倶楽部メモ(459)
平成20年 9月30日〜10月 3日



投稿者 クモイ103
投稿日 2008年 9月30日(火)21時46分19秒
タイトル 遅レス2件
マロネロ38様
 さすが名高い百けん先生、相当の「かぶき者」だったのですね。
 恥ずかしながら小生、百けん氏の著作に触れたことが無いので的確なレスが出来ずすみません…

ED76109様
 いやその、「近代」というのは私個人の感覚ですので「指摘」なんてつもりはありません。
 で、こちらは「指摘」なのですが(^^;、下河原線の単行電車はクモハ12でなくクモハ40でしたよ。
 現在青梅と大宮にそれぞれ保存されているクモハ40054とクモハ40074は、
 配置履歴から見てどちらも関係なさそうですけど。

# いずれも遅レスで申し訳ありません。



投稿者 らん丸
投稿日 2008年 9月30日(火)23時42分42秒
タイトル 時代はどうであれ、「趣味人」はいた
「敗戦までの階級制度」と「一般庶民の生活」というものの「認識」に関してこういう話もあります。
「戦前は皆が貧しかった」という認識は敗戦後、アメリカによって押し付けられた「史観(ヤルタ・ポツダム史観
と言われている)」であり、「事実」を歪められたものであるという説です。
現に、大正時代(25歳以上の男子のみであるが普通選挙が施行され、英国型議会制民主主義が行われていた。
都市部において、新中間層が勃興し、彼らが消費を牽引していたという今と変わらぬ豊かな時代であった)
の事は全く語られず、昭和初期の東北大凶作と世界恐慌の時の農村部の人身売買に代表される「影の部分」
ばかり強調した物(小説・ドラマなど)があまりにも多い。

「昔は生活にゆとりが無かった」という考えで完結させるのはおかしい。
ならば、翌年に太平洋戦争が始まる昭和15年(既に国家統制経済になっていた)に、
安月給の中からなんとか費用を捻出して岡山から九州全土の軽便鉄道の撮影に行った
牧野俊介氏(「岡山より汽車を求めて」の著者)の様な「一般庶民の趣味人」は時代がどうであれいるのですよ。

「3食塩かけ飯でも二コンFを買った学生さん(私の職場の大先輩です)」の様に「何かを犠牲にしても乗るぞ」
ということでなけなしのお金をはたいて「イネ」に乗った名も無き趣味人は絶対にいると思います・・・。


この議論はあまり突っ込みすぎると「イデオロギー論」になり不毛の論争になりますが、
「趣味人」という「人種」は洋の東西問わず、どの時代にも存在したという事実をわかっていただきたいです。



投稿者 ホエ7030
投稿日 2008年10月 1日(水)10時56分1秒
タイトル オハ34の思い出
久し振りに、客車の関する想い出を書いてみたいと思います。
 10日ほど前に、オハ34に関する話題が出ましたが、オハ34が活躍していた昭和30年代初期のころ、
我が常磐線の水戸周辺においては、普通列車の受持は東オク(ヲク)、水ミト,水タラであり、
通常、オハ34が運用されることは殆どありませんでしたが、ある日の下校時に乗った尾久持ちの編成の中に、
高ミヤのオハ34(旧スハネ)が入っていたことがありました。
 もちろん、早速オハ34に乗りましたが、あの座席間隔の広さは強く印象に残っています。
特に最後位寄り(スハネ時代の洗面台の部分)は、あまりにも広すぎて落ち着いて乗っていられないような
感じがしたのを覚えています。
 次にオハ34を見たのは、昭和43年に、職場の旅行で下呂温泉に行った時のことです。
初めて訪れた高山本線の列車の写真を撮ろうと、朝早く起きて、飛騨川を斜めに渡る鉄橋付近の川原に下りて
客車列車を2本撮りましたが、その内の1本にオリジナルのオハ34が2両入っていました。
列車全体を撮った後、オハ34自体も下から見上げるような形で撮りましたが、
当時の配置表を見ますと、金トヤにはオハ342〜11の10両が配置されていたようですが、
これらはこの年の10月から翌年の2月にかけて全て廃車になりましたので、偶然のラストチャンスだったわけです。
当時の高山本線には、希少種のスハユ30が運用されていることも知っていましたが、
残念ながら撮ることはできませんでした。

 画像は、その時の825レ(飛騨金山→富山) S43.7.27  下呂〜禅昌寺
    DD51589(美)・オハフ61・オハ344・オハ345・・・・・




投稿者 ED76109
投稿日 2008年10月 1日(水)16時07分28秒
タイトル 「クモハ12」は鶴見支線でしたね
 失礼致します。「ED76109」でございます。
 クモイ103様
 >下河原線の単行電車はクモハ12でなくクモハ40でしたよ
  ありがとうございます。「クモハ40」でしたね、下河原線は。勘違いしていました。
 また、何かあれば御指摘ください。失礼します。



投稿者 赤まんと
投稿日 2008年10月 1日(水)18時58分4秒
タイトル 趣味人の存在
みなさまこんにちは。
このネタであまり引きずるのは少し気が引けてはいるのですが・・・。
らん丸様記載の「趣味人」の言葉に惹かれてしまいました。
「趣味人」いい言葉だなあと思います。
おっしゃるとおり、時代にかかわらず、趣味人は存在したと私も考えます。
中には、周囲から奇異の目で見られながらも、生活費を削ってまで、列車の乗り潰しをしたり、
車両写真を撮って残した方がいたからこそ、こんにちの特集記事にもつながっていると考えます。
しかしながら、やはり現代に比べればおそらく、圧倒的な少数派であったろうと思います。
一億総中流の時代ではありませんからね。
そういった背景からか、「趣味人」という響き、私は非常に好きです。
では、いまの「トワイライト」「北斗星」「カシオペア」といった豪華列車に、イネ、ロネほどの価値や輝きがないのか、
それらの乗車記録、撮影記録が劣るか、といえば、ノーです。
時代ごとの世相、価値観というものがあり、そういった要素も考えると、さらに鉄道趣味も楽しめるのではないか、
と考えています。
現代より趣味に興ずることができる割合がごく少なかった分、イネ、ロネの時代が輝いてみえる、という側面はあります。
このところ地味なブルトレばかり乗ってきましたから、私も「北斗星」に乗りたいところです。
せっかくの豪華列車、少しオシャレなんかして・・・・。
下町だったから、なのか、まだそういう空気は残っていたのか、私が小学生のころは、
特急列車や新幹線はまだ、特別な乗り物、そうおいそれと乗れるものではない、という捉えられ方でしたヨ。
夏休みで幸運にも乗ったヤツはそれこそ、いっとき話題の中心になったものです。
ほんの25年ほど前のことです。



投稿者 客車
投稿日 2008年10月 1日(水)20時44分29秒
タイトル Reスロ60
マロネロ38様
当方座席の型式には疎く、型式は説明文を鵜呑みですので間違っていたらご容赦下さい。
オハ31座席の出品者名「交通科学館」もかなり怪しいと思っていますが説明文のままとしています。
また座席は赤いカバーが掛かっていましたが、それを捲くって出てきた色が濃赤で、
具体的には病院で健康診断をするとき採血される静脈血の色よりやや赤みがかっている、と言ったところです。
またどなたか出品者の「清瀬BBつばめ」の事をご存じの方が居られましたら教えて下さい。
どの様な団体か興味があります。



投稿者 小荷物係1年生
投稿日 2008年10月 1日(水)21時12分16秒
タイトル お騒がせしました
 何か、はじめて掲示板に書き込んだら、ヤルタ・ポツダム史観等々厳しいご指摘で、ご迷惑をかけたようですいません。
まだまだ勉強不足なのでしょうか、皆様にお詫び申し上げます。
 私も戦前に趣味者が居なかったとは思っていません。
牧野俊介さんは著書のサブタイトルにもあるように軍機保護法をかいくぐっての決死の撮影活動をされていますし、
古山善之助さんは阿波池田で駅員に咎められ列車が着いた徳島駅で特高警察に連行され厳しい取調べを受けるところまで
客車の番号のメモを続けております。
 また、どなたか忘れましたが、車両の番号をメモするのを咎められないようにと、学生服を着て数学の教科書を持ち、
教科書の余白に数字を書き込むことで怪しまれないように記録を残した方もおられます。
 このような体を張った活動をやる先人たちがいて、私たちの活動があるわけです。
そういう意味で、戦前にも立派な趣味者がおられたわけで、そういう方々を異端視するつもりは毛頭ありません。
 しばらく発言は慎むことといたします。大変ご迷惑をおかけしました。



投稿者 bell
投稿日 2008年10月 1日(水)22時18分32秒
タイトル 仙台・宮城DC号
管理人様、こんばんは。
仙台・宮城DC号の試運転時の画像拝見しました。
ED75が牽引する旧型客車やはりいいですね。
私も管理人様のコメント同様、蒸気機関車よりもED75に魅力を感じますね。



投稿者 仙コリ(管理人)
投稿日 2008年10月 1日(水)23時02分56秒
タイトル Re:実は一般庶民でも乗れた「イネ」「ロネ」
上記の話題でかなり議論がなされているところで、非常に興味深い話題でもありますが、歴史認識等も
からんできまして、これ以上話題を続けても水掛け論となりかねない状況であると判断されますので、
勝手ながらこのあたりでドクターストップならぬ管理人ストップとさせていただきたいと思いますので、
皆様よろしくお願いします。

基本的には、一般常識的に「特定の身分」か「特別な事情」がなければ優等車には乗車できなかった。
また、一般庶民と称される方々はそういったことを考えもしなかったというのが一般的であったようで、
ピク誌等の記述もそういった考えに基づいているものと考えられます。

一方、らん丸様が主張されているように、どの時代にも「趣味人」は存在し、それこそ他の全ての事を
犠牲にして趣味に生きた方がいたことも間違いないと思いますが、全体から見れば極めて少数派であった
であろうことが想像され、それが話をややこしくしている原因であると思います。

「趣味人」である私たちや「趣味誌の記述」において、大先輩であろう昔の「趣味人」の存在を無視する
のは問題があろうかとは思いますが、一般常識を元に記述したほうがわかりやすく、また「趣味人」に
とっても特別であり憧れの存在であった事が強調されるのではないかとも思います。

私も上手にまとめることが出来ませんが、上記の通りまことに勝手ながらこの話題はこれをもって終了
とさせていただきたく思いますので、ご理解・ご協力の程よろしくお願いいたします。

追伸:小荷物係1年生様
 昔の交通公社に関する件など、とても興味深く拝見し勉強になりました。
 この「客車倶楽部」は皆様のさまざまな書き込みにより成り立っており、仮に発言に間違い等があったと
しても、それにより話題が発展し、私も含めて皆様の知識の糧となりますので、「しばらく発言は慎むこと
といたします。」などとは言わずに、また書き込みいただければ幸いです。



投稿者 仙コリ(管理人)
投稿日 2008年10月 1日(水)23時19分6秒
タイトル Re:仙台・宮城DC号
bell様
仙台・宮城DC号の試運転時の画像をご覧頂き、またコメントをいただきましてありがとうございます。
世代的に現役時代の蒸気機関車牽引列車にはほとんど乗車したことが無く(だいぶ以前に書きましたが
母親の実家が日中線沿線で、小さい頃に日中線を走っていたC11?牽引の列車に乗車したのが唯一の
乗車経験です)、学生時代によく乗車していたのが地元である東北本線・磐越西線の普通列車であった
ED75やED77に牽引された旧型客車列車ですので、昨今の蒸気機関車牽引による列車よりも、
今回のED75牽引の列車に大変懐かしさを感じた次第です。
当時の東北本線の普通列車は10両前後の編成で、今回の客車5両という編成は往年に比べれば少ない
両数でしたが、十分懐かしむことが出来ました。



投稿者 クモイ103
投稿日 2008年10月 2日(木)22時40分55秒
タイトル 「ブルートレイン」50周年
 昨夜は会社に泊まりだったため1日遅れてしまいましたが、昨日10月1日は、特急「あさかぜ」が
20系固定編成客車に衣替えした昭和33年10月1日時刻改正から、ちょうど50周年だったのですね。
 これの記念行事なんて、どこかやってるのでしょうか…?



投稿者 雑魚
投稿日 2008年10月 3日(金)15時36分50秒
タイトル 高山線考察
▼ ホエ7030様:
> 飛騨川を斜めに渡る鉄橋付近の川原に下りて客車列車を2本撮りましたが、

画像は、下呂を発車後すぐの鉄橋でしょうか。私も同地に投宿した際、温泉街に近い
立地を好感して、高山観光に充てるべき時間を割いて、撮影に興じた事がありました。
まだ「ひだ」がキハ80系の時代「擬似国鉄色」なれど、側面窓仕様が「イカニモ」な
名鉄キハ8000系「北アルプス」や、朝の通勤時間帯、武豊線での間合運用で、G車が
無料開放されていた急行「のりくら」など、客車抜きでも美味しい陣容でした。

画像に見られる非電化区間用の電柱は、高山線のほか、北海道や四国の幹線、山陰線、
筑豊線などで見られます。一見して、電化時に架線柱に転用し得る印象を受けますが、
実際には「ハエ叩き」よろしく、線路からは少し離れて建てられた場合が殆どですね。
掲出画像は、苫東道路から俯瞰した千歳線と室蘭線の並行区間です。左側に立ち並ぶ
電柱群が、これに該当します。

但し一部の区間では石勝線よろしく、明らかに電化時の転用を意識して、太い規格の
電柱を線路際に建てた箇所もあり、この辺りに、電化構想の名残りが感じられますね。
高山線では1980年に電化起工式が行われていますが、北陸線を意識した交直流接続や
財政問題が隘路となり、中止されたのですね。その後「ワイド・ビュー」が投入され、
電化の意義が薄れた印象ですが、少なくとも、都市圏需要が多い岐阜〜美濃太田では、
太多線と併せて、電化しても良さそうに感じています。

最後に下世話な余談ですが、旅仲間の悪友共の間では、下呂付近の高山線の鉄橋から
俯瞰可能な河原の「混浴露天風呂」の話題が取り沙汰されていましたっけ(^^)




投稿者 仙コリ(管理人)
投稿日 2008年10月 3日(金)21時47分59秒
タイトル Re:「ブルートレイン」50周年 20系客車写真募集
20系客車登場から50年もたったのですね。
当時「走るホテル」と賞賛されてから50年、昨今はダイヤ改正のたびにあの寝台特急は無事かと
心配するようになってしまいました。
JRグループの思い切ったてこ入れを期待するばかりです。
さて、私にとっての20系は残念ながら特急列車としての思い出は皆無で、数少ない乗車経験も
「新星」「だいせん」「日南」と急行列車ばかりですが、なによりもスタイルが大好きでして
わが模型鉄道における唯一のブルートレインは20系客車で花形でもあります。

>これの記念行事なんて、どこかやってるのでしょうか…?
私が調べた範囲では、大々的なものは無かったと思われます。
20系客車はもちろん「あさかぜ」も現存していないので、難しかったのではないでしょうか?
一編成でも現存していれば、間違いなく記念列車が想定できたと思うのですが…
他でなければここでという事で、ワンパターンではありますが「20系客車誕生50周年記念
写真館」を作れればと思います。
ここに集っている皆様の大部分は20系客車全盛時代は子供であった年代の方が多いと思われ
ますが、20系客車の写真であれば急行列車時代であっても現在の保存車両でも結構ですので
ご投稿いただければ幸いです。
(もちろん「あさかぜ」、それも登場当初の豪華編成が理想ですが)



 
 
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