。



投稿者 雑魚
投稿日 2009年 1月17日(土)17時13分6秒
タイトル ちどり
▼ED76 109様:
>「115系仕立の長野行」には何度か世話になりました。

我が学生時代は上諏訪行だったスジですね。当時、夜行急行「アルプス」が、定期で
一晩二往復体制(みどり湖経由と辰野経由が一往復ずつ)残っており(未明の松本で
松本電鉄の接続がありましたっけ)それらとの棲み分けという印象でした。何分にも
行先が行先なので、時間調整の為、甲府では一時間ほど停車していた様に記憶します。

当時は確か、昼行でも 115系が一日に数回、新宿に出入りしていましたね。立川まで
無停車にもかかわらず、特別快速と区別する命名感覚が隘路になったか、列車種別は
単に「普通」で、常磐線「中電vsH電」の悩ましい関係を髣髴とさせました。やはり
旅をするならボックス席と、甲信越方面の旅行の際には、好んで利用したものでした。

>「乗り鉄」してみたかった「鬼籍入りの急行」であります。

広島県内のみの運転となった1990年から、芸備線の急行名が「みよし」に統一された
2002年まで「千鳥城」こと松江城が、沿線域から外れたにもかかわらず「ちどり」を
名乗り続けた事は、いささか釈然としないのですけどね。

>「南海高野線の紀伊細川付近」には「50‰の勾配」が存在するという話

大阪の通勤圏から外れる橋本以遠において、谷間に分け入る九度山以南は、とにかく
山また山という地勢ですからねぇ。終着の極楽橋は、鋼索軌道への接続専用の仕様で、
勝手口としか思えない狭い通路で 無理矢理「駅前」に出ると、何だこりゃ? という
雰囲気が印象的でした(^^)



 
 
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